年輪 - 五竜岳を歩いて 

 (2016年8月11日12日、長野県大町市)


長年付き合ってきた顔である。それにしてはここ数年で急速に衰えたような気もする。朝起きて顔を洗う。鏡を見る。嫌になってしまう。いつしか全体にパーツの構成がたるんでいる。皮膚の張りもとうに失われてしまった。頭には白髪が混じる。そして頭頂部はかなり寂しくなっている。まぁ自分の親父の髪を思い出せば至極当然な劣化を遂げているといえるだろう。

衰えたのは顔だけではない。脚力、体力、すべてが衰えてきたことを感じてしまう。端的には足が上がらなくなってきた。毎夏南アルプスの高峰群を闊歩したのは何時の事だろう。キツイ登りに耐え稜線に上がっても稜線漫歩を許さない高低差の続く尾根、それが楽しみで、これぞ山だと思っていた時期もとうに去ってしまったとしか思えなかった。そう、気力も衰えてきたように思えてしまう。

* * *

全く長い下りだ。しかも下っても下っても腕時計の高度計は一向に標高が落ちていかない。汗が滴り落ちて目に入った。暑い。本当に下山できるのか、ペットボトルの水がそれまで持つのか。前方にダケカンバの林、木陰に入るように思えるがそれは疎林だった。すぐにじりじりと容赦ない陽射しにさらされる。快適だと思って半袖で歩いてきたのが裏目に出たのか、真っ赤に焼けた腕が痛い。右手の谷に腐った雪渓が見える。わずかに吹き上げてきた風は流石に心地よい。一般コースだと言うのにこのていたらく。緩い登りに足が上らない。たまらずザックを放り出して路肩の石にへたりこんだ。

振り返ると稜線は高くなっていた。先ほどまで居た山頂は気高く青空をぐさりと突き刺していた。少しだけ、嬉しかった。

* * *

体力の衰えを如実の感じるここ数年、しかも毎土曜日はいつしか残務整理の為の出勤日となって久しい。日曜日とは寝る日のことだ。山は遠ざかった。とはいえ心の中にくすぶる山への憧れは消えそうで消えないないのだから困ったものだ。夏。もう南アルプスの重厚さは考えただけで戦意が消失してしまう。北アルプスの一般ルートならまだ何とか歩けまいか。体力がなくとも小屋は多い。南に比べてコンパクトな山だろう。五竜岳は往復ともにゴンドラが使えるので自分にも楽勝ではないか、そう思って選んだ山だった。

八方ゴンドラ、リフト二本乗り継いで難なく海抜1835mまで上がってしまった。10:00。ここから八方池までは観光客が流石に多い。これまでなら観光客は追い抜いて登っていけたのに今日は足が進まない。今日は唐松山荘までだから焦る事も無い。八方池には45分で到着。白馬大池のような澄んで清涼感の漂う池を想像していたが、濁ってやや泥っぽい池には興味が持てなかった。ただ目前の白馬三山は実に立派だ。白馬鑓、杓子は登っていないが際奥に片首を尖らせている白馬岳には旧懐の情がわいた。山と無線の仲間、Kさんとともにあの山頂に立ったのはもう10年以上前の話となってしまった。Kさんと最近山をご一緒する機会はないが山の知識も経験も豊富な彼と道々だべりながら山を歩くのは楽しいものだった。Kさんのソフトな語り口調や笑い声が思わず脳裏に浮かんできて、10年と言う時の経過にすこし切ない気持ちだった。

ここから先は本格登山道、という立て札を境に観光客はぴたりと減った。ザック重量12Kg が肩と腰に来る。とはいえ道はやさしくキツイ登りもなくゆっくりと高度を上げて行く。しばらく登るとダケカンバの樹林帯となり陽射しが遮られた。ホッと一息。林を進むと視界が広がり扇雪渓という看板。尻から冷たい雪解けでも流れていないか、と期待して進むが腐った雪の雪渓でとても尻の水を飲もうと言う気がわかなかった。

