SF Review



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わたしのロングセラー(『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』フィリップ・K・ディック)

「つまりこうなんだ結局。人間が塵から作られたことを、諸君はよく考えてみなくちゃいかん。たしかに、元がこれではたかが知れとるし、それを忘れるべきじゃない。しかしだな、そんなみじめな出だしのわりに、人間はまずまずうまくやってきたじゃないか。だから、われわれがいま直面しているこのひどい状況も、きっと切りぬけられるというのが、わたしの個人的信念だ。わかるか?」
 こんなパラグラフを冒頭に掲げた本書『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』が早川書房の〈海外SFノヴェルズ〉発刊記念の一冊として出版されたのは一九七八年二月のこと。映画「未知との遭遇」が封切られた直後であり、「スター・ウォーズ」第一作はこの年の七月に公開されるということで、当時は世を挙げてのSFブームでした。まだ中学生だったくせに、いっぱしのSFマニアを気取っていた私は、乏しいお小遣いをはたいて初めてハードカバーを購入したのです。プリズムが一筋の光を分散しているイラスト(ピンク・フロイド『狂気』のジャケットのパクリですね)をあしらった黄色いカバーの洒落た装幀も、大人の雰囲気を漂わせていました。わくわくしながら読み始めると、そこには想像もしなかった世界が……。妻子と別れて悩むビジネスマン、人形セット遊びに夢中になる火星の移民たち、人間がどろりと崩れ落ちる幻覚の恐ろしさ、義手と義眼と鋼鉄の歯を持つパーマー・エルドリッチの異様さ……。悪夢のような物語にぐいぐい引き込まれ、その迫力に圧倒されました。それまで読んできた子供向けSFにあったような、明るい未来や科学的整合性はどこにもありません。そうか、これが大人のSFなんだ……。読み終えたその日からディックの新刊を待ち望み、出版されるや、むさぼるように読みふけりました。あれから二十七年。最新刊『ドクター・ブラッドマネー』では念願の解説も書くことができ、ファン冥利につきるといったところです。もちろん本書も何度も読み返していますが、その度に新たな発見があります。冒頭の言葉はエルドリッチと戦うレオの台詞で、逆境の中で執筆を続けたディック自身の信念をよく表しています。つらいことがあると、この台詞をふと思い出してしまうのは、あの悪夢のような世界こそ実は現実なのだと分かってきたからでしょうか。困難を乗り越えようとする心優しき人に読まれて然るべき作品だと思います。

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