池子の実態

池子のゲート


 逗子市は戦時中横須賀市に併合されたことがあり(戦後独立)、軍都の一部としてさまざまな軍事機能を持たされていた。その最大のものは、東洋一の規模を誇った池子弾薬庫である。戦後は米海軍に接収され、朝鮮戦争・ベトナム戦争で使う弾薬を貯蔵していた。50年以上も人手に触れることなく保存された事で、皮肉にも貴重な自然を擁し続けている。75年のベトナム戦争終了時、私は中学3年生だったが、弾薬処理によると思われる低周波が、学校の窓ガラスを不気味に振動させていた事を記憶している。戦後わき起こった「池子全面返還・跡地を自然公園に」の運動は、78年の遊休化以降特に盛り上がったが、米軍は82年に米軍住宅建設計画を持ち出し、以降市民の間では猛烈な反対運動がわき起こった。84年11月には米軍住宅建設反対の市長が誕生し、全世界に報道された。しかし日米両政府の圧力に耐えきれず、市長が変節した事にともない、88年に造成工事を開始、住宅は建設され、96年4月から入居が始まってしまった。逗子市民は今、池子の山中に屹立するタワーを見上げ、雪辱を誓っている。池子では、住宅受け入れの際の33項目の条件の一つである体育館が建設され、神奈川ゆめ国体で使われた。

 池子には、97年7月末までに358戸、約1、450人が入居。8月4日からは、第3次の210戸分の入居が開始され、98年3月には、全部で854戸の住宅が完成した。この家族住宅は、総額478億円、すべて思いやり予算で建設された。2000年6月時点で、831世帯3、225人が入居、運動場、スポーツ施設、立体駐車場、ゴミ分別場、下水処理場、管理棟なども整備、その後の施設整備を加え、「思いやり予算」の総額は851億円になった。

 2001年5月、在日米海軍施設部長と国会議員との意見交換により、小学校建設(本設)のほかに、住宅入居米兵家族の要望で新たな施設建設も検討する意向がある事が判明した。
 本設小学校建設予定地は、住宅建設事業区域の緑地を壊し、延べ約1万平方メートルの敷地に鉄筋コンクリート二階建ての学校を建設。20〜30人学級で、1〜5年生約800人が対象。防衛施設庁は、「スクールバスで横須賀に通っていたが、交通事情が悪化し、米側から新たに要請があった」と説明。現在は住宅地区内にプレハブの「簡易な小学校」(1億5千8百万円)が建設され、小学3年まで約500人が通っている。本設小学校は、業者が国の委託でアセス評価書案を作成しているといわれている。
 長島市長は、「環境への影響という観点から判断する」としており、市議会は2000年6月、住民の反対陳情を採択している。小学校建設は、逗子市が米軍住宅建設を受け入れた際の国・県・市の三者の「5項目合意」にもなく、条件に含まれていない約束外の計画。


98年5月31日、第2回池子フレンドシップデーで、私は生まれて初めて池子接収地内に入った!
2000年10月1日、私は再び池子の中に。

池子版「安保の見える丘」から見た池子の風景。工事が終わって囲いがとれたら、新しい町が出現した!

ゲートのところに建った看板

道路から、「池子の森」が垣間見えた。

久木へと続くトンネルも、初めて見た。

池子ヒルズの看板。このあたり、山を崩して造成したのだろう。オレンジ色に見えるのは、悪名高き池子タワー。

工事中のフェンスの向こうに、弾薬庫の廃屋が見えた。60年の歳月で、屋根がだいぶ痛んでいる。ベトナム戦争終結時以降23年ぶりに見た。どうもここが、小学校建設予定地らしい。

住宅地域の中を、こんな列車で15分かけて案内してくれる。料金は200円。

高層住宅には、京都、奈良、鎌倉など、古都の名前がついている。将校は2階建て住宅に住んでいる。

かわいらしい日本庭園もあった。

99年9月に、資料館が完成し、市民に公開されている。池子は地球の気候変化に伴い、海底になったり海岸になったりしてきた歴史があり、深海に棲息するシロウリガイの化石があったり、弥生時代の遺跡が海底に沈んで保存されたりしている。

 1998年10月、卒論で池子問題を調べている女子大生から、問い合わせの電話があった。いろいろ聞いてみたところ、どうも指導教官がインターネットで検索し、当ページを見つけたらしい。質問内容は以下のようなもので、逗子市役所の基地対策課に問い合わせ、回答した。

1.33項目のうち、体育館は実現したというが、何項目が実現したのか。また、誰が決めた要求か。
 1984年、当時の三島虎好市長が、米軍住宅受け入れの条件として決めた。このうちの6項目は実現不可能なものだった(たとえばヘリポートの共同使用は、ヘリポート自体が建設されなかった)。19項目ほどが実現しているが、1項目で2つの内容を含んだものがあり(たとえば体育館と文化会館がセットになっているが、実現したのは前者だけ)、明確に答えるのが難しい。

2.思いやり予算とは何か?
 日米安保条約や地位協定に取り決めがないのに、日本政府の「思いやり」で在日米軍を援助する予算の事。故金丸信が始めた。主に米軍住宅の建設や、日本人従業員の給与などに使われている。米軍の駐留する国では、普通アメリカの方が金を払っているが、日本とドイツだけは、逆に基地をおかれている国が金を払っている。これは、日本とドイツが経済大国であるとともに、第二次世界大戦で他国に多大な迷惑をかけた国である事が関係しているかも知れない。

3.池子版「安保の見える丘」とは何か?
 これは筆者の造語。「安保の見える丘」は、沖縄・嘉手納基地が見渡せる丘の事を言う。安保条約の実態を目のあたりにできるからで、同様に、横須賀基地を見渡せる丘を、横須賀版「安保の見える丘」、池子を見渡せるアザリエ団地の崖を、池子版「安保の見える丘」と呼んでいる。

4.沢市長は、何故政治責任を問われて辞職したのか?
 1992年、「米軍住宅反対」を公約して市長に当選したのに、94年11月、「米軍住宅受け入れ」に変節してしまったため。沢市長は逗子の全地域で住民との懇談会を開き、筆者も池子地区の懇談会に参加したが、参加者からは、非難ごうごうだった。その後聞いた話では、沢市長は保守系市議の前で土下座し、「米軍住宅を受け入れさせて下さい」と懇願したという。受け入れを表明した沢市長は、94年12月に一旦辞任し、市長選に再出馬したが、もとからの容認派だった平井前市長にやぶれた。唯一米軍住宅反対を訴えた梅川候補も、及ばなかった。

 2003年1月22日、NHKのニュースで、「横浜市根岸の住宅地区返還に伴う米軍住宅役400戸の移転先に、逗子市池子が予定されている」との報道がなされた。長島市長と逗子市議会は、ただちに関係諸機関に、「反対」の意志表明を行っている。


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