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1999年8月号

『キリンヤガ』マイク・レズニック

『大いなる復活のとき(上・下)』サラ・ゼッテル

『氷河期を乗りきれ(上・下)』リチャード・モラン


『キリンヤガ』マイク・レズニック

(1999年5月31日発行/内田昌之訳/ハヤカワ文庫SF/820円)

 万博会場やダムの建設予定地にクマタカやオオタカの巣が発見されて問題になったり、中国から親鳥や飼育係を招いてトキの孵化に懸命になってみたりと、最近のわが国では絶滅寸前の動物保護に関する話題がよく目につく。人間の生み出した文明と技術の発達が自然を破壊し多くの生物を死に至らしめているのは事実であるし、何とかしなければいけないこともわかってはいるのだけれど、かと言って文明及び技術の恩恵を捨て去ることはできないという矛盾を現代に生きる我々は避けようもなく抱え込んでいるのだ。

 もしも、近未来に小惑星をテラフォーミングすることができる技術を持つことができたとしたら、文明化される以前の自然環境を再現して、一種のユートピアを実現できるかもしれない。マイク・レズニックの『キリンヤガ』は、二一世紀半ば、小惑星にケニアの環境を再現して原住民キクユ族の伝統を守ろうとした一人の男の理想と挫折を描いた物語である。

 ヨーロッパの大学で学び、小惑星キリンヤガの設立者の一人でもあるキクユ族のコリバは、ムンドゥムグと呼ばれる祈祷師として、キクユ族の伝統と習慣を固持しようとしている。少しでも西洋文明のかけらがキリンヤガに混入すれば、ユートピアのバランスが崩れて、地球と同じ西洋化されたケニアが出来上がってしまうのだ。キクユ族の伝統によると、ムンドゥムグと酋長以外の人々は読み書きを学んではならないし、逆子が産まれたらそれは悪魔だから殺さなければならない。我々から見れば奇異な風習が続々と登場する。結婚した女は頭を剃らねばならない、酋長は妻を三人持つことができる、その他もろもろ。すべてケニアでの過酷な環境下における生活から長い期間を経て生まれた風習であり、コリバは厳格かつ慎重に掟を守ろうとする。

 十年以上かけて発表された短編をまとめたオムニバス長編である本書の各章は、基本的に同じ構造を取っている。毎回、キクユ族の伝統を脅かす存在が登場し、コリバがそれと戦うのだ。敵は、あるときにはライフルを使ってハイエナを殺すマサイ族の戦士であったり(「ブワナ」)、ケニアから定住を望んで来た夫婦であったり(「マナモウキ」)、と様々だ。外部からの敵に対しては断固としてこれを撃退するコリバであったが、徐々に内部からユートピアは崩れ始める。酋長の母親、血気盛んな若者たちなど、身近な者たちが伝統に対して反旗を翻し、ついには酋長コイナーゲにコリバは、こう言われてしまう。「ユートピアが成長して変化してはいけないと、どこかに書いてあるのか?」と。

 ユートピアは実現した瞬間にユートピアでなくなる。まったくその格言(?)通りで、初めからコリバは負けるはずの戦いを行っているに過ぎない。結末はわかりきっているのに、それでもなお本書を読む手が止められないのは、読んでいるうちに、コリバ自身の信念の強固さにどうしようもなく惹かれてしまうから、また、寓話を散りばめた物語の語り口が余りにも素晴らしいからだろう。とりわけ、知識を得ようとしたばかりにコリバの怒りに触れてしまう十二歳の少女の悲劇を描いた「空にふれた少女」は、この一作で見事に本書のエッセンスを抽出しており、豊かな詩情の漂う名品である。

 ユートピアは場所の問題ではなく、心の問題である。余りに狭量に伝統を守ろうとしているコリバの頑固さを見ていると、そんな言葉も浮かんでくる。彼の守ろうとしたものは伝統ではなく、結局のところ、自分自身なのではないだろうか。その意味では、決してコリバは負けていない。感動的なエピローグで新たな地へと向かうコリバが得たものは何なのか。こればかりは、実際に読んで確かめていただきたい。

 アフリカ好きで知られるレズニックの特色が遺憾無く発揮された本書は、西洋文明とアフリカの伝統、ひいては科学技術の発達と自然保護との相克を、明快かつ象徴的な技法で描き出してみせた傑作と言えるだろう。

