シャンパーニュの盟主、ランス(Reims)へのサイクルツーリング 

 (2010年5月15日、ピカルディ地域圏、シャンパーニュ・アルデンヌ地域圏)


今が盛りの菜の花畑が点在する緑の林と作り出す色彩のコントラストは目に鮮やかだ。もっともそれも今はちらりと視界に写るだけで目線はすぐに下に落ちてしまう。川を渡り丘陵地に入ってからここまで、なだらかとはいえうねる様に幾重にも丘が続いている。たいした距離も走っていたのになかなか体に堪えるルートだ。これとて決して急な坂ではないのだが腿上の筋肉がだるくはなっから降伏。インナー・ロー、リア・最大だ。坂の頂上まであと少し。足元を見つめながらペダルを回すのみ。細い車道をジグザグに目いっぱい使って登り切る。

(丘を越えて緩く下る。目の前に無限の景色が広がった。「シャンパーニュ・
ツーリストルート」の看板を見て、遠くまで来たことを妙に実感する。)

登り切ったらまたその先に、さらに連なる緩やかな丘陵地が広がっていた。谷間にある名もない小さな集落、あぁ、まるで酔うような風景だ。こんな風景を前にすることができるなんて自分はなんて幸せなんだろう。これは絵なのか。それとも実存する風景なのか。緩く下り始める道。ブレーキレバーを注意深く握りながら爽やかな風を全身で受け止めればやはりここが実在する世界で、自分がこの足で自転車とともにやってきた、という思いがわいてくる。小さな十字路にシャンパーニュ・ツーリストルートを示す看板が立っている。そうか、さっきの丘の上が、県境だったのか。ここからさきはピカルディではなくシャンパーニュ地方になるのだ。今日の目的地であるランスまで、もう少しだろう。

* * * *

先月ソワソン(SOISSON)から走ったラン(LAON)。ランの駅で手にしたポケット時刻表を見て頭の中に明かりがともった。そうか、ランとランスの間にも鉄道が走っているのか。これを使えば、ランスまで行くことができる。自宅から伸びていたサイクリングの軌跡をランスまで伸ばすことができる。そう考えると興奮してきた。ランス(REIMS)はシャンパーニュ地方の中心都市で、世界遺産に指定されている大聖堂や藤田嗣治の礼拝堂でも有名だ。すでに家族と車で一度訪問したことのある街ではあるが、シャンパーニュまで自転車で自宅から足を伸ばした、となるとなかなか走ったという気がする。そんなこともありいつか自転車で走りつないでみたいと思っていた、そんな街へのサイクルツーリングが現実的になってきた。改めてSNCF(フランス国鉄)のサイトでダイヤを検索。ランス−ラン間の列車は土曜日は午後には2本しかないがその2本目がランス18:45発。ランからランスへは直線道路で50kmないので、これならば余裕で戻ってこれよう。

パリの自宅からソワソンを経由してランまで車で走る。所要1時間45分といったところか。やや寝坊したこともあり出発が遅れた。ラン駅ちかくに車を止めてリアスペースから自転車を取り出す。今日の相棒は中古で入手したプジョーのロードだ。1985年製の今ではレトロなバイクだろう。走り出しが12時半か。まぁランスから戻ってくる列車まで6時間ある。大丈夫だろう。ラン駅前のブランジェリーで行動食の調達だ。いつものパターンでパン・オー・ショコラを仕入れて自転車に戻る。と店の前のワゴンでバゲットを特売していた小母さんが、「あら自転車、それならこれもって行きなさい、ムッシュ。」と小ぶりの焼きたてのパンを三つほど袋に入れて渡してくれた。地方都市では東洋人が珍しいせいか割と無遠慮な視線を感じることが多いのだが、この小母さんの大らかさは嬉しい。「メルシー、マダム」。こんな事だけで今日はいいことが起きそうに、思えてくる。雨具の入ったフロンバックはパンパンなのだがありがたく頂戴する。

町外れに出て、しばらくはN44という道を直進する。これはランとランスを結ぶ幹線道で交通量がこんな田舎にしては以外に多い。路肩をおとなしく走るがびゅんびゅん車に追い抜かれる。たいがい十分余裕を持ってクリアしてくれるのだがたまに50cm程度をかすめるように通り抜ける車もいるからたまったものではない。特にキャンピングカーを牽引した車は車幅の広いキャピン部分ではなく牽引する自分の車の車幅感覚で抜いていくことが多いのだろうか、クリアランスがぎりぎりで緊張を強いられる。菜の花畑が左右に広がるのどかな風景なのだがしばらくは味わう気もしない。

N44はやがて緩やかな丘陵地に分け入るように進んでいく。Festieuxという村を過ぎて一気に急な登りとなった。標高差は100mなのだが一気に稼ぐのでなかなか辛い。しばらくはフロントアウターのまま頑張るが膝が辛い。インナー28Tに落として楽になる。登り坂、アクセルを踏み増せば訳なく上る車とは違い人力は大変だ。右手にカーブして尚も上ると海抜200mを越える。とだたっ広い台地の上だ。登りついたぞ。ふーっと息を吐きながらフロントをアウターの49Tに戻しわずかにこぐとはや時速30km程度。緩く下っているのだろうか、大きな風景からはピンと来ない。向かい風が登りで上気した体に心地よい。快走ペースだ。

