ある頸損者のベンチレータ事故死
後藤礼治 鹿児島
95年暮れに出版された「あの子の笑顔は永遠に」著は、笹井裕子さんが自分の息子、故・笹井健二さんのために「19年の生命の証」と題して書かれました。
「あの子の笑顔は永遠に」著の表紙には、ベッド上で健二さんが、驚くほど明るい表情の写真が飾ってあります。
私は写真を見たとき、あまりの優しいその笑顔に圧倒されてしまいました。
しかし次第にせつない気持ちへと変わっていきました。
写真には、健二さんの喉からベッドサイドへと延びていくベンチレータ用チューブが写っていました。
笹井健二さんは、昭和49年埼玉に生まれ、幼稚園の頃から熱心に体操クラブへ通う体操少年だったようです。
小学校高学年には、全国少年少女体操競技大会で個人総合2位の成績を収めており、中学時代はアイハラ体操クラブ招待選手として大会へ参加、個人総合3位の好成績を収めています。
周囲から将来は、オリンピック選手へなれると大いに期待されていたようです。
本人もオリンピック選手を夢見ていたようです。
ところが、昭和62年彼が13才のとき、体操の練習中に頚椎(3/4)を骨折し、以来、呼吸器(ベンチレータ)へ依存する生活となりました。
病院で約2年間の入院生活を送った後、ベンチレータを付けた状態で自宅へ退院しています。
しかし、自宅療養を始めて約5年後の平成5年、ベンチレータのトラブルと思われる事故が起こり亡くなってしまいました。
突然ベンチレータから空気が流れなくなり、気づいたときには既に健二さんの意識はなかったそうです。
彼はまだ19才でした。
私が健二さんを知ったのは、四肢麻痺者の情報誌「はがき通信」(代表・向坊弘道、編集・松井和子)を読んでです。
亡くなる少し以前から彼の母親である裕子さんが投稿していたからです。
私は、自身も10年前の交通事故で頚椎(1/2)を骨折し、ベンチレータを3年間付けていた経験があります。
そのため健二さんの苦悩が少しは理解出来ると思いました。
なぜ、呼吸器事故という形で亡くなったのか。
日々、どのような気持ちで過ごしていたのか・・。
私自身は、事故後運ばれた病院が専門外の個人病院でした。
これほど重度な頚損は初めてのケースだったそうです。
主治医は大学病院へ指示を仰ぎながら処置、対応、看護婦はベンチレータを扱うのにとても不慣れでした。
今考えると信じられないような状況です。
酸素チューブは殺菌消毒のために定期的に交換する必要があります。
しかし知識がなく、所々黒っぽいカビのような物が付着していました。
看病する母が
「この黒いのはなんだろう」
と言っていました。
又、気管のカニューレに啖が詰まり
「苦しい、苦しい・・・」
と声にならない声で訴えた処、看護婦は私の胸に聴心器を充て
「酸素はちゃんと入ってますよ・・・」
と、気付きませんでした。
直後、慌てて当直の医師がカニューレごと抜き取りました。
カニューレ交換をしていなかったのが原因です。
そのあまりの苦しさに、私は、人間不信になった程です。
それでも当初、「三ヶ月くらいの命」かもしれないという不安から、それなりに一生懸命、取り組んでいたように思います。
しかし、地元を離れて、病院で付きそっていた母は一刻でも早く一緒に地元へ帰らなければという悲痛な気持ちでした。
私の父は、出来るかぎりの手を尽くし、地元の受け入れ先の病院を探しました。
ところが
「呼吸器がついた状態では・・。」
と、なかなか受け入れて貰えませんでした。
当時、私は19才でしたが、初めて社会に対する怒りや矛盾を感じました。
そして、約1年後、地元の病院へ転院できましたが、救急車へ呼吸器と酸素ボンベを積んで9時間の大移動でした。
その後、わずかに自力呼吸ができた事と呼吸器に頼っては危険だという教訓また、自宅へ戻ることが難しいという思いから、呼吸器から離脱する訓練を始めました。
当初、数秒間の離脱から始まって3年後に24時間へつながり、事故から約5年後無事に退院できました。
今では顎式電動車椅子へ乗っています。
母が当時をふり返って、
「呼吸器の警報アラームが鳴るたびに気がきではなかった。
夜間立って看病する時、半ば寝ているような状態だった・・・」
と語っていました。
母はよく血行障害から足首が腫れ、自分で指圧していました。
ただ、私は「あの子の笑顔は永遠に」著を読んで、残念ながら、健二さんの本当の気持ちや詳しい内容は解かりませんでした。
そしてもちろん、私の体験は彼らを始め他の全てのベンチレータ依存者に当てはまるものではありません。
しかし、母親の裕子さんが「はがき通信」を通し私へ宛てた手記から、
「呼吸器に関して似たような体験があり、考えるだけでも恐ろしく胸の痛む思いをした・・。
地元へ帰りたかったがどこの病院も受け入れて貰えず、大変困った。」
とありました。
また、
「入院中一度も呼吸の訓練は行われず、今考えると10分でも自力呼吸が出来てから退院していれば・・。」
と語っています。
健二さんは、入院中から尿意が回復し自然排尿が出来たそうですが担当医は、頚損の完全麻痺に尿意があるはずがないと考えており、又ベンチレータを外すことは考慮外で自発呼吸の訓練も行われなかったそうです。
もし、15分でも自力呼吸が可能であれば今回のように突発的で、家族に責任転嫁するような事故死は避けられたのではないでしょうか。
これから先、私達のような重度な頚損患者はますます増えていくと思います。
医療サイドの認識や在宅ベンチレータ使用者に対するケア環境を改善しない限り、再び同じような事故死が起こる可能性があります。
彼が頚損という事故にあったのは僅か13才のときです。
まだ社会の現実や不安を知らず、オリンピックを夢見て頑張っていた健二さんです。
彼にとって、この現実はあまりにも苛酷だったと思います。
健二さんのボランティアで彼と長く係わっていた方が、
「健ちゃんはよく泣いていた。
あの気持ちは誰にも分からない・・。」
と、ふと、呟いたそうです。
今、夢なかばにして亡くなった建二さんのことを思うと、どんなに悔しい思いだったか、ぶつけようのない激しい怒りを必死で抑えていたのではと感じています。
彼の母親である裕子さんが言われた
「我々、一人一人が大切な命ですから! 」
という言葉を改めて噛みしめたいと思います。
慎んでご冥福をお祈りします。
96年2月10日