★W氏宅、子ネコ殺害事件に関する一考察★


(1993年8月9日)

0.事件の概要
 7月のある晩、K診療所医事のW君は、何を思ったか、それまで仲良く同棲していたゴキブリに対し、殺虫剤にて殺害に及んだ。彼はその死骸を、アパ−トの前に放り出し、翌朝そのまま出勤した。その晩、彼が帰宅すると、夜の帳の下りたアパ−トの前に、ゴキブリの死骸は無く、かわりに、いたいけな子ネコの死体が横たわっていた。翌日彼は、ネコの生態に詳しい職場の上司に、事の一部始終を報告し、意見を求めた。
 W君「実はこれこれこういう事があったんですけど、あれって、ひょっとして〜...。」
 主任「それは、関係ないと思うよぉ。ネコだって、殺虫剤のかかったゴキブリなんて、食べないから。」  
 W君「でも〜、まだ子供だったんですよね〜。」
 主任「...(絶句)」
 かくしてH主任は、私に事の次第を報告し、W君犯人説が、ちまたに広まったのである。もちろん私は、自分の口の軽さには、いささかの罪悪感はおろか、何の責任をも自覚していな い。

1.殺虫剤について

                                   家庭用殺虫剤には、ふつうピレトリンおよびピレスロイドが含まれている。pyrethrinは、除虫菊=シロバナムシヨケギク chrysanthemum ci-neraria foriumの有効成分であり、La Forgeら(1949)によって構造式が決定された。いずれも生薬に0.4〜2%含有される粘ちょうな液体で、空気中では速やかに酸化され、効力を失う。ピレトリンは、接触毒として虫体に侵入し、神経系に作用(コリンエステラ−ゼ阻害か?)するが、温血動物には比較的無害である。また、ピレトリンに近縁なallethrinなどは、合成ピレトリンあるいはピレスロイドと呼ばれ、広く殺虫剤に利用されている。ヨ−ロッパでは、19世紀から除虫菊が殺虫剤として使われ出し、日本には1881年、イギリスから粉剤が初輸入された。1885年には除虫菊の種子がアメリカから持ち込まれ、国内での栽培が始まった。1897年には蚊取線香が発明され、需要が拡大した。殺虫成分の化学構造が明らかになるとともに、ピレスロイド系化合物の合成法が検討されるようになり、1950年にアレスリンの製法が発明された。なお、家庭用殺虫エアゾ−ルには、ピレスリンおよびピレスロイドがあわせて0.03%含まれている。

2.殺虫剤の選択毒性

 ピレスロイドに限らず、殺虫剤の選択毒性は、比較的高いといえる。もちろん、細胞の構造自体が異なる微生物に対する抗生物質などには、比べるべくもないが、細胞の構造が同じで、作用点にあたる神経伝達物質も同じ昆虫に対し、なぜこれほど大きな選択毒性が得られるのだろうか。

 考えられるのは、節足動物と脊椎動物の、身体の構造の違いである。この2つは、陸上動物の双璧として君臨しているが、陸上動物の宿命である2つの敵−乾燥および重力−とのたたかいにおいて、まったく異なる対応をしている。昆虫は体の表面をクチクラで覆うことにより、乾燥および重力の問題を解決した。クチクラはキチン質でできており、その表面はワックスで覆われ、乾燥に強くなっている。さらには、捕食者や外界からの物理的な衝撃に対し、身体を守ることもできる。ところで、多くの昆虫は、飛翔することができるが、これは、単位時間あたり、大量のエネルギ−を要する。昆虫ぐらいのサイズならば、体積に対する表面積の割合が大きいから、酸素は体表を通じて大量にとりこめるため、呼吸についての困難はないはずなのだが、クチクラがわざわいして、これができない。一方、脊椎動物のような肺や循環器では、肺での水分のロスが大きいし、血液の粘性がこのサイズでは無視できなくなり、役に立たない。そこで昆虫は、細く枝分かれした気管を発達させた。昆虫の身体には、体側に何対もの気管口があり、ここから気管が細く枝分かれし、細胞の表面にまで達している。循環系については、呼吸とは無関係のため、極めて原始的な形態のものでしかない。さてここで、ピレスロイドの作用機序に戻ると、接触毒として虫体に侵入するということは、この気管を通じて侵入するということであろう。一度侵入したピレスロイドは、循環系を通じて代謝を受けることもなく、いきなり神経細胞に到達する。このようにして、殺虫剤をかけられた昆虫は、かように悶え苦しんだ末に、昇天していくのである。一方、忘れてならないのは、殺虫剤自体の化学的不安定さである。ピレトリンは、幾何学的に極めて不安定なシクロプロパン環を含み、共鳴した二重結合も多いため、前述したように、空気中に放置しただけで速やかに酸化され、失効する。脊椎動物の発達した代謝・排泄機構にとっては、ものの数ではないだろう。これからは、「ゴキブリの湖」を見るたびに、偉大なる人体の初回通過効果に感謝しようではないか。ところで、中性洗剤をかけられたゴキブリが、すぐに息絶えてしまうのも、表面張力の極めて小さい中性洗剤が、気管の奥まで入り込み、窒息させるためではなかろうか。

3.ネコに対する殺虫剤の毒性

                                   実験動物に対するピレスロイドの毒性は、種差が非常に大きいとされている。しかし、ピレトリンは、マウス(経口)のLD50が720mg/kg、ヒトの推定致死量が50g以上であり、その他のピレスロイドも、マウスやラットの経口LD50がプロキロ50〜5000mgなので、ネコに対しても、プロキロ500mg前後が致死量になると思われる。問題のネコは、まだ子どもだったということで、代謝・排泄能力が小さいことが予想されるが、プロキロ200mg程度と思えば充分であろう。

4.結論 P>  さて、問題のネコの大きさであるが、W君は暗くてよく見えなかったと言っている。この時期の子ネコは、500グラムから1キロぐらいと思われるが、仮に500グラムだったとしよう。すると、致死量はピレスロイド100mgとなる。家庭用殺虫エア−ゾルには、ピレスロイドが0.03%含まれているから、100mgのピレスロイドを含む家庭用殺虫エア−ゾルは、約300Kgとなる。これは殺虫剤数千本に相当する。しかも、空気中に放置されたピレスロイドは、速やかに失効するため、ゴキブリにかけた程度の殺虫剤では、子ネコにクシャミを催すくらいの作用しかもたらさないであろう。ゴキブリの死骸がなくなったのは、おそらく殺虫剤が失効したあとに、アリが運んで行ったためであろうし、子ネコが死んでいたのは、車にでもはねられたのであろう。子ネコを平気ではねて行った人間に対して、階級的憤激を禁じえない(車を運転する人種は、極めて利己的である)が、それについては、別のテ−マに譲ることとして、今回の駄文は、これにて終了とする。それにしても、当初のもくろみに反して、W君の有罪を立証できなかったことは、かえすがえすも残念だ。