古い街の坂道にて - ネムールからシャトーランドンへ ロワン川を巡るサイクリング 

(2009年6月6日、フランス、イル・ド・フランス地域圏)


それはシャトーランドンへ向かう坂道の下、あの中世を感じさせる崖の上に立つ古風な城壁集落を眺める小川のほとりに愛車を停めていた時のことだった。向こうから音もなく一台の自転車がやってきて通り過ぎた。自転車は細い鉄パイプのダイアモンドフレームにWレバー、ワイヤー後だしブレーキレバーのクラシックなフォルムに、泥除けこそはついていなかったが古いながらもよく手入れされた銀色の旅行用自転車だった。サイクリストは60歳代くらいの小父さんで、半ズボンにありきたりの街着で、気負いがなかった。偶然目が会ったとき、彼は自分に向け会釈してくれた。確かに自分を認め挨拶をしてくれた。ただそれだけの事だ。

風のように去っていった彼を見てひどく嬉しかったのは何故だろう。走り去る彼の後姿が粒のようになり丘の影に消えてしまうまで見ていたのは何故だろう。

一瞬であったがとらえた彼の表情は目元の皺が深くややうんざりしたような表情をしていたが、それはあくまで未だ高く強く照りつける西日の残照にただ彼は辟易していただけなのかもしれない。実際ラインはあくまで一本で、ペダリングに乱れがなかった。スーッと、音もなく去っていき、風景の中に溶け込んでしまった。

彼が消えた後のつらなる麦畑と森の風景をしばらくボーっと眺める。ふと我に返りゆっくりと城壁集落への、時代がかった古い上り坂を漕ぎ始めた。

* * * *

モンタルジとシャトーランドン間はサイクリングですでに走ったが、この軌跡を北上させてフォンテーヌブロウまでつなげようと考える。そこから先のルートはすでに自宅までサイクリングの軌跡がつながっている。シャトーランドンとフォンテーヌブロウは直線でも40km程度、当然一回で走れるのだが肝心の鉄道のダイヤが余りよくない。そこで考えを変えて車を使った周回コースで2回に分けてみよう。丁度中間にネムール(Nemours)という町がありここを折り返すと良いコースだろう。

のんびりと寝坊してしまった日曜日、思い立ってから家を出たこともありネムールに着いたのはもう13時を回っていた。教会の横の広場に駐車する。車のリアハッチバックを上げて700Cサイクリング車・Rhein号を引っ張り出した。キャンバス地のサイクリングバッグをフロントキャリアに載せて皮バンドで固定すると準備OKだ。前回のサイクリングから導入したSPDべダルにもようやく慣れてきたようで足をペダルの上で数度前後左右に動かすだけでカチリとシューズのクリートがビンディングがはまってくれた。

ネムールは街の中をロワン川がながれ小さな城が川岸に立っている。ロワン川を跨ぐ橋と同様、川沿いの教会も年代物の建築で、綺麗に植え込まれた花壇の花の色が深い緑色の川に流れに浮かび上がるかのように美しい。

川を渡り4,500m進んでからゆっくりと進路を南に向けた。今日はこうしてシャトーランドンまで南下して、川を対岸に渡り返してから戻ってくるだけの、せいぜい40km程度の往復ルートだ。

単純な往復だけではつまらないので出来るだけ変化をつけられるよう、地図を点検。まずは往路は森の中を走ろうと決める。Nanteauの森というのがロワン川右岸に記されているのでそこを目指す。ハイウェイの出口付近から小さな新興工業団地の中を通り過ぎると前方に森がこんもりと茂っている。ラウンドアバウトをやりすごしてから流れるように森の中に吸い込まれる。スーッと、風景も空気も異なる異次元に入り込むこの瞬間の快感は、サイクリストでないとわからないだろう。道は森の中の緩やかな上り坂で、ゆっくりと漕いでいく。路面は必ずしも良くないが滅多に車も通らないので気楽な走行が続く。

