★灼熱の大彗星★


情熱PART7「彗星」(1992年11月24日)

 彗星は、私をもっとも熱狂させたものの一つであるが、このテ−マは、いままでわざと情熱エッセ−シリ−ズに入れなかった。発表するタイミングを見計らっていたのである。本来なら、世紀の大彗星出現とともに発表するつもりだったこのエッセ−を、幻のスイフト・タットル彗星の検出に捧げる。
 彗星は、一般の人にもっとも説明しにくい天体である。多くの人が流星と混同し、夜空を速い速度で飛び去るものと思っている。次には、惑星の一つの水星と混同してしまう。まあこちらの方は、「ホ−キ星」と言うことで、ある程度混乱を避けられるが。第三に、これは星雲にも共通する問題であるが、実際の見え方を理解してもらえない。この最大の原因は、あまりにもりっぱな天体写真によって、とんでもない先入観を植えつけられていることにある。なにはともあれ、こんなにやっかいな天体もないものだ。
 やっかいさは、一般人への説明の際にとどまらない。まず、周期彗星以外は、いつ現れるか、まるで見当がつかない。それから、これも周期彗星以外は、どのように見えるか、あまり予想がつかない。さらに、明るくなる時は太陽に近く、夕方か明け方の短時間しか観測できない。おまけにイメ−ジが淡いので、月明の影響をもろに受ける。質量が軽いので、惑星の影響で、すぐ軌道が変わる。重力以外の効果も大きい。大彗星でも、地球との位置関係では、ろくな見え方にならない、などなど。さらには、洋の東西を問わず、その出現は、凶兆として扱われてきた。しかし、それだけ気まぐれであればこそ、多くの男たちを熱狂させて止まないのである。

 彗星の魅力は、あの長い尾を引いた姿の美しさにあると言えるだろう。1910年のハレ−彗星は、120°もの尾を引いていたそうだ。地平線から天頂を通って、反対の地平線までの長さが180°であるから、夕空に西から東まで尾をのばしていたというのは、決して誇張ではないだろう。実際に目撃した祖父の話しによれば、ハレ−彗星の尾の先は、北側にやや曲がっていたという。古今東西、凶兆として扱われてきた理由も、髪を振り乱した狂女のようなその姿の凶々しさに由来するのではなかろうか。次に、アマチュア天文家にも新彗星発見のチャンスがあり、しかも3人目までの発見者の名前(姓)が冠せられることにある。例外は、中国の紫金山天文台が発見した場合で、中国当局が発見者の氏名を発表しないため、天文台の名前がそのまま冠せられる。しかし同じ社会主義国でも、チェコスロバキアの場合には、スカルナテ・プレソ天文台のムルコス氏の名を冠した彗星がたくさんある。閑話休題、イケヤ・セキ彗星の出現によって、彗星捜索人を志した人は数知れないだろう。しかしこれには、とんでもない困難がともなう。新彗星発見への道は、まさにガンダ−ラへのそれと酷似しているのである。

 1970年春、ベネット彗星が出現し、大きな話題を呼んだ。しかし、小学校4年になるところだった私は、あまり興味を持っていなかった。まだ蝶に夢中だったのである。私の従兄は中学2年になるところだったが、星に対する造詣が深く、私の母をうらやましがらせていた。喘息持ちの私を鱗粉の飛び交う蝶ざんまいから、なんとか足を洗わせようとしていたのである。喘息の発作を心配し、それまで一度も外泊が許されなかった私が、山の根の従兄の家(つまり、現在私がすんでいるところだ)に、春休みの1日、泊まることが許されたのは、そんな母親の思惑からだったと思う。しかし9歳の少年には、そこまで見抜くことはできず、結局母親の思う壺にはまったのだから情ない。ただ名誉のために断っておくが、私が天文にのめりこんだのは、ベネット彗星が直接の原因ではない。半年前、担任の先生から、オリオン座を教わったことに始まっており、1971年の火星大接近が決定打となったのである。なにはともあれ、山の根に泊まった日の明け方、目覚まし時計にたたき起こされた私たち(たしか姉もいたと思う)は、まだ暗い街路に出て、東の空を仰ぎ見た。そこには、金星のように明るい、巨大な天体があった。ただ当時少し近眼だった私の目には、尾の存在は認識されなかった。そのことは、1971年から現在まで、私を後悔の念で焼き続けている。20世紀に出現した彗星のなかで、ベネット彗星ほど明るく、美しい彗星は、他にないからだ。後悔することは他にもある。従兄が所有していた4センチ屈折で彗星を見ようと言った私たちの提案に対し、従兄が「もう寝よう」と渋ったのである。いやがる彼を説得し、やっと望遠鏡を引っ張り出した時には、もうベネット彗星の姿を見つけることができなかったのである。
