★ワラサ騒動記★


ワラサ騒動記(94年10月6日)

 早いもので、私が釣りを再開して、間もなく8年が経過しようとしています。この間、沢山の標的をモノにし、そのたびに甘美な達成感を堪能させてもらいましたが、いまだに煮え湯を飲まされ続けているタ−ゲットも、決して少なくはありません。それどころか、冷静かつ客観的に事実を述べるならば、私が敢行する釣行の圧倒的多数は、見るも無残な結果であったと認めざるを得ないのです。その原因は、下世話には「腕が悪い」と表現されます。しかし何事にも天才を自称する私は、もう少し深い洞察を行なっております。つまり、第一には運の悪さです。たとえば、当たりくじが1本だけ入った宝くじが1、000本あったとすると、私は999本引いても当てないだけの、絶対的な自信があります。なぜそうなるかについては、私の秘められた予知能力(自分に都合の悪い方向にしか働かない)で90%までは説明できると考えています。第二には、判断力の欠如です。「運の悪さ」と思っている事の大部分は、実はこの判断力の欠如なのでしょう。例えば、昨年の最後の日曜日、私は納竿を飾るタ−ゲットを、マコガレイにするかシャクリマダイにするかで、さんざ悩みました。前者の方が釣れる確率は高いですが、産卵期に入って食いが落ちている可能性があります。後者については、すでに深場に落ち、やはり食い渋る可能性がありました。結局私は前者を選び、見事に玉砕! ボウズでした。一方シャクリマダイの方は、1.5キロの良型を含め、ボウズなしの釣果だったそうです。第三には、めんどくさがりの性格です。これは判断力の欠如の原因でもあるのです。というのは、判断力の基礎になるのは、情報の収集能力と分析能力だと考えるからです。たとえば中学時代、友人とよく将棋をさしましたが、私はすぐに飽きてしまい、最後には必ず王将自身による「親征」を敢行して、見事玉砕するのです。昨年、友人の結婚式で再会した彼は、「隆雄ちゃん、めんどくさがりの性格は、変わってないねえ」とつぶやきました。具体的には、9月21日の釣行でのキロ級クロダイのバラシがよい例です。キワの根へ突っ込もうとしたクロの動きを、自慢の竿さばきでかわしたまではよかったのですが、次の瞬間、竿は張り詰めた緊張から急に解放され、無念そうに天を指していました。いつかはやるだろうと思っていたのですが、ハリに巻いた糸がほぐれてばらしたのです。どうせ今日は釣れないだろうとタカをくくって、いい加減な結び方をした報いです。おかげで私は、黒鯛師を自称しながら、この24か月は1尾のクロダイをも手にしていません。第4には、これも第3と重複するのですが、根性のなさというか、あきっぽさというか、とにかくすぐにあきらめてしまう性格です。これは、最近一緒に釣行することが多くなった従兄が、よく不愉快そうに指摘する事項です。「今日はダメだ」と思うと、すぐに竿を投げ出してしまうのです。最後までねばろうとしている人にとっては、さぞかし目障りな行為なのでしょう。 

                       閑話休題、そんな私の、ここ数年のタ−ゲットの一つが、今回紹介するワラサです。これは、ワカシ→イナダ→ワラサ→ブリと出世する魚の、体長で言えば60センチから80センチくらい、重量で言えば3キロから6キロくらい、年齢で言えば2歳から4歳くらいまでの、言わば青年期の魚です。この仲間は紡錘形の身体を有しており、強力な引き味を楽しませてくれます。例えばマダイであれば、いくら引き味がシャ−プとは言え、普通ハリスは3号、どんなに太くても6号どまりです。10キロを越える超大物のマダイでも、3号ハリスで充分に対処できるのです。ところがこの手の魚になると、1キロ前後のイナダでも普通5号、ワラサになると6〜12号のハリスでないと対処できません。その強引なまでの引き込みが、釣人にやりとりの余裕を与えないのです。
