SF Magazine Book Review

1996年9月号


『アインシュタイン交点』サミュエル・R・ディレイニー

『ブラッドベリがやってくる』『ブラッドベリはどこへゆく』レイ・ブラッドベリ

『イカロスになりそこねた男』H・G・ウエルズ

『地軸変更計画』ジュール・ヴェルヌ


『アインシュタイン交点』サミュエル・R・ディレイニー

(1996年6月30日発行/伊藤典夫訳/ハヤカワ文庫SF/540円)

 海外SFノヴェルズの予告を見てから、待つこと十八年。当時生まれた子供はもう高校三年生だ。それだけ待たされた甲斐はあったのか。声を大にして断言しよう。あったのだ、と。言うまでもない、ディレイニー六七年発表のネビュラ賞受賞作『アインシュタイン交点』のことである。
 いつとも知れぬ未来の地球。人類の精神は肉体と文明を残していずこへか去り、新たな生命体が人類の体、人類の魂に乗り移っている。放射線による遺伝子異常のため、奇形が多く、健常者には名前にロ、ラなどの接頭辞がつけられているこの異様な世界で、人々は懸命に生きようとしている。主人公ロ・ロービーは、両手両足を操り、穴の開いた山刀を吹いて音楽を奏でる二三歳の若者。恋人のラ・フライザを何者かに殺され、迷い込んだ地下迷宮でキッド・デス自身に犯人であることを告げられたロービーは、キッドを追い求める旅に出る。その旅はロービー自身の成長の旅であると同時に世界の成り立ちを探る旅でもあった……。
 というようなあらすじ紹介では本書の魅力の百分の一も伝え切れまい。とにかく読んでいただきたい。ロービー(リンゴ、オルフェウス)、グリーン・アイ(キリスト)、ダヴ(ジーン・ハーロウ)など登場人物一人一人に重ね合わされた象徴的な意味を味わい(理解し、とは言わない)、ヒロイック・ファンタジイ調の物語の背後に隠れていたサイエンス・フィクション的枠組みが明らかになる時点での「驚異の感覚」を楽しむ。もしあなたが、筆者のようなメロメロなディレイニー・ファンだったら、それで十分。うーん、やっぱりディレイニーっていいなあ、で終わりである。ディレイニーの良いところっていうのは、コンパクトな物語でありながら壮大なスケールや奥深さをさりげなく漂わせているところなんだよね。ディレイニーは初めてだという人でも、そのさりげなさ、格好良さには必ずやノックダウンされることと思う。さらに、お好みによっては、エピグラフと物語との構造関係を分析してメタ文学論を仕立て上げてもいいわけだし、原文と翻訳とを見比べてその差異を論じたっていいだろう。あらゆるレベルで楽しめて、再読再々読に耐え得る(どころか、再読精読を読者に強いる)恐るべき作品。若きディレイニーの才気溢れる傑作である。

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『ブラッドベリがやってくる』『ブラッドベリはどこへゆく』レイ・ブラッドベリ

(1996年6月10日発行/小川高義訳/晶文社/1600円・1900円)

