★木星によるさそり座βの掩蔽★


情熱part10「木星によるさそり座βの掩蔽」(1995年2月2日)

 去る1月28日土曜日、釣りに出掛けようと家を出た私は、まだ明けやらぬ空を仰ぎ見た。午前5時半だった。薄明に埋もれ、東の空ほど星数は少なくなっていたが、厳冬の明けの東空に、ひときわ明るい天体が寄り添っていた。地球照を携えた27か月と、金星、木星だった。しかしよく見ると、木星の近くにもう一つ星が見える。位置関係から何の星かさぐろうとしたが、だんだん明るくなる中で、なかなか判断がつかない。最初はしし座のレグルスか、おとめ座のスピカかと思ったが、よく見るとこの星は赤い色をしている。それにこの時期、こんな方角に見えるはずがない。そのうち、火星がしし座にある事に気付き、ここから黄道にそって、おとめ、てんびんとたどっていくと、そこはさそり座だった。この赤い星は何と、さそり座αアンタレスだった! さらに目をこらすと、アンタレスの右上に、さそりのハサミに相当する3つの2等星がたてに並んでいるのがわかった。そこで私はハッとし、このエッセ−の標題を呪文のように唱えていた。そうか、あれから24年、木星は太陽の回りを2回公転し、またさそり座に戻ってきていたのか! 1969年冬、小学校3年生だった私は、星に興味を持ちはじめた。喘息持ちのくせに、蝶ばかり追いかけている息子を心配していた母親が、どれ程喜んだか知れない。心配症の母親は、蝶の鱗粉が喘息を誘発していると、固く信じていたからである。その後、1970年のベネット彗星との遭遇などもあり、私は急速に天文学に傾斜して行った。その傾向にとどめを刺したのが、1971年8月12日の、火星大接近である。この時、従兄から借りた4センチ屈折では満足できなくなった私は、父にねだって6.8センチ屈赤を買ってもらった。8月20日に横浜の三越で買ったのだが、この年は火星ブ−ムで望遠鏡の製造が間に合わず、やっと納品されたのは9月になってからだった。ところで、初めて父親と2人だけで横浜に出た私は、父親の紳士ぶりに、随分感心したものである。しかし翌年には、それがどんなにこっけいな事かが理解できるようになった。閑話休題、本格的な望遠鏡は、小学校5年生の手に余る事が多かったが、私は「天文ガイド」を買ってもらい、それをむさぼるように読んだ。当時まだ病弱だった私は、風邪をこじらせて3日間ほど寝込んだが、この雑誌を嘗めるように何度も読んだものだから、表紙と裏表紙からそれぞれ3ペ−ジまで、すっかりボロボロになってしまった。そして11月になると、翌年の天文年鑑が発売となった。これには1972年の天文現象の他、前年に起こった現象の写真が載っていた。そこに、この標題の天文現象も載っていたのである。