 一昨年の10月10日、私は足掛け5年のイナダとの死闘に終止符を打ちました。そうすると皮肉なもので、昨年は3尾、今年は今日を含めるとすでに5尾もの、ワラサに近いイナダを釣り上げました。一方、同じく一昨年の9月、あの民医連新聞にデカデカと魚拓の載ったクロダイを釣った際、南房の沖ではワラサが釣れ狂っていました。そしてその前の年から、東京湾にもワラサの回遊が見られるようになっていたのです。
 最初は、走水のアジ船が、釣れた小アジの泳がせ釣りでワラサをボツボツ上げていました。私は3年前に3回、2年前に2回、昨年は3回挑戦しましたが、さっぱりアタリすらありませんでした。
 昨年はワラサの当たり年と言われ、各地からワラサの爆釣が報告されてきました。そこで私も本腰を入れ、まず9月に南房に遠征を敢行しました。しかしサメの猛攻で全員型を見ず、私はやはりアタリすらありませんでした。この時は真鶴沖にワラサが回遊していたので、こちらに行っていれば釣果は堅かったはずです。続いて10月頃、今回釣行した剣崎沖にワラサの大軍団が回遊してきました。職員のIiちゃんのお父さんは見事にワラサを仕留め、生臭いにおいに顔をしかめる魚嫌いの娘の前で写真をバシバシ撮り、釣行の様子を、電車に乗るところから微に入り細に入って説明したそうです。私は11月になってやっと釣行しましたが、ワラサに近いイナダを3尾上げたに止まりました。11月になると、鴨居沖のアジの泳がせで、よい釣果が聞かれるようになりました。私が行った日は、7〜8キロのブリがメチャクチャに釣れていましたが、私の竿はやはりウンともスンとも言いませんでした。一方、一昨年から急に海釣りを始めた従兄は、私の悪戦苦闘を尻目に、3.5キロのワラサをあっさり釣り上げたそうです。ただこのワラサについては、私はある見解を有しています。

 今年は昨年に引き続き、否、昨年以上に釣果にさっぱり恵まれない年でした。昨年暮れに城ヶ島で1.4キロのメジナを釣って以来、まともなものは何も釣れませんでした。特に従兄を釣れて行くと、必ず不満足な結果となるのです。6月末にはサイパンでのトロ−リングで、5キロ級のカツオを7本釣ったものの、手釣りで指がすり切れ、あまり面白くもありませんでした。 8月27日土曜日、私はハナダイを釣りに、腰越港へと赴きました。この日は魚の活性がよく、23センチのマダイ、25センチのシマダイに続き、タイ独特の3段引きで2号ハリスが切られました。気をとりなおし、大物に備えてリ−ルのドラグを緩めた私を乗せた船は、逗子沖でワカシを狙う船団の真ん中に入って行きました。ここで仕掛けを底まで落としたところ、何かモゾモゾとした感触が伝わり、続いて魚が走り出す気配と、次第に激しくなる引き込みが竿を襲いました。私は何が起こっているのか分からず、静かにやりとりを続けました。やっと仕掛けが水面に上がる頃、私は船長に助けを求めましたが、船長には聞こえず、やむなく隣の人がタモを構えてくれました。やがて上がって来た魚は、しばらく横走りしたあと、ストライプの入った巨大な横腹を現しました。
 「ああっ、ワラサだあ〜!」
しかし、隣の人が構えたタモは、魚に比べてあまりにも小さく、魚はタモのリングに尾ひれの一撃を食らわせると、ハリを外して水面下へと逃亡しました。3キロはありそうなワラサでした。私はワラサを見て気が動転し、自分の竿を身体と船縁の間に挟んで折ってしまいました。まあ、もともと2号ハリスでは無理な話しでしたし、小さなク−ラ−しか持っていかなかった事もあって、私はそれほど悲観しませんでした。しかし、その後船で借りた竿は、使いなれないせいかバラシを続出させ、その後釣果が続きません。ところが、隣の人にオマツリして一緒に上げてもらった仕掛けには、何と40センチのジャンボイサキがついていました! これは大変ラッキ−で、Is先生に刺身と味噌汁を作ってもらって、美味しくいただきました。
