平和大会報告1


労組ホームページ完成のために・・・

 労組平和運動部のホームページを開設してから、すでに3年半が経過しましたが、ずっと「工事中」のページがありました。「沖縄連帯のページ」です。何とかしなければと思いつつ、忙しさにかまけて、時間ばかりが過ぎていきました。いくら「工事中」のまま開設もありとはいえ、3年半はヒドイですよね。そんな事もあり、沖縄を再度訪問する機会をうかがっていましたが、なかなかチャンスはありません。というのは、たいていのツアーには、月曜日が入ってくるのです。薬局は、月曜に休みをとるのは至難の技です。私はここ8年、月曜には休んでいません。次に、どうしても個人の旅行では都合が悪かったのです。基地やガマを効率よく見に行けないからです。
 今年の日本平和大会が沖縄で開催される事を知ったのは、8月はじめの事でした。それでもまだ、行く決心がつきません。12月ともなれば、風邪がはやってきて急に忙しくなるし(風邪がはやると、薬局の業務量が一気に5〜6倍になります)、2月の薬剤師交流集会の抄録〆切も間近だからです。結局ギリギリまで様子をうかがい、決心を固めたのは、11月も末になってからでした。横須賀平和委員会事務局長の石沢偉男さんに電話をし、個人参加ながら、横須賀平和委員会の仲間と行動を共にさせて頂く事にしました。それでもこの間、準備はいろいろと進めてきました。19年前、沖縄への出会いの場をつくってくれた「太陽の子」を読み返し、映画「カメジロー」を見に行ったりしていたのです。

デジカメ忘れた!

 12/1、朝4時半に起きると、何と雨が降っています。「すぐに止むだろう」とたかをくくって新聞配達を始めると、どんどん雨がひどくなってきて、寒さが身に滲みました。配達後、出かけようと胸に手をやると、携帯電話がありません。慌てて家に戻り、仕事のカバンを探すけど、見つからないのです。「ああ、そうだ! ゆうべちゃんと旅行カバンに入れ替えたっけ」と、苦笑しながら駅に向かいました。そこではたと気付いたのです。デジカメを忘れた事に! でももう、戻るだけの時間がありません。何とまぁ、仕事カバンまでみたクセに、その中にデジカメが入っていたのに、忘れてしまうとは・・・。これでは、沖縄に行く意味が半減するではありませんか!
 羽田空港に着くと、すでにN君が到着していました。県連のNa事務局長は、私を見て、「え?」って言うので、「個人参加です」というと、「何でまたぁ?」「何でって、行きたいから行くんですよぉ!」という会話になりました。北央労組書記長のNa君もいて、彼は私のパソコン仲間なので、デジカメのデータを、後日CD−Rに焼いてもらえる事になりました。他に、横須賀は長井の組合員さんのRさんもおり、神奈川民医連関係は私や民商からの参加者を入れると10人になりました。一方、横須賀からの参加者は、石沢さんとKさんに私を加えると3人ですが、Rさん、共産党県委員会の鈴木和弘さん、新婦人のOさん、全司法のKu君(私の高校の生徒会長)を入れると7人になりました。いずれも例年にない大部隊です。飛行機に乗ると、スクリーンには「オータム・イン・ニューヨーク」が写し出されます。新聞を読みながらチラチラ見ていると、キスシーンばかりがやたらと目立ちます。主演のリチャード・ギアが、少し小泉純○郎に似ているのが不愉快です(^_^;)

沖縄は25度!

