(続き)
CIL(自立生活センター)バークレーが開いてくれた8月28日のCILの向かいのタイ料理レストランでの送別会にもデイビッドは来てくれて、
「とても良いパーティだった」
と言ってくれた。
翌8月29日の僕のアパートでのさよならパーティにも来てくれた。ジョー(僕達の友人)の運転でデイビッドのバンで。アテンダント(介助者)やその他の人達も一緒に。
チキン、ビール、ペプシ、その他の簡単なパーティだったがいろいろな人が来てくれて狭いリビングがいっぱいになった。
デイビッドから札入れを貰い、ジョーから「最初の1ドル」を貰った。
デイビッドが、
「君がいないのをとても寂しく思う I miss you very much. 」
と何度も言った。
頚髄損傷者の人達とはだいたいよく話が通じたが、その中でもデイビッドは、アメリカでできた僕の友達の一人だった。
デイビッドとは他にもよく会って、いろいろなことについて話をした。デイビッドのアパートでのパーティにもよく呼ばれたし、僕がデイビッドを日本レストランに招待して寿司をご馳走したこともある。
デイビッドは介助者費用としてはカリフォルニア州のアテンダント・サービス・プログラムである”在宅援助サービス(In-Home Supportive Service)”を利用していた。そして、IHSSから1カ月に220−230時間のアテンダント・サービスを認められていた。生活費についてはSSI(Supplemental Security Income、補完保障所得。社会保障法 [Sociall Security Act] 16章)を受給していた。
彼は、
「SSIからの金は私の金だが、IHSSからの金はアテンダントに払うものであって私の金ではない」
と言っていた。
「私とアテンダントとの関係は友好的ではあるが決して友人ではない。あまり友好的になり過ぎることは必ず面倒な事を引き起こす」
と言っていた。
また、ちょっとした無償の親切について、
「状況。頼み方次第だ」
と言い、 個人主義について、
「アメリカの障害者だって朝と晩アテンダントが来てくれるのを待っているだけで、家から出ないで何もしない人がたくさんいる。しかし、家族との関係でも尊厳が問題になる。私の問題点は受傷以前からあまりにも独立心に富すぎていたことだが」
とも言っていた。
「アパートを借りて、家族・両親と離れて一人で住め。親と一緒ではどうしようもない。人間の尊厳のために。
私の場合、秘密に全てを準備して、設定してしまってから親に話した。
女性は障害をもつ個人の内面の強さを好きだ」
僕のスズキの電動車椅子を見て、
「良いデザインだが遅すぎる」
と言った。
その他、様々なことについて話をした。
フィル・シャーベスとジョー・シムズ
★アテンダント・サービス・プログラムを利用して有償アテンダントの介助サービスを得、生活しているが、一部分、経済力のあるタイプ
デイビッドは、特別な資産や収入はないが、米国のアテンダント・サービス・プログラムを利用して、家族やボランティアから介助を得ているのではなく、有償のアテンダントから、生きて行くために必要な介助を得て自律生活していた頚髄損傷者だ。
この類型こそが日本と比較して現在の米国において生活している頚髄損傷者の内で最もユニークな存在であり、頚髄損傷者にとっての「もう一つの選択肢」とでもいうべき新しい可能性であるだろうと言うことについては前回既に述べた。
アテンダント・サービス・プログラムを利用して有償アテンダントの介助サービスを得、生活していた頚髄損傷者の類型に入るが、一部分、経済力のあるタイプとしてシャーベスとジョーをここでついでに紹介する。
彼らはパートタイムや臨時雇いではなくほぼフルタイムで正式雇傭されているタイプだ。アテンダント費用の公的援助は受けているであろうが、少なくともアテンダント費用を除いた生活費を自分で稼いでいる人だ。日本では高位頚髄損傷者が就業している例は、現在でも極めて少数だが、ベイエリアには仕事をしている高位頚髄損傷者がかなりいた。
フィル・シャーベス
シャーベスは32歳の白人男性で、16歳の時、飛び込みでC−5頚髄損傷者となった。電動リクライニング車椅子を使用し、高位頚髄損傷者の中でも重度の方だが、CILの自立生活技能(Independent Living Skill)クラスの教師をしている。
彼は、リモート・コントロールで収尿袋を空にする装置を使って、昼の間は長時間一人で行動する。アテンダントは朝と晩に来る。シャーベスはガール・フレンドと住んでいた。
シャーベスとのセクシュアリティに関するミーティングで、彼は、
「相手のして欲しいことを聞く。
デートに行くと確かに色々困難なこともある。食事のために電動車椅子にテーブルを付けている。ホテルとかでベッドに上がるのはアテンダントに頼む。
最初は照れくさくて顔が赤くなったりして困惑するが、段々気楽にになる」
と言った。
シャーベスを始めとして、仕事に関して、CILが雇用の場を提供して、そこで障害者の能力を鍛え、キャリアを積んでいくという場にもなっていた。最初は、パートタイム・スタッフとして、ピア(仲間)・カウンセラー、IL技能のトレーナー、教師、スペシャリスト、などだ。それから、各部門のフルタイム・スタッフ、各部門の部長、所長とキャリアを積んでいく人もいる。そして、これらをステップにして、政府部門や他の組織に移っていく機会も多い。
ジョー・シムズ
ジョーもベイエリアで仕事に就いている高位頚髄損傷者の一人だ。
C−5の白人男性の頚髄損傷者で電動車椅子を使っていて、障害は重度だが、バークレーで高校の教師をしていた。CILバークレーの理事でもあった。
ジョーと最初に話したのはCILのクリスマス・パーティだった。その後もCILで時々、話をした。
ジョーは、
「人々の注意を得ることが必要だ」
と言った。
A失敗例?