 9月22日木曜日、第二の夏休みとして、6日連続釣り計画というムチャな予定を立てた私は、計画の3日目に従兄を伴って芝崎港へと赴きました。台風の余波で爆釣があった相模湾のタイを狙ったのです。船は最初城ヶ島沖へ走り、大船団に混じってイナダを釣りました。まさに入れ食い状態が現出し、従兄は無邪気な喜びを隠そうともしません。彼が6尾、私が4尾釣れた所で船長は、各自の御土産が充分であることを確認し、マダイのポイントへと移動しました。ここで従兄が25センチのマダイをヒットさせたものの、あとが続かず、結局私はボウズ。前日まではボウズなしで、しかも4キロ超の大物まで出ていたのに、私たちが釣行すると、いつもこのザマです。23と24は雨が降り、私はおはぎ・くず桜・泡雪かんを作って過ごしました。25日はどうにか天気が持ちそうなので腰越港へと行きましたが、ク−ラ−がスッカラカンの完全ボウズ! その後の新聞報道によると、26日以降、再びマダイの爆釣があったそうです!

 昨年一昨年と、私は10月初めにマダイを釣りました。そこで10月5日は、従兄をシャクリマダイに釣れて行こうと思い、彼に有給を取らせてカワハギ竿も買わせました。しかし電話予約を入れたところ、当日はタチウオの予約が入っていると断られてしまいました! 私たちはがっかりしながらも、好釣が伝えられ始めた剣崎沖のワラサに期待をつなぎ、松輪港の瀬戸丸に予約を入れました。

 10月4日夜、寝支度を整えていた私は、かすかな横揺れが、かなり長い時間続いている事が気になり始めました。その横揺れはやがて人々の不安を掻き立てるほどに激しくなり、私も立ち上がって、本棚の物が落ちてこないように押さえていました。我が家の地盤は大変緩く、激しい地震の後には、私の部屋はメチャメチャになってしまうのです。揺れは南北方向のみに感じられ、東向きの本棚はほとんど影響がありません。このことは、震源地がほぼ真北にあった事によるのでしょう。津波警報を伝えるテレビの報道を気にしながら、津波の第1波が予想された11時ちょうどに、私は床につきました。
 翌朝(朝?)3時半に起床した私は、従兄の車に乗って、松輪へと向かいました。従兄は前日11時まで飲んでいて2時間しか寝てないそうで、船酔いを心配していました。ほとんどすべてにおいて私と反対の性格の彼が、「船に弱い」という遺伝子だけ私と共有しているのは、実に不思議な事です。車の中で我々は、「我々がいつも釣れないのは何故か」という問題についてディスカッションしました。我々が釣りに行くと、「昨日までは釣れていた」といつも言われるのです。その真偽の程はあやしいのですが、行くたびに釣れる奴もいるはずです。しかし我々の回りにいる人は、どうも皆行くたびに釣れないらしいのです。そう考えると、いくらか溜飲も下がりました。もともと道楽でやっている事なのだから、そんなに真剣になる必要もないのです。さて船宿に着くと、いつもと違って客はガラガラ。前夜の地震が、微妙な影響を与えているようです。その影響は、釣果に対してはどう出るか? 港では、誰もがその話題でもちきりでした。時間はちょうど5時。満潮を迎えた松輪港は、遠来の津波の影響で、いつもより潮位が高くなったそうです。左舷トモ寄りに陣どった我々は、期待と諦めのないまぜとなった気分に浸っていました。