 沖縄に着くと、何と25度の夏日! 帽子は持って行ったのだけれど、眩しくてたまらず、サングラスを持参すべきだと後悔しました(現在3日の夜ですが、日焼けした目が痛いです(;_;))。横須賀の10月はじめの陽気というけれど、9月下旬といった感じでした。雑草は青々と生い茂り、ハイビスカスが咲き、ツマベニチョウまで飛んでいます。19年ぶりに見る沖縄は、すっかり近代化が進んでいました。しかし、空港に隣接する自衛隊基地などは、かつての姿のままでした。そうそう、空港で「ウッチン茶」というのを飲んだのだけど、これはウコンという薬草で作ったお茶で、薬臭くて、二度と飲む気にはなれませんでした。
 午後からはバスに乗り、南部戦跡めぐりです。生協につとめる横田さんという女性が、現地ガイドとして説明してくれました。空港を出るとすぐ、自衛隊基地からジェット戦闘機が飛び立っていくのが見えました。嘉手納ラプコンと言って、米軍の管制下に置かれているため、民間機は地上わずか300メートルで飛来します。自衛隊機はその上を飛び、米軍機はさらに上を飛ぶそうです。車窓から見える街路樹には、ビンロウヤシやパパイヤがなっているのが見えます。まずは南部戦跡に向かい、摩文仁の平和公園に行きました。ここには 有名な平和の礎があります。波形にうねっているのは、平和の波を世界に広げるためだそうです。平和資料館の歴史は、紆余曲折を経ています。もともとは、皇太子(現天皇)が来るので、1階を休憩所、2階を資料館としたそうです。内容は推して知るべしで、初代公選主席の屋良朝苗氏が、全面的に整備し直しました。次に、この資料館が老朽化したため、太田革新知事が建て替えを計画、しかし途中で落選により、稲嶺現知事に引き継がれました。出来上がった資料館は、当然の事ながら極めて不充分な内容で、証言なども、米軍美化、皇軍免罪の内容が多いとの事です。さて、平和公園に着くと、屋根の上のシーサーが目につきました。小さな男の子が、「あ、これ、ゴジラに出てきたよ〜」と言っていたので、「その怪獣はキングシーサーだよ」と教えてあげました。「メカゴジラの逆襲」を知らない世代である若い両親は、キョトンとしていました(^_^;) 公園には、たくさんの花が咲き乱れ、その間を蝶やアカトンボが飛び交っていました。蝶は、クロアゲハ、シロオビアゲハ、ツマベニチョウ、キチョウ、モンシロチョウ、ツマグロヒョウモン、ミスジチョウ、カバマダラと多彩で、ルリタテハに似た正体不明の蝶もいました。西の果て与那国島には、世界最大の蛾であるヨナクニサンがいます。ある人は、その飛ぶ様を、「モスラが飛んでいるようだ」と表現しました。是非一度見てみたいものです。その巨大な幼虫をつかまえて、ジオラマの上を歩かせたいです。そして羽化の際には、インファント島の住民やザ・ピーナツとともに、「モスラのうた」を合唱するのです。

殺人煙に不快な思い

 閑話休題、不愉快なのは、今回もまた、喫煙者のマナーです。狭い車内から解放され、やっと外の新鮮な空気を吸おうと思ったら、風上から殺人煙が(-"-メ) どうして、風下で吸うくらいの配慮ができないのでしょうかねぇ・・・。「タバコには、モラルを低下させる薬理作用がある」と、大まじめで主張する人もいます。あながち間違いでないのかも知れません。21世紀には、タバコの害のない社会を実現する決意を、新たにしました。平和公園では、フルゲン実吉さんの話しを聞いたあと、バスへの集合で、またしても不愉快な思いをしました。集合時間を、15分も遅刻した女性がいたのです。探しに行った仲間と行き違いになり、ロス時間はさらに広がりました。どうも、腕時計を持っていない人も多いようなのです。これは、時間とのデッドヒートの人生を続けてきた私には、とうてい理解できない事です。自分で時計を持たないという事は、「人との約束の時間を守らない」と、最初から宣言しているようなものではありませんか!

12人の家族が全滅

   続いてバスは轟(とどろき)ガマに向かいました。ここは、安里さんという方が家族と逃げ込んだガマ(洞窟)ですが、彼女をモデルにした映画が、「GAMAー月桃の花」でした。私はこの映画の存在を知っていましたが、また、逗子でも上映されていたのですが、つい見そびれていました。沖縄フリークとしては、恥ずかしい事です。安里さんは、80歳とは思えないかくしゃくとした様子で、ガマの前で1時間も証言を聞かせてくれました。彼女は12人の家族と逃げ回り、最後にこのガマに逃げ込んだのですが、結果的に、家族すべてを失うのです。しかも多くは、終戦後、栄養失調で失っているのです。狭いガマの中には、千人もの人がひしめきあい、凄い悪臭だったようです。私もガマに入りましたが、とても狭くて暗くて、こんなところで千人も暮らすとは、全く信じられませんでした。それからバスは那覇に向かい、ガイドの横田さんは、いろんな植物の事を教えてくれました。ほとんど馴染みのない植物ばかりなので、名前を聞いても右から左に素通りしてしまうのですが、でっかい豆のさやをぶら下げた木が「ホウオウボク」である事だけは、どうにか覚えました。何となく「ジャックと豆の木」を連想してしまいます。私は3日間、このデッカイ豆を採集しようと努力しましたが、果たせませんでした。次回の課題ですね。

旧日本軍にとっても勝ち戦?