 私は、今の多くの読者の皆さんと同じく、何の事だかさっぱり分からなかった(小学校5年生じゃあ当たり前だ!)。だいたい、掩蔽という字が読めなかった。天文学と関わっていなかったら、今でさえ少なくとも掩は読めないだろう。私が父親にこの読み方を聞くと、「すごく難しい字だ」といいながらも、読み方と意味(覆い隠す事)を教えてくれた。私はめったに父親を尊敬しないが、掩蔽が読めた事だけは尊敬に値いすると思う(その後判明した事だが、実は「掩蔽」とは軍事用語であった!元陸軍将校である父が読めたとしても、尊敬には値しないであろう)。読者にあまりストレスをかけても申し訳ないので、この辺ではっきり解説しよう。木星は12年周期で公転するが、地球から見ると、星座の上を行ったり来たりしているように見える(だから惑星と呼ぶ)。その際、バックにある恒星を覆い隠す事があるのだ。しかし、木星の見掛けの大きさは、太陽や月の50分の1程しかないので、それはめったにお目にかかれはしない。暗い星ほど数が多いので、この幸運(?)に浴する可能性も高いのだが、木星(−2等級)との光度差が大きいと、木星の光に打ち消されて見えなくなってしまうから、観測精度が落ちる。しかるに、さそり座βは2等星である。さそりの左のハサミに位置する星で、目の悪い私が薄明の中で見つけられる程明るいのだ。木星との光度差は、(10^0.4 )^4 =10^1.6 =数十倍程度であり、充分観賞に耐えるだろう。ところで、星のカクレンボを見て何が面白いのかって?そりゃああんた、木星の正確な大きさが分かり、正確な位置が分かり、ひいては地球までの正確な距離が分かるのですよ。
 もっとも、この現象は1971年5月14日早朝に起こっているのであり、私には見れるはずもなかった。この事を私は随分悔やんだが、当日は全国的に天気が悪く、ろくな観測結果が得られてはいなかった。
 掩蔽(オッカルテ−ション)には様々な種類がある。一番馴染み深いのは日食や月食であろう。まあ何にしろ、ある天体が別の天体に隠される事を、天文学者たちは「オッカる」と称するのである。
 閑話休題、掩蔽の種類であった。次に、というよりは最も頻繁に起こるのは、月が恒星を隠す現象である。これは普通、星食と呼ばれる。これも、明るい星ほど見栄えがよい。私はアンタレスの食を見た事があるが、月の暗い部分に吸い込まれるように消え去り、約1時間後に、明るい縁から「ビョコッ」と出てきたのが印象的であった。この現象も、月までの距離の測定に使われていたが、現在ではレ−ザ−光線を使って、もっと正確な数値が得られている。星食で最も重要なのは接食と呼ばれる現象である。これは、天体が月の南端ないしは北端すれすれを通過する現象で、星が消えたり現れたりが繰り返される。これを分析すると、月面の山と谷が測定できるという訳である。ところで星食の予報は、主要都市数箇所の時刻しか出されていないので、その他の地域では、緯度、経度差にそれぞれ与えられた数値を掛け合わせ、補正をしてやらねばならない。逗子の場合、経度の東京との差はマイナスとなるし、与えられる数値もマイナスとなる事があった。当然、マイナスを含む掛け算が必要になる。私が小学校6年の時の計算のメモが残っているのだが、不思議な事に、ちゃんと合っている。ところが、中学1年の数学でマイナスを含む掛け算を習った時、最初はちっとも理解できなかったのだ。習ってもいないマイナスの掛け算を、小学校6年の私はどうやってこなしたのだろうか? 
 また横道にそれた。掩蔽の種類である。次に惑星食という現象がある。これは惑星が月に隠される現象で、大層美しい眺めとなる。見掛けの大きさがほとんど無い恒星と違い、惑星は瞬間的に消え去ることは無く、ゆっくりと月の後ろへと隠されて行く。私は火星食と金星食を見た事がある。後者は、まだ衣診に在籍中、当直の時にぶつかってしまった。夕方の現象だったので、私は友人に電話番をたのみ、屋上への階段に11×80大型双眼鏡を据え付けて堪能する事が出来た。三日月型の金星は大きく、11倍でも充分に形がわかった。小さな三日月が、大きな三日月に吸い込まれていく様を、私は不思議な気持ちで眺めた。あと、地球照を携えた三日月の上に、宵の明星が輝く様は、靴のメ−カ−のマ−クを連想させた。
 実は惑星食には、私は散々煮え湯を飲まさた事がある。1974年2月4日には金星食が、3月20日には土星の接食が見られたのだが、両方とも早朝の現象だったため、当時中学1年の私は外出を許可されず、涙を飲んだのである。前者については、15年後に雪辱を果たしたが、後者は今でも悔やまれる。土星食の南限界線が、ちょうど三浦半島の付け根を通っているのである(P・S、02年にも二度起こり、二度とも晴天に恵まれたが、二度ともビデオ撮影に失敗するというオマケがついた(;_;))。
 次に内惑星の場合、日面通過という現象が起こる。金環食の金星版、水星版という訳だ。金星の日面通過は、20世紀には起こらない。かつては重要な観測で、明治時代、欧米からたくさんの観測隊が来日した記録が残っているが、観測の精度が悪いので、現在は重視されない。水星の日面通過は、十数年に1回起こるが、私の現役時代には1度も起こらず、見た事がない(P・S、03年に、やっと見た)。黒い小さな円盤が太陽の上を通過していくだけの現象だが、太陽の黒点と比較すると黒さが違う事から、黒点もまた光を放っている事が分かる。ところで、ハレ−彗星も日面通過の現象を起こした事がある。1910年の回帰の時だ。しかし太陽面には何も見えず、彗星の本体がスカスカであることが分かった。
 次に、今回のテ−マである惑星による星食であるが、これはめったに見られない。一番大きい木星でも、観測できるほど明るい星を隠したのは、有史以来あれだけだろう。意外なのは、天王星、海王星、小惑星などによる星食が、よく観測される事である。それは、惑星自体が暗いため、暗い恒星の食でも観測できるからであろう。天王星や海王星による食の際には、恒星は本体に隠される前後にも何度も暗くなる現象が発見され、輪の存在が確認された。その後惑星探査機ボイジャ−1号、2号が、これらの鮮明な映像を送ってきた。次に、理論的には惑星が惑星を隠す現象が考えられる。しかし有史以来この現象は観測されてはいない。もし見ることができるなら、金星による木星の食が一番美しいであろう。太陽、月、大接近の際の火星、大彗星を除けば、この2つが明るさベスト2であり、近くで並んだだけでも、素晴らしい眺めとなるのである。先日の明け方は、このシ−ンに27日月とアンタレスまで加わったのだから、史上最高の眺めであった。何? この日の釣果? 野暮な事を聞くもんじゃない。腰越港からタイ五目(イシダイ狙い)で出船し、イシダイはボウズ。23センチの可愛いハナダイを1尾釣っただけである。おまけに隣の親父は、まぐれでキロ級のヒラメを釣りやがった! しかし、ハナダイの塩焼き、特に頬の肉と胸ヒレの付け根の肉は、絶品だったぞ! 
 最後に、日食と月食であるが、前者は1978年10月2日に初めて見た。大感激であった。欠けたまま大楠山に沈む太陽に向かって、我々は高校の屋上から祈りを捧げた。インファント島の住民がモスラにやるように...。後者では、1974年11月29〜30日のものが記憶に残っている。期末テストの真っ最中だったからだ。しかし私は翌日の社会(日本史)で96点をとった。できなかった2つの問題は、荘園の不輸の権と不入の権である。満点でなかったため、私は5を取り損ない、ついに生涯、社会科で5をとった事はなかった。