 1972年10月、世の中はジャコビニ流星群のことでわきかえっていた。これは、6年半の周期をもつジャコビニ・ジンナ−彗星を母彗星とする流星群で、13年ごとに大出現がみられる流星群である。この時は、いままでで最高の条件で、流星雨が見られるのではないかと騒がれた。私は、通っていた塾の先生(故上田初太郎氏、その後市会議員を勤め、米軍住宅反対を貫く)から、先生の教え子で、当時東大に通っていた天文学専攻の青年を紹介されるはずだった。この時は、結局会えなかったのだが、1984年11月、この人はなんと市長になってしまった。そう、富野氏だったのである。それはともかく、期待された流星雨は、見事に空振ってしまった。気まぐれ女のようなこの彗星の軌道が、どこぞの男(惑星)に言い寄られて、フラフラと変わってしまったらしい(注:これを書いた時点では、まだアッシャー理論は提唱されていなかった)。皮肉なことに、1985年10月、この流星群は、突如として流星雨を降らせた。ほんの短時間のことだったらしい。一部の人は、その可能性を指摘していたらしいが、一般的には、もう母彗星の軌道が地球のそれと交差していないため、まるで見向きもされていなかったのだ。その時間、私は何をしていたかというと...夜診を終えて、手には一杯新聞を抱え、衣笠十字路のあたりを、佐野へ向かって歩いていた。もちろん空など仰ぎ見ることもなく...
 1973年、今度はコホ−テク彗星の出現で、世の中がわきかえった。木星の軌道あたりで発見されたこの彗星は、近日点通過後には、夕空に雄大な尾を引くと予想されたのだ。しかしこの時も、ものの見事に空振った。オイルショックで明りの少なくなった夕空に現れたこの彗星は、予想よりはるかに貧弱な姿でしかなかった。近日点通過時に何かがこの彗星に起こり、暗くなってしまったのだ。しかしそれは予想より暗いという意味であり、肉眼でもよく見えたこの彗星は、私が今日までに見た彗星のうち、3番目に明るい彗星ではあった。当時中学1年だった私は、反抗期のまっただ中にいた。Mという男と仲良くなり、毎日自転車を乗り回し、土曜の夜は、望遠鏡をかついで逗子の町中を走り回っていた。冬休みを利用して、10センチ短焦点反射望遠鏡を自作したが、光学的知識が乏しかったため、完成した望遠鏡は、まるで使いものにならなかったりもした。閑話休題、1994年1月、そのMといっしょに、逗子海岸で見たコホ−テク彗星は、彗星の魅力を、私に満喫させてくれた。望遠鏡は持って行けなかったが、Mの双眼鏡でとらえたこの彗星は、ダイヤのようによく輝く核を、ヒスイのベ−ルのような緑色の淡い髪が包み込み、視野の上方に向かって、さらに淡い尾が、煙りのように立ち上ぼっていた。写真もたくさん撮って、Mの家の暗室で焼き付けをした。彼の家はクリ−ニング屋だが、DPEもやっていたのである。
 1975年11月、ウエスト彗星が発見され、翌春には肉眼的彗星になることが予想された。しかしマスコミは、前2回の空振りにこりて、今度はあまり報道しなかった。しかしそんな時は、かえってまた裏をかかれるものである。さてこの年は、私は高校受験の年であった。応募は定員より2人はみだしだったが、2月27日の試験当日に、ちょうど2人が休んだため、試験をうけた全員が合格するという、いまいち緊迫感に欠けた受験ではあった。私は、本番の試験では自己最高の点数をとろうと、準備万端整えて当日を迎えた、はずだった。しかし前日、母と姉が大げんかをやらかし、それに巻き込まれた私は、興奮して朝まで寝つけなかったのである。