 船は6時10分前に港を出ると、まず城ヶ島沖へと走りました。どうも御土産用のイナダを釣らせるつもりのようです。しかし我々は、2週間前の釣行ですでに食傷ぎみであり、あまり気が進みません。それでも竿にイナダの激しい魚信が伝わり、電動リ−ルが止まってしまうほどの強烈な突っ込みを味わうと、まあ悪い気もしないから不思議なものです。ところが従兄は3回続けてバラシてしまい、1尾も上げないうちに食いが落ちてしまいました(従兄はこの時、本日のボウズを覚悟したそうです)。どうも、我々だけワラサの仕掛けを使っているようで、船長からたびたび「ハリスを短くするよう」お叱りを受けます。そこで、従兄と私がハリスを短くした直後、「ワラサが食い始めたよ」とアナウンスが入り、ほぼ同時に従兄のインタ−ラインマダイ竿3.3メ−トルが、海面に突っ込みました。従兄は呆然として私を見ており、私も「ワラサだ!」と叫んだ後、二の句が継げません。すると船長が気付いてやってきて、「ワラサだワラサだ! ハリスは何号?」と聞きます。従兄は自信なさげに私を見たので、私が代わりに「8号です」と答えました。太いハリスに安心した船長は、「電動はダメだよ! 切られちゃうよ!」と何度も叫びます。しかし後で聞いたところによると従兄は電動を使っていなかったそうで、ドラグが悲鳴をあげて糸が出ていたのを、船長がモ−タ−の音と勘違いしていたらしいのです。ワラサは激しく突っ込んで竿を根元からひん曲げたかと思うと、今度はメチャクチャに走り回り、シッチャカメッチャカにオマツリして、一度はバラシたかと思われましたが、船長が手で4人分の仕掛けを引き上げ、ワラサをタモに取りました。65センチありました。従兄はしばらく呆然自失のあと、顔が目一杯緩んで、高笑いが止まらない様子でした。彼が言うには、仕掛けを短くしようとクッションゴムを外していたので、冷や汗をかいたそうです。ここで船長は、剣崎沖でワラサが釣れ始めたことを告げ、ポイントを移動します。剣崎沖には、やがて各地の釣り船が終結し始め、そこら中で竿が海面に突き刺さっています。瀬戸丸でも次々とワラサがあたりますが、オマツリしてなかなか取り込めません。船長は、私だけアタリがないのを気にして、タナや誘いをあれこれ指示してきます。めんどくさがりの私は、頻繁に仕掛けを上げるのは嫌いなのですが、この日は電動リ−ルなので、どうにか我慢して船長の指示に従っていました。ハリスが4.5メ−トルでクッションが1メ−トルですから、仕掛けの全長は5.5メ−トルになります。これで船長の指示する5〜6メ−トルのタナに合わせるには、ビシが底に着いてから、11メ−トルほど上げればよい訳です。それをリ−ルのメ−タ−でやっていたら、船長からどやされて、道糸のマ−カ−でとるようにしました。下から10メ−トル上げたところで竿を振り、こませを出したあとでさらに1メ−トル巻き上げます。ここで竿先が不規則に震え、その後止まってしまいました。竿を大きくあおって合わせると、根がかりのように動きません。変だな? と思っているうちに、魚が走りだして竿が根元からひん曲りました。明らかにワラサの引きです。黙ってやりとりしていたら、コマセを取りに行っていた従兄が席に戻ってきて、騒ぎはじめました。すぐに船長がやって来て、私のドラグから糸がズルズル出ているのを見ると、「ドラグを目一杯閉めろ! バラすのは、圧倒的にオマツリが多いから、ドンドン巻き上げろ! 今6人同時にあたっている。」と言いました。魚はほとんど真下に突っ込み、従兄が自分の仕掛けを上げてくれた事もあって、オマツリの心配はほとんどありません。従兄が、「あと何メ−トル?」と聞いてきたので、「30メ−トル」と答えると、我ながら先の長さにウンザリしてしまいました。いくらドラグを閉めても、糸はズルズルと引き出され、せっかく巻き取った道糸をすぐ挽回されてしまいます。少し引きが弱くなり、従兄と無駄口をたたきながら巻き上げを始めると、すぐに激しい突っ込みが襲い、竿ごと海中に引き込まれそうになります。しかしさすがはフロロカ−ボンの8号ハリス。