カール状の地形を左手に見ながら高度を上げて行く。左手には五竜岳がどっしりと立っている。岩ぶすま、とでも言うべきか。ガチガチの衛兵を従えたいきりたつ峰なのだ。その奥には双峰峰の鹿島槍がスマートに立っていて対称の妙がある。しかしど迫力だな、五竜は。あれに明日登る事が自分に出来るのか。不安がよぎる。そんな不安をよそに足元に咲く花々は見事だ。ピンクの可愛らしい花、なんというのだろう。これまで見たことが無かった。写真に撮っておこう。紫のタカネマツムシソウはお馴染みだ。そしてマルバタケブキも咲いている。この黄色い花は印象深い。やはり10年以上前、同じく山と無線の仲間であるSさん、Iさんとともに浅間の黒斑山を歩いたときに斜面一面に咲いてた花で、その名をお二人から教わったのだ。自分にとってはしばらく転勤で日本を離れる前の最後の山だったのだが、今でもこの花を見ると、そんな光景がお二人の声とともにすぐに浮かんでしまう。

いつしか高度を上げ腕時計は2600mを示していた。高度感のあるガレ場に木の桟道がかかっている。対面の人を先に通す。お礼の言葉が片言だ。と彼は振り返って仲間に話しかける、その言葉は韓国の人だった。桟道を渡りすこし歩くと燃料を燃やすような香りが流れてくる。小屋近しの感。

唐松山荘、13:15。山と高原地図のコースタイムを15分ほど割ることが出来て少しホッとする。5月連休の月山以来の久々の山だけあって流石に疲れた。指示されたテント場はここから黒部の谷へガクッと落ちた急斜面に点在している。50m近く下にもテントが張ってあり、正直がっかりした。出来るだけ上に張ろう、とゆっくり下る。幸いに自分のテントは一人用の小型なので対して下らない場所に、ドームテントの裏側に辛うじてスペースを見つけて張る事が出来た。

足が動くうちに唐松岳を往復する。思ったより疲れていたようで足が前に出ない。何度か休みながら唐松岳の山頂(海抜2696m)へ。北を望むと目の前に一気に高度を下げて登り返すピークが続く。不帰の剣だ。さすがに知られた難路だけのことはある。黒部の深い谷の向こう側にごつごつした山が立っている。剣岳ですよ、と隣のおじさんが教えてくれる。おぉ、あれが、剣か。さすがにトゲトゲの山だ。岩場に生理的な恐怖感を感じてしまう自分としては剣岳や穂高岳と聞いただけで怖くなってしまう。まずは登ることのない山だろうと思っていたのだが、良く考えれば明日登る五竜だってここから見れば充分峻険でなんら変わりが無いではないか。気が重くなった。

小屋で缶ビール(600円)を2本買いテントに下りて行く。目の前に剣岳が颯爽と立っている素晴らしいテント場だ。隣のテントは若い男子二人組みで昼寝中。簡易式のテントで四隅のペグも取ってなければ自在ロープも引いてない。心地よさそうなイビキに、そんなカタチなんてどうでもいいよ、山に登ってるんだからさ、とでもいいたそうな若さを感じた。

八方池までは登山者と観光客の混じる世界 稜線近く、鹿島槍(左)と五竜岳(右)が並んだ 唐松山荘のテント場は稜線からかなり下だった
唐松岳迄の一歩きも疲れた脚にはきつかった 唐松岳から五竜岳を見る。まさに、威風堂々 テントの夕飯はインスタント麺でも美味いもんです

* * *

夏用のシュラフ一枚で事足りる、余り冷えない夜だった。満天の星空が徐々に薄らいできて剣岳が赤く焼けてきた。五竜にも朝日が当たる。さぁ今日は長丁場。五竜を往復して遠見尾根で下山。自分としてはさっさっと片付けて5:30にテン場を出発する。小屋でトイレと水分を調達。水500ccで80円、缶ジュース500円、良い値段だ。

6:00、さて行くぞ。ここから牛首の下り、という鎖場が続くと言う。地図には難所マークはついていないが予め読んでいたネットでは結構スリルのある下りという記事も多い。岩場が怖い自分としてはどんなものか。もう行くしかない。小さなピークの横から一気に落ち込む下りとなった。なるほど鎖も続く。先行者が渋滞を起こしており少し路肩で気持ちを落ち着かせる。三点確保をすれば怖くないはずだ。あと斜面に背を向けて下りると良い。そんなことを念じて一歩一歩下りて行く。鎖は断続的に続くが幸いに案じていたほどの悪路ではなかった。ただ距離は短いが時間はかかる。下りきって樹林帯に出るまでに1時間。情けないがもう足にきている。やはり必要以上に足を使ったのか。緩くなった尾根をとぼとぼ歩く。黒部側から心地よい風が吹いてきて帽子を脱ぐと汗ばんだ頭の中を涼風が抜けて行く。・・・髪の毛、減ったからな。気持ちいいや。