カリフォルニア州にはIHSSというアテンダント費用に関する社会保障制度があるので、他の州からカリフォルニア州にやってきて生活している障害者も多い。
本当に多くの人がやってきて、様々な生活をしている。すべての障害をもつ個人達が成功しているわけではない。
こんな例もあった。
ある若い女性障害者がアリゾナ州から来て、アパートを借り、介助者を雇い生活していたが、クリスマスの休暇で帰った時、未婚のまま男児を早産し、赤ちゃんは死に、彼女自身も重体となり、厳格なカソリック教徒である彼女の父親に、カリフォルニアに戻ることを禁じられた。
しかし、本当に失敗と言えるだろうか。生きたいように生きたのではないだろうか。人間には危険に挑戦して失敗する自由があるとも言える。
B自立生活運動のリーダー
エドワード V. ロバーツ
エド・ロバーツは、はアメリカの障害をもつ個人達の運動のリーダーとして日本でも有名だ。
エドは、カリフォルニア大学バークレー分校卒業した後、バークレーに最初の自立生活センターを設立し、初代所長となった。その後、カリフォルニア州のリハビリテーション局局長となった。現在は、民間のリサーチセンターである世界障害者問題研究所の代表をしている。
エドの障害はポリオで脊髄損傷ではないが、原因は別でも四肢マヒ障害という視点からは共通の問題を含んでいるし、何より彼はアメリカで最初に設立された自立生活センターの初代所長であり、彼の生活(史)と意識を知ることはアメリカの重度身体障害者の自立生活運動を考える場合の最適の素材の一つになるだろう。
最初にエドと直接に会い、話をしたのは1985年12月9日のCILバークレーでのクリスマス・パーティだった。電動車椅子に乗って呼吸補助装置を使わなければならないほどの四肢麻痺の重度身体障害者だか、快活で力強く、よく話をし、自信に溢れていて、頼りになりそうなタフな障害者だ、という印象だった。エドは既に日本でも有名だったし、僕もエドの書いたものやエドについて書かれていたものを読んでいたが、実際に会ったときの印象は鮮烈だった。
エドとはよく電話でも話しをしていた。エドの書いた本・文章を貰って読んだりもした。また,エドが代表をしているWID(World Institute on Disability、世界障害問題研究所)に行き、WIDが出版したペーパーの文献研究をすることと、そこのスタッフとミーティングすることは、僕の留学研修活動のひとつだった。
エドの家にも二回訪ねて行って話をした。
最初にエドの家に行ったのは1986年4月27日、良く晴れた日曜日だった。マッカーサー駅からコンコルド行きのバート(地下鉄)に乗りロックリッジで降りた。
前もって地図で調べておいた北の方へ3ブロック行って、シャーボットの通りで6031のエドの家を探していたら、人の良さそうなおじさんが一人やって来て、
「エドの家を探しているんじゃないのか」
と言って、エドの家まで案内してくれた。
エドの家は声をかけられたところのすぐそば、二つ隣の家だった。案内してくれたのはエドのアテンダントのアレンだった。
ロックリッジは環境の良い街でエドの家もとても感じが良かった。エドのアテンダントのアレンも感じが良かった。
家の出入口にはスロープがあった。エドの部屋は一階の玄関のそばにあった。
エドは彼の母親と同居していた。彼の従兄弟も一緒に住んでいた。
エドは鉄の肺に入っていた。
「夜眠るときも入っている」
と彼は言った。
他にスピーカホンやリモコン付きのテレビを彼は使っていた。エドの使っているリモート・コントロール・スイッチ・システムについて、僕が、
「いくらですか」
と聞くと、
「1万ドルだ」
との答えだった。
エドがコーヒーや紅茶を進めてくれた。
「あなたの話をメモしていいですか」
と聞くと、
「OK」
と言われた。僕は持ってきたエドの書いたペーパーのファイルを見せ、
「これは全部あなたの書いたものです。あなたは日本ではスーパーマンとして知られています」
と説明した。エドは、
「そんなことはない」
と言ったが。