 次に横田さんは、「米軍と自衛隊は、南部戦跡を見て何を思うか」を話してくれました。どちらも「勝ち戦の教訓」を学びにくるのだそうです。米軍にとって、沖縄は本土決戦のための重要なステップであり、大きな犠牲をはらってでも、どうしても手にいれなければならない島でした。一方日本軍にとって、沖縄は捨て石であり、大本営を松代に移し、国体(天皇制)を守る講和を展望する時間かせぎのたたかいを課せられていたのです。そして米軍は、まんまと3ヶ月も沖縄で足止めを喰わされ、旧日本軍の目的は達せられたというのです。何て空しい、ばかばかしい戦いだったのでしょうか!

美女が肩にもたれてきて・・・

 やがてバスは那覇市に戻り、市民会館で開会式が始まりました。隣の席には、可愛い看護婦さんが座りました(*^^*) 最初私が爆睡(^_^;)していましたが、そのうち彼女が船を漕ぎ始め、ついには私の肩に、もたれかかってきましたo(^^o)(o^^)o 役得役得(*^^*) N君の携帯が鳴り、着信したメールを見せてくれました。Mくんからで、「がんばってね」だって。なかなか味な事をする上司ですね。開会集会では、海外からの発言がすばらしかったです。今まで、どうしても一般論になりがちで、自分たちの活動を紹介するだけでしたが、今回は違いました。共通する課題(米軍基地の弊害をなくす)について語り、海外代表同士で、お互いの活動をたたえ合っていました。アメリカ・フレンズ奉仕委員会のジョセフ・ガーソンさんは、世界大会でお馴染みですが、在外米軍の置かれている問題を理論的に解明し、また、米国内で仲間を集め、沖縄の新聞に意見広告を出したそうです。イタリア・ピースリンクのフランチェスコ・イアブレッリさんは、地中海に配備された数隻の米原潜が、ベニスやナポリなど大都市の港に寄港するので、放射能もれの危険を感じると強調していました。韓国・緑色連合代表の林三鎮さんは、在韓米軍が漢(はん)河にホルムアルデヒドを廃棄した事を告発していました。韓国からの参加は始めてで、お隣の国で頑張っている姿には、特に励まされました。圧巻は、プエルトリコ・ヴィエケス救済発展委員会の代表2人です。一人は若い女性でした。60年以上にわたるアメリカ支配と、米海軍の演習中の誤爆により、死者まで出ている中、元気いっぱいに活動し、沖縄まで飛行機で27時間もかけて来てくれたそうです。次に感動したのは、来賓やメッセージの多様さです。大和市の土屋市長からのメッセージは、本当に嬉しかったです。社会大衆党の島袋委員長・参議院議員の挨拶にも感動しました。本来は民社党系の党ですが、こと基地問題については、驚くべき原則性とねばり強さを発揮しています。閉会には、期待どおり「沖縄を返せ」の大合唱になりました。沖縄返還の際小学生だった私は、返還運動の歌であるこの曲を知りませんでした。3ヶ月に一度、横須賀で開催している歌声パーティで、Ko君に調べてもらい、教えてもらって本当によかったです。1500人の合唱による「沖縄を返せ」には、感動で胸が震えました。実はこの時、メール仲間である国労青年部のMo君が壇上で絶唱していたらしいのですが、彼の顔を知らない私は、気づきませんでした。Mo君は、久里浜に住んでいた事があるそうです。お父さんも国労の仲間だそうですので、意外と身近な人なのかも知れません。