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『大いなる復活のとき(上・下)』サラ・ゼッテル

(1999年5月31日発行/冬川亘訳/ハヤカワ文庫SF/上760円下720円)

 「ハインラインやアシモフの伝統を継ぐ作家の登場」(ポール・アンダースン)と絶賛され、ローカス賞の処女長編部門を受賞したサラ・ゼッテルのデビュー作『大いなる復活のとき(上・下)』は、人類進化の秘密を握っている少女が銀河を二分する勢力の一つに追われ、故郷を守るために戦うという古めかしくも雄大な冒険物語である。  人類が幾多の惑星に植民し、遥かな時が過ぎ去った。植民惑星の一つである〈無名秘力の施界〉では、人々が狭い峡谷の中で戒律とカースト制に縛られた原始的な生活を送っていた。そんな惑星から十年前に脱出しネットウェア関連の仕事をしていたエリク・ボーンは、銀河の半分を支配するルドラント・ヴィタイ属から、ある仕事を頼まれる。ヴィタイ属が手に入れた〈施界〉の女との通訳をしてほしいというのだ。その女、アーラは、どうやら〈施界〉の秘密を解く鍵を握っているらしい。ヴィタイ属から逃れたエリクとアーラは、もう一方の勢力である〈ヒト科再統一同盟〉とも接触し、自らの秘密を知る。苦難の末、何とか故郷に辿り着いた二人であったが、ついにヴィタイ属が〈施界〉に侵攻して来た。果たして〈施界〉の運命は……。

 確かに、アシモフを連想させる銀河を舞台にした物語のスケールは大きいし、構成もしっかりしている。しかし、処女長編のためなのか、語り口が生硬で、ぎこちないのもまた事実である。〈無名秘力〉など独自の用語が頻出して物語が理解しにくく、ヴィタイと統一派と施界の関係が頭に入るまで随分とかかってしまった。施界の描写にしても、如何にもネイティヴ・アメリカンそのものといった感じでオリジナリティが薄く、ル・グィンが好きなのはわかるけれど、〈壁の中の小石〉とか〈壊れた山道〉とかのネーミングはもう少し考えてよと言いたくなってしまう。全体としては、溌剌としたアーラの人物造形を初めとして作品に勢いがあり、次作に期待できる作家であるとは思うが、絶賛するほどの作品ではないだろう。

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『氷河期を乗りきれ(上・下)』リチャード・モラン

(1999年5月30日発行/中原尚哉訳/扶桑社ミステリー文庫/上下各648円)

 SF読者には余り馴染みがないかもしれないが、『南極大氷原北上す』(扶桑社ミステリー文庫)でデビューし、激変した自然環境と人類との闘いをテーマにした作品を書き続けている作家リチャード・モランの四作目『氷河期を乗りきれ(上・下)』が刊行された。前作『氷の帝国』の続編という形を取ってはいるが、単独で読んでも十分楽しめる壮大なエンターテインメントとなっている。

 西暦二〇〇〇年、大西洋中部に位置する海底火山の噴火により、大量の灰とガスが大気中に撒き散らされた。北半球の平均気温は十度も下がり、人々は極寒の世界で凍えながら生活している。アメリカでは、何百もの巨大なバイオスフィアを建設し、そこに二億人を収容しようという計画が実行に移されつつあった。一方、従来通りの生活が可能な南半球では、この機に乗じて世界の覇権を握ろうとするアルゼンチンの大統領が恐るべき武器を手に入れる。バイオスフィア計画はうまく成功するのか? また、究極の兵器を手に入れたアルゼンチン大統領の真の目的は……。

 人類のサバイバルにエスピオナージュを絡めてアクション仕立てにし、さらに主人公の地球物理学者ベンと分子生物学者マージャリのラブロマンスをふりかけて口当たりをよくした一級品の娯楽作。火山性ガスによる気温の降下、バイオスフィアの設計などの科学考証も緻密であり、説得力がある。とりわけ、ある事故がきっかけで頓挫したバイオスフィア計画に代わってベンが思いつく解決策には、なるほどとうならされてしまった。人物描写は概ね平板で類型的であるが、物語の鍵を握る船の中で九年間を過ごし、精神に異常をきたした艦長のキャラクターは唯一個性的である。科学者が世界を救うという古式ゆかしい設定も、こうして料理すれば結構楽しめるではないか。思わぬ収穫作であった。

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