高校時代、私を悩まし続けた不眠症が、この頃から始まっていたのであろう。なにはともあれ、試験当日の朝を、私は最悪のコンディションで迎え、それがテストにももろ影響してしまった。まあ、受かったからどうでもいいんだけれども、特に数学がまるで分からなくて、私の数学恐怖症が、この日から始まってしまった。また、国語の試験で「四分( )裂の( )の中に、数字を入れなさい」という問題がわからず、八と記入してしまった。試験が終わった帰り、衣笠駅前の交番の隣の本屋に寄り、そこで「宇宙戦艦ヤマト」を発見し、購入した。電車の中でこのマンガを読もうとしたところ、扉のところに、松本零士が「忙しくて身体が四分五裂しそうだ」と書いていた! あ−あ、前の日にでも読んでおけばなぁ。まあ、受かったからいいけど。しつこい私は、大学受験で失敗した問題も、国家試験で失敗した問題も、いまだにはっきりとおぼえている。みなさん、こんなねちっこい男に恨みでも持たれた日には、たまったもんじゃありませんよ。私はいつもそう思い、相手を不憫に思うのだけれども、相手のほうじゃあまるでこりずに、相変わらず私にちょっかい出してくるんですなあ、これが。話しをもとに戻そう。2月25日に近日点を通過したウエスト彗星は、3月1日には明け方の空に姿を現し、ベネット彗星以来の大彗星と報道された(注:近日点通過時に核が分裂し、大量のダストが放出されたため)。しかしその頃、逗子は毎日天気に恵まれなかった。昼間も夜も晴れているのに、明け方だけ雲に覆われてしまうのである。彗星の明るさは、太陽からの距離に一番影響される。地球との位置関係は、日に日に良くなる一方、太陽からはどんどん遠ざかり、同時にどんどん暗くなっていってしまう。おそらく尾もだんだん短くなるだろう。私は睡眠不足をがまんしながら、毎日薄明から日の出まで、東の窓にたたずんでいた。そして、はじめて天気に恵まれたのは、奇しくも合格発表の翌日、3月7日の朝だった。私にとっては、なによりの合格祝いであった。隣のアパ−トのテレビのアンテナごしにのぼってきたこの彗星を、私は友人から借りた8×35の双眼鏡で楽しんだ。見え方は基本的にはコホ−テク彗星と同じだったが、はるかに明るく、美しい。虹色に輝く核は、おそらく0等級の明るさを放ち、それを包む緑のコマは、圧倒的な迫力で私に迫ってきた。凄い美貌の女性のまわりが、空気までピンクに染まって見えるようなものである。まさに匂い立つような妖艶さであった。肉眼でも、5°ほどの長さに尾を引いているのがわかった。ちょうど、茶せんをさかさにしたような形である。次に68ミリ屈折を彗星に向け、緑に煙るコマに包まれた核を、高倍率で観察した。核は小さいので、その構造はわからなかったが、コマや尾が核とつながっている部分の微細構造が、よく見えた。カラ−写真に写すと、まっすぐ伸びる青いタイプ氓フ尾と、左に大きくカ−ブしたタイプの尾が、見事に別れて写っていた。前者はイオンの尾、後者はダストの尾である。次ぎに好天に恵まれたのは、3月22日の朝で、まだ肉眼でもよく見えた。私は去り行くウエスト彗星に、永遠のさよならを告げた。しかし、16年後の今日でも、日付を正確におぼえている自分が恐ろしい。
 ウエスト彗星との遭遇は、私の彗星観を、根本から覆してしまった。実際に一番大きな衝撃を受けたのは、4月4日、天文ガイド5月号を、本屋の店頭で手にした時である。その表紙には、30°ほどにまで伸びた、幅広い雄大なタイプ氓フ尾が、圧倒的な迫力で写っていた! 私が見て感激していたのは、その雄大な尾の、ほんの一部にすぎなかったのである。逗子の光害の海のなかでは、そこまではとても望めなかった。こんな大彗星を、きれいな空で見たい。さらに、高校進学祝いに買ってもらったニコンの7×50大型双眼鏡で見たい、1976年冬に自作した12.5センチ反射で見たい、中1の時に作りそこねた反射望遠鏡を改造した、400ミリ超望遠反射レンズで写真を撮りたい... しかしこの願いは、16年たっても、まだ満たされていない。