むこうから大ザックの8人パーティがやってきた。学生さんだ。女の子も1人、頑張っているな。

「すごい荷だね、何処から?」
「折立からです。」
(へっ、折立?一体どの位歩いているんだろう。折立ということは薬師は往復してるな。そして、黒部五郎、鷲羽、水晶もピストンか、そして野口五郎、えーとそして針の木、爺、お次は鹿島槍・・・おぃ、そんなに歩いているのか)
「すごいね・・どこまで?」
「白馬で欅平に下ります。」

最後から二人目の女の子がぺこりと頭を下げて通り過ぎた。

さわやかな連中だった。昨日のテントの若者といい彼らといい、満ち溢れる体力と無限の可能性に背中を押されて歩いているのだろう。一週間に及ぶ山旅も苦にならない。もちろん彼らにも悩みもあるのだろう。進路、恋、友人関係・・・。それでもきっと山を歩いているとそんな事も一時忘れ、目の前の難路、長い道にひたすら対峙するだけなのだろう。

緩い登りにばててきた。目の前の五竜はますます近づき、その驚愕すべき岩の襞が明瞭となってきた。確かに道はついているようだ。でもあれに登れるのか。すっかり萎えた。ヘロヘロになって登りきると眼下に小屋が見えた。五竜山荘だ。8:15。

重いザックをかなぐり捨てるように下して座り込んだ。小屋でノンアルコールビールを調達。喉に流し込んでようやく心地がついた。下山ルートの遠見尾根は4時間。下りの五竜のゴンドラの最終は16:30。ここから五竜往復には2時間弱。なんとか行けるか。

8:35、サブザックに雨具と水、行動食とリグを入れて歩きだす。荷が軽くなると多少は楽だ。傍からは危なっかそうに見えたルートは思ったよりも歩きやすい。高度を上げて行くと一気に小屋が眼下となった。ずっと半袖で歩いてきたが猛烈な陽射しでじりじりと腕が痛くなってきた。20分も歩くと砂礫の道からいよいよ岩場へ転じた。道幅はあるので高度感の割には安心できるがそれも始めのうちだけだった。じきに鎖場が出てくる。首を痛いほど上に向けるとその遥か頭上を登る人が見える。その上は真っ青な、空しかない。一箇所ほど小さな尾根を乗っ越すその場所に鎖がかかっておらずカニの横ばいのようなトラバースが現れた。ホールドが見つからず苦戦する。墜ちたら最後だな。深呼吸してゆっくりと通過。汗が滴り落ちた。

9:35、五竜の山頂からは素晴らしい展望が待っていた。海抜2814m。 なんと言っても目の前の鹿島槍が素晴らしい。実に颯爽として無駄のない山だ。ただこの先の縦走路には八峰キレットの難所アリ。剣呑剣呑。自分が登るとしたら反対側の冷池山荘側からだな。

430メガを開局する。アルインコDJ-S57にRH770はすっかり自分の信頼できる定番となった。2.5WでCQを出すと昨日に続いて北安曇郡の局が呼んで来てくれた。この局とは群馬の三百名山・諏訪山、北ア常念岳、山スキーで登った高峰山、そして昨日の唐松に続いて5度目のQSOだ。0エリアに遠征すると会える局、ということになる。松本市・十石山移動のYL局にもつながる。白山市、長岡市、久喜市、高岡市、最遠は江戸川区。59-59だった。

* * *

50分かけてゆっくりと下りてきて五竜小屋。11:00だ。テント場が手招きをしている。そうだよな、歩き始めて5時間経った。ここで泊まるのも悪くないよな。もう足はがたがただ。しかし最終ゴンドラまでまだ5時間半ある。遠見尾根の下りコースタイムは4時間か。一応家族には今日帰ると言ってきたし、やはり下りるか。これまで一応山と高原地図のコースタイムからは少し早めで歩いて来れた。周りの人が食べている小屋のうどんとチャーハンが美味そうだったがそうと決めたら時間がもったいない。つぶれたチョコチップパンを口に放り込み500円でポカリスェット購入。あとは下りるだけだ。

遠見尾根はまだ多くの登山者が登ってくる。西洋人が登ってきた。30歳くらいの若い男だ。ドイツ人と言う。自分もかつてデュッセルドルフに住んでいた話をすると彼の目が輝いた。東京に住んでいるが日本の山は初めてと言う。