これほど激しい引っ張り合いを演じても、切れずに耐えてくれます。あらためてC−F結合の強力さと、それを支えるフッ素原子の強力な電気陰性度がいとおしくなります。一進一退のやりとりの中で、私はそれでも少しずつ魚との距離を詰めていきました。残りが15メ−トルを切るあたりから、私は体力の限界を感じ、竿を支えているのがいやになってきました。大物とのやりとりなど、苦痛以外の何者でもないことを悟りました。それでも、かけた以上は取り込まねばなりません。私は、手をどう動かせばいいのかも分からなくなり、最後の数メ−トルは、もう何をやっているのかもわかりません。船長は、「大丈夫だ。オマツリはしてないからいけるぞ!」と言って励ましてくれます。やがてリ−ルのカウンタ−はゼロを示し、私はビシを手にとってハリスをたぐりはじめました。疲れきった手がすべって、なかなか魚を寄せられません。やがて水面を青白く染め、巨大な魚体が上がってきました。その姿の、何とデカイ事でしょう! 従兄は手際よく魚をタモに入れ、その瞬間、船長の指示どおり私がハリスを緩めると、巨大な魚は観念したかのように、身体を網の中に横たえました。しかし重たくて、すぐには船中に取り込めません。それでも従兄は「せ〜の」と声を掛け、魚を船中に放り込みました。ここでグズグズしてはいられません。船中いたる所で闘いは進行中であり、すぐにタモを開け渡さなければならないのです。私はふるえる手で巨大な魚を引っ張り上げました。幸いなことに、ハリはカンヌキにしっかりと食い込んでおり、外れたハリが網に絡まってわずらわされることはありませんでした。私はしばし放心状態となり、魚を眺めていました。68センチ、後に量ると、3.4キロありました。少し体力が回復したところで、私は魚のエラを取り去り、血ぬきをしました。いつもやり慣れた作業ではありますが、魚が大きいので、何か凄まじく残酷な事をしているような気がして仕方がありません。血液の量も半端ではなく、私は両腕が血まみれになってしまいました。
 その後従兄が1尾追加して、12時過ぎに納竿となりました。竿頭はミヨシの常連さんで、7回かけて4本取り込んだようです。船中ボウズはおらず、最大は7キロのブリでした。我々は三浦診療所に寄って検量し、イナダをオミヤゲとして置いてきました。お昼に刺身で食べたようです。従兄は大捕物にすっかり興奮し、「昨年の3.5キロとは迫力が全然違う。」と何度も言っていたので、一番大きかった私のワラサが3.4キロだったのが、腑に落ちないようです。これについて、私は次のように考えます。釣り人はプライドが高いので、釣った魚を小さく見積もる発言は禁句です。それはたとえば、男のアレや女性の胸のサイズを論じる時と同様の配慮が必要となるのです。だから従兄が最初のワラサを釣った時、私は3キロサイズと見積もった(これは実際正しかった)のですが、私は船長に「4キロぐらいですか?」と聞き、船長も「そのくらいだな」と答えたのです。昨年のワラサについて、従兄が「船長からはイナダと言われた」というのを、私はどうも不自然だと思っていました。やりとりの様子も、どうも3キロオ−バ−とは思えないところがあり、体長も50数センチだと言っていました。船長に量ってもらって3.5キロと言っていたのですが、私はせいぜい2キロから2.5キロぐらいでは? と見積もっています。船長が気を利かせて、ゲタをはかせて言ったのでしょう。何はともあれ、我々は自宅で記念撮影をすませ、私はそのまま出勤しました。
 さて釣りあげたワラサですが、当日当直だった私は、病院で3枚におろし、院長、総婦長、室長にお分けしました。事務長には、保請中の医事と一緒に、刺身にして食べてもらいました。まあ、それなりの味でした。Is先生には、本日食べてもらいます。Iiちゃん、生臭くして御免なさい!