 私は、満たされない思いを、彗星の本を買い漁ることで、なんとか埋めあわせようとした。結果は、ますます彗星熱を煽られただけであったが。そんな時手に入れた本の中に、関勉さんの本があった。関さんは、有名なイケヤ・セキ彗星の発見者であり、当時、世界でもっとも有名なコメットハンタ−の一人であった。当時の日本は、新彗星12個発見という世界記録(当時)保持者の本田実さんをはじめ、6個発見の関さん、短時日に3個発見の小林さんなど、この分野では世界のトップレベルにあった。当時放映されていた宇宙戦艦ヤマトの2作目は、彗星帝国が出てくるのだけれど、私はひそかに、「真の彗星帝国は日本だ」と思っていた。そんな関さんの1作目の著書には、はじめて彗星を発見したころのことが、克明に記されていた。1962年、関・ラインズ彗星が発見された当時は、世界の天文電報中央局は、コペンハ−ゲンにおかれていた。関さんが新彗星発見直後、はるかなコペンハ−ゲンの空に思いを馳せた描写が、あまりに見事だったので、私はその後、この未知の都市に憧れるようになった。1982年、大学の卒業研究に与えられたテ−マが、コペンハ−ゲン大学の教授が海の生物から分離した化合物の合成だったので、私の憧れはさらに強まった。合成成功後、デ−タを送ってくれたクリストファ−セン教授からの英語の手紙には、「あなたがたのエレガントな合成を祝福します」とあり、私は教授とともに、躍り上がらんばかりに喜んでしまった。クリストファ−セン教授は、私の卒業の翌年、わざわざわが大学を訪れたほどだから、彼もやはりうれしかったのだろう。ちなみにデンマ−クは緯度が高くて、彗星の観測に適さないためか、現在の天文電報中央局は、アメリカのスミソニアン天文台に置かれている。
 さて、関・ラインズ彗星は、軌道計算の結果、太陽にかなり接近することがわかった。近日点距離はq=0.03AU(天文単位=太陽と地球の平均距離1.49×10km)=450万kmであり、太陽表面から380万kmのところを掠めることになる。この距離では、コロナの外側を通過することになり、か弱い女性のごときかの彗星は、耐えられずに分裂・蒸発してしまうのではないかと言われた。しかし、近日点通過3日後の4月4日、夕空に、りっぱな尾を引いてその姿を現し、天文ファンの目を引いたのである。私は、この話しにすっかり魅せられ、自分も新彗星を発見したいと考えるようになった。ただ、困った問題もあった。私は、自分の名字を、みっともないものだと思っている。特に当時は、人から名字で呼ばれることすら恥ずかしいと思っていた。だから、たとえ首尾よく新彗星を発見できたとしても、それに自分の名字を冠して、世界中に恥をふりまきたいとは思わなかった。まあそんなことは、実際に発見できた時に悩めばいいことであって、当面の障害は、逗子の空が明るすぎて、彗星捜査に向かないこと、体力に自信が無く、とても過酷な作業に耐えられそうにないこと、自分の希望はともかく、親は自分を大学に入れて、薬剤師にしたてあげようとしていることだった。私は受験生だったのである。従兄は薬学部受験に3回失敗したが、その理由として、寄付金の額を聞かれ、「300万」と答えたのが少なすぎたためではないかだの、近くの国立では、東大にしか薬学部は無いだの、さんざん脅かしつけられていたのである。ちなみに当時、開局薬剤師になることが、そんなにいやだったかというと、これはそうでもない。当時敬愛していた、18〜9世紀の化学者たちは皆開局薬剤師であったし、日本で2番目に彗星の検出に成功した清水真一氏もそうであったからである。清水氏は、静岡県島田市で「知新薬局」を開局しており、自宅に「知新天文台」も開いていて、1937年、ツインカメラでダニエル彗星を撮影し、検出に成功したのである。大学に入った直後、同窓会名簿をもらって、彼が自分の大先輩であることを知った時、私がいかに感激したか、想像に難くないであろう。それはともかく、私が開局薬剤師を目指したもう一つの理由は、薄暗い、薬臭い店の奥で、仏頂面で苦虫を噛み潰している自分の姿を想像し、けっこう様になると思っていたことにある! さて、関さんの本の2冊目は、池谷・関彗星のことが中心に書かれていた。