★彗星(労組機関紙「あらぐさ」より)★


*百武裕司さん急逝!(2002年4月16日)

 百武彗星の発見者である百武裕司さんが、大動脈りゅう破裂のため死去されました。51歳でした。1996年春の北の空を飾った百武彗星は、3/26のバーストの結果大化けに化け、俗に「百武100度」と呼ばれたように、100度に及ぶ長大な尾をなびかせました。その姿に子どもはおびえたと言います。当時普及し始めたパソコン通信を通じて、私は日々の変化を初めてリアルタイムで知る事が出来、とても興奮した事を覚えています。長引く欠員状態(5人中2人!)と、書記長としての最初の春闘という重圧の中でしたが、団交の終了後城ケ島まで出かけ、0等級の彗星を眺めたのを、よく覚えています。

*東洋の美女(2002年3月28日)

 文豪トルストイは、小説「戦争と平和」の中で、我が憧れのモスクワの事を、「東洋の美女」と呼んだ。祖国戦争(ナポレオンの侵攻との戦争)の年1812年には、巨大な彗星が夜空を飾ったという。
 2人の東洋人が発見した池谷・張彗星は、3/19に近日点を通過し、予想を越える3.5等まで増光した結果、衣笠や逗子でも肉眼で見つけられる程に成長した。今後太陽からは遠ざかるが、地球への接近を続け、4月中旬までほぼ同じ明るさを維持する。すでにかなり長い尾を引いているが、4月以降明け方の空に回った彗星は、さらに長大な尾をたなびかせる事であろう。
 東洋的な美しさをたたえた彗星を双眼鏡で眺めながら、私はこう考えた。モスクワを侵攻したナポレオンは、1812年の大彗星を背景に、クレムリン宮殿を眺めていたのだろうか、と。 

*イケヤ・チャン彗星その後(2002年3月12日)

 3/9に11×80の双眼鏡で見た彗星は、コマが翡翠色に輝き、淡い尾を引き、とても彗星らしい姿をしていました。1661年の彗星と同一彗星である事が、ほぼ確定しています。
 雑誌に、池谷薫氏が載っていました。私のイメージにあるのは、20代の頃の写真です。60近いオッサン(失礼!)の写真を見て、少し幻滅(^_^;) 自分の事を棚に上げて・・・
 O嬢曰く、池谷・張彗星って、「池谷ちゃん」彗星みたいですね、ですと!

*池谷・張彗星(2002年2月20日)

 「それ」が発見されたのは、1965年9月18日未明、台風一過の事でした。「それ」は、太陽表面からわずか48万キロのところをかすめ飛び、長大な尾をなびかせ、「世紀の大彗星」と呼ばれました。「それ」を発見したのは、2人の日本人青年、池谷薫氏と関勉氏でした。5歳で明け方の彗星を見られる筈もなく、私は成長してから、池谷・関彗星に猛烈に憧れました。いくら憧れても、数千年は帰ってこない相手です。その憧れはいつしか、それを発見した池谷薫氏に向けられるようになりました。貧乏生活の中、大変な努力をされて、10代後半〜20代前半に、6個の新蕃星を発見された、偉大な方でした。
 そんな彼が、60近い今も彗星捜査を続けられ、先日、新彗星を発見されたのです、たくさんのファンが、感動に胸を震わせました。そして、発見された「池谷・張彗星」は3月の夕空に、4等級まで明るくなります。