ニライカナイの彼方に

 会場の外に出ると、神奈川の代表団が集まって、食事に行くところでした。私は一度申し込んだのですが、あとからNa事務局長にさそわれ、民医連の仲間と飲みに行く事になりました。実はこれが大正解で、神奈川の集団は50人もが居酒屋におしかけたため、食事の準備が追いつかず、金額的・味覚的・量的に不満足なものになったようです。一方我々は、沖縄民医連の紹介で、久茂地(くもじ)の中村屋という居酒屋に行き、大変おいしい想いをしました。最初はオリオンビールの生で乾杯です。アメリカのビールに近く、少し軽い感じのビールで、旅情がかきたてられます。続いて出てきたのが、ミーバイ(ハタ)の刺身、これが最高傑作でした! いままで、こんなに美味しい魚を食べた事がありません。ねっとりとしつつ、たしかな歯ごたえを残した身には、濃厚な旨みが凝縮され、南の豊饒の海が脳裏に浮かびます。心はニライカナイの彼方に吹っ飛んでしまいました。続いてゴーヤチャンプルーです。ゴーヤ(ニガウリ)は、ちっとも苦くなく調理され、爽やかな歯ごたえを残しています。豆腐とハムが入ったチャンプルー(炒め物)ですが、くどさがなく、いくらでも食べられてしまいます。それから、イラブチ(アオブダイ)の刺身! 極上のミーバイの後だし、先日相模湾で釣ったアカブダイを食べたばかりなので、ニライカナイにぶっ飛ぶ事はなかったですが、マダイを欺くような旨さです。松皮づくりにしてあるのが、心にくいばかりです。オリオンビールを飲み干したあとで、事務局長をそそのかして、泡盛のボトルを入れました。これまた、いままで飲んだ事のない、とろけるような古酒(クース)です。クースは、つまみによって味が変わり、時には甘く感じる不思議な焼酎ですが、この時は、クリーミィな甘みを感じました。さて、クースが入ってテンションがあがった私は、「おぢさん」論でくだを巻き始めました。「ホンモノのおぢさんになるには、インドの山奥で修行をしなければならない」と言うと、さがみのNaクンが、「お、ダイバ・ダッタですね」と言ってくれたので、私はすっかり嬉しくなって、「おぢさん学」のすべてを、彼に伝授する約束をしました。彼の隣にいた看護婦さん(さっき私の肩にもたれかかってきた人)は、あきれかえった様子で、私におしゃくをする時、「はい、じゃ、おぢさま!」と言ったので、苦笑してしまいました(^_^;)

「平成」など、使うな!

 12/2は、基地見学でした。朝6時半に起きると、何と外は真っ暗です。こちらとは、経度で12度も差があるので、時差は48分になるのです。朝食はバイキングで、私はいつも通りパンを食べたのですが、シークワサーのジュースが美味で、おかわりしました。シークワサーとは、小さくて青いみかんですが、とても甘くて美味しいのです。本土でも、最近はシークワサーの飲み物をよく見かけますよね。バスによって行き先はバラバラでしたが、私が乗ったバスは、普天間と嘉手納に行ったので、最高でした。ガイドさんがまたよい人で、上里(うえさと)さんという、2年前に首里中学の先生を定年退職された方でした。太田前知事がアクション・プログラムで、「すべての基地が返還される」とした2015年に、草ぼうぼう(になっているであろう)嘉手納基地の跡地で、同窓会を開く約束をしたそうです。何よりこの人が気に入ったのは、元号を使う不合理を、口を極めて告発し、「西暦を使いなさい」と言ってくれた事です。「元号とは、天皇が何年在位しているかを表すものです。こんな非科学的で、個人的なものを、使う必要などありません!」と言い切りました。全く同感です。私はいつも言っています。「そんなに天皇がありがたいのなら、あの紀元2千6百何年とかを使えばいいだろう」と。元号は、中国の皇帝が、「時までも支配する」という考えから作りだし、皇室が日本に持ち込んだものです。時を決めるのは天文学者であり、時代を決めるのは、史的唯物論が指し示すとおり、多数者である私たちではないですか! 閑話休題、バスは那覇市と浦添市を通り抜け、宜野湾市に入りました。浦添虹薬局には、衣笠診療所初代の薬剤師のKawさんがいらっしゃるのですが、今回は日程が厳しく、訪問することができませんでした。宜野湾市の南端にある嘉数(かかず)高台に登り、はるかに残波岬をあおぎ、普天間基地を見ました。嘉手納基地へ着陸していく戦闘機も目撃しました。残波岬は、読谷(よみたん)村にあり、岬の手前の読谷海岸は、沖縄戦の際、米軍が4月1日に上陸したところです。ここから首里城まで、50日間の激しい戦闘が続き、嘉数のあたりでは、米軍は1日に500メートルしか前進できない日々が続いたそうです。