1965年9月18日、高知市は、台風一過の素晴らしい星空に包まれていたが、関氏は頭の隅がいやに冴え渡って、ほとんど寝付けずに明け方を迎えた。9月19日、つまり私の姉の9歳の誕生日、彼と池谷薫氏は、うみへび座に8等級の新彗星を発見したのである。関氏は、星図に何気なく卍を書き込んだという。実は、これは大変な彗星であった。この彗星は、クロイツ群の一員であることがあきらかにされ、世紀の大彗星となることがわかったのである。クロイツ群の彗星は、ほとんど同一の軌道を持っており、太陽に著しく接近するのが特徴である。70°にも達する尾をたなびかせた1843年第一彗星、あまりに太陽に近づきすぎ、核が4つに分裂してしまい、それが太陽のまわりをめぐるさまを、「真珠の首飾り」と形容された1882年9月の大彗星(セプテンバ−・コメット)などが有名である。私は、セプテンバ−・コメットという名前の美しい響きが大好きである。竹内まりやの「セプテンバ−」が好きなのも、たぶんこれが影響している。それはともかく、クロイツ群の彗星は、もとは1つの彗星だったものが、あまりに太陽に接近しすぎて分裂し、同一軌道上を、別々に公転するようになったと考えられている。周期は数千年と言われているので、同一の彗星である可能性はない。それにしても、分裂した子どもの彗星でさえこんなに立派なのだから、もとの彗星は、どんなにすばらしい彗星であったのだろうか。想像するだけでワクワクしてくる。
 1977年9月、私は目一杯落ち込んでいた。夏に山に登ったら、そこで出会った人々があまりに素晴らしかったので、急に下界の人間どもが、汚わしく思えてきたのだ。9月19日、つまり姉の21歳の誕生日、体育祭が終わったあとの2次会で、私は3時間ほど、何もしゃべらず座っていた。外は台風の嵐が吹き荒れていた。横須賀駅のホ−ムに電車が入ってきたとき、本当にあと少しで飛び込むところだった。上り電車の窓からは、吉倉の自衛隊基地の戦艦の明りが、少し潤んで見えていた。家に帰り、ふとんにもぐりこんでも、同じことをイジイジと考え続けていた。夜もだいぶふけた頃、私は、頭の隅が妙に冴えてきたことに気づいた。あれれ、こんな事、どっかで読んだことがあったぞ。そうだ、関さんが池谷・関彗星を発見したとき、やっぱりこんなだったのではなかったか! 私はそう思いついて北側の窓を開けて空を仰ぎみると、はたしてそこに、台風一過の素晴らしい星空があった! 私は夢中で望遠鏡を庭に引っ張りだし、明け方まで写真を撮り続けた。この時に撮った写真は、いまだに我が最高傑作となっている。さて、この日の台風一過の星空は、もちろん私に新彗星などめぐんではくれなかった。しかし、それに勝るとも劣らぬ、我が人生史上最高の悦楽をもたらしてくれた。学校の人間関係は一気に改善するわ、実力テストでは125人抜きをやらかすわ、化学の研究(当時、ハロゲンにこっていた)は一気にすすむわ、クロカン(クロスカントリ−の略、校内マラソン大会のこと)では優秀な成績をおさめるわで、私は得意の絶頂に登りつめたものである。9月における落ち込みとその反跳、これが、「セプテンバ−」が好きな第2の理由である。ところで、9月の落ち込みの最たる頃、私はあるカラ−写真集を思い切って買った。高校2年生にとっては、清水の舞台から飛び降りるような決意が要求された値段であった。しかし私は、その中の写真の一枚に、ひどく心を動かされ、どうしても欲しくなってしまったのである。その写真のテ−マは、こうであった。「朝焼けの空をゆく池谷・関彗星」 そこには、茜色に染まった空に低く雲がたなびき、その雲をも透かして、水色の彗星が、低く、細く、長く尾を引き、その先端部分は、上に向かって広がっていた。この写真集はしかし、私の手元には居着かない運命にあるらしい。高校時代、クラスの友人に貸したところ、卒業近くまで1年以上も返してくれなかったし、1985年以降、やはり私の手元にはない。