第一次国府台の戦い
合戦年:1538(天文7)年
戦場:下総国国府台・相模台(千葉県市川市国府台・松戸市中矢切周辺)
形式:野戦
勝者:北条氏綱・氏康(約20000人)
敗者:足利義明・里見義堯(約10000人)
小弓公方足利義明
上総の真里谷武田氏と下総の原氏は領土をめぐって抗争を繰り返していたが、真里谷武田氏は下総で一二を争うほどの勢力を持つ原氏の前に劣勢に立たされていた。そこで、真里谷武田家当主武田信保(たけだのぶやす)は永正年間、奥州を放浪していた足利義明を招聘・奉戴し、自らの正当化と勢力の挽回を企図した。折りしも義明は、兄である古河公方足利高基との家督争いに敗れ、機会あれば兄に代わり関東の主たらんと野心を燃やしていたためこれを快諾。原氏の本拠・小弓城の目と鼻の先に御所を築き、みずからを小弓公方と称した。 義明の出現により房総の趨勢は武田−義明ラインになびき、原氏の勢力は後退、1524年には小弓城は落城したという。
小弓城を落したことで義明の威勢はますます強まったが、招聘した当の信保とは里見氏内訌(1533〜1534)をめぐって対立が始まった。1534年、信保は義明の勘気を受けて出家、失意のままに同年病没した。
信保が没すると、長男で妾腹の武田信隆と次男で正室の子の武田信応(のぶまさ)の家督争いが始まり、南関東一円を巻き込んだ一大戦争へと発展した。房総諸将の奉戴する足利義明は信応を、相模から武蔵へと勢力を拡大しつつあった北条氏綱は信隆をそれぞれ援助したのである。かねてから北条氏綱と同盟関係に有った里見義堯は当然信隆に与すると思われていたが、突如として同盟を破棄して事実上自立し、小弓陣営に加わった。義堯の突然の離反により情勢は一気に急転、信隆は居城峰上城を落され、武州金沢(横浜市金沢区)に逃れた。そして、房総を手中に収めた小弓陣営の矛先は、古河公方家および宿敵北条氏の治める武蔵へと向けられていったのである。

両軍対陣す
1938(天文7)年春、小弓公方軍の先鋒が俄かに市川(現在の江戸川)右岸の下総国国府台に布陣、北条の分国である武蔵を牽制し始めた。この動きに対して、北条側は国府台に近い江戸・河越両城の改修を行い、体制を整えた。
同年九月、義明率いる小弓公方軍本隊約一万(数に関しては諸説あり)が国府台に着陣した。副将は房総随一の勢力を誇る里見義堯と義明の弟基頼である。「小弓御所様御討死軍物語」によると、北条氏綱は分国内への義明の侵入を恐れ、幾度も赦免を嘆願したというが、関八州に号令する野心を持つ義明がこれを受け入れる訳がなく、結局古河公方足利晴氏の義明討伐御内書を受ける形で開戦を決意したという。もっとも、関東の主たらんとする氏綱にとっても義明は煙たい存在であったから、氏綱自身最初から義明と全面戦争を構えるつもりだったと考えられ、赦免嘆願に関しては北条氏を正当化するための記述であると見て良いかも知れない。
「義明、国府台に出張す」の報を受けた氏綱は、10月2日、嫡男氏康と共に2万(諸説あり)の軍勢を率いて小田原を出立し、江戸城に入城。氏綱は江戸城で軍議を開いた後、国府台へ出陣した。時に1538年10月6日の事であった。

両軍の激突
この戦いにおける両軍の戦い振りに関しては、資料によって記述がまちまちであり、正確な所は依然としてはっきりとしない。ここでは、最も信憑性の高いと思われる「小弓御所様御討死軍物語」の記述を中心に見ていく事にしよう。
前述のように、小弓軍は国府台に本隊を、また国府台の北側に隣接する台地である松戸の台(相模台)に椎津隼人祐ら率いる物見部隊を置いた。義明は、敵は国府台正面を渡河し、国府台と松戸の台の間の低地を通って国府台に攻め上ってくる、と読んで、国府台の市川河岸に防衛線を敷いて迎撃態勢を整えたのである。一方、氏綱は江戸城を出発後、浅草川(現・隅田川か)を渡り、中川から市川へ抜ける水路の分岐点である猿が股を通って松戸の対岸の金町あたりに着陣したものと見られる。
10月7日朝、北条軍は義明の予想に反して、着陣した金町あたりから直接渡河を開始した。松戸の台で物見をしていた椎津隼人祐は、いち早くこのことを義明に進注し、松戸の台に全軍を急行させて先鋒が対岸に到着する前に迎撃するよう要請した。だが、義明は敵が国府台に攻め寄せてくるのを待つと言って、本隊を動かさなかった。
午前9時、両軍先鋒による矢戦が始まったが均衡は破れず、北条方の先鋒が「御所様の 小弓の弱くなりぬれば 引きてみよかし 力なくとも」と言葉戦い(つまり挑発)を試みたが、逆に小弓方から「あずさ弓 互いに引くも引かれぬば 運の極みは 天にあるべし」という歌が帰ってくる始末で全く効果がなかった。

義明の最期と一族の行く末
痺れを切らした氏綱は午後4時ごろになって、正面攻撃を下知した。しかし、あらかじめ国府台に防衛線を整えていた小弓勢の備えは堅く、北条軍は全く歯が立たない。そこで、若党達は守りの薄い国府台の反対側に回り込み、本陣に突撃を試みた。すると、突然の本陣直接攻撃に小弓勢は大混乱し、たちまち義明の弟基頼が討たれた。義明は、弟の討死に怒り、単騎敵陣に突入して二十数名を切り伏せたが、敵中深く入り込み過ぎて孤立し、横井神助に額を射られて息絶えた。里見軍は北条軍の旗本と戦ううちに義明本隊を見失い、義明の討死を知ると船橋方面に退却していった。
この戦いで、義明・基頼の他、逸見山城守など小弓方の名だたる武将が討たれ、小弓足利家は壊滅状態となった。義堯は退却の途上、義明の幼い遺児達や侍女達を小弓御所から救出した後御所に放火。助け出された者たちは義堯によって安房にかくまわれた。義明の室たちには自害するもの出家するものがあったという。また、小弓公方家の遺臣達はその大部分が里見家の家臣団に組み込まれた。

合戦が残した影響
合戦の後、北条軍は一旦小田原に凱旋。10月10日、改めて上総に討ち入った。この時、義明に城を追われて武州金沢に在宿していた武田信隆と小弓城を奪われて武蔵浅草にいた原胤栄も参陣。信隆は峰上城、胤栄は小弓城にそれぞれ返り咲いた。この2人の人物の復権が物語るように、小弓公方家没落によって房総の情勢は一変し、房総諸勢力の優劣関係が全くの正反対になったのである。
一方、今回の合戦でそれほどの打撃を受けなかった房総最大の反北条勢力里見義堯は小弓没落によって領土拡大の絶好の機会を得て、北進を開始する。
躍進する里見氏といまや関東最強の北条氏、この二つの勢力の狭間で、房総の地は再び混迷を深めて行くことになるのである。

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