沖縄戦、私ならこう戦う

 私は思いました。私が日本軍の司令官なら、どのように戦うかを。10万の兵員(しかも大部分は、現地召集の臨時部隊)では、54万の米軍に勝てるはずはありません。時間かせぎだけが課せられていたとしても、私ならまず、水際作戦を実施します。映画「史上最大の作戦」や「プライベート・ライアン」でお馴染みのように、ノルマンディ上陸作戦では、連合軍は膨大な犠牲を強いられました。上陸作戦とは、それ程困難であり、それゆえに、米軍の海兵隊は、その勇気をたたえられているのです。閑話休題、戦力が隔絶している場合、水際作戦はいつまでも続ける事はできません。私なら続いてすぐに、ヤンバルの大森林に逃げ込み、ゲリラ戦を展開するでしょう。それなのに、牛島司令官らは、米軍の上陸作戦には全く抵抗せず、嘉数高台や首里城にたてこもりながら、上陸した米軍と正面からぶつかったため、ここの戦闘で、戦力の8割をも消耗したそうです。まともに考えれば、これでもう戦争続行は不可能です。でも皇軍(現地の人は、皆この呼称を用いた)は、それから1ヶ月もねばりにねばり、いたずらに犠牲者を増やしたのです。嘉数高台では、トーチカの跡や、京都の部隊が全滅した記念碑を見ました。上里さんは、「碑文を読んで欲しい」と言いました。他県の記念碑は、大部分南部にあり、そこに書かれているのは、「今度戦ったら負けないぞ」という内容ばかりだそうです。京都のは、蜷川革新知事の時代に作られたので、少しはましだという事でした。碑文には、この朝自民党幹事長辞任が報じられた、野中氏の名前がありました。ところで読谷には、ゾウのオリと呼ばれる楚辺(そべ)通信施設や、チビチリガマ・シムクガマがあります。N君は、ここに行ったそうです。チビチリガマでは、141人の避難民のうち、集団自決で84人が絶命しています。一方、近くのシムクガマには、千人の避難民がいましたが、ここにはハワイ移民帰りの男性が二人いて、米軍に包囲された時、「自決」の準備をしていた避難民たちを説得し、投降して自決せずに済んだそうです。ところでチビチリガマには、「世代を結ぶ平和の像」がありましたが、沖縄国体での「日の丸焼却事件」の際、右翼が「報復」と称して破壊してしまったといいます。上里さんも、いろいろな植物を教えてくれましたが、嘉数では、「月桃(げっとう)」と「食わずイモ」を教えてくれました。月桃は、ショウガ科の植物で、旧暦の年末に、粉にしたもち米を水でとき、月桃の葉で包み、蒸して 、歳の数だけ食べる習慣があるそうです。食わずイモは、サトイモそっくりですが、食べると全身がアレルギー症状を起こすそうです。また、嘉数高台では、前日のガイドさんの横田さんにも再会できました。ところで、私のバスには、2人の美女が乗っていました。会話から、どうも兵庫民医連の看護婦さんのようです。あまりに魅力的で、声をかけられずにいたのですが、バスに乗る直前、急に向こうから声をかけて来ました。私はサンピン茶を飲み干した空き缶を捨てに行こうとしていたのですが、それを灰皿にするからくれというのです。百年の恋も冷めました(-。-)

