歴代当主・一門衆
里見義實さとみよしざね
(1416〜1488)
安房里見家初代。里見家基の長男。軍記などによると、結城合戦(1440年)に結城方として参戦、籠城するが家基の教示により脱出。安房に身を隠し、その後安房の内乱に乗じて安房を平定するというが史実は不明。長享二(1488)年4月7日病没。杖珠院殿建實興公居士。

里見成義さとみしげよし
(1448〜1505)
里見家第二代。里見義実の長男。「成」の字は古河公方足利成氏からの一字拝領といわれる。軍記などによれば、南上総に版図を拡大したという。軍記がいう里見家十代のうち、実在が最も疑問視されている。永正二(1505年)4月15日病没。慰月院殿大幢勝公居士。

里見義通さとみよしみち
(1480〜1518)
里見家第三代。里見成義の長男。安房の国主としての地位を確立し、鶴谷八幡宮の修築を行って権威を示した。小弓公方足利義明を奉戴し始めたのも義通の頃と思われる。軍記によると、死に際して「嫡子・竹若丸(後の義豊)が元服するまでは弟・實堯に家督を預ける」と言い残し、天文の内訌の火種を作ったという。ちなみに、義通以降の当主はすべて、文献によって、その存在が裏付けられている。

里見實堯さとみさねたか
(1483〜1533)
里見家第四代。里見成義の次男。義通の死後、里見家の事実上の当主として政治を行った。足利義明に属し、その命により鎌倉を攻撃して北条軍を破る。その際に鶴岡八幡宮の社殿が全焼するが、出火の原因ははっきりしない。
1533年7月、甥の里見義豊に居城・稲村城を急襲されて自害。

里見義豊さとみよしとよ
(1513〜1534)
里見家第五代。里見義通の長男。實堯が鎌倉を攻めた頃には既に正式に里見家当主であったとする説が有力。實堯を後見人として政治を行ったのであろう。
實堯と政策面で対立する所があったのだろうか、1533年7月に實堯を稲村城に急襲して自害に追い込む。義豊は上総の武田信保の協力を得て、内紛で混乱する安房国内の秩序回復に努める。
しかし、安房の豪族達の大部分が、北条氏綱と組んだ實堯の嫡男・義堯に付き、翌1534年、滝田・犬掛の戦いで義堯軍に敗北。稲村城に立て篭もるが、圧倒的な義堯軍の前に防戦しきれず自害した。

里見義堯さとみよしたか
(1506〜1574)
里見家第六代。里見實堯の長男。父・實堯の横死を知ると、居城の金谷城(百首城という説も)に立て篭もり、相模の北条氏綱に援護を要請した。彼が氏綱の協力を望んだ背景には、小弓公方VS後北条氏の対決の構図がある。すなわち、義通以来の小弓公方陣営である義豊に対抗するためには、反勢力である氏綱の協力が不可欠だったのである。
小弓公方陣営である安房を勢力圏に組み入れたい氏綱にとって、義堯の要請はこの上なく好都合な物であった。後ろ盾の欲しい義堯と小弓公方の勢力圏を突き崩したい氏綱、両者の利害関係が見事に一致し、ここに義堯−氏綱の同盟が成立したのである。(以下執筆中)

里見義弘さとみよしひろ
(1529〜1578)
里見家第七代。里見義堯の長男。

里見義頼さとみよしより
(1542〜1587)
里見家第八代。里見義堯の三男。

里見義康さとみよしやす
(1573〜1604)
里見家第九代。里見義頼の長男。

里見忠義さとみただよし
(1593〜1622)
里見家第十代。里見義康の長男。

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