「ここは岩も多くてヨーロッパのアルプスを本当に思い出させてくれる、素晴らしい山だね!」と。

そういえば山頂標識は韓国語と英語も併記されていた。いつしか日本の山の素晴らしさも世界的に広まったのだろう。「ハットまではすぐだから、頑張って」言葉も分からぬであろう異国の山をこうして登る、やはり若いことは素晴らしい。

下りは長かった。足がもう言うこときかなかった。全く長い下りなのだ。しかも登り返しも頻繁に出てくる。勘弁してくれと言いたい。行動食のパンは口の中がからからで喉を通らない。ポカリスェットもあと一口しかない。やはり五竜山荘でテントを張るべきだったか。なんで歩いてきたのだろう。もう歩けない。ザックを放り出した。あー、家族は元気かな。スマホで現在地を確認。なんてこった、まだ遠見尾根の半分も過ぎていない。ついでにLINEを覗いてみる。家内からひどくのん気な絵文字が届いていた。

そして分かった。そう、家族に会う ただそれだけ。今日家に着きたい。ただそれだけ。それだけで今頑張って下りているんだな、と改めて気付いた。それはおかしいほどの決意だった。若い時期を通り過ぎて、体力も減り無限の可能性もなくなったであろう自分に何が残っているのだろう。どこをどう見てもたるんだ顔に白髪頭。緊張感のない腹。会社人としての生活も残りはカウントダウンできるようになってきた。何のとりえもないどこにでもいるただの下り坂真っ最中の中年オヤジに過ぎない。それでも帰るところがあると言うことが実は素晴らしいことなんだ、と改めて感じる。日常では感じることのない、そんな当たり前。それが自分を今磁石のようにひきつけて山を降ろしてくれている。とはいえ帰宅したところで家内も子供もいつもどおりテレビでも見ていることだろう。鼾をかいて寝ているかもしれない。それでもいいのではないか。それで自分がホッとするのなら。

時の経過とともに自分の中で失うものもあれば得るものもある。若い頃見えていたものが、悩んでいたものが、見えなくそして感じなくなっていくことがある。その代わりに年齢を経て改めて感じることもより多くある。そうして自分の中の経験を増やしまた新たな世界に触れて行く、それはあたかも自分の外面に新しい皮が造られ、更に世界に触れて行くことが出来る。そう思えば悪いことではない。常に新しい、それなりに経験を積んだ目で外に触れることが出来ていると言うことか。それが年輪ということなのであれば、たるんだ皮膚も、白髪も混じった上に薄くなった髪も、あながち悪いことではないのではないか。

長かった尾根も眼下にスキー場のゲレンデを望んでから、緊張感がとけた。ゴンドラ駅も近い。一歩づつ足を引きずるようにおりていく。眼下に大きなケルンが立っており観光客が鳴らすその鐘がひどくのん気な音を立てる。ゴンドラ駅から流れる音楽が風に流れて姫川の谷へ飛んでいった。さて下山したらまずは温泉だな。そしてノンアルコールビールで・・。

五竜山荘のすぐ上まで来た。これから登る
五竜岳はとりくつしまのない岩の殿堂だった
五竜岳へ。上部は鎖場
もある辛い登りだった
ついに五竜岳山頂に立った。深い谷を
はさんで剣岳がすっと金字塔だった
がくんと落ちてせりあがる。鹿島槍が見事
だった。いつか登ってみたい想いが湧いた

* * *

PS:下山してから水分しか摂る気になれなかった。帰宅後明らかに体調がおかしいと思ったら翌日熱が出た。日焼けした腕と首が痛く熱い。ちょとした熱中症だったのか、おまけに足の筋肉痛も半端でなく、椅子から立つ事も階段も歩けない。やはり若くはない。それに山もそれなりに厳しいものだったと思う。南アルプスに比べて北アルプスはコンパクト・・なんてとんでもない考えだった。そんなことを改めて実感した山だった。

(山行日:2016/8/11,12)
8月11日 リフト10:00−八方池10:45-丸山12:17-唐松山荘13:15/14:10-唐松岳14:30/14:45-唐松山荘15:00
8月12日 唐松山荘06:00-五竜山荘08:15/08:35-五竜岳09:35/10:10-五竜山荘11:00/11:15-大遠見山13:00-中遠見山13:45-小遠見山巻き道分岐14:02-アルプス平観光リフト15:10

(本稿は山岳移動通信「山と無線」56号 2016年8月より転載)


(戻る)  (ホーム)