なぜならば、当時鼻の下を長くして、ある女性に貸したのであるが、このR子はとんでもない悪女で、ネコの本と星の本の中で、私が一番気に入っているものを、借りたまま帰さないのである。2回ほど催促はしてみたのだが、自分から返してくるようなタマではない。そういえば、私は某看護学生に、自転車と世界地図を貸していて、そのまま取られてしまったこともあったなあ...それはともかく、この写真集には、近日点通過時の池谷・関彗星の写真もあって、そこには、藤井旭氏の、次のようなコメントが載っていた。「その日(1965年10月21日)、白いオタマジャクシのようなかっこうをしたこの彗星が、それはもう必死の勢いで、みるみるうちに太陽のまわりを回っていくという、素晴らしい光景の一部始終を、私は6.5センチ屈折で、みまもることができました」と。また、次のコメントもついていた。「5時間あまりで太陽のまわりを半周してしまうため、尾がついていけないらしい」   池谷・関彗星の近日点距離は、q=0.0078AUであり、太陽表面からわずか47万kmのところを掠めて通ったことになる。これは、地球と月の距離より、少し長い程度である。地球から見る月の、300倍もの大きさの太陽を、彼女はどんな思いで見詰めたのであろうか。それに、そこは100万度といわれるコロナのまっただ中。あのか弱い彗星が、いくらか核分裂をきたしたぐらいで、どうして無事に通り抜けることができたのか、いまだに不思議でならない。

 彗星の軌道は、楕円、放物線、双曲線のどれかである。2光年ほどかなたにあるオ−ルトの彗星の巣からやってきて、大部分は2度と戻ってはこないのだから、ほとんどが放物線軌道であり、双曲線の場合も、極めて放物線に近いものである。双曲線軌道となる場合や、楕円軌道をとって周期彗星となる場合は、大部分が木星による摂動でそうなっている。なにはともあれ、彗星の軌道は、放物線が基本なのである。北杜夫の「どくとるマンボウ小辞典」は、昆虫学者ファ−ブルが独学で数学をものにしたことに驚嘆し、同時に彼の詩人としての才能を、高く評価している。ファ−ブルは、放物線について、こう書いているのだそうだ。「その失われた第2の焦点を無限にむなしく探し求める。それは砲弾の弾道である。それは1日われわれの太陽をおとずれにきて、それから幽玄の中へ去って再び帰ることのない彗星の道」ファ−ブルさんよ、昆虫に対してだけでなく、彗星に対してまでも、私たちの感性は、なんと共通点が多いことでしょう! 

 綺麗なバラにはトゲがあるとよく人は言うが、彗星もその例外ではないらしい。まあ、あれだけの妖しい美しさと、加味逍遥散が合いそうなほどのはかなさを合わせ持っているのだから、毒を持ってないほうがおかしいというものだろう。1910年のハレ−彗星は、もっとも好条件で地球と太陽に接近したのであるが、実は地球がハレ−彗星の尾を横切ることが明らかになった。これより少し前、ハレ−彗星の分光観測の結果、シアン分子のスペクトルが検出されていたので、ロンドンではこの世の終りだと言って、一晩で財産を使い尽くしてしまったり、川に飛び込んで難を逃れようとしたり、タイヤのチュ−ブに入れた空気がすごい勢いで売れたりといった、バカバカしい騒ぎをおこしたという話がたくさん伝わっている。またこの時ハレ−彗星は、地球から見て太陽面を経過したのであるが、その際、太陽面には何も見出だすことができなかった。つまり、それほど彗星は、スカスカの天体なのである。この事を改めて知った時(最初の時は小学生で、その意味が理解できなかった)、私は志賀直哉の暗夜航路を思い出した。ある日主人公が、縁側で女性と何かを奪い合うのであるが、女性が急に体制を崩し、主人公のももに、手をつこうとした。主人公は、相手の体重がそこにかかると覚悟して、足に力を込めるのであるが、意に反して、女性はふわっと手を着くのである。一瞬のうちに体制をたてなおしたのであろうが、主人公は、女体の不思議さに、しきりに首を傾げるのである。
