wqhp One Year of the Life in America "WORKING QUADS" Inc. January 30 2019 Independent Living Movement in America
『アメリカの一年』

"WORKING QUADS" new wqc SEIKE, Kazuo, president / links / 働く四肢まひ者たち(ワーキング・クォーズ)
"WORKING QUADS" Inc. president, Kazuo Seike on january 1, 2010
1985年11月19日、 サンフランシスコ、ゴールデンゲートブリッジ、金門橋 清家一雄、
有限会社ワーキング・クォーズ The International Love Circle ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業


Colleen Starkloff, paraquads, 1986.0805, St. Louis by The International Love Circle
、アメリカ合衆国ミズーリ州セントルイス、




1986年のセントルイス、マックス&コリーン・スタークロフ、パラクォッド
1986 0805. St. Louis



1986年08月05日、当時、29歳。
『アメリカの一年』One Year of the Life in America。




written by Kazuo Seike 清家 一雄:重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
初出:「アメリカの一年」[1]、『脊損ニュース』1987年ー1988年、 全国脊髄損傷者連合会、1987.
1985年11月〜1986年9月、アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー
ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
財団法人 広げよう愛の輪運動基金、財団法人 日本障害者リハビリテーション協会

有限会社ワーキング・クォーズ(働く四肢まひ者)
清家 一雄、取締役社長
http://www.asahi-net.or.jp/~YS2K-SIK/ seike@working-quads.com
Tel 092-821-0819 Fax 092-821-0810
〒814-0012 福岡市早良区昭代1丁目21番10号










the Annpan Man of "Working Quads" office

on February 14, 2009 from
"WORKING QUDS" Inc.The Helper Stationon
2009年のWQアンパンマン
on February 14, 2009

2009年のWQアンパンマン
on February 14, 2009





有限会社ワーキング・クォーズ(働く四肢まひ者)



清家一雄
有限会社ワーキング・クォーズ(働く四肢まひ者)
介護保険・障害者自立支援法による高齢者・障害者ヘルパーステーション
介護保険事業者番号 4071401394
支援費事業者番号 40130100107116
昭代ヘルパーステーション
〒814-0012 福岡市早良区昭代1丁目21番10号
Tel +81-92-821-0819 Fax +81-92-821-2452
会社事務所
〒810-0074 福岡市中央区大手門1丁目4番605号
Tel 092-735-1133 Fax 092-735-1134
"WORKING QUADS" HomePage
http://www.asahi-net.or.jp/~YS2K-SIK/




  
清家 一雄 
有限会社ワーキング・クォーズ(働く四肢まひ者)取締役社長
     重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表
   『ワーキング・クォーズ』編集部
"WORKING QUADS" HomePage 制作提供

有限会社ワーキング・クォーズ
大手門事務所
〒810-0074 福岡市中央区大手門1丁目4番605号
Tel 092-735-1133
Fax 092-735-1134

昭代ヘルパーステーション
〒814-0012 福岡市早良区昭代1丁目21番10号
Tel 092-821-0819
Fax 092-821-2452








] WORKING QUADS

アメリカの1年

『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』
『アメリカにおける自律生活の実験と介助者サービス事業に関する調査報告』

                福岡県脊髄損傷者連合会 頚損部長  清家一雄


the first TOKYO, MR. DONUTS US STUDY
東京、新宿、高層ビル街、ミスタードーナツ留学研修、第3次選考、面接
The International Love Circle
ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
広げよう愛の輪運動基金






One Year of the Life in America
『アメリカの一年』





One Year of the Life in America
『アメリカの一年』





One Year of the Life in America
『アメリカの一年』




WORKING QUADS

アメリカの1年 No.1
One Year of the Life in America
『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』
1985年11月〜1986年9月、アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー
ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
財団法人 広げよう愛の輪運動基金、財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
written by Kazuo Seike 清家 一雄:重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
初出:「アメリカの一年」[1]、『脊損ニュース』1987年4月号、 pp.10-15、全国脊髄損傷者連合会、1987.4

アメリカの1年

『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』 『アメリカにおける自律生活の実験と介助者サービス事業に関する調査報告』

                福岡県脊髄損傷者連合会 頚損部長  清家一雄

第一回報告

一.初めに 

 寒い冬が続いていますが、会の皆様は元気で頑張っていられることと思います。

 僕は全国脊髄損傷者連合会の会員で福岡県脊髄損傷者連合会の頚損部長をしている清家一雄といいます。脊損ニュースの6月号で紹介していただいたように、1985年11月から翌年の9月まで約10カ月間、潟~スタードーナツの奨学金を得て、(財)日本リハビリテーション協会の協力で、アメリカにアテンダント・サービスプログラム(介助サービス事業)の調査研究を主目的として、留学に行ってきました。この度、伊藤会長、井沢事務局長、白石福脊連会長、松井(東京都神経科学総合研究所)先生のご配慮で、脊損ニュースにアメリカの事を書くスペースをいただきました。

 アメリカへは多くの人が行きたくさんの事が語られていますが、僕のみたアメリカと言うのは、、頚髄損傷者という立場からのもので、また違った姿を見せてくれたような気がします。僕自身の体験や留学成果が 会員皆様の考える素材、ヒントになればと思い、ここにその一端を報告します。御意見、ご質問、御感想などを是非お聞かせ下さい。

 このようなプログラムに無償の援助を続けて下さっているミスター・ドーナツをはじめとする全ての人々に厚く感謝いたします。どうもありがとうございます。



二.アメリカへ留学に行った理由と介助サービス制度の必要性 

 1. なぜアメリカへ留学する必要があったのか、

 僕は、C−5頚髄損傷者という脊髄損傷者の中でも非常に重度の障害を持つものです。日本における日常生活も大変ですが、アメリカでの留学生活においても多くの困難が予想され、僕自身も非常な不安を感じていましたが、それにもかかわらず、アメリカに留学に行った理由は、アメリカにはアテンダント・サービス・プログラム(介助者サービス事業)という、今のところ日本にはない、在宅介助サービス制度があり、それについて調査・研究したかったからです。

 介助サービスとは、重度身体傷害者などの日常の動作を介助者が補助する仕事で、必要とされれば、家事雑用も行うものですが、介助者はボランティアと異なり、介助を受けるものは手当を払います。在宅介助サービス制度は、障害者の自立生活運動を背景として、アメリカで生まれ、障害者の組織「自立生活センター(CIL)」が深く関与しています。

 そして、研究の具体的なテーマとしては、

@アメリカ、特にカリフォルニア州の、十分な資産や収入のない障害者がどういう根拠でどういうところから介助者を雇うお金を得ているのか?

A障害者の介助者に対する関係に於ける緊急事態管理はどの様にしているのか?

Bアメリカの社会で頑張って生きている重度身体障害者の実態(人生に敗者復活戦はあるのか)?

というような事を考えていましたが、僕自身がアメリカの介助サービスを実際に利用してみて、重度身体障害者がどこまで自由に生きられるか、ということを実験してみるという事も留学の大きな目的の一つでした。



 2.なんの為に介助サービス制度が必要なのか、

   日本の頚髄損傷者の現状 − 僕自身を具体例として

 介助サービス制度が日常生活動作のできない重度身体障害者の自律生活を根底において支えるものだからです。重度身体障害者が自律するには経済的基盤と同時に身の回りの世話をしてくれる介助者が必要だと思います。そして在宅介助サービス制度を日本でも普及させる必要があると痛感しています。

 僕のこのような考えは、僕自身の日常生活の必要性から、あるいは危機感からといった方が良いかもしれませんが、生じてきたものです。そしてこの必要性、危機感は、全ての頚髄損傷者に共通しているものだと思います。また、質的、量的な違いはあるかもしれませんが、対麻痺者にも共通の問題だともいえます。20年ほど前までは、対麻痺者も、現在の頚髄損傷者のおかれているような、非常に厳しい、ある意味では絶望的な状況にあったのだろうと思います。尿路管理と褥瘡対策、車椅子と改造自動車、そして各種の所得保障が対麻痺者の生活を改善したのではないでしょうか。脊髄神経回復の課題は依然として残されてはいますが。さらに付け加えていえば、健常者も障害を持つ可能性がありますし、長生きすれば老人になります。介助の必要性という問題は、可能性あるいは将来の安心感という観点からは、全ての人々にとっても共通の問題だといえるかもしれません。ただ、現在の緊急の問題としては、頚髄損傷者を初めとする四肢麻痺者にとっての最重要課題といえるでしょう。

 それではどのような過程をえて僕がこのような考えを持つようになったのか、僕の生活史をここで少し紹介することにします。ただし、ここで注意して頂きたいのは、介助の必要性、危機感というものが共通のものであっても、それに対する解決案としての在宅介助サービスというものは、一つのサンプルであって、この他にも、フォーカス住宅、ナーシングホーム、家族内での専従介助者、国立療養所箱根病院西病棟、八王子自立ホーム、ホームヘルパー、ボランティア、あるいは施設や病院など、様々なタイプのものが考えられるということです。それゆえ、これから述べる僕自身の体験や考えは一つの具体例,サンプルに過ぎませんが、これが会員の皆様にとって刺激や情報となり、それぞれ抱えられている問題の解決案を考えるきっかけになればと思います。

 僕は、昭和48年以来のわりと古い会員で、現在、福岡県脊髄損傷者連合会の頚損部長をしています。

 昭和32年2月24日生まれ。29歳です。

 昭和48年7月26日、福岡県立修猷館高校2年のラグビー部時代、社会人チームとの練習試合中、スクラムで第4・5頚髄を損傷し、C−5レベルの躯幹四肢マヒという障害を持ち、日常的に介助を必要とする状態になりました。肺活量などの基礎体力も低く、受傷時、救急車で運ばれていた時、呼吸がうまくできず酸素マスクを着けていました。腕で、コントロールできる部分は肩の三角筋と上腕2頭筋だけで、手を上げることと肘を曲げることはできます。右手は最初全く動かず、半年経った頃やっと動かせるようになりました。力は強くなく、寝返りさえ一人ではできません。腕を延ばす上腕3頭筋をコントロールできず、褥瘡対策のプッシュアップができないので、電動リクライニング車椅子を使い尻への減圧を図っています。

 受傷時、市内の溝口外科整形外科病院という救急病院で2週間の酸素テント、3カ月の頭蓋骨牽引を受けました。高熱が出て褥瘡もできました。付添いさんに付いて貰っていましたが、家族もよく世話をしてくれました。

 4カ月間の入院の後、北九州市の九州労災病院へ転院しました。僕は私傷で労災ではなかったのですが、溝口病院の院長先生がラグビー部のOBで、リハビリテーション医療が優れていた九州労災病院で医療を受けられるように配慮して下さったからです。九州労災病院では山下さんという良い付添いさんに、排泄や痙攣対策など生活のリズムを教えてもらいました。これは現在でも基本的には変わっていません。理学療法や作業療法なども受け、平らなところならゴムの付いた手袋で手動の車椅子を押して移動し、フォークを手のひらに付ける自助具で食事をし、ペンホルダーで字が書けるようになりました。この病院に入院していたときに、全国脊髄損傷者連合会の会員になりました。

 1年8カ月のリハビリテーションの後、昭和50年7月31日退院しました。家族が非常に協力的で、当時としては、早期退院による家庭復帰が可能なったのだと感謝しています。特に、弟達がよく面倒を見てくれました。家では、オーバーヘッドバーを付けた病院用のベッドと手動の車椅子を使っていました。家の出入口にスロープを付け、洗面台を使いやすくし、車椅子ではいれる机を作りました。父は建築の仕事をしています。

 昭和51年4月、同高校に車椅子で復学しました。当時は、頚損者にとっての社会復帰としてはせいぜい家庭復帰がいわれていた時代で、僕も復学の事などあまり現実の可能性としては考えられなかったのですが、九州労災病院の北島先生が僕の高校の先輩で、復学を進めてくれ、周囲もそれを受け入れてくれて、幸運でした。高校へは、弟の幸治が一緒だったので、通学で車椅子を押して貰うなど、弟から介助を受けることが出来、その点でも恵まれていました。雨が降ったら、「尻休め」などといって、家で横を向いて寝ていました。昭和52年3月、卒業しました。

 昭和53年4月九州大学法学部に入学しました。通学は弟が車で手伝ってくれました。僕は昼起きてる間は、字を書く道具を右手に着けっぱなしにしていて、手動の車椅子はほとんど押せず、また、長い距離や、でこぼこ道、かまぼこ型の道、坂道では、僕にとって、手動の車椅子はあまり実用性がないので、電動車椅子をこの頃から使い始めました。学内では電動車椅子で移動し、友人達に助けてもらいました。ここで学んだり友達をつくったことが社会的自律生活のトレーニングになったと思います。

 受話器を握れずダイヤルを回せないので、電話をドアホン付きのプッシュダイヤルのスピーカーホンに変え、机やベッドの横など、常に手が届くところへ置いておくようにし、家の外部と自由に話ができるようになりました。エアコンもリモコン式のに変え、このスイッチも手が届くところに持って回るようにしました。昭和58年から電動リラクライニング車椅子を使い始めました。

 生活を便利にする道具は段々増えてきて、現在は、オーバーヘッドバー付きベッド、電動リクライニング車椅子、ホイスト、スピーカーホン、食事道具、書字道具、ワープロとしても使えるパソコン、各種リモコンなどを使っています。