森を抜けるとPolignyという集落があり、戸数もせいぜい10-15軒ていどの村だ。夏の日の昼下がり、集落は静けさに溢れている。集落の先からは再びロワン川に向けてのゆるやかな下り坂になる。両脇から森がゆっくりと近づいてきて喉のように狭まる。緩やかな下りなのでペダリングをあえてせずともすーっと音もなく愛車は進んでいく。森の風が体の左右を駆け抜ける。と木立を抜けぱっと前面が広がり、その風景に驚いた。左右の森の間に緑豊かな畑が広がり、緩いV字型の森の先に道が真っ直ぐに伸びている。日本の谷戸にも似た地形で奥行きが感じられるその光景には、思わずその風景の先へサイクリストを誘って止まない不思議な魔力がある。これだからサイクリングはたまらない。魔力にあらがう事も出来ず、ツーリストは音もなく静かなその空間へむけて、ただただ愛車と共に流れるように吸い込まれていくだけなのだ。

わずか数百メートルの、こんな小さな名もなき道があるから、こんな予期せぬ風景にあえるから。こうして飽きもせずに車に自転車を載せてまた来てしまう。

ロワン川に沿う幹線路に出ると面白みの無い道を淡々と南へ向け走ることになる。サイクルツーリングの行程の中では必ずこういう消化試合ルートが出てくるのは避けられないだろう。

Souppes-sur-Loingという町で幹線路走行に嫌気が差したので街の中を走ってみる。小さな教会があり古びてややくたびれたような家並み。ロワン川のほとりで愛車を停める。水路に水鳥が遊んでおり、彼らのつけた波紋がゆっくりと岸まで届く。街外れに出ると川岸近くはキャンプ場になっているのか賑やかだ。更に進むとじきに先ほどの幹線路に合流した。Dordivesの町で西へ右折する。SNCF(フランス国鉄)の無人駅を通り過ぎロワン川を渡る。本流と運河が100m程度離れて平行して流れているがどちらも緑豊かな流れだ。

川を渡るとハイウェイの高架をくぐり、シャトーランドンまでは河岸段丘を登っていく形になる。左右に麦畑の広がる緩い登りをギアを落としてゆっくりと進んでいく。こういう道では引き足が有効に使えるビンディングペダルの有り難味がよくわかる。いくつかの起伏をこなし緩いカーブを右手に曲がると崖の上に立ち並ぶシャトーランドンの街が目の前だった。

絵のようなその風景を前に一本たて、城壁のように並ぶ家並みにむけて坂を登ろうとしていた、そんな時に、彼が通り過ぎたのだった。古いが綺麗に手入れされた旅行用自転車が目の前を走り去ったのだ。しっかりとしたライン取りで、銀色の残像を自分の目の中に残して行ったのだった。そして確かに、通り過ぎる際に、彼は自分に挨拶をしてくれたのだった。

* * * *

自転車で旅する。地図を片手にただ漕いで、見知らぬ大地を走り森を抜け街を抜ける。それ以上でもそれ以下でもない。ただそれだけのシンプルな行為。

そんな行為を何十年も続けてきたであろうシャートランドンで出あったあの小父さんの姿には、そんな単純な行為がいかに楽しく、奥があり、だからこそ未だに彼を魅了しているのだ、という事を示しているように、自分には感じた。ベテランサイクリストに挨拶された事が嬉しかったのだ。自分もサイクリストの仲間と認められた、そんな気がしたのだった。

古い街の坂道で、良い大先輩の姿に逢えた。こうして走ってきて、良かった。まだまだ楽しむべき事がたくさんあるよ、と彼は一瞬の挨拶にそんな思いをこめてくれたのではないだろうか。古い城壁集落で出会った、名もなき彼の姿。自分がやっているのは本当に小さなサイクルツーリングばかりだが、そんな事でも悪くは無い。自分は彼の残像を頭に今後もゆっくりと走り続けることだろう。

シャトーランドンからは走れども尽きぬ広大な麦畑の中を淡々と北上し、ロワン川の森に下りた。途中から霧のように降り始めた雨の中を、ネムールの街に戻ったのだった。

(古い教会のある街から出発した) (ロワン川が心地よい) (名も知れぬ集落にて) (森を抜けると奥行きのある風景が待っていた) (古い街の坂道にて)

(走行距離42.7km)
ルート概念図へ


(戻る) (ホーム)