 先ほどから何度も、彗星の出現は古今東西で忌み嫌われてきたと書いたが、一番有名なのは、松永弾正が織田信長に滅ぼされようとした時、現れたという弾正星である。信長の凶々しさと、戦乱を恐れた民衆がそう言ったのであろうが、信長にとっては、さぞ迷惑だっただろう。また、坂本竜馬が、ハレ−彗星の現れた日に生まれたという説がある。ハレ−彗星が出現した記録と、竜馬の生年は、確かに一致しているが、月日まで一致したかどうか、あやしいものだと私は思う。
 彗星は、ひょっとしてわれわれ知的生物の生みの親であるかもしれないと、最近多くの生物学者が口にする。いや、それどころか、多細胞生物の生みの親かもしれない。少なくとも、6500万年前の恐竜の絶滅は、複数の彗星が地球に衝突したことによる「彗星の冬」によってもたらされたらしい。そのことは、地球には少ないイリジウムが、この年代だけ異常な濃度で検出されたことにより、立証されている。一部の生物学者は、これは太陽の伴星が、2600万年ごとにオ−ルトの彗星の巣に接近し、もたらしたものだと言っている。ごていねいにも、その伴星に「ネメシス」という名前までつけている。しかし、これはかなりまじめな学説であり、現在有力な反証はなされていないようだ(注:その後この話は聞かなくなった)。これによると、100万年ほどの間に10億もの彗星が、地球の軌道の内側まで入り込む。1年に1000個ほどであり、3日に1度は、肉眼で見えるほど明るい彗星が近日点を通過する。これは素晴らしい光景ではなかろうか! しかし、その華々しい天文ショ−によって、繰り返し地球は大量殺戮にさらされ、新しい進化の方向が芽生えてきたのだと言う!
 スイフト・タットル彗星は、流星群との関係が発見された、最初の彗星である。しかしその周期は、120年以上とバカ長く、信憑性の高い観測デ−タは、1862年の時のものしかない。軌道の外側は、冥王星より遠いのである。当初、120年後の1982年5月に回帰が予想され、事実その前後にペルセウス座流星群は活発な活動を見せたのであるが、その回帰は検出されることがなかった。次に1988年の回帰が予想されたが、これも空振りだった。だいたい、120年以上もの周期の軌道を、わずか数か月の観測デ−タだけで予測するのは、あまりに無理があったのだろう。しかし、ペルセウス座流星群は、91年、92年と、しだいに活発な活動を見せ、母彗星の回帰を暗示していたようだ。そこに、9月27日、長野県の木内鶴彦氏が、おおぐま座に11.5等級のこの彗星を検出したのである。これには世界中が驚いた。かつての彗星帝国の面目躍如というところだろう。しかし残念なことに、今回の回帰は、地球との位置関係が最悪であり、5等級にしかならない。前回は2等級で、30°もの尾を引いたのに、である。しかし来年8月12日未明には、素晴らしい流星雨を見せてくれるだろう。歴史の浅いジャコビニ流星群とは違い、ペルセウス座流星群は、軌道上にほぼまんべんなく流星のもとがばらまかれているので、空振りはまずない。ところで、母彗星の方は12月12日が近日点通過であるから、まさに今が見頃である。11月23日夕、当直の際に葉山病院の屋上で見たら、わし座に5等級でわずかに尾を引いた姿を、11×80超大型双眼鏡で楽しむことができた。電話番をひきうけてくれたYちゃんとNさん、どうもありがとうございました。スイフト・タットル彗星は、何度も回帰を繰り返したわりには核がはっきりしていて、ハレ−彗星ほどスレた感じはしなかった。暗いので、コマの色はわからなかったが... 私の経験によれば、初めて近日点を通過する彗星の方が、核がはっきりしていて美しい。彗星もやはり、「初物」のほうがいいのである。ところで、某紙の報道によれば、地球との衝突の可能性を指摘する学者もいるということであるが、すでに軌道が確定された今、そんな可能性は微塵もないはずである。いつの時代にも、他人の無知につけこんで、手前勝手なことを騒ぎ立てる人がいるものだが、これは科学者として、もっとも恥ずべきことだと私は思う。
 最後に一言。スイフト・タットル彗星は、まず素人には見えないので、見たいなどとは思わないこと。なにせハレ−彗星より暗いのだから。