オリジナル「安保の見える丘」にて

 次の嘉手納基地は、すっかり観光地化していて、駐車場には、「安保の丘駐車場」と書いてありました。修学旅行でここに子供を連れて行こうとすると、妨害する勢力もあるそうで、どちらの立場から安保を見るのかは、はっきりさせない方がよいのでしょう。「安保の見える丘」は、安保に反対する勢力の呼び名なのです。嘉手納基地の回りには、高さ10メートルものコンクリートの壁が建設中でした。防音のためという説明だそうですが、実は中が見えないようにするためではないか、との事です。それにしても嘉手納町は、面積の実に83%が基地で占められています。宜野湾市の地図を最初に見た時、滋賀県と琵琶湖の地図を見るみたいに、真ん中に普天間基地がドンと鎮座ましましている事に驚き、胸が痛みました。逗子でさえ、基地面積は14%です。5年前の10.21集会での、仲村清子さんの訴えが、胸に迫るようでした。しかし、嘉手納町の83%という数字は、もはや想像を絶するものがあります。町の収入の実に25%もが、基地交付金なのだそうです。基地が56%を占める北谷(ちゃたん)村でも、学校をつくる場所がないから、隣の町につくらせてもらったとか、役場も作れないので、基地の中に作ったのだけど、直線距離で500メートルのところへ行くのに、ゲートから入って2キロも迂回しなければならないと言っていました。金網に出入口をつくるよう要請したら、治安が悪くなるのでできないと言われているそうです。私は上里さんに、横須賀と逗子にも、「安保の見える丘」がある事を伝えました。オリジナルの「安保の見える丘」は、とても低くて、4キロの滑走路を2本持つ嘉手納基地の、ほんの一部しか見る事ができませんでした。しかも土曜日なので、離発着も多くはなかったです。それでも、到着直後に2機編成の戦闘機が飛び立ち、しばらくすると、大型の輸送機が、猛烈な爆音をとどろかせて、大空に上昇して行きました。墜落事故も結構あるそうで、上里さんは、それぞれの事故で、基地のどのへんに墜落したかを、教えてくれました。また、嘉手納町の小学生に、基地返還の是非のアンケートをとったところ、予想に反して70%が賛成したという事です。基地からの収入で潤う大地主はほんの一部だけで、あとは零細な地主であり、基地の存在による経済的不利益の方が多いのだそうです。それもそのはずです。沖縄への基地交付金は県内全部を合わせても、わずか22億円で、横須賀市の24億円より安いというのですから! それにしても、この嘉手納基地は、今年の7月20日、2万7千人の「人間の鎖」で包囲されたところ。あの日、観音崎で「非核平和誓いのつどい」を終えた我々は、沖縄に連帯して横須賀基地に抗議行動に行ったものです。有色人種の基地司令官に我々を紹介する青年は、我々をジェントルメンと紹介していましたが、タオルを首に巻き、立派なおぢさんスタイルの我々のどこがジェントルマンなものかと、苦笑したのを思い出しました。

実弾演習でハゲ山に

 バスはそれから高速道路に入り、集会の開かれる名護市へと一路北上を続けました。石川市から金武(きん)町へと抜けると、恩納岳の演習場が見えてきました。県道104号越えの実弾演習などで山火事が絶えず、ハゲ山になってしまっています。金武町には、キャンプ・ハンセン、キャンプ・シュワーブなどの基地が続きます。「キャンプ」という名がつくのは、海兵隊の基地だからで、海兵隊は移動を原則とするので、ベースとは呼ばないのだそうです。ハンセンやシュワーブは、沖縄戦で戦死した海兵隊員の名です。このあたりで私は、非常に不愉快な思いを我慢していました。この日のバスでは、私は左の窓側に座っていたのですが、右隣の男性高齢者が、私の席に侵略を開始したのです。私は座席の半分くらいまで身体を縮めているのに、隣の高齢者は股を開いてふんぞりかえり、こちらへの侵攻をすすめてくるのです。私はもう、めいっぱい左の窓側に縮こまり、右側の席に座っている彼の家族が、この惨状に気づいてくれないものかなと期待を持ちましたが、とうとう最後まで無視され続けました。それにしても、あの年代の人達は、自分より若年の人の人権を、何だと思っているのでしょう? 我が家のクソオヤジを思い出し、余計ハラが立ちました。バスはやがて高速を降り、辺野古(へのこ)に入りました。会場への道をそれ、弾薬庫地域の脇を通りますが、時間がなく、新基地予定地の海岸に行く事は出来ませんでした。弾薬庫近くでは、山の中に、突然飲み屋街が現れてビックリさせられました。会場に着くと、お弁当が配られました。ごく普通の唐揚げ弁当に見えたのですが、これが何とタコの唐揚げで、微妙な味付けが香ばしく、実に美味です。民商の店でつくったというこのお弁当の包装紙には、恐るべき詩が書かれていました。作者の名は稲嶺賢治。宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」をパロっていて、最後は「そんな知事に、私はなりたい」で終わるのですが、その内容がすさまじいのです。何かの機関紙に投稿されたものの再掲らしいのですが、よくまぁ名誉毀損で訴えられないものだと感心してしまいました。お弁当についていたお茶はさまざまで、私のはサンピン茶でしたが、中には月桃茶があたった人がいました。私はその後ずっと自動販売機で月桃茶を探したのだけど、ついに見つける事が出来ませんでした。石沢さんはこれに当たったらしく、美味しかったと言っていました。会場入り口には、オミヤゲ屋が並び、私はさとうきびジュースを100円で買いました。氷で冷やされたこのジュースは、深い緑色をしていて、ちょっと青臭いけど、なかなか美味でした。

