三角縁神獣鏡=全量魏鏡説は成立するのか?


発言者:家事野本将軍塚



 三角縁神獣鏡(以下、△◎と省略)=全量魏鏡説者は、「当時の倭国ではあのような技術レベルの高い鏡はできない」「景初3年の年号鏡があり卑弥呼の鏡と断定できる」「景初4年5月丙午は吉祥句であり、先に作っていた」「日本以外で出土しないのは特鋳鏡であるからだ」「文様に象やラクダなどの倭国にいない動物がある」「鋳張があるのは保管してあった不良品を送った」と言い、樋口氏などは「当時(西暦239年頃=景初3年頃)に数多くの鏡職人が渡来する政治的・社会的必然性もない」と言っている。この「先に結論ありきの無節操な見解」を「日本古代史第2ミレニアム最大の恥説」と断定し、これを論破し、既に葬り去られた「縄文時代は非定着民中心」「日本に旧石器時代は存在しない」との珍説・奇説と同様に、せめて21世紀まで持ち越さないようにしたい。

 既に△◎は、日本のみで500枚程度出土しており、魏志倭人伝の記載「百枚」をはるかにオーバーしており、しかも日本以外では1枚も出土していないのである。まだ発掘されていない数多くの古墳の中に眠っている△◎、後世になって潰されて別な青銅製品となった△◎を計算すれば、数千枚となろう。

 
私は「△◎は、景初2年(西暦238年)に半島にあった燕=公孫氏の滅亡時に、倭国(日本)に渡来した鏡工人が制作した鏡である」との見解を持っている。その観点から「△◎=全量魏鏡説」を論破していく。なお「△◎=半島産説、△◎=最初は魏鏡・途中から国産説」については、別な機会に触れて見たい。

なお反論がある場合は、下記の6項目の問題指摘の全てにわたって触れて頂きたい。葵の印籠のように全てを「特鋳だから当然」との恥の上塗りは止めて頂きたい。大論争でお待ちしている。



その1:特鋳説は成立しない




 魏志倭人伝によれば確かに卑弥呼は鏡を100枚貰っている。しかし出土している△◎は、約150種類・500枚程度となっている。もちろん500枚の中には踏み返し鏡(複製鏡)もあるだろうが、問題は約150種類もの意匠違いの数である。しかも5期50年〜60年は作り続けたとの研究もある。そうなると魏・晋は邪馬台国のために特鋳体制を50年〜60年は続けたこととなる。当時は日本の戦国時代と似て世の中が混乱していた。その中で邪馬台国「だけ」のために50年〜60年は特鋳体制をとり続けたこととなる。他国(中国周辺)に鏡以外でもよいが、当時に魏・晋に数十年にわたり特鋳体制をとって貰った国があるだろうか? 否である。

その2:景初4年5月鏡が粉砕した全量魏鏡説




 京都府福知山市の広峯15号墳から出土した斜縁盤龍鏡は、△◎と兄弟鏡と言われている。その銘文に「景初4年5月丙午・・」とある。これをもとに考えてみたい。

 全量魏鏡説者は「景初4年があるとの前提で、特鋳したのだから当然!」と荒唐無稽な説を述べている。それが果たして成立するのだろうか?時系列で考えてみたい。

●237年(景初元年
7月、公孫淵が「燕」を建国

●238年(景初2年)8月、魏の司馬仲達が公孫淵を討ち、「燕」滅亡する。

●239年(景初3年)1月1日
、魏皇帝(明帝)が亡くなる。

●239年(景初3年)6月、倭国の女王が大人の難升米・他を郡(帯方郡)に派遣し、 魏皇帝(少帝)への謁見と朝献を求める。

239年(景初3年)12月
、魏皇帝(少帝)詔書を発して倭国女王に答える。

●239年(景初3年)閏12月(後12月)
存在する。一説によると閏12月を景初4年と した可能性あるとのこと。ただし始めから1ヶ月のみ存在として。

●240年1月1日、正始と改元される。

さー、ここで何時、特鋳の命令(或いは要請)を出来たか、である。明帝は景初3年の1月1日元旦に亡くなっているので、魏の首都:洛陽にあった尚方(日本の大蔵省造幣局に相当)の鏡工人は当然にして、やがて改元があることを知っていた。