 昭和58年に、日米交流障害者セミナーが福岡でも行われ、アメリカの障害者の自立運動や介助サービス制度などに関して情報を得、刺激を受けました。

 昭和59年3月同大学を卒業し、不動産に関する資格を取り、清家不動産サービスという名前で一応開業しています。企業などへの就職は、卒業時に、学生掛かりに相談してみたのですが、「法定雇用率などはあっても、障害にもレベルがあるから」ということでした。

 現在は在宅で、障害基礎年金と特別障害者手当を受給しています。

 このように、最高水準の医療とリハビリテーション、高度技術製品を持ってしても、それでもなお日常生活動作に困難の伴う、頚損者が生きていくためには、数え切れないほどの人達の協力が必要不可欠です。中でも、衣服の着脱、ベッドと車椅子間の移動、身ずくろい、食事、排せつ、褥瘡の処理など、身体接触を伴う辛い仕事を引き受けてくれる介助者なしでは、生存して行くことさえ不可能です。この点、僕は多くの人々、特に、家族の協力、援助に恵まれていました。

 しかし、あらゆる事をいつまでも家族に頼るのは、やはり無理があります。僕の場合も、僕が心配や面倒をかけたせいで、母親も健康を失い、昭和57年に、母がリュウマチで福岡国立中央病院に1年間入院、つられて、父も過労による高血圧で倒れ、同病院に同時に4カ月入院しました。その当時、僕の面倒を見てくれたのは、87歳の祖母と、大学へ送り迎えしてくれていた弟と、高校3年生の弟と、パートの家政婦さん(主に掃除)、でした。この時は、介助の主な担い手であった弟が受験生だったこともあり、朝横を向けて貰ったら晩塾から帰ってくるまで寝た切りのままというような、全くひどい生活をしていました。ホームヘルパーさんの派遣を、事情を説明して、「有料でも良いから」と、福祉事務所にお願いしたのですが、この時は、「お気の毒ですが、税金を払っている世帯には派遣できません」と断わられました。現在は、週2回、時給690円で来て貰っていてとても助かっています。パートの介助者の人にも来て貰っています。

 また、僕が入院していた2年間は付添いさんという他人介助でしたが、労災病院にいた20カ月、付添い代は全部自費でした。ああいった自己負担を個人が何年も何十年も続けるのはほとんど不可能です。

 家族は独立したり、年老いていきます。全ての障害者に協力的で元気な家族がいるとは限りません。家族にも彼らの生活があります。また、頚損者の介助の場合、一人切りあるいは小数の介助者では容易に燃え尽きさせられる危険があります。こういった場合に、身の回りの世話をしてくれる介助者が必要になる、という事は、僕一人だけの問題ではない、と思います。

 そして、医療の進歩と共に延命が非常に進んできている事と受傷時の入院期間も短くなる傾向にある事とが、この問題をより一層深刻かつ重要なものとしています。

 この、他人の介助を受けなければ生きて行くことができない、他人の介助というものは非常に高価なものである、介助を確実に手にいれることは非常に困難である、介助を自分の意思でコントロールする事はさらに困難である、という頚髄損傷者の抱えている問題はあまりに大きく、深刻過ぎて、大多数の頚損者をして思考停止にしてしまうほどです。

 松井先生の「頚髄損傷者意識調査」中間報告(昭和61年10月4日)によると、頚損者は、将来生活設計の期間という項目に関し、高位頚損者の63%、下位頚損者の52%が「先のことは分からない」と回答し、「お先真っ暗」とか「先の事は考えないようにしている」と言うそうです。

 この、日常生活動作ができない重度障害者の介助について、誰が負担を引き受けるのか、という問題について、直接の介助者としては、@家族、A施設、B病院、Cボランティア、Dホームヘルパー、E有料介助者などが考えられ、最終的な費用負担者としては、@障害者本人、A家族、B保険、C贈与者、D納税者、などが考えられますが、アメリカの介助サービス制度は、原型としては、直接の介助者としては有料介助者、費用負担者としては納税者の組合せから構成されているといえるでしょう。

 僕はこのアメリカの在宅介助サービス制度ないしはそれを支える考え方が日本の頚髄損傷者の自律生活にも必要だと思い、アメリカに留学に行ったわけです。



 3.ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣

 この事業は、(財)日本障害者リハビリテーション協会、(財)広げよう愛の輪運動基金、主催、(株)ダスキン、ミスタードーナツ、協賛によるもので、竹内嘉巳実行委員長によると、「障害者の福祉を共に高める」事を理念とするものです。また、愛の輪事務局長だった金山さんの話では、スポンサーの愛の輪基金は、ダスキンの「祈りの経営」に基づいて、「障害者にチャンスを与える」事と「ミスター・ドーナツが10年やってきた事への恩返し」という事で、この事業を始めたそうです。皆様がこのプログラムでアメリカへ勉強に行かれると良いなと思っています。連絡先は、リハ協で、電話、03−204−0960です。



三.準備、出発、到着

 1.準備段階

 アメリカ留学が決まってからも、家族や友人がいないアメリカで、しかも日本語が通じない国で、生活しながら僕の目的意識に添った留学の成果を上げることができるかどうか、そして具体的には、健康、排泄管理、褥瘡対策、介助、英会話など不安はたくさんありました。何より介助者費用が余分に掛かるので、ハッキリしたプランが立てられず、留学費用の一部である介助者費用を決定するために、アメリカでの介助時間などにつき、生きて行くために必要最小限の介助と快適な生活のための介助との線引きで悩みました。

 また、僕のような重度の者が行くのは初めての事らしく、派遣者のリハ協の方でも「これだけ重度の人を送り出すの初めてです。駄目だと思ったらそのまま飛行機に乗って帰っておいで」というように心配していましたし、僕自身も自分でもよくやるなあとあきれていました。

 しかし、失敗の危険に挑戦することにこそ人間の尊厳があるのかもしれません。

 とにかく、不安が大きい分、できるだけの準備をして行こうと思い、僕も事前研修レポートなどを書きながら勉強もしましたが、たくさんの人達に協力して貰いました。

 自立生活センターバークレーなどの受け入れ先との事務手続きは、日本障害者リハビリテーション協会障害者リーダー米国留学研修派遣事業事務局の井窪さん、中島さん、飯村さんに、現地でのアパート探しなどは、自立生活センターバークレー所長夫人のアツコさんに、パスポートやビザ、航空券の取得は日本交通公社の草薙グループにお世話になりました。

 英文の健康診断書が必要でしたが、総合せき損センターの岩坪暎二泌尿器科部長に書いていただきました。これはアメリカで非常に役に立ちました。また、センターの赤津隆院長からは助言を、溝口博溝口外科整形外科病院院長からは薬などでお世話になりました。北島俊裕先生にはクレジットカードの必要性を教えてもらい、父の家族会員ということで、アメリカンエクスプレスを用意しました。

 英会話のヒアリングについてはリンガフォンを友達に借りて勉強しました。また、アメリカではアメリカ人の介助者ですので、英文の介助マニュアルを準備しましたが、これには、総合せき損センターの松尾清美さん、医用工学のスタッフ、九州リハビリテーション大学のアイリーン山口先生、山口ともね先生、東京神経科学総合研究所の松井和子先生、グリーンライフ研究会の向坊弘道さんに協力していただきました。

 電動車椅子、自助具等の準備では、電動車椅子の整備、アメリカ用の充電器では九州スズキの財部さんに、ワープロの機能キーは井手さんに、カメラは、カメラの台にベルトを付け、そこに手の甲を差入れて固定し、シャッターは口でかんで押すというように藤家さんに、電動リクライニング車椅子のテーブルは山根さんに、飯塚の脊損センターの医用工学研究室で、食事道具などは有園制作所で、サックはヘルパーさん達に、その他、たくさんの人達の協力を得ました。

 8月には、アメリカ人と顔つなぎを東京のサンシャインプリンスホテルで行い、バークレーやセントルイスの自立生活センターの所長のマイクルやマックスに会い、USA情報を聞きました。9月には、福脊連の壮行会がありました。また、この頃、たくさんの人に、お餞別を頂きました。有難うございました。



 2.日本出発 

 これからは日記風に書いてみます。

 いよいよ11月14日に福岡を出発した。前の晩、弟の秀幸が夜の介助の後、素朴に祝福してくれた。

 この最期の日の朝までヘルパーさんに来てもらった。紺のJプレスのスーツにレジメンタルタイ、ワイシャツは白を着た。ヘルパーさんと握手して別れた。祖母との長い別れ。

 父のクラウンで福岡空港へ行った。電動車椅子、手動車椅子、書字道具や食事道具などを入れたスーツケース2個、手提げ鞄二つ、クッション3個という荷物だった。荷物は赤帽で運んだ。

 福岡空港には福脊連やミスタードーナツの人達も見送りにきてくれた。

 サンフランシスコまで弟の幸治が付いてきてくれることになった。渡航中、褥瘡、トイレ、電話連絡、荷物の管理など様々な困難が予想されたからだ。リハ協の井窪さんの計らいだった。

 成田空港のエアポートレストハウスというホテルで1泊した。ホテルへの移動は日産キャラバンを使った。

 その夜レストハウスに高校の友達が二人訪ねてくれた。

 僕は、「冗談が冗談の風に乗り、冗談の波の上で、サーフィンをやっている気がする。戦争で負けた国から電動車椅子で来てトイレの世話まで頼むのだから」と言った。

 ドン・キ・ホーテ。しかし見れる夢があるのは幸せなことかも知れない。狂気の夢でも夢から醒めさせられると人は頭にくる。それに重度身体障害者にとって夢と狂気と現実の区別をつけることは難しい。体が麻痺してしまったことだけは確かだが。とにかくアメリカン・ドリームを掴むことができるかどうか。スポンサーがついて大義名分があるからアメリカに長期間行けるが、その分受験勉強ができないしできなかった。これは賭だ。

 15日に出国した。成田空港では、井窪さん、飯村さん、金山さん、草薙さんが見送りにきてくれ、リハ協から研修報告用紙と留学研修費用約4,000ドルを貰った。広い空港を二周ぐらいした。物凄い警備だった。

 日本航空に、「長い時間座りっぱなしでは尻が危ないので隣の席を空けて下さい、」と頼んだ。席はエグゼグティブだった。隣は幸治と空席。幸治の協力で、横になったり、リクライニングを倒したり上半身の体重を背中や横に逃がした。 映画は『目撃者』、食事は洋食だった。シャンパン、ワインを飲んで寝た。

 日付変更線を越えた。



 3.アメリカ到着

 サンフランシスコ空港に着いた。

 サンフランシスコ空港で少し待ったりしていて10時間以上飛行機に乗っていた。空港の中は凄く慌ただしい。サンフランシスコ経由でヒューストンに行く人を見て思わず声を掛けたくなった。ヒューストンでは高校の友達が働いている。 入国手続きで弟と間違われた。ポーターに5ドルのチップ。

 アツコさん、介助者のハワード、運転手のデニスが迎えにきてくれていた。

 サンフランシスコは晴れていた。アパートまで自立生活センターのバンで40分ぐらいかかった。バンにはリフトが付いていて電動車椅子のまま乗れる。アパートはオークランド市にあった。用意されていたものは、ベッド、オーバーヘッドバー、シーツと毛布、それに電話。やかんもコップもない。

 ルームメイトのジャネットに会った。彼女も電動車椅子を使っていた。

 ベッドに上がった。尻は破れてない。感謝。

 ハワードとは今日は面接のみ。マクドナルドでビッグマックとコーヒーを買ってきて貰い食べた。アメリカのコインの学習。

 とにかく寝た。

 みんなが僕を暖かく迎え入れてくれた。異国の地で人の暖かさに触れた。



  以下次号に続く。







アメリカの1年 No.2
One Year of the Life in America
『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』
1985年11月〜1986年9月、アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー
ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
財団法人 広げよう愛の輪運動基金、財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
written by Kazuo Seike 清家 一雄:重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
初出:「アメリカの一年」[2]、『脊損ニュース』1987年5月号、 pp.18-21、全国脊髄損傷者連合会、1987.5
--------------------------------------------------------------------------------
「アメリカの一年」 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] 、
『脊損ニュース』1986年4月号〜1987年7月号、全国脊髄損傷者連合会、1986-1987、
--------------------------------------------------------------------------------
"WORKING QUADS" homepage



アメリカの1年



『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』



福岡県脊髄損傷者連合会 頚損部長

清家一雄



第二回報告



四 .アメリカの人々

 1.頚髄損傷者の生活と意識の多様性

 アメリカでは、かなりの期間、僕も、アパートに住んで自炊して、しかも重度身体障害者としてアテンダントサービスを利用しながら、日々の生活を実際に体験した。また、アテンダント・サービス・プログラムを利用して生活しているアメリカの障害を持つ人達と友人になり、彼らの生活を見、彼らの話を聞いた。アメリカの人々の生活や考え方、そしてその多様性にも多少なりとも触れる事ができたのではないだろうかと思う。