「ジュンゴ」って何?

 集会が始まり、代表挨拶の人が紹介されるのですが、最初の人も、次の人も、会場に到着していません。本当に沖縄の人は、時間にルーズです。司会の青年は、なかなかユーモアのある人で、「済みませんねぇ、いつもこんななんですよ」などと言っています。「誰か到着している人いますかぁ?」と聞いても、誰も答えないので爆笑が起き、続いて「閉会挨拶!」なんていうものだから、会場は割れんばかりの爆笑に包まれました。やがて無事に集会は進行するのですが、地元の会の最高齢の女性(88歳)が紹介された時には、本当に感動が胸に迫りました。楽しい集会は、楽しいミスでも盛り上がりました。地元代表が、ジュゴンを「ジュンゴ」と言ったり、閉会挨拶の人が、「美(ちゅ)ら島、美ら海」を「みらしま、みらうみ」と読んで笑われたりしました。最後は突然音楽が鳴りだし、創作エイサー「がんばろう」がはじまりました。エイサーとは、盆踊りのようなものらしいです。しかし、ドハデな「がんばろう」は、いつしかカチャーシーの大乱舞に変わって行きました。沖縄の人は、本当にすぐ踊りだします。そして本当に、底抜けに明るいです。前日来、沖縄戦や戦後の米軍基地で、我々本土の人間がいかに沖縄の人に矛盾をおしつけてきたかを、いやという程見せつけられ、いささか重い気持ちになっていたものが、この踊りで一気に解放された気分になりました。沖縄の皆さん、名護で頑張っている仲間の皆さん、本当にありがとう!

「さとうきび畑」との再会

 帰りのバスの中で、上里さんは、前日の夜1時までかかって録音したという、音楽テープを流してくれました。「タンポポの花」など、学生時代にうたった歌も含まれていました。そして圧巻は、「さとうきび畑」でした。この曲は小学生の頃、NHKの「みんなのうた」で、よく聞いていました。あの頃は沖縄についての知識がなく、「いくさがやってきた」というのが、いつの時代であるか、「鉄の雨に打たれ、父は死んで行った」という詩が、何を意味するのか、よく分かりませんでした。しかし学生時代にその意味を教わり、5年前の少女暴行事件後、ちまたでもこの曲をよく聞くようになりました。「みんなのうた」や紅白歌合戦でもやっていましたよね。しかし、歌の深い意味までは、知りませんでした。上里さんが言うには、作曲した方は、沖縄戦を表現するのに、どのような曲にすべきかを迷い、3年間、南部をさまよったのだそうです。そしてついに、さとうきび畑を通り抜ける風の音を、「ざわわ」という旋律で表現し、この「ざわわ」を37回繰り返す曲に仕立てあげたのです。それから上里さんは、ご家族のお話しを始めました。上里さんご夫婦の母親は、2人とも90歳を過ぎてもお達者だそうで、大変仲がよいそうです。そして2人が一致して、一番好きな歌が、この歌なのだそうです。しかし彼のつれあいさんは、この歌を嫌がり、決して聞こうとしないと言います。彼女は3歳の時、沖縄戦で、父親を失っていたのです! こういう話しを、上里さんは、淡々と続けました。私の胸には、熱いものがこみ上げてきました。「太陽の子」を読んだ時のような、あらがいがたい、激しい涙ではありません。粘着性