数キロ進むと今度は80mほどの標高差を一気に降りていく。こんなところをノーブレーキで走る勇気はない。オーバースピードにならぬようブレーキを注意深くかけ進む。ヒュルヒュルヒュルと、下りに転ずれば、耳に届くのは向かい風の音だけになる。平地走行では聞こえてくる後ろからの車の走行音も下りになるとそんな訳で聞こえてこない。だから時折後方を見て後続の車が迫っていないことを確認しなくてはいけない。首を少し回して後方をチラッと見る。首を回した瞬間体を包む風向きが変わってヒュルヒュル音が途絶え一瞬周りの音が耳に届く。 大丈夫、車は来ていない。首を真正面に回すとバルブを閉めたように周りの音が瞬時に途絶え、再びヒュルヒュル音に包まれる。

長い下り坂も終わりが見え、もうすぐ先で緩やかな直線路に転じている。後続車も来ない。ほっとしてブレーキレバーを離す、この瞬間がたまらなく心地よい。縛りを解かれた自転車は操縦者もろとも慣性のなすがままになり、私の目の前には風の音と大きな風景が広がるだけだ。すーっと、着陸した航空機のように直線路に滑り込み速度が緩んで再び漕ぎ出す。坂の上の平地で使っていたギア比では軽すぎてペダルが空回りする。思ったよりまだスピードが出ているのだ。レバーに手を伸ばしてリアを最小にして一踏み。と、瞬間ペダリングが台地を捉える感触が足に伝わった。

Corbenyという集落で、ランスへの最短ルートであるこの幹線道・N44ともお別れする。やはり自転車の旅には小さな地方道が似合う。南東に向かうN44を右手にして自分はゆっくりと真南に向かう。緩い起伏のなか、菜の花畑に分け入るように細道が続いている。・・・黄色に、包まれる! 新緑の緑の林の手前に鮮やかな黄色。大きく息をして春を吸い込みたい。

小さな集落をいくつか超えていく。エーヌ川を渡る。小さな林を抜けていく。腹が減ったので傍らに自転車を止めてパン・オ・ショコラを食べる。ドリンクボトルには水道水を詰めてきたにもかかわらず、水がうまい。ブランジェリーのマダムがくれたテーブルパンにも手を出そう。わずかな塩味がたまらない。汗をぬぐって頭を上に向ける。真っ青な空はヨーロッパの初夏の色だ。鳥のさえずりが天から降ってくる。右から左から、前から後ろから、高いところから低いところから。ピリピリ・・ピイピイ・・。林を抜け出たというのに一体鳥はどこにいるのだろう、不思議だ。しかし濃密な空気だ。空間を埋める鳥のさえずりと深い青空。ここが現実の場所とはにわかに信じられない。

一本立て終えて再び自転車にまたがる。目の前に丘陵地が迫ってくる。あの丘はもうシャンパーニュだろう。ランスへはあれを越えていくのだ。標高差は150mか。ただ地図からは複雑な地形が読み取れるので思ったよりもあるかもしれない。 気を入れてペダルを踏んだ。

* * * *

丘を抜けると地平線の先に町がみえた。ランスだ。高層建築が一般に少ないヨーロッパの町では、こうして遠くから眺めると目に付くのは教会の塔だ。大聖堂はどれだろう。教会の塔はいくつもありどれだかわからない。しかし何百年の昔の建物がこうして今でも町一番の高層建築として残っているなんて、周りの景観かまわず高層ビルを建てるのが好きな日本人には驚きでもある。

数年ぶりのランスの街は、町中の道路が工事で走りにくい。トラムの線路を設営しているのだ。車に代わる市民の足として環境問題からもトラムがフランスでも見直されている。もっともフランスはどういうわけかドイツや他のヨーロッパの都市に比べトラムが圧倒的に少ない。フランスもようやくドイツなみに環境問題に取り組み始めたということだろうか。わかりにくい街の中を適当に走って大聖堂の前に着いた。

ランからランスまで、ピカルディからシャンパーニュまで、走りつないだ。またこれでパリの自宅からランスまで自転車で走ったことになる。つまらないことだが小さな達成感がある。今日の走行距離はちょうど60km。走り足りないこともなくかといってこれ以上あと20kmといわれると辛い。このへんが自分には丁度良い走行距離なのかもしれない。

トラム工事で進入しにくいランス駅に着く。18:45発のラン行きまでまだ2時間以上ある。駅のカフェでビールとスナックを買い、駅ベンチで一人小さな祝宴をあげる。「地球の歩き方」を持った30歳代と思しき日本人男女が入ってきてパリ行きのTGVチケットを買っている。 「そう、ここは観光地だもんな」と、酔った頭でひとりごちた。

(エーヌ川を渡る。フランスの河川は
護岸工事もなく川岸は自然に溢れる)
(いくつかの丘陵地を越えていく。
鳥のさえずりが耳を包む。)
(菜の花畑が林とが作る色のコントラスト。
十字架のシルエットが浮かび上がる)
(とうとうランスまで走れた。
世界遺産の大聖堂をバックに。)

(走行距離61km)


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