 故アシモフと同年(一九二〇年)生まれだから、今年七六歳になるブラッドベリ、最近はどうしているのかなあと小学校の友人を懐かしむように思い起こすときがある。「みずうみ」「霧笛」「百万年ピクニック」など横綱クラスの傑作短編は言うまでもなく、「山のあなたに」「下水道」「ある老母の話」などなど決して有名とは言えない短編の中にも大好きなものが数多くあるのだ。季節感皆無のSF界において、秋の寂寥感、うきうきと飛び跳ねたくなる初夏の気分を巧みに描写し、火星やサーカスやメキシコを舞台に異質なものとの出会いを恐怖感たっぷりに描き出す。その手腕は練りに練った華麗なる文章と詩的な表現において存分に発揮され、読む者の心を独特のブラッドベリ・ワールドに引き込むこと間違いなしの作家なのである。ではあるのだが、とうに夜半を過ぎて、じゃなくって、とうに全盛期を過ぎた作家でもあるので、新作がそうそう出るわけでもない。二年前に最新長編が訳されて以来久々の新訳が、二冊同時に刊行された。
『ブラッドベリがやってくる』『ブラッドベリはどこへゆく』は、それぞれ八九年、九一年に発表されたエッセイ集。自らの創作作法を明かして短編着想の秘密を語る『やってくる』も、サイエンス・フィクションの意義を説き、ディズニーなど著名人との交流を綴る『どこへゆく』も、どちらも実に面白い。一二歳のときから一日千語書き続けて十年後、「みずうみ」をたった二時間で書き上げ、ようやく「本当にいいもの」を書いたと実感した話(『やってくる』)。どさまわりのサーカス団に実在したミスター・エレクトリコ(!)と少年ブラッドベリとの心暖まる交流(『やってくる』)。彼のエッセイを読んだルネサンス美術評論家ベレンソンに呼ばれてはるばるイタリアまで出かけ、それがきっかけでベレンソンが亡くなるまで交際が続いたという感動的なエピソード(『どこへゆく』)。いずれも、作品からだけでは得られないブラッドベリという作家の実像に迫り得る興味深いエピソードばかり。ファンならずとも一読の価値はある。
 それにしても、この二冊を読んで明らかになるのは、ブラッドベリがいかに実際の体験から小説を紡ぎ出すことがうまかったかという事実であろう。特にメキシコ、アイルランドなどの異質な風土を題材にした短編は、かねてから印象に残るものが多かったが(「つぎの番」「国家演奏短距離選手」など)、それは作者の純粋な視点が風土の本質を鋭く捕らえていたからに他ならない。二冊に収められた様々な体験談にはブラッドベリの作家的視点の揺らぎのなさが窺われる。ただし、純粋さは作品にうまく昇華されれば傑作が生まれるが、逆に未来予測などの方面に発揮されると(『どこへゆく』所収の「娘がこっちへ、若者はあっちへ歩く」など)子供っぽさが目立ってしまい、幼稚な印象を与えてしまう。二冊はともに、ブラッドベリの魅力とそれ故の欠点を示した、良くも悪くもブラッドベリそのものと言えるエッセイ集であると言える。
 蛇足になるが、本書では短編のタイトルをオリジナルに訳していることが多い(「群集」は「人だかり」、「ある老母の話」は「ある老婆がいた」他多数)。原題を示せとまでは言わないが、せめて編注などでどの本所収の短編かを示していただけると(その方が大変かもしれないけれど)、後で作品を探しやすくて助かったのではないかと思う。

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『イカロスになりそこねた男』H・G・ウエルズ

(1996年5月20日発行/橋本槙矩訳/ジャストシステム/1600円)

『地軸変更計画』ジュール・ヴェルヌ

(1996年5月20日発行/榊原晃三訳/ジャストシステム/1600円)

 ジャストシステムからは、全十篇のうち八篇が本邦初訳となるウエルズの短編集『イカロスになりそこねた男』と、これまた本邦初訳長編と短編のカップリングであるヴェルヌ『地軸変更計画』が同時に刊行された。
 前者を通読すると、ウエルズもまた十九世紀末ロンドンの退廃と美を漂わせた作家であったことがよくわかる。お気に入りの服に操られるかのように銀色の月光のもと男が走り踊り狂う「美しい服」、絵の完成に夢中になる余り妻の死に気づかない男の悲喜劇「芸術崇拝」などは、従来のウエルズのイメージとは一味違う魅力を持っている。もちろん、当時の最新科学技術をもとに飛行機乗りの悲劇を描いた「空中飛行家」「イカロスになりそこねた男」などには、詳細かつ的確な飛行機の描写により、科学師範学校で学んだウエルズの面目躍如たるところがあることは言うまでもない。集中のベストは、既訳作品ではあるが、やはり「世界終末戦争の悪夢」であろう。未来の地球で起きた戦争の様子を毎晩ある男が夢に見る。男は夢の中では国のリーダーであったが、ある女性と恋に落ち、地位を捨てる。変わってリーダーとなった独裁者イヴシャムはついに戦争を起こし、二人の運命も悲劇に終わる……。恋の終わりと世界の終末が重なったダブル・ヴィジョンが強烈な印象を残す異色作である。
 スペキュレイティヴなウエルズ、リアリストのヴェルヌという言い方があるかどうかは知らないが、少なくとも筆者はそういうイメージを持っていた。今回図らずも両者の作品を同時に読んで、ヴィジョナリーのウエルズ、ストーリーテラーのヴェルヌという印象が新たに付け加えられたと言っておこう。『地軸変更計画』は、『月世界旅行』のメンバーが今度は地球の地軸を変更し、北極の氷を溶かして陸地の鉱脈を採掘しようという計画を実行しようとする奇天烈な話である。このトンでもない話をヴェルヌは軽妙な話術で巧みに展開していく。果たして地軸は変更できるのか、またその方法は……。結末は悲劇で終わるが、これは決して『二十世紀のパリ』のような悲観的な世界観から生じたものではなく、落とし噺としての必要性から生じたものだ。思わず脱力するような落ちのために一冊の長編を仕上げてみせたヴェルヌに、ベストセラー作家としての職人魂を見た思いがした。

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