 倭国の女王が大人の難升米・他を郡(帯方郡)に派遣した時点(明帝の死後5ヶ月後の6月ゆえ)で既に帯方郡在住の魏の役人は、改元があることを知っていたのであり、一説にある景初4年の存在も、あったとしても、最初から辻褄合わせのために景初3年の閏12月(後12月)1ヶ月のみを「景初4年1月」としたのであって、魏の役人は最初から翌月(翌年元旦)に改元されるのを知っていたのである。ここで、
「洛陽で、景初3年に翌4年もあると思い、景初4年5月鏡を特鋳した」との説は、何も歴史を知らない方々が講釈を述べるに過ぎない、奇説・珍説なのである。

 景初4年があると思っていたのは、魏から遠く離れた地の人間であり、それが関西に、238年(景初2年)8月の「燕」滅亡後に渡来した(或いは招聘された)鏡工人が該当する。彼らは景初2年に半島を離れているので、景初3年・4年もあると思っていたのである。魏の首都:洛陽に住んでいる鏡工人ならば、こんな間違いをしない。

その3:「魏:尚方の鏡には誤字が多い」は珍説




 △◎が全量魏鏡とするならば、魏:尚方の工人(役人、もしくは嘱託工人)が時の皇帝(少帝)の命令で作った鏡となる。それに誤字があるとは「おそれ入谷の鬼子母神」である。そう言うと決まって魏鏡説者は「大陸・半島の○○で出土した鏡にも誤字がある」と言う。そもそも鏡とは全て尚方で作ったのであろうか?当時の女性が持っていた化粧用の鏡も、尚方で作ったのであろうか?鏡とは国家統制品なのであろうか?「鏡は国家統制品であった」と証明できなければ、ただの戯言である。

下記の2点の銘文を見て頂きたい。

(1)黄金塚古墳出土の銘文:「景初三年陳是作
【言名】「言名」之保子宜孫」

(2)福知山市広峯15号墳の銘文:「景初四年五月丙午之日 陳是作【鏡】 吏人「言名」之位至算公 母人「言名」之 保子宜孫 寿如金石兮」


(1)が(2)の省略文であることが明白である。しかし問題は【 】でくくった「言名」である。明らかに「鏡」の誤字である。ここで全量魏鏡説者は3通りの対応に分かれる。

(1):過ちを認め、全量魏鏡説から正道に戻る。
(2)「言名」とは読めず、「鏡」としか読めない。
(3):当時の魏:尚方の鏡には誤字が多い。

(1)は問題ない。歴史を学ぶ者の正しい姿勢である。 (2)は「皆は月が丸いと言うが、私には三角に見える。私に三角に見えてないという証拠を出せ!」と言われれば、「勝手にして、つかーさい!」となる。 (3)が問題である。

全量魏鏡説とは、「卑弥呼が貰った鏡百枚は、魏皇帝(少帝)が首都:洛陽の右尚方で作らせた鏡である。」となる。そして「右尚方で作らせた鏡には誤字がままある」となる。この考えは、工人の職人としての心意気を知らない世間知らずの説である。職人、特に古代の鏡工人のように「徒弟制度」をとっている職人の場合、「良い物を作る」という心意気がある。特に皇帝の贈答品となれば、丁寧に作るのは当然であり、最後に親方が1枚1枚チェックするのも当然であり、皇帝の権威が衰えていた時ならば兎も角、いまだ権威が失墜してない景初3年頃に作られた鏡である。それに「誤字があるのが当然!」と平気で答える神経が判らない。宮内庁とか大蔵省造幣局に問い合わせして貰いたいものである。

その4:紋様




 「△◎=全量魏鏡」説者は、「紋様にラクダ・象がある物もあり、当時の倭国に生息していなかったラクダ・象を倭国で知る由もなく、魏鏡だ!」と宣う。これを正す。

 当時の大陸は、魏・呉・蜀の3国が鼎立する、いわゆる三国時代であった。魏は華北を、呉は華南を、蜀は益州(成都)を拠点とした。さて当時ラクダはともかく、象はどこに生息していたのだろうか?どこにも生息していなかったのだ。象は呉の南、今のベトナム・ミャンマー国境付近に生息していたのだ。そうなると魏の工人はどこで象を見たのだろうか?倭国でも象を見なかったと同様に、魏でも象は見なかったのである。かろうじて呉の工人が南に行って象を見た可能性があるだけである。