 アメリカではいろいろなことを体験したり学んだりしたが、その中でも最も印象的な出来事の一つが頚髄の第一番を損傷した人達(以下C−1頚髄損傷者)との出会いだった。1986年の6月にアメリカの首都ワシントンDCで開催された「自立生活全国会議」に参加した後、高校時代の友達が働いているテキサス州のヒューストン市に立ち寄った時、その亀岡という友達が見学をアレンジしてくれたリハビリテーション&リサーチ研究所(The Institute of Rehabilitaton & Researc、以下TIRR)でのことだった。



ジェローム

 C−1・2頚髄損傷者。TIRRに入院していた5歳の男の子。色が白くて可愛い顔をしている。数カ月前に、自転車に乗っていて自動車と正面衝突をして受傷。数時間死んでいたのをレスキュウが蘇生させた。C−1・2頚髄損傷者となる。

 肺の横隔膜をコントロールする神経は頚髄の4番のところにあるが、そこより脳に近いところを損傷しているので、自分で呼吸できない。フレニック・スティミュレーター(横隔膜刺激装置)というフレニックナーブを人工的に刺激する装置を使う。フレニックナーブは横隔膜をコントロールし、従って呼吸の動作をコントロールする神経。一つの電極を鎖骨の近くのフレニックナーブの隣に埋め込む。車椅子に取り付けることが可能な発信装置にはダイヤルとコントロールが付いているので、使用者は彼の呼吸を規制することができる。

 フレニック・スティミュレーターは17,000ドル。ちなみに機械的な人工呼吸装置は8,000ドルから10,000ドル。機械的人工呼吸機ではたんが詰まったりして、より自然の呼吸に近いフレニック・スティミュレーターに劣る。しかし、フレニック・スティミュレーターも故障することがある。TIRRは、ジェロームのように、フレニック・スティミュレーターを埋め込んだ人達を20ケース持っていた。

 ジェロームは言葉を話す時、呼吸動作を脳から直接コントロールできないので、吐く息に合わせて、少しずつ喋る。

 母親が、彼の医療費を稼ぐために、フィラデルフィアで働いていて、5カ月ぐらい前に、一人でヒューストンのTIRRに来ているジェロームは落ち込んでいる。

 優秀な医師と良い設備があれば延命は限りなく可能になってきているようだ。しかし、医学では治せない障害が残った場合、その延ばされた生命にどのような時間を吹き込むか、生活の質(Quality of Life)のようなものが問題にならざるを得ないのかもしれない。僕自身も頚髄損傷者だが、ジェロームに会ってそう思った。

 紹介された時、何と言って話しかけようかと思ったが、とにかく、「僕はいまカリフォルニアに住んでいる、バークレーにはクレージーな障害者がたくさん住んでいて、ベッドの上に乗ったままでさえ、レストランやコンサートに出かけているよ、テーク・ケア、グッド・ラック」と言った。

 ジェロームの写真は僕がジェロームだったら厭だろうと思い、撮らせて下さいとは頼まなかった。



 第一回報告で述べたように、僕はアメリカの在宅介助サービス制度ないしはそれを支える考え方が日本の頚髄損傷者の自律生活にも必要だと思い、アメリカに留学に行ったが、そのことはアメリカの頚髄損傷者達が全て自律して充実した生活を送っているということを意味するものではない。

 脊髄損傷、特に高位の頚髄損傷という障害が個人・人間にとっての非常に重大なインペアメント(機能・形態障害・一次的な障害)であるということは日本人にとってもアメリカ人にとっても変わりはない。頚髄損傷者達は、日本人もアメリカ人も、同じように身体が麻痺し、同じように身体の感覚が失われ、同じように身体の運動機能が制限され、同じように褥瘡、尿路感染、尿閉、大小便失禁などの身体的問題で悩んでいる。

 頚髄損傷という身体障害によるインペアメントが極限の形で現れるのがC−1完全頚髄損傷者だと思う。(日本にもC−3以上の部位を損傷しフレニックスティミュレーターやリスピレーターを使っている頚髄損傷者達がいる。日本ではフレニックスティミュレーターは400万円[1986年10月29日朝日新聞夕刊]、リスピレーターは300万円位[せき損センター]。)そこでは、人間=個人=頚髄損傷者は弱いものであり回りの人間に支えられているという面や、最重度の問題(障害が重度になればなるほど他の機能で補うことが難しくなる、生活の困難さは飛躍的に増す、補えなくなる。常に最後の手段を使う・使わざるを得ない、余裕がない、ということがいえるのではないかと思う)が明瞭に現れていると思う。さらにジェロームの場合には若年障害者の問題もあると思う。

 TIRRの医師が次のように言っていた。

「以前に8歳ぐらいの可愛い女の子がやはりフレニック・スティミュレーターを着けた。彼女はその後ナーシング・ホームか施設かに行ったが、寝た切りで、ただ生きているというだけの生活だった。10歳位になればメンスも始まる。10年位生きたが、結局20歳ぐらいで死んだ。・神は何処にいるのか・というような話ですが。

 アメリカの医療は金次第だということを強く感じる。メディケアやメディケイドがあるにしても、良い医療を受けるためには金が掛かる。治療費によって診療水準が決まる。その点、日本の健康保険制度の方がまだ良いのではないか。ジェロームの母親が働いているのもいつまで持つか」



 同じ日に、同じTIRRでキャシーというもう一人のC−1頚髄損傷者に会った。



キャシー

 彼女もC−1・2の頚髄損傷者でフレニック・スティミュレーターを使用していた。20歳頃受傷して、法学部を出て、現在はTIRRの顧問弁護士。38歳だった。

 彼女は上手に話した。彼女のオフィスにはコンピューターがあり、自分で使っていた。メトロというリフト付きのバンを利用していた。

 「あなたの写真を僕と一緒に撮っても良いですか」と聞くと、「もちろん(Sure!)」との答えだった。



 アメリカではキャシーの他にも、C−1頚髄損傷者ではないが、自律的に生きているたくさんの高位頚髄損傷者と会った。タフな障害者、強い障害者、卑屈にならない障害者達もたくさんいる。特にカリフォルニアやボストンでは、大きな資産や飛び抜けた才能があるわけではない、普通の頚髄損傷者が、アテンダントサービスを利用して、当り前の顔をして、アパートを借りて街の中で一人で生活していた。僕自身もアパートを借りて住んだ。バークレーやボストンという街は、ある意味では、重度身体障害者にとっての現代のおとぎ話の国のようなところだ。 

 同じ地球に生まれた人間で、同じ様な障害を持ち、同じ頚髄損傷者でありながら、カリフォルニアの頚損者は一人でアパートに住んでいる。僕自身もアパートを借りて住んだ。同じ障害を持つ個人に与える環境・場所の影響ないしは作用。これは帰国するときに特に強く感じたことだが、同じ頚髄損傷というインペアメントがあっても、頚髄損傷者の生活と意識には非常に大きな多様性があるように思う。(勿論、この多様性は日本の社会にも見られるが、アメリカの社会においては際だっているように思われる。)

 また頚髄損傷者の生活と意識の多様性は同一人の生活プロセスでの各段階の中にも時間の経過とともに現れる。アメリカでの留学当初と最後の方では、僕の生活と意識も変化していた。アメリカに着いた時と帰る時では、体の状態は全く変わっていなくても、その間に手に入れた知識、情報、技能、人間関係などから構成される内面的・社会的な自分が全然違う、実際の生活様式も違う、ということは感じていた。

 さらに進んで、人間の持つ意識や態度が環境に働きかけ、環境を変えていくということ、そこに住む人達の生活様式を変えていく、多様化するということもあるのだろうと思う。(確かに人間は弱い。頚髄損傷者は身体的には全く無力な存在だ。周囲の人に支えられている。しかし、本人も強くならなければならない。自分で出来ることは自分でやる。アメリカの場合だと、個人の自由・独立、そして尊厳といったアメリカの精神、魂ということの現れかもしれないが。自己管理、社会的交渉など、施設、病院の管理者、家族が行っていた部分の内出来ることはやる。できないことはアテンダントサービスなどを利用する。社会の障害者に対する偏見のようなバリアはあれば変えていく。この様な考え方もありうるのではないかと思う。)アメリカの自立生活運動は重度障害を持つ個人達の考え方が社会に働きかけ、環境を変え、アテンダントサービスなど新しい人間的サービスを生み出し、インペアメントは同じでも、新しい可能性を重度障害者の生活や意識にダイナミックにもたらしたのではないかと思う。



 共通のインペアメントを持つ頚髄損傷者の生活と意識のこの多様性は可能性の現れだとも思う。そこには重度障害と何とかうまく共に暮らしていく生活の知恵や展望ともいえるものが示されているのではないかと思う。



 2.留学当初の生活

 アメリカで留学生活を始めた時、僕は28歳だった。想像と実際の生活は非常に違ったものだったが、刺激に満ち溢れた、修行の場としては最高の1年だったように思う。



 ベイエリア(サンフランシスコ湾周辺地域)

 僕が最初に留学生活を始めたのはアメリカ西海岸にあるカリフォルニア州のベイエリアと呼ばれているところだった。ベイエリアというのはサンフランシスコ、バークレー、オークランドなどがバートという地下鉄で一つになっているサンフランシスコ湾岸地帯だ。ベイエリア全体では人口450万人を越え、メガロポリスを形成している。僕はオークランド市の41番ストリート517にあるアパートで生活を始めた。

 カリフォルニアは天然のエアコンを備えているみたいだ。冬暖かくて夏涼しい。気候が温暖でとても住み易いところだ。冬(雨期)には滝のような大雨が降るが、夏(乾期)の大空は凄く青い。食べ物もうまくて安い。

 そこに住む人達は、様々な人種、価値観を持つ人で構成されている。色々な少数派達が集まっているところだから、障害者もいっぱいいて、困難な条件を持つ人がひょっこり行ってもスッと受け入れてもらえるようなところがある。

 日本では対麻痺者でもかなり重度に見られるが、もっと困難な条件を抱えている人が普通通りバリバリやっていた。リクライニングの電動車椅子を使っているかなり重い頚髄損傷の人達が高校の先生とか介助者事業のコンピューター・プログラマーをやっていて、たくさんの人が街の中で生活している実態があった。

 治安は日本ほどは良くない。

 ベイエリアでは重度身体障害者による徹底的な自律生活の考え方とそれを支える社会保障・福祉としてアテンダント費用に関するカリフォルニア州のプログラムIHSSが非常に印象的だった。



 生活

 アパートは民間のもので、木造2階建ての1階だった。かなり古い建物だったが1階の出入口に車椅子用のスロープが付いていた。クーラーはなかったがセントラルヒーティングがあった。

 単身での生活だったが、最初は、ジャネット・スワントコという電動車椅子を使う障害者の女性のルームメイトが一緒だった。ジャネットにはレイ、スティーブとジェリーという3人のパートタイムアテンダントがいた。

 収入は留学研修生として奨学金・研修費を愛の輪基金・リハ協から送金してもらった。アパートの家賃(1カ月250ドル)、ベッドのリース料(1カ月96ドル)、食費(1日10ドル)、雑費(1日5ドル)、アテンダント費用(1日35ドル)などで1カ月約1、800ドルだった。

 仕事というか勉強は自立生活センターバークレーを媒介としてアメリカのアテンダント・サービス・プログラムを中心としたリサーチをしていた。人に会って話を聞いたり文献を読んだりもしていたが、生活の全てが勉強みたいな面もあった。そしてそれをワープロや写真で記録に取っていた。一応、毎月研修報告をリハ協に出すということが研修費送金の条件となっていた。



 アテンダント

 最初のアテンダントはハワード・マニングだった。最初の1週間は弟の幸治がいたので1日7時間のパートタイムアテンダントとして契約した。1時間5ドルがベイエリアでの相場だったので僕もそれに従った。

 ハワードは、「自分は9時から5時までのパートタイマーではなく、1日35ドルのサラリーマンであり、それを自分で選んで契約したのだ、夜中でも呼ばれれば来る」と言う。

 弟が日本に帰った日から、パートタイマーではなくてリブイン(住み込み)アテンダント(介助者)となった。僕はプライバシーなどもあり、どちらかというとパートタイマーの方が良かったが、CIL所長のマイクルやアツコが心配して、「リブインで様子を見て見ろ」と言う。

 ハワードは、彼自身もリブインを希望していて、「9時から5時までは嫌いだからと、リブインでも今のままの1日35ドルでよい、自分はパートタイマーではなく1日単位のサラリーマンとして契約したのだ。食料も自分の分は自分で賄う。ルームメイトのジャネットとも話はついてる」と言う。

 この晩から中国製のダウンの寝袋を持ってやって来た。





写真説明



1 C−1頚損者キャシーとTIRRの彼女のオフィスで



2 バートという地下鉄のような交通機関の列車の内部



3 アパートの正面



4 アパートの僕の部屋。ベッドはレンタル



5 ルームメイトのジャネット



6 食事



7 セーフウェイというスーパーで買物。左はアテンダントのハワード



8 サンフランシスコ市内









アメリカの1年 No.3
One Year of the Life in America
『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』
1985年11月〜1986年9月、アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー
ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
財団法人 広げよう愛の輪運動基金、財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
清家 一雄 Kazuo Seike: 重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
初出:「アメリカの一年」[3]、『脊損ニュース』1987年7月号、 pp.23-27、全国脊髄損傷者連合会、1987
--------------------------------------------------------------------------------
「アメリカの一年」 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] 、
『脊損ニュース』1986年4月号〜1987年7月号、全国脊髄損傷者連合会、1986-1987、
--------------------------------------------------------------------------------
"WORKING QUADS" homepage
--------------------------------------------------------------------------------



アメリカの1年



『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』



福岡県脊髄損傷者連合会 頚損部長

清家一雄



第三回報告



 今回はベイエリア(サンフランシスコ湾周辺地域)の障害を持つ人達の移動とアメリカの脊髄損傷者達のプレッシャーソー(蓐瘡)対策を中心に報告します。



 移動



 もはや電動車椅子なしの高位頚髄損傷者(四肢麻痺の重度身体障害者)の生活は考えられないだろう。移動の自由は精神的自由・行動の自由の現実の現れだと思う。

 バークレーはとにかくクレージーな障害者で溢れている異常な街だった。メインストリートを行くと、電動車椅子、車椅子、歩行器、杖、白い杖、盲導犬などを使っている人がごちゃごちゃしている。頭にかぶったヘルメットから出ているヘッドピースで電動車椅子を凄いスピードで運転している人がいた。

 僕も、バークレー大学の図書館で本を探すのを手伝って貰うために、初めて会う人との待ち合わせで、最初、「大学の正門に何時にいます、電動車椅子に乗っているのでそれが目印になると思います」と言ったが、「バークレー大学は電動車椅子の人達で溢れていて、電動車椅子に乗っているぐらいでは目印にならない」と言われ、待ち合わせ場所をバートのバークレー駅エレベーターの前に変えたことがある。それくらい、電動車椅子を使っている人や障害者はいっぱいいて、健常者も慣れてしまっているというか街に溶け込んでいた。この異常な街、障害者にとってのおとぎ話の国のようなバークレーでは車椅子に乗っている事ぐらいでは何も目だたない、もう人も何とも思わないのかもしれない。

 市民の納税者意識が凄かった。僕がバークレーの街を電動車椅子で歩道を行っていた時、歩道にピックアップ・トラックが停まっていたので車道を通っていたら、人が前に立ちはだかってきて、「おまえ何で歩道を通らないんだ。歩道の角をカットするのに俺達は税金を払ってるんだ。歩道行け。」と言われた。これ以後、僕も少々の障害物があっても歩道から外れないようにした。しかし、バークレーの凄いスピードの電動車椅子は車道を走っていたのもいたし、ニューヨークではほとんどの歩道がカーブカットされてなく、電動スクーターが車道を走っていた。僕はニューヨークでは介助者がいたので、いちいち段差を乗り越えて行ったが、大変な作業だったし、電動車椅子もガタガタになった。



@電動車椅子



 アメリカの電動車椅子は速い。時速16マイル(25.6q。1マイルは約1.6q)というのに乗っているクレージーな人にも会った。時速8ー10マイルはざらだった。そして頑丈で重い。バッテリーが特に重い。一台で250sの電動車椅子もあった。僕もスズキの電動車椅子のドライブ・ギヤが壊れたとき、部品を日本から取り寄せる間、アメリカの電動車椅子をレンタルして使った。タックス(カリフォルニア州では6.5%の税金)込みで1カ月160ドル位だった。

 日本の電動車椅子はとにかく遅い。アメリカのに比べたらまるで亀だ。バークレーでは女の子が髪をなびかせて電動車椅子でドライブしている。僕は亀のようにのろい日本の電動車椅子に乗って、その後ろ姿を見送っていた。サンフランシスコの坂は無茶区茶。僕の電動車椅子では登れないし、止まれない。ほとんどロック・クライミング。ただ、僕の乗っているリクライニング・タイプのは、「キャデラック・タイプ」「グッドデザイン」とか、また単純に”スズキ”ということで、男の子やおじさん達に目だっていた。それと価格の低さはやはり日本製の長所だろう。

 電動車椅子の問題点としては、雨と寒さに弱い、単独では長距離移動が難しい、乗用車への収納、飛行機に乗る場合のバッテリー、維持・修理のサービスシステム(バークレーでは、身体障害者のためのバークレー市の基金によるエマージェンシー・サービス・プログラムの一環として、電話とTDDで受け付ける、1日24時間・1週7日間利用可能な車椅子修理が始められた。)ということなどが考えられる。雨や寒さ、長距離移動に関しては他の交通機関との併用において考えられるべきだろう。





Aリライアブル・トランスポーテーション



 リライアブル(「頼りになる」という意味)というのは、リフト付き1ボックスカーの運送・タクシー会社の名前で、乗り移りが便利で料金もタクシー並(?)の車椅子障害者向けのバン・サービスを供給している(この他にマルチネス・バスラインというバス会社もバン・サービスを行っていた。また、バークレーでは前述の身体障害者のためのエマージェンシー・サービス・プログラムの一環としてバンサービスが始められた。福岡市内にはリフトつき1ボックス・カーのタクシーは走っていない。福脊連福岡支部のメンバーを中心にして、テレビのチャリティ番組からリフト付バンを1台寄贈を受けて、1qにつき50円の利用料で運営している。)。やはりドア・ツー・ドアは便利で楽だ。特に、雨期には非常に助かった。

 しかし予約が面倒なのと約束や時間に関してしばしばノットリライアブル(頼りにならない)になることがあった。それと時間が前もって決っていてそれに常に拘束されるのも、時間の使い方として、時には窮屈さを感じた。





Bバート



 ベイエリアにはバート(BART。湾岸地帯高速移動・Bay Area Rapid Transit・の頭文字を取っている)という地下鉄が進化したような乗り物が走っている。

 初めてバートに乗ってバークレーに行った時は用事でしかたなく乗ったという感じだった。しかし列車は中が広く電動車椅子のままで乗れて駅にはエレベーターもついていた。そしてマッカーサー駅が僕のアパートのすぐそばにあった。ただダウンタウンバークレー駅とCIL(自立生活センター)バークレーの間は確かに遠い。僕の電動車椅子で30分かそれ以上かかる。操縦するためきちんと座るので尻も心配だし雨の日は大変だった。

 バートは(電動)車椅子利用者にとっては一番便利で安いと思う。介助者割引はないが、その分障害者本人は、障害の種類・程度、収入、国籍に関係なく、10分の1の値段で切符を買うことができる(六五歳以上の老人と五ー一二歳の子供は割引、四歳以下の幼児は無料。日本のJRは1種身体障害者と介助者1人の乗車券が50%引き。特急券の割引はなし。日本の航空会社は重度障害者本人、介助者両方の航空運賃が25%引き。福岡市の地下鉄も本人、介助者とも50%引き。”福祉乗車券”という障害者本人の無料パスもある。)。切符はCIl、指定の雑貨屋、スーパーマーケットで売っていた。僕も12ドルの切符をCILで10分の1の1ドル20セントで買っていた。

 バートの良いところは、全部の駅にエレベーターがあり、列車の中が広くて居心地がよいことだ(福岡市の地下鉄の駅には地上と結ばれているエレベーターは付いていない。ただ天神の地下街やデパートなどのエレベーター、西新のデパートのエレベーター、博多駅のホテルのエレベーターを使えば電動車椅子に乗ったまま地下鉄の駅まで行くことができる。僕の家は西新駅から約1q。JRの新幹線については、博多駅、小倉駅、新下関駅、京都駅、名古屋駅、東京駅を利用したことがあるが電動車椅子のままで使えた。)。それに速い。僕のアパートからサンフランシスコの中心街まで、バートを使えば、海(サンフランシスコ湾)の下の海底トンネルを通って、約20分で行くことができた。しかもその間には段差などのバリアは一つもなかった。この事実は移動に関して僕の心理的負担を本当に軽くしてくれた。

 スタッフの意識と態度も凄く良かった。ベタベタに親切なのではなく、普通に改札など必要な介助をやってくれる。ポケットに切符さえ入れておけばよかった。電動車椅子とバートを組み合わせた移動には介助者は必要ではない。他の乗客の親切を当てにしなくてもよい。

 敢えて難点をあげれば、マッカーサー駅で切符の改札に手間が掛かったことと駅が少ないぐらいだが、とにかくバートを使わないのはモグリではないかと思うほど、バートは便利で速く快適だ。



CACトランジット・バス

 バークレーで走っているACトランジット・バスは前方のドアのところにリフトがついていて電動車椅子に乗ったままで乗り降りができる(サンフランシスコ市内を走っているリフト付きワンマンバスはミューニー[MUNI]という。サンフランシスコの夜のストリートは物騒なので、行きは電動車椅子で行った道を、乗ったことがある。福岡市内を走っているバスは車椅子のシンボル・マークを着けていてもリフトが付いているわけではない。)。

 僕が初めてACトテランジットバスを使ってみた時、1台目は、「リフトが故障だ」と断わられた。無線で聞いてくれて「次のは大丈夫だから、次のバスに乗れ」と言われた。2台目のバスはリフトは大丈夫だったが、運転手が僕の車椅子を見て、「おまえは重過ぎるように見える」と渋った。「とにかく試してみてくれ」と言うと、「じゃあやってみよう」と言うことになった。何とか乗れたが、リフトやバス内の通路は狭く、誰かが後ろで誘導してくれないと他の乗客の足を踏みまくってしまうようで、それほど乗って嬉しいという感じではなかった。しかし、意外と親切な運転手で他の乗客も好意的だった。

 バートに比べて駅の数も非常に多く、CILのすぐそばにもバス停があって、楽に乗り降りができたら便利な乗り物だろうと思った。障害者料金は安い。



 他の乗り物で、サンフランシスコのケーブルカーがあるが、これはとても乗れそうにもない。後、レンタカーはお金と運転手があれば楽しい乗り物だろう。





 プレッシャーソー(蓐瘡)

 触覚の無感覚な脊髄損傷者にとって蓐瘡は大きな問題だ。特に、頚髄損傷者のように、上肢もコントロールできず長時間同じ体位を続ける可能性が高く、しかも座位でプッシュアップができない四肢麻痺の人達には、皮膚と他の何かの接触領域、特に座骨部分、で蓐瘡ができる危険性が高く一旦できると治癒が非常に難しい。僕もこれには悩まされ続けてきている。アメリカの脊髄損傷者達の多くもこの問題で悩んでいて色々な方法を使っている。その解決策の一つとしてかなり多くの人達がローホー・クッション(商品名。ローホーという会社が作っている。)という蓐瘡対策座布団を使っている。アクセントというアメリカの雑誌によると一番人気がある。僕もアメリカでローホー・クッションを買い、それを使い、今も日本で使っている。ローホーがベストかどうかはわからないが、僕が今まで使ってきたクッションの中では一番ベターだと思う。

 ローホーをアドバイスしてくれたのはセントルイスのパラクォッドという自立生活センターの所長マックス・スタークロフと彼の奥さんのコリーンだった。マックスも頚髄損傷者で蓐瘡の悩みがあり、ローホーを使っている。



 1985年12月5日、オークランド市のハイアット・リージェンシー・ホテルでマックスが代表をしていた自立生活全国評議会(National Council on Independent Living、以下NCIL)のミーティングがあり、僕もそこへ行った。その時僕は左の座骨部分に小さな蓐瘡があり、約10ドルで買った穴空きのラバーフォーム(海綿状のゴム)・クッションを使っていた。ミーティングの途中だったが早めに帰ろうとしていたら、ロビーでコリーンと会った。

 「尻に問題があるからもう帰るんだ」と言うと、コリーンに「早くベッドに寝ていろ」と言われた。そして「ステップを降ろして膝を下げろ」とアドバイスしてくれた。でもとても親切だった。「送って貸してあげる」と言うローホー・クッションを買うことに決めた。

 シールドという医療・リハビリテーション用品店の店でハイ・プロフィール(高さ10pの一番蓐瘡対策になるタイプ。この他に2.5p、5p、7.5pのタイプがある)、1バルブ・タイプを買った。ローホークッションはタックスを合わせて280ドルぐらいだった。

 娘のメーガンを連れてきたコリーンが、僕のアパートで、プレッシャーソーをチェックしてくれて色々アドバイスしてくれた。子供を育てているせいか、とても良く気が付き優しくて親切。アメリカに来て初めて姉か母親のような配慮に接した。それにコリーンは理学療法士でもある。



 僕の買ったローホー・クッションは1枚のベースの上に卵ぐらいの突起物が8×9列に並んでいる。色は黒で、燃えにくい柔らかいゴムのような素材でできていて、空気で膨らませて使う。座るとこの突起部分が尻の形に潰れて行く。排水を許し、軽量で、掃除はしやすい。いくつかの空気のセル(小室)を輪ゴムで詰めて自在に穴を作ったりつぶしたりできる。

 ローホーの有利な点はドライ・フローテーション(乾式の浮揚)・システムに基づいた調整可能な空気圧と軽量であるということだろう。が、ローホーにも短所はある。最大のものはパンクすることだと思う。ローホーに穴が開いて空気が抜け機能しなくなり蓐瘡ができることがある。空気圧の調節も大変だ。「座った時、お尻の下からクッションのそこまでが2.5pになるように空気を入れなさい。飛行機の中では気圧が下がるので空気を少し抜きなさい。」とコリーンに言われた。安定性にも少し問題があるかもしれない。熱が逃げにくい。

 実際にクッションを買う場合、価格が問題になる。ローホーの値段も高いと思う。しかし、僕の体験からも、値段よりも起きている時間、自由な時間の方が貴重だと思う。クッションのコストは深刻な蓐瘡に比べたら安いだろう。もちろんあまりにも高価過ぎてはどうしようもないが。



 アメリカにはローホーの他に、Jクッションというのも人気があった。ラバーフォームクッションを半年毎に買い換えて中をくり抜いて使うという頚損者もいた。(車椅子用のクッションには大きく分けて、空気や液体で満たされているフローテーション・タイプ、ゲル・タイプ、ポリマーフォーム・タイプ[以上はスタティック<静的>なクッション]と型にいれて造るシート・タイプがあり、それぞれ有利な点、不利な点がある。適切なクッションの選択は、安楽と蓐瘡の予防に関して重要だ。具体的には十分なパッディング[摩擦・損傷よけの当てものをすること]、通気性、軽量、高さ、移動能力、永続性などが問題になる。an accent guide WHEELCHAIRS and ACCESSORIES・38頁ー44頁。)

 また、クッションの他にも、蓐瘡対策として、アメリカの頚損者達は、電動リクライニング車椅子、スタンドエイド(モーターがついて移動することもできる一人用起立台)、ウォーターベッドなども使っていた。僕もベッド上での蓐瘡予防・対策用としてアメリカ製のエッグ・マット(青い色の凸凹の深いスポンジマット。20ドルぐらい。)やシープ・スキン(白い色の通気性の良いシーツ。約10ドル)を買って使ってみたが、とても快適でその晩からぐっすり眠れた。また、車椅子に乗っている時、小指などの蓐瘡対策にムーン・ブーツ(クッションが内側についている二重の靴。約60ドル)を使っていた。



 12月7日、朝コリーンから電話。「昼にハイアット・ホテルまでマックスとジム(パラクォッドのプログラム・ディレクター。脊損者。)に会いに来なさい。ローホーが来たから状況は変わった、ベッドに寝てばかりいなくても良いから」と言われた。

 この日の僕はセントルイス自立生活センター・パラクォッドの研修生になるための志願者だ。スーツを着てネクタイを締めて行った。

 マックスがホテルの玄関で待っていてくれた。コリーンに挨拶して、マックス達とホテルのレストランへ行った。

 マックス、ジムにリハ協から福岡のアメリカ領事館宛の手紙を見せた。色々話をした。「4月頃セントルイスで受け入れる計画をマイケルと相談して作ってあげよう」と言う。感謝して別れた。

 長い一日だった。しかしお尻は大丈夫。マックス、コリーンとローホーに感謝。





 次回はベイエリアで生活しているアメリカの障害者達を紹介する予定です。





写真説明



1. リライアブル・トランスポーテーション。CILの前で。





2. リライアブル。CILの前で。





3. リライアブルの内部。サンフランシスコ空港で。





4. バート(列車)。マッカーサー駅で。





5. バートのマッカーサー駅のプラットホームとエレベーター。左手のところにある電話で「エレベーター・プリーズ」と言う。





6. ミューニー。サンフランシスコ市内を走っている車椅子用リフト付ワンマン・バス。





7. マックス・スタークロフと。僕が座っているのがローホー、左足に履いているのがムーンブーツ。





8. コリーンと娘のメーガンと赤ちゃんのマキシー。





 当『脊損ニュース』で連載中の「アメリカの一年」が朝日新聞5月23日に紹介され今大きな注目をあびています。









アメリカの1年 No.4
One Year of the Life in America
『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』
1985年11月〜1986年9月、アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー
ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
財団法人 広げよう愛の輪運動基金、
財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
written by Kazuo Seike 清家 一雄:重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
初出:「アメリカの一年」[4]、『脊損ニュース』1987年9月号、 pp.11-15、全国脊髄損傷者連合会、1987.9
--------------------------------------------------------------------------------
「アメリカの一年」 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] 、
『脊損ニュース』1986年4月号〜1987年7月号、全国脊髄損傷者連合会、1986-1987、
--------------------------------------------------------------------------------
"WORKING QUADS" homepage
--------------------------------------------------------------------------------



アメリカの1年



『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』



福岡県脊髄損傷者連合会 頚損部長

清家一雄





第四回報告



 今回はベイエリア(サンフランシスコ湾周辺地域)で生活しているアメリカの障害を持つ人達(前編)を中心に報告します。

 御意見・御感想をお待ちしています。



ベイエリアで生活しているアメリカの障害をもつ人達



1、ベイエリアの地域的な特徴ー障害をもつ人をとりまく人的・物的環境

 障害をもつ個人の立場からみた居住地として、ベイエリアは次のような特徴を持っていると思う。



 (1)一般的な背景

 ベイエリアは経済的に豊かな地域だ。その社会の経済的な豊かさが障害をもつ個人の生活に影響を及ぼすことは確かだと思う。ベイエリアは商業・観光地のサンフランシスコ、バークレー大学などを域内にもっている。また、アメリカ自体が世界で最も豊かな国だし、カリフォルニア州はその中でも特に人と物とスペースとサービスが豊富で気候にも恵まれている社会だ。アメリカに住んでみて、国土の広大さ、土地の豊かさ、自然の豊かさ、物の豊富さ、安さ、サービスの多様性・便利性など、その豊かさを実感した。ただし貧富の差は大きいが。

 ベイエリアは技術社会としての先進性に恵まれている。アメリカは非常に高度に工業化・産業化・情報化された社会で、障害をもつ個人に電動車椅子などの高度技術製品や治療・予防・リハビリテーションに関する高度医療などを提供することができる。

 ベイエリアは非常に自由主義的で価値の多様化しているな社会だ。多様な少数者達(人種別、民族別、性別、宗教別、言語別など)から構成されていて、障害者と健常者の関係も少数者と多数者の関係の一態様として考えられているようだった。多数者の価値観に左右されない少数者のもつ価値を認め合う考え方や、機会の平等(equal opportunity)が保障されるべきだとする考え方が強かったように思う。

 ベイエリアには非常にたくさんの障害をもつ個人達がいる。特にバークレーは街全体が障害をもつ個人にとっての新しい生活の実験・トレーニングの場、巨大な通過地点のような気さえした。障害をもつ個人はそれぞれロール・モデルでありピア・カウンセラーとなりうるだう。





 (2)アテンダント(介助者)

 ベイエリアはロサンジェルスと並ぶ大都会で、移動手段が整備されていて人口密度も高く、障害をもつ個人は他人介助者を探しやすい。

 ベイエリアは商品交換経済の社会だ。個人の自由・独立・平等を前提とし、人は財産を所有することができ、自由な取引によって必要な物やサービスを手にいれることができる。他人のサービスが有料であるということは日米両ビジネスマンの常識だが、ベイエリアでは障害をもつ個人の必要とする介助サービスの商品化が非常に進んでいると思う。





 ★IHSS



 重度の障害をもつ個人の立場からみてベイエリアの最大の特徴は、ベイエリア(カリフォルニア州)には社会サービス・ブロック補助金(SSBG)に基づく在宅援助サービス制度(IHSS)というアテンダント・サービス・プログラムがあるということだと思う。

 アメリカでは、メディケア(社会保障法18章)、メディケイド(社会保障法19章)、社会サービス・ブロック補助金(IHSS)、リハビリテーション法7章、と老齢アメリカ人法3章の五つの連邦プログラムがアテンダント・ケアの財源のために使われている(Zukas, "SUMMARY OF FEDERAL FUNDING SOURECES FOR ATTENDANT CARE", p.2ー)が、重度身体障害者の自律生活を支えるものという視点からアテンダント・サービス・プログラムを考えた場合、カリフォルニア州のIHSSには、アメリカの他の州と比べて、次のような特徴がある。(Zukas他、"DESCRIPTIVE ANALYSIS OF THE IN-HOME SUPPORTIVE SERVICES PROGRAM IN CALIFORNIA")

 アメリカのこの種のプログラムとしては最も長い歴史を持つ。1959年に設立された。そして最大のプログラムで、1983ー84年、受給者は97、000人。州人口2、400万人の0.4%。コストは29、700万ドル。

 最も制限の少ないプログラムで、医療モデルに従って組織されてなく、アテンダント・ケアは社会サービスとして取り扱われる。健康または医療関係サービスとしてではない。また、「パラメディカル(医療近接)・サービス」を含む。

 受給資格が広い。カリフォルニアは彼らの住居に(安全に)とどまるためサービスを必要とするいかなる低所得障害者(盲人を含む)または老人にもサービスを提供する。





 ★CIL



 障害をもつ個人達の自立生活運動という視点からみてベイエリアの最大の特徴はバークレーにある自立生活センター(CIL)バークレーだろう。バークレーは自立生活センターの発祥の地だ。

 自律(自立)生活は新しいものではないだろう。重度の障害を持つ個人が自律的に生活しているのは現在のベイエリアに限らない。自律生活者は、日本にも、アメリカの他の地域にもいる。また、以前にもヘレン・ケラーやフランクリン・ルーズベルト大統領の様な人達もいた。しかし、重度の障害を持つ個人達の自律生活が、何か特別の資産、協力者、才能、努力によってのみ可能になるのではなく、ごく普通のやる気と頑張りで可能になるためには、障害の種別を越えた普通の障害者達を広範囲に巻き込んだ自立生活運動と援助サービスが必要になると思う。一人切りで生きて行けるほど強い人間はどこにもいないかもしれない。そして、自立生活運動と援助サービスの中核となったのが自立生活センターだったと思う。その意味で、組織された自律生活サービスと自立生活運動による普通の障害をもつ個人達の自律生活という生活様式は新しいものだろう。





 ★カリフォルニア大学バークレー分校



 ベイエリア(バークレー)にはカリフォルニア大学バークレー分校がある。自立生活センターバークレーはバークレー大学の身体障害学生のプログラム(PDSP)からの展開でもあったといえる。





 ★CILのサービス、アテンダント・レフェラル



 アテンダント・レフェラル・ディパートメント(介助者情報サービス部門)という「場」を設定して、障害者(要介助者)とアテンダント(希望者)(介助者・志願者)の双方に対する情報サービスのシステム化と提供が行われている。





 ★エマージェンシー・サービス・プログラム



 エマージェンシーとは、この場合、ごく単純にアテンダントが障害者のところに現れないという事態を意味する。アメリカでも多くの障害者が、もしアテンダントが来なければどうしようという不安から、地域の中で生活しようとせず、施設やナーシングホームで生活している人が多いと聞いた。バークレーではちょうど僕の滞在中に、528−LOVE or TDD#527−0123に電話するだけの24時間・毎日利用可能のエマージェンシー・サービス・プログラムが開始された。





2、ベイエリアの障害者の特徴



 (1)量(人数)の特徴点



 ベイエリアの人口はおよそ450万人ぐらいだろう。

 世界障害研究所の報告(Zukas他、前掲)によると、1983年4月、カリフォルニア州の人口は約2、400万人で、その内、IHSSの受給者は、約10万人(96、850ケース、重度・非重度、老人)で人口のおよそ0.4%(世界障害問題研究所の1987年4月のレポートでは、アメリカのアテンダント・サービス・プログラムのクライエントの総数は850、388人、歳出総額は1、568、458、000ドル。カリフォルニア州のアテンダント・サービス・プログラムのクライエントの総数は150、805人、1985年州人口の0.64%、総歳出は345、445、000ドル。Executive Summary、ATTENDING TO AMERICA)。

 1週間に身体的ケア・サービスを必要とするのが20時間を越える「重度損傷」者が10、500人(11%、平均61歳、平均週40.4時間)で、そうでない「非重度損傷」者が86、350人(89%、平均70歳、平均週12.5時間)。

 65歳以上は68%、越85歳は14%、45歳未満は10%。

 重度損傷の内、45歳未満の比率は30%で、非重度損傷の内の45歳未満の比率は7%。

 カリフォルニアの45歳未満の重度損傷者はおよそ3、000人プラス自費で介助を手にいれている人達の数ということになるのだろう。





 (2)質(障害の種類)の特徴点



  −ベイエリアで目だった障害者



 超重度身体障害。しかしタフ(頑丈)な生き方をしている人が多かった。しかも卑屈にならず胸を張って、生活をエンジョイしていた。

 他の州からの転入者、外国人がたくさんいた。

 高学歴で、若い、白人の人達が自立生活ムーブメントの中心にいたように思う。

 障害の種類としては、ポリオ、頚損者、脊損者=対麻痺者、脳性麻痺者、視覚障害者、聴覚障害者、ディベロップメンタル・ディスアビリティなどが僕の目には印象に残った。後、筋ジストロフィーとMS。





3、ベイエリアで僕が知り合った人の



  概略・人数と障害の特徴



 留学目的からの偏りがあると思う。軽度の肢体不自由者(杖利用者など)や肢体不自由以外の障害をもつ人(視覚障害者など)を除いて、僕が知り合ったベイエリアに住んでいたアメリカ人の重度の身体障害をもつ個人(常時、手動車椅子または電動車椅子を利用)の数は、記憶漏れがあるかもしれないが、28人くらいだろう。不特定多数の障害をもつ個人としては、街ですれちがう障害者達、バークレー大学の障害学生達、自律生活技能(ILS)クラスの生徒達、高校のプールで泳いでいた障害者達、車椅子バスケットをしていた対麻痺者達、切断者達、クリエイティブ・グロウスのメンタルな障害をもつ人達、フリーマーケットの障害者の客達、リライアブルやバートの乗客達、空港で見かけた人達などがいた。この他にも外国人(日本人、ドイツ人、フランス人など)でベイエリアに住んでいたり訪れたりする障害をもつ個人は多かった。

 28人の内訳は、男性14人、女性14人、白人24人、東洋系1人、黒人3人。高校生から47歳くらいまでで、ほとんどが20代、30代だった。

 28人の内、四肢麻痺者21人、上肢完全者7人。四肢麻痺者21人の内、電動車椅子利用者20人、手動車椅子利用者1人(C-6頚髄損傷者)、明白な頚髄損傷者6人(C-54人、C-62人)、明白なポリオ3人、言語障害のある人3人。四肢麻痺者21人は総て介助が必要な人だと思う。

 明白に就業していた人18人、その内、CIL職員10人(C-5、1人)、ILSクラスの教師(C-5)、世界障害問題研究所スタッフ3人、ボープ(障害者と老人のリクレーショ・プログラム)のスタッフ1人(C-6)、高校教師1人(C-5)、障害者用品店・車椅子修理部門のスタッフ1人、コンピューター・プログラミング請負1人(C-6)。社会保障関係の仕事に就いている人が多かった。学生は3人いた。

 明白に配偶者のいた人4人、明白に子供のいた人1人。

 28人の内、その住居にまでいった人は7人で、四肢麻痺者は4人、対麻痺者3人。この他に、僕の出たアパートにアメリカ人の頚髄損傷者が入った。4人の内、一人暮しをしいていた人1人、リブイン・アテンダントがいた人1人、障害者のルームメイトがいた人1人、母親が同居していた人1人。この4人はすべて電動車椅子を使い有料介助者を利用していた。





4、とくに印象に残った人の紹介



 @普通の障害者だが、タフな人、A失敗例、Bリーダー



 @タフなしかも普通の障害者像ーバークレー・スペシャル



デイビッド・ガラハー



 ★もう一つの選択肢



 ここで紹介するデイビッドは、特別な資産や収入はないが、米国のアテンダント・サービス・プログラムを利用して、有償のアテンダントから、生きて行くために必要な介助を得て自律生活していた頚髄損傷者だ。家族やボランティアから介助を得ているのではない。しかも、特別な資産や収入・経済力がなく、生活費とアテンダント費用の両方について公的基金による援助を受けているタイプだった。この類型こそが日本と比較して現在の米国において生活している頚髄損傷者の内で最もユニークな存在だろう。現在の日本にはない一つの新しい可能性だろう。普通の障害者だが、タフで、偉くもなく、卑屈にもならない。タフなしかも普通の障害者像ーバークレー・スペシャル。このデイビッドを典型とするタイプのベイエリアに住んでいる頚髄損傷者は米国の頚髄損傷者の中でも特に印象に残った。

 デイビッド・ガラハーに最初に会ったのは1986年2月25日、CILでだった。身長6フィート(約1m80p)で、エベレスト アンド ジェニングスの電動リクライニング車椅子にやけに自信たっぷりに乗っていた。

 「河でダイビングをしてC-6の頚髄損傷者となった。コンピューターのプログラマーで、CILのアテンダント・レフェラルに関するソフト・ウェアを作成する仕事を請け負って、それをプログラミングしている。」と言った。



 次に会ったのは3月6日だった。CILのコンピューター・ルームで一緒に写真を撮り、それからカフェテリアに行った。

 デイビッドは「33歳で、バークレーのアパートに一人で住んでいる。」と言った。

 僕が、「人間の人間に対する援助の根拠は何だと思いますか」と聞いたら、「今やっているプログラムのコア・コンセプションは”相互的利益依存関係(MUTUAL BENEFICIAL)”だ。アテンダント・サービス・プログラムの長所はコストが安いことだ。」と言う。そして「障害を受容することはタフなことだ。ドア・オープナーは使ってない。アテンダントは3人だ。」と言った。

 最後に「バークレーについて日本に報告すべきだ。月曜日に遊びに来い。何が食べたい。」と言われた。





 3月10日。



 雨が上がったのでバートでデイビッドのアパートに日本からの独楽などをもって出かけた。デイビッドのアパートはバートのアッシュビー駅とCILのちょうど中間ぐらいにあった。

 デイビッドは一人で住んでいてパートタイムのアテンダントが来る。

 二階建てのアパートの1階。車椅子用のランプはついていなかったが、床が低いので裏庭から車椅子で楽に出入りすることかできる。1ベッドルーム、広いリビング、予備の狭い部屋、普通のバスルームとキッチン。電話にはホルダーがつけてあった。

 暖房が入っている居心地の良いリビングルームには本がたくさんあった。ベッドルームにパーソナル・コンピューターを置いて使っていた。おそらくIBMのPCだろうが、アテンダント・レフェラル用のソフトを走らせて見せてくれた。

 「エマージェンシー・アテンダント・リストを常に新しくしておく必要がある。私?。10回以上。15人ぐらいいるエマージェンシー・アテンダントに次々に電話をかける。病院には行かない。それが私のインデペンデント・リビングだ」と言う。

 デイビッドのアパートにはいろいろな人が遊びに来る。





 4月10日、モニカ(カフェテリア)で。



 「二日前、アルコール中毒の男の老人に、(60歳ぐらい。かなり大男。)その老人がただたんに自分がまだ若くて強いという事を示したいという理由だけで、家の裏で首を締めらた。危うく殺されそうになったが、相手の目をじっと見て、・おまえ本気なのか・と言ったら、相手が手を離したので、何とか助かった。」と言う。(相手が「本気だ」と言ったらどうなったんだろう。)

 また、「その日の晩、主要なアテンダントが、これもやはりアル中気味で、酒を飲み過ぎて車を運転して危うく人を引き殺しそうになって刑務所に行った。しかし、彼は良い男なので出てきたらまた一緒にやりたい。今のところ別のアテンダントがいるし問題はない。」とも言う。

 バークレーの頚損者も色々大変だ。





 次回はベイエリアで生活しているアメリカの障害者達(後編)を紹介する予定です。





写真説明





1. カリフォルニア大学バークレー分校のキャンパス





2. アツコ。バークレー





3. ヒサコとフランシス。レストラン・ラピーニャの看板の前





4. エドとマイケル。CILのクリスマス・パーティ





5. ナンシー。世界障害問題研究所





6. バークレーの高校のプール





7. オークランドのクリエイティブ・グロウス





8. デイビッド・ガラハー(向かって左)とウーフェ(西ドイツ人)。デイビッドのアパート













アメリカの1年 No.5
One Year of the Life in America
『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』
1985年11月〜1986年9月、アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー
ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
財団法人 広げよう愛の輪運動基金、
財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
written by Kazuo Seike 清家 一雄:重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
初出:「アメリカの一年」[5]、『脊損ニュース』1987年10月号、 pp.20-23、全国脊髄損傷者連合会、1987.10
--------------------------------------------------------------------------------
「アメリカの一年」 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] 、
『脊損ニュース』1986年4月号〜1987年7月号、全国脊髄損傷者連合会、1986-1987、
--------------------------------------------------------------------------------
"WORKING QUADS" HomePage
--------------------------------------------------------------------------------



アメリカの1年





『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』



福岡県脊髄損傷者連合会 頚損部長

清家一雄



第五回報告



 今回はベイエリア(サンフランシスコ湾周辺地域)で生活しているアメリカの障害を持つ人達(中編)を中心に報告します。

 御意見・御感想をお待ちしています。





ベイエリアの人達・ケース報告(中編)



4、とくに印象に残った人の紹介



 @タフなしかも普通の障害者像ーバークレー・スペシャル



デイビッド・ガラハー



 (続き)



 CIL(自立生活センター)バークレーが開いてくれた8月28日のCILの向かいのタイ料理レストランでの送別会にもデイビッドは来てくれて、「とても良いパーティだった」と言ってくれたが、翌8月29日の僕のアパートでのさよならパーティにも来てくれた。ジョー(僕達の友人)の運転でデイビッドのバンで。アテンダント(介助者)やその他の人達も一緒に。チキン、ビール、ペプシ、その他の簡単なパーティだったがいろいろな人が来てくれて狭いリビングがいっぱいになった。

 デイビッドから札入れを貰い、ジョーから「最初の1ドル」を貰った。

 デイビッドが、「私は君がいないのをとても寂しく思う」 と何度も言った。

 頚髄損傷者の人達とはだいたいよく話が通じたが、その中でもデイビッドは、アメリカでできた僕の友達の一人だった。





 デイビッドとは他にもよく会って、いろいろなことについて話をした。デイビッドのアパートでのパーティにもよく呼ばれたし、僕がデイビッドを日本レストランに招待して寿司をご馳走したこともある。

 デイビッドは介助者費用としてはカリフォルニア州のアテンダント・サービス・プログラムである”在宅援助サービス(IHSS)”を利用していた。そして、IHSSから1カ月に220−230時間のアテンダント・サービスを認められていた。生活費についてはSSI(Supplemental Security Income、補完保障所得。社会保障法[Sociall Security Act]16章)を受給していた。

 そして「SSIからの金は私の金だが、IHSSからの金はアテンダントに払うものであって私の金ではない。」と言っていた。

 「私とアテンダントとの関係は友好的ではあるが決して友人ではない。あまり友好的になり過ぎることは必ず面倒な事を引き起こす」と言っていた。

 また、ちょっとした無償の親切について、「状況。頼み方次第だ。」、個人主義について、「アメリカの障害者だって朝と晩アテンダントが来てくれるのを待っているだけで、家から出ないで何もしない人がたくさんいる。しかし、家族との関係でも尊厳が問題になる。私の問題点は受傷以前からあまりにも独立心に富すぎていたことだが。」とも言っていた。

 「アパートを借りて、家族・両親と離れて一人で住め。親と一緒ではどうしようもない。人間の尊厳のために。私の場合、秘密に全てを準備して、設定してしまってから親に話した。」

 「女性は障害をもつ個人の内面の強さを好きだ。」

 その他色々。僕のスズキの電動車椅子を見て、「良いデザインだが遅すぎる」と言った。





 @普通の障害者だが、タフな人、



フィル シャーベス、ジョー



 ★アテンダント・サービス・プログラムを利用して有償アテンダントの介助サービスを得、生活しているが、一部分、経済力のあるタイプ 

 デイビッドは、特別な資産や収入はないが、米国のアテンダント・サービス・プログラムを利用して、家族やボランティアから介助を得ているのではなく、有償のアテンダントから、生きて行くために必要な介助を得て自律生活していた頚髄損傷者だ。この類型こそが日本と比較して現在の米国において生活している頚髄損傷者の内で最もユニークな存在であり、頚髄損傷者にとっての「もう一つの選択肢」とでもいうべき新しい可能性であるだろうと言うことについては前回既に述べた。

 アテンダント・サービス・プログラムを利用して有償アテンダントの介助サービスを得、生活していた頚髄損傷者の類型に入るが、一部分、経済力のあるタイプとしてシャーベスとジョーをここでついでに紹介する。彼らはパートタイムや臨時雇いではなくほぼフルタイムで正式雇傭されているタイプだ。アテンダント費用の公的援助は受けているであろうが、少なくともアテンダント費用を除いた生活費を自分で稼いでいる人だ。日本では高位頚髄損傷者が就業している例は、現在でも極めて少数だが、ベイエリアには仕事をしている高位頚髄損傷者がかなりいた。





フィル シャーベス



 シャーベスは32歳の白人男性で、16歳の時、飛び込みでC−5頚髄損傷者となった。電動リクライニング車椅子を使用し、高位頚髄損傷者の中でも重度の方だが、CILの自立生活技能(Independent Living Skill)クラスの教師をしている。

 彼は、リモート・コントロールで収尿袋を空にする装置を使って、昼の間は長時間一人で行動する。アテンダントは朝と晩に来る。ガール・フレンドと住んでいた。

 シャーベスとのセクシュアリティに関するミーティングで、シャーベスは、

「相手のして欲しいことを聞く。デートに行くと確かに色々困難なこともある。食事のために電動車椅子にテーブルを付けている。ホテルとかでベッドに上がるのはアテンダントに頼む。最初は照れくさくて顔が赤くなったりして困惑するが、段々気楽にになる。」と言った。



 シャーベスを始めとして、仕事に関して、CILが雇用の場を提供して、そこで障害者の能力を鍛え、キャリアを積んでいくという場にもなっていた。最初は、パートタイム・スタッフとして、ピア(仲間)・カウンセラー、IL技能のトレーナー、教師、スペシャリスト、など。それから、各部門のフルタイム・スタッフ、各部門の部長、所長。そして、これらをステップにして、政府部門や他の組織に移っていく。





ジョー



 ジョーもベイエリアで仕事に就いている高位頚髄損傷者の一人だ。

 C−5の白人男性の頚髄損傷者で電動車椅子を使っていて、障害は重度だが、バークレーで高校の教師をしていた。CILの理事でもあった。

 ジョーと最初に話したのはCILのクリスマス・パーティだった。その後もCILで時々、話をした。

 ジョーは、「人々の注意を得ることが必要だ」と言った。





 A失敗例?



 カリフォルニア州にはIHSSというアテンダント費用に関する社会保障制度があるので、他の州からカリフォルニア州にやってきて生活している障害者も多い。

 本当に多くの人がやってきて、様々な生活をしている。すべての障害をもつ個人達が成功しているわけではない。

 こんな例もあった。

 ある若い女性障害者がアリゾナ州から来て、アパートを借り、介助者を雇い生活していたが、クリスマスの休暇で帰った時、未婚のまま男児を早産し、赤ちゃんは死に、彼女自身も重体となり、厳格なカソリック教徒である彼女の父親に、カリフォルニアに戻ることを禁じられた。

 しかし、本当に失敗と言えるだろうか。生きたいように生きたのではないだろうか。人間には危険に挑戦して失敗する自由があるとも言える。





B自立生活運動のリーダー



エドワード V. ロバーツ



 エドはアメリカの障害をもつ個人達の運動のリーダーとして日本でも有名だ。エドの障害はポリオで脊髄損傷ではないが、原因は別でも四肢マヒ障害という視点からは共通の問題を含んでいるし、何より彼はアメリカで最初に設立された自立生活センターの初代所長であり、彼の生活(史)と意識を知ることはアメリカの重度身体障害者の自立生活運動を考える場合の最適の素材の一つになるだろう。



 最初にエドと直接に会い、話をしたのは1985年12月9日のCILのクリスマス・パーティだった。電動車椅子に乗って呼吸補助装置を使わなければならないほどの四肢麻痺の重度身体障害者だか、快活で力強く、よく話をし、自信に溢れていて、頼りになりそうなタフな障害者だ、という印象だった。エドは既に日本でも有名だったし、僕もエドの書いたものやエドについて書かれていたものを読んでいたが、実際に会ったときの・その時の印象、ショックは鮮烈・強烈だった。

 エドとは電話で話したり,エドが代表をしているWID(World Institute on Disability、世界障害問題研究所)に行きそこのスタッフとミーティングしたり、エドの書いた本・文章を貰って読んだりもしたが、エドの家にも二回訪ねて行って話をした。

 最初にエドの家に行ったのは1986年4月27日、良く晴れた日曜日だった。マッカーサー駅からコンコルド行きのバート(地下鉄)に乗りロックリッジで降りた。前もって地図で調べておいた北の方へ3ブロック行ってシャーボットの通りで6031のエドの家を探していたら、おじさんが一人やって来て、「エドの家を探しているんじゃないのか」と言って、エドの家まで案内してくれた。エドの家は声をかけられたところのすぐそば、二つ隣の家だった。案内してくれたのはエドのアテンダントのアレンだった。

 ロックリッジは環境の良い街でエドの家もとても感じが良い。エドのアテンダントのアレンも感じが良かった。

 家の出入口にはスロープがあった。エドの部屋は一階の玄関のそばにあった。エドは母親と同居していた。従兄弟も一緒に住んでいた。

 エドは鉄の肺に入っていた。「夜眠るときも入っている」と言った。他にスピーカホンやリモコン付きのテレビを使っていた。エドの使っているリモート・コントロール・スイッチ・システムは1万ドルだ、と言う。

 「あなたの話をメモしていいですか」と聞くと、「OK」と言われた。

 エドがコーヒー・紅茶を進めてくれた。持ってきたファイルを見せ、「これは全部あなたの書いたものです」と説明し、「あなたは日本ではスーパーマンとして知られています」と言うと、エドは、「そんなことはない」と言った。





 二度目にエドの家を訪れたのは1986年8月16日だった。エドとミーティングの時、エドの息子とも会った。



 2回のミーティングでエドはいろいろなことを話してくれた。





生い立ち



 エドは1939年に生まれた。47歳。男性。14歳のときにポリオになった。左手の指と左足の指が少しだけコントロールできる。1962年、家を出て自分自身の生活を始めた。困難なことだった。しかし、自分の生活の世話をしろ。

 カリフォルニア大学バークレー分校卒業した後、バークレーに最初の自立生活センターを設立し、初代所長となった。その後、カリフォルニア州のリハビリテーション局局長となった。現在は、民間のリサーチセンターである世界障害者問題研究所の代表をしている。





意識・態度



 14歳でポリオになり、悲しかった。それまではあらゆる種類のスポーツをしていた。非常に落ち込んで、奇跡を望んだ。ハンガーストライキで自殺を試みた。私はポリオにかかった自分自身を好きでなかった。

 医師達は、私が植物状態になる、と言った。私は私のことを冗談で”朝鮮アザミ”と呼ぶことがある。日本人は笑わなかった。礼儀正し過ぎて。

 医師達は、我々に、偏見、無視、恐れを抱き、対等ではない人間として我々を扱う。専門家カウンセラーは我々に向かって、「あれもできない、これもできない」と言うばかり。ピア(仲間)・カウンセリングでは自分達に何をできるかを教えることができる。日本で性の問題について講演した時、専門家ばかりで障害者がいなかった。

 我々は全くの人間であり半人前ではない。そして我々は他の如何なる人々とも同じニーズを持っている。我々は皆人間である。

 もしあなたがあなた自身を好きになれないのなら、他の人々はあなたを好きにならない。障害を持つ人々が彼らの障害を好きであるかそうでないかは別のことであり、彼らは彼らの障害と一緒にうまく生活する方法を学ばなければならない。

 また、エドは「隔離」と「統合」や障害を持つ子供にとっての教育の重要性について良く話した。





家族



 結婚し離婚した。前の妻は作業療法士だった。病院からCILに連れてきた。なぜなら私は病院が嫌いだからだ。

 子供も作った。実子だ。男の子がいる。私は感覚は全部あるし、膀胱コントロールも排便コントロールもできる。血のつながった子供も作れる。結婚して子供を持つことは自信につながる。

 妻は田舎が好きだが、私は街が好きだ。その他にも理由はあるが離婚した。しかし現在の生活には満足している。ガールフレンドもたくさんいる。女性には優しくしろ。

 今は母と従兄弟と一緒に住んでいる。息子は私と前の妻と半々に暮らしている。今は前の妻のところにいる。6月から3カ月間一緒に暮らす。





介助者



 エドは14歳で発病してから生存期間ずっと介助が必要だ。現在、介助はアテンダント(有料介助者)から受けている。

 エドは、「介助者を時給6ドルで雇い、秘書的な仕事には、1時間7ドル、月に2,400ドル支出している」と言っていた。介助費用は、本人の収入が多いので、自己負担だ。従って、エドの介助量は、1カ月340ー400時間、1日11ー13時間、くらいだろう。





人間の人間に対する援助の根拠



 「すべての人々は・現在のところ健常・として概念化する」べきで、「障害を持った時にどのように生活するかという問題は、『我々』とか『彼らは』の問題ではなくて、社会の構成員として我々全てのための問題である。」(ロバーツ;"Indepedendent Living: A Founder's Perspective" p.2)とエドは書いている、そして「ポリオ、頚髄損傷、脳性麻痺のような障害を持つ事は偶然だ」とも言った。

 また、「すべての人は、もし彼らが障害者になれば、彼らが良い医療と良いリハビリテーションと地域社会の中に於て自立生活を送る権利を得るべきである、と信ずる権利を有する。社会的なニーズは、ただ政府だけが果たすことができる」と言った。

 そしてアテンダント・サービス・プログラムに関して、「ポリオがアテンダント・ケアを後押しした。機会の平等ということ。アテンダント・ケアがあれば、我々は仕事に就くことができる。」と言った。





 次回はベイエリアで生活しているアメリカの障害を持つ人達(後編)と火事や入院などの緊急事態を中心に報告する予定です。









写真説明





@ デイビッド。CILバークレーのコンピューター・ルームの前で。





A デイビッド。デイビッドのアパートで。彼のアパートの住人。





B デイビッド。ジョー。僕のアパートでのお別れパーティ。





C シャーベス。CILバークレーで。





D エド。CILのクリスマス・パーティで。呼吸補助装置を使っている。中央は所長のマイケル。





E エド。彼の部屋で鉄の肺に入っている。





F エド。彼の家の前で。





G CILバークレーの玄関で。受付のジェニフアーと。













アメリカの1年 No.6
One Year of the Life in America
『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』
1985年11月〜1986年9月、アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー
ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
財団法人 広げよう愛の輪運動基金、
財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
written by Kazuo Seike 清家 一雄:重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
初出:「アメリカの一年」[6]、『脊損ニュース』1987年12月号、 pp.18-22、全国脊髄損傷者連合会、1987.12
--------------------------------------------------------------------------------
「アメリカの一年」 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] 、
『脊損ニュース』1986年4月号〜1987年7月号、全国脊髄損傷者連合会、1986-1987、
--------------------------------------------------------------------------------
"WORKING QUADS" homepage
--------------------------------------------------------------------------------



アメリカの1年





『アメリカにおける自律生活の実験と介助者サービス事業に関する調査報告』





福岡県脊髄損傷者連合会 頚損部長

清家一雄





第六回報告





 今回はベイエリア(サンフランシスコ湾周辺地域)で生活しているアメリカの障害を持つ人達(後編)と僕自身の生活のうち緊急事態(火事)を中心に報告します。御意見・御感想をお待ちしています。





 エド・ロバーツ(続き)



 ★仕事、家族生活の両方において自律的に生活している重度の身体障害をもつ個人

 エドは受傷年齢が低い。受傷当時、社会的には未成熟子である。このような場合次のような問題があると思う。社会的基盤が完成されていない。適切な教育を受ける機会が十分に保障されないまま、社会的経験が少ないので、紛争処理・解決能力が不十分で、パニックに陥りやすく、将来のことを考えられにくい。就業のための準備と仕事の経験、仕事の人的・物的基盤がないし、就業に伴う各種の良く整備された医療保険、所得保障保険、失業保険に加入していない。自分の判断だけで介助者との契約関係や社会的経済的関係を適切に処理して行くことには困難が伴うだろう。自己の配偶者がいない。しかも親が若い。受傷当時、家族内で被保護者的立場にある。このような条件の下では、介助も含めて、家族、特に親の後見的援助・監督を受けての生活は当然のことなのかもしれないし、家族の援助はあった方が良い。特に受傷者が未成熟子の場合は。若年受傷者は、身体障害(機能・能力障害)だけでなく、その身体障害が引き起こす精神的・経済的・社会的損害や社会的不利という障害を受ける危険性が極めて高い。頚髄損傷の防止と完全治癒が根本的課題であることは言うまでもないが、障害の程度が少しでも軽い方が良いのと同じく、受傷は1日でも遅い方が良い。日本の頚髄損傷者の場合も、その若年層(18ー34歳)が、中高年層(35ー54歳)、高齢層(55歳以上)に比較して、収入や介助者の面で著しく困難な生活実態にあることが統計的方法によって明らかにされている(松井和子「第一部 在宅頚髄損傷者の生活と意識」・在宅頚髄損傷者・東京都神経科学総合研究所)。

 しかし、エドは仕事、家族生活の両方の社会的人間関係の中で自律的に活動していた障害をもつ個人であると思う。受傷後の、CIL設立、初代所長就任、自立生活運動のリーダー、カリフォルニア州リハビリテーション局局長就任、世界障害問題研究所設立、初代代表という仕事上でのキャリアと在宅(親と)、大学での生活、結婚、在宅(配偶者、子供達と)という家族再構成のダイナミクスとにおいて自律生活が表現されていた。一人暮しの頚髄損傷者の事例と異なるところは、エドが他人とのかかわり合いの中で自己を実現して行っていたことだろう。

 鉄の肺、電動車椅子、呼吸補助装置などを使わなければ生きて行けない程の重度の身体障害だが、非常に力強く明るい。バークレーに住み、旅をこよなく愛す。人生の途中で体がだめになったが、人間が本来持っている無限の素晴らしい可能性を追求・展開して、アメリカの社会を変えた。エドも人間だからいろいろな面があるのは当然だが、大きな仕事をした人だと思う。会って良かった。ただ残念なのはテープレコーダーがなくなって、エドの話を録音できなかったことだった。





 エドは、民間・非営利・非居住・情報サービス型の自立生活センターバークレーと民間のリサーチセンターである世界障害問題研究所を設立して自立生活運動を展開したが、その運動に深く関わってきた人を二人紹介する。





 ジュディ



 ジュディは既に日本でも有名なポリオの女性だ。電動車椅子を使い、緊急事態とバックアップのために二人の住み込み介助者がいる。ジュディは「介助者費用として月に自費で800ドル支出している。年収は2万5千ドルだ。介助者に時給5ドル払っている」と言っていたので、彼女の介助量は、1カ月160時間、1日5時間強くらいだろう。介助者との関係は、「第一に雇傭者で、第二に友人だ」と言う。

 ジュディはニューヨークで生まれたが、自立生活センターバークレーのスタッフとして活躍した。現在、バークレーに住んでいるが、いつも世界を飛び回っている。自立生活センターバークレーの理事長であり、エドのWIDのスタッフでもある。

 「日本の障害者は政府からの介助者費用のために闘い続ける必要がある。人々は自立生活を達成するためにボランティアに依存すべきではない。人々は彼らの人生の上にコントロールを持たなければならない」という。

 彼女の家には、障害者問題ではなく、婦人問題のポスターが貼ってあった。





 ドレーパー



 ドレーパーは白人の男性で、彼は自分の履歴を次のように話してくれた。

 「1958年、17歳の時、自動車事故でC-5頚髄損傷者となった。・赤ん坊と同じほどの手助けが要るだろう・と言われた。4カ月半の入院の後、4カ月間、家庭復帰したが、両親、弟、妹にとって困難だった。当時私は自分で何もしようとしなかった。郡の病院で22カ月半、生活した。私はそこへ送られた。なぜなら他には障害者が生活する・住む場所はなかった。郡の病院では、生き延びる方法に関する私自身の方法を発達させなければならなかった。父と一緒に関係者に手紙を書いた。そしてそれは私をリハビリテーション・システムに戻すことになった。障害者の友人と共同生活をした。ビジネス管理の学校に行った。そして、1972年、自立生活センターバークレー設立に参加し、9人で非営利法人を設立した。二代目CILバークレー所長となった。現在はCILの展開部門のスタッフとして、基金設立や寄付金を募る仕事をしている。」

 彼は電動車椅子を使用している。蓐瘡の悩みがあるが、ラバーフォーム・クッションとウォーターベッドを利用していた。奥さんがいる。

 「四肢マヒ者である個人に対するバリヤーとして、私自身の、家族の、行政機関の態度・意識が重要である」と言っていた。





 ★環境と個人



 頚髄損傷者というのは身体的には日本人もアメリカ人も同じだ。同じように麻痺している。介助負担が非常に大きいという頚髄損傷者の抱えている根本問題も共通だ。ただこの問題に対する反応は日米で少し差があるように感じられた。

 生活実態としても、日本では生活様式として一人で生活している頚髄損傷者はほとんどいない(松井和子、前掲)が、アメリカ、特にカリフォルニアでは、有料介助者サービスを利用して一人で生活している頚損者がかなりいる。アメリカの社会では、施設(病院)や保護家族の中ではなく、地域の中で有料の介助を受けて自律的に生活する、という障害者にとっての「もう一つの選択肢」ともいうべき新しい生活様式が現れて来ている。

 日本の頚髄損傷者の場合、受忍・忍耐という消極的・不作為の方向での苦労・努力で、具体的には、介助節約としての入浴制限、室内移動節約(寝たきりの選択)、排便回数の制限、外出制限・社会的交際の制限(家の中に閉じ篭りきりの生活)、という行動の自己規制で処理しようとする例が多い(松井和子、前掲)。従来のリハビリテーション・モデルの目標である「生産的人間になる」ということはある意味で厳しい。障害をもつ個人に限界まで努力、神業のようなウルトラCの連発が要求される。しかも、日常生活動作や身体的軽作業ができないと、リハビリテーションの過程においてさえ「落ちこぼれ」扱いをされることが多かった。このような状況では、在宅の四肢麻痺の重度身体障害者である頚髄損傷者の家族介助者に対する感謝は当然なものであるし、気がねもやむを得ないものなのかもしれない。

 これと対照的に、アメリカでは、生きて行くために色々積極的な行為・行動・努力・苦労をする障害をもつ人達がいた。介助者を募集し、契約し、解雇する。銀行・アパート・買物・洗濯に電動車椅子で出かけ、またサービス(医療・社会保障・社会福祉)を受けるための手続きを行う。彼の生活を自己管理する。生活費獲得努力(仕事または社会保障・福祉)をする。積極・作為の方向での努力・苦労する。単に生かされているのではなくて、「生きる」意思・努力というものが感じられた。

 特に、彼らバークレー・スペシャル(障害者の新人類!?)には普通人の強さ、とでもいうようなものがあるように感じる。アメリカの障害者像の一つの色彩・パターンとして、偉くもなく、しかし、卑屈にもならない障害者達に鮮烈な・強烈な印象を受けた。





ベイエリアでの実際の生活



 僕の米国での生活は自律生活の実験でもあったのだが、全く新しい生活を始めるということは環境調整がまだなされていないということで、いろいろな問題点が一気に吹き出てくる。中でも一番問題だったのは人間関係0、情報0というところから始めなければならないということだった。多少の予備知識など実際の生活には、大き過ぎてあまり役に立たない。ほとんどのことが試行錯誤で、全てを無から構築し直し、実際に役立つ情報を身につけていくまでが本当に大変だった。赤ん坊が成長していくようなものかも知れないが(成長したかどうかは分からないが)、周りの人にも迷惑をかけたと思う。

 英語での会話もなれるまでは大変だった。文化の違いもやはり無視することはできない問題だ。電話で用事を片付けられるようになって僕の生活もかなり楽になった。

 日々の生活では、金銭管理(現金、キャッシュカード、小切手、クレジットカード)、時間管理、身分証明書、買物、食事の献立、洗濯、掃除(結局ほとんどしなかった)、車椅子修理などの自己管理能力が重要となる。障害とともに暮らす、ということを学ぶ必要があるのかもしれない。





 ★障害をもつ個人と緊急事態



 一人暮しには危険が伴うこともある。頚髄損傷者の場合、尿閉、失禁、介助者が現れない緊急事態、など通常人以上の危険を負う。しかし、失敗の危険・可能性に対する挑戦にこそ人間の尊厳があるともいえる。また、トラブルの危険性・可能性・発生の蓋然性は、率は異なるが、どこにでもある。予防や問題発生後の処理で、危険を分散し最小化する必要がある。保険は二重三重にかける。具体的には、複数の介助者体制や緊急時のための予備の支援介助者の確保、蓐瘡に対しての電動リクライニング車椅子とローホー・クッションの併用などが考えられる。





 @火事



 僕も頚髄を損傷しほとんどのものを失ったと思っていたがいくつかのものは残っていた。その中でもっとも基本的なものは時間だと思う。しかもそれは有限の時間だった。





 1986年1月6日、留学生活を始めて2カ月近く経った頃、住んでいたアパートで火事に会った。

 午前9時30分、騒がしいので目が醒めた。サイレンの音が聞こえる。すぐそばだ。電気をつけたが2階が騒がしくなったと思ったら電気が消えた。介助者は寝ていた。

 「ハイ、何が起きたんだ?」介助者を起こして尋ねた。介助者はまだ寝ぼけていた。

 玄関を開けてみると消防士がいた。アパートの2階が燃えていた。

 「車椅子の者が下にいる。我々はどうしたらいいか」と怒鳴って尋ねた。

 「リラックスしろ。そして車椅子に乗れ。」と消防士に言われた。

 小便が出そうな感じがあったが、非常事態だと言うことで、電動車椅子の上に電気毛布を敷いて収尿器を着けずにそれに乗った。毛布を掛け、玄関の前でいつでも逃げ出せる準備をした。パスポート、航空券などの入っているバッグと財布の入っているダウンジャケットを取ってきて膝の上に載せた。あとワープロで作った記録とワープロ自身も気にかかったが緊急事態だから仕方がない。

 凄いサイレンの音とガラスの割れる音がしていた。たくさんの消防士達が動き回っていた。酸素マスクを着けているのもたくさんいた。大きな消防車が何台も来ていた。

 二階で放水している水が落ちてくる。緊迫したムードだった。

 すべての消防士が会うたびに、「具合いはどうだ?」と声をかけてくれた。でかい図体をした消防士を見ていると少し安心する。

 アパートの二階の僕の真上の部屋のベッドのマットレスがタバコの火で燃えた、と言っている。

 介助者や消防士達もいるし電動車椅子にも乗っているので、まさか死ぬことはないとは思っていたが、荷物を持ち過ぎた、もっと整理しておかなければならない、そして記録の保管と一応の覚悟は常に必要だろう。しかしまあ人に後ろ指をさされるようなことはしてきてない、一応ベストは尽くしてきたと言うことが救いか、などと考えていた。

 天井からの汚水は激しくなったが峠は越えたらしい。だいぶ下火になったみたいだ。写真をとった。消防士が来て床に敷くキャンバスを貸してくれた。

 消防士に「どんな具合いだ?」と聞かれたので、「どうも有難う」と答えたら、彼らは「楽にしろ」と言って帰って行った。





 時間があれば人間には何かができる。また何かしないとやりきれない。体が動かないからという理由で、何もしないでベッドに寝ているだけの人生というのは退屈で苦痛だ。頚損者が介助者の負担を軽くするために、介助を生存のための最低必要行為、水分・食物の摂取、排泄などに限定する、つまり寝た切りを選ぶ場合は少なくない。しかし、たとえそれが介助者の負担を軽くするためであっても、僕は、自己実現、自己表現を伴う仕事をしたいと思う。達成感や充実感を感じたい。生存することの意義ということや命に輝きをということは頚損者にとっても大事な問題だと思う。自分が他人から何も必要とされない人間だという他人の評価、自己の認識は苦しいことだろう。

 僕はアメリカですることがあった。介助者サービス事業のリサーチを行い日々の記録もとった。しかもそれが奨学金という収入に結び付いていた。

 危険はどこにでもあるが、自分のしたいことを精いっぱいやった結果であれば納得できるだろう。





 次回は緊急事態(入院)、複数のパートタイム介助者体制への移行を中心に報告する予定です。









写真説明





@ジュディ、彼女の住居で。





Aドレーパー、同僚のデイビッド、CILの受付で。





BCIL職員を希望して就職申し込み中だった頚髄損傷者・ウェイン、僕のアパートで。





C地下鉄の駅の駐車場で毎週末に開かれるフリーマーケット。忍者ハットリ君のおもちゃまで売っていた。





D火事、消防車。アパートの2階の窓はなくなっている。





E火事、着のみ着のままアパートを逃げだしているところ。





F火事、消防士達。





G火事の後、僕の部屋のペンキ塗替えのため居間で生活していた時。













アメリカの1年 No.7
One Year of the Life in America
『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』
1985年11月〜1986年9月、アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー
ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
財団法人 広げよう愛の輪運動基金、
財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
written by Kazuo Seike 清家 一雄:重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
初出:「アメリカの一年」[7]、『脊損ニュース』1988年02月号、 pp.15-19、全国脊髄損傷者連合会、1988.02
--------------------------------------------------------------------------------
「アメリカの一年」 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] 、
『脊損ニュース』1986年4月号〜1987年7月号、全国脊髄損傷者連合会、1986-1987、
--------------------------------------------------------------------------------
"WORKING QUADS" homepage
--------------------------------------------------------------------------------



アメリカの1年





『アメリカにおける自律生活の実験と介助者サービス事業に関する調査報告』





福岡県脊髄損傷者連合会 頚損部長

清家一雄





第七回報告





 今回はベイエリア(サンフランシスコ湾周辺地域)での僕自身の生活のうち緊急事態(尿閉による入院)と複数のパートタイム介助者体制への移行を中心に報告します。御意見・御感想をお待ちしています。





A尿閉による入院と複数のパートタイム介助者体制への移行



 受傷してからどれだけ健康に憧れ続け、求め続けてきたことだろう。健康は幸福・満足の十分条件ではないが必要条件ではある。そして十分な健康は望むべくもないが、最低限の健康を維持できないと、人間の尊厳も、人権も、自由の保障も全部無意味なもの、絵に画いた餅になってしまう。もっとも、そんな極限状態でも、人間の尊厳を維持し、人間を人間であらしめ、自由を擁護し、生きる価値を与えるのものが、何かあると信じたい。しかし、少なくとも、健康でなくては仕事もできない。

 頚髄損傷者の在宅生活で健康管理上とくに注意を必要とするのは排泄(排尿・排便)管理と蓐瘡予防対策だ。ともに十分な自己管理を怠ると社会生活に著しい支障をきたすことになる。とくに、排尿障害は生命に直結する。脊髄損傷者は歩けなくても死ぬことはないが、尿が出なくなって死ぬ。日本の脊髄損傷者の平均余命も泌尿器科医学の進歩などによって昭和四〇年頃から飛躍的に延びたように思う。

 日常生活動作のできない頚髄損傷者にとって健康管理を実際に行なうのは医師、看護婦、家族、介助者などの他人である。自己管理・健康管理の責任が最終的には頚髄損傷者本人にあるとすれば、これらの他人達との人間関係で、誰が、どの様な場面で、どの様な主導権を発揮し、どの様な負担を引き受けるか、難しい問題がある。さらに、直接のサービス給付の問題と並んで、誰が何の根拠でどの割合で最終的に費用を負担するかという問題もある。

 僕の留学当初の一人きりの介助者による住み込み介助体制は、事故や夜間の盗難などの予防対策のために、米国滞在中の管理責任者であるCIL所長が提案した条件であり、その介助者は所長夫妻の紹介だった。しかしその介助体制で2カ月経過後、1986年1月末の尿閉による入院を契機に、以後、現実の必要性から複数のパートタイム介助に切り替えた。





 ★尿閉による入院



 渡米約2カ月経過後、初めての一人暮しや米国生活の緊張感など疲労が原因か、突然、排尿が著しく困難になった。このような障害の発生は受傷当時を除けば初めての経験だった。アメリカへアテンダント(介助者)・サービス・プログラムのリサーチに来て、ちょうど