 もっとも「南に行って象を見た呉の鏡工人(特に意匠師)が魏に移った」とするならば、それもあり得るが、そうなると「魏に移った工人の子孫は、公孫に移らなかった」とは言えなくなる。何か「呉の鏡工人は魏には移り、その弟子・子孫は公孫には移らなかった」と、論証できる証拠でもあるのだろうか?


その5:「鋳張」が証明する全量魏鏡説の間違い




 鏡は鋳込んだだけでは鏡にならない。鋳込んだ後に自然冷却し、「鋳張」をヤスリで取ってから、鏡面を磨いて初めて鏡となる。「鋳張のある鏡」など鏡ではなく、中間製品であり、素手で触れば怪我をすることもある。それを「誤って魏の皇帝:少帝の贈答品として、邪馬台国女王:卑弥呼に贈った」との考えには付いていけない。この考えは、工人の職人としての心意気を知らない世間知らずの説である。職人、特に古代の鏡工人のように「徒弟制度」をとっている職人の場合、「良い物を作る」という心意気がある。特に皇帝の贈答品となれば、丁寧に作るのは当然であり、最後に親方が1枚1枚チェックするのも当然であり、「鋳張」のある皇帝贈答品の鏡が倭国で出土する訳がない。国産鏡だからこそ、場合によっては葬儀に間に合わせるために特急鋳造したので、△◎の一部に「鋳張」のある物が出土するのである。 なお、公正徹也氏から『朝鮮半島・公州の「武寧王陵」からは、「鋳張りのある五銖銭」が出土しています。群馬県立歴史博物館で開催された「観音山古墳と東アジア世界」展に展示されていました。この五銖銭は鉄製で、図録によると、鉄製五銖銭は梁で523年に鋳造されているそうです。鋳張りのついたまま梁から百済へ輸出したんでしょうかねー』との異論があったことを明記しておく。

その6:「黒塚出土の鏡」が証明する全量魏鏡説の間違い




 黒塚から大量の鏡が出土したニュースは記憶に新しい。各マスコミも全量魏鏡説者も有頂天になって「卑弥呼の鏡だ!」と大騒ぎ・馬鹿騒ぎをした。馬鹿馬鹿しい限りであり、黒塚出土の鏡が、逆に国産鏡を証明したのである。「愚かなり、マスコミ・全量魏鏡説者!」である。それを証明しよう。

まず第1に、これで日本以外では1枚も出土しない△◎が、またまた関西勢力の中枢で出土し、約500枚となった点である。これを全量魏鏡というならば、証明するのが全量魏鏡説者の論証責任であり、大論争でお待ちしている。

第2であるが、黒塚での鏡の埋葬の仕方である。
お棺の「中」にたった1枚の画紋帯神獣鏡が頭部付近に、3色に染められた絹の布にくるまれ、更にウサギの毛皮と布で作った袋に入っていたのである。
いっぽう△◎は30面以上(盗掘された△◎もあるので、埋葬当時は40面以上?)出土しているが、全てお棺の「外」に絹の布でくるまれただけで埋葬されていた。しかも「鋳張」のある△◎も、孔の開いていない△◎(一説によると孔が後になって潰れただけだとの反論もあるが)があったのである。世界各地で遺跡を発掘している学者に聞いてみるが良い、「お棺の中の頭部付近に、たった1枚の丁寧にくるまれた鏡と、全てお棺の外に絹の布でくるまれただけで埋葬されていて、(中間製品の証明である)鋳張もある40面近い△◎との、どちらが大切にされていた鏡でしょうか?」と。

卑弥呼が少帝から下賜された鏡を、「画紋帯神獣鏡よりは大切にしない」という全量魏鏡説を、第2ミレニアム最大の恥説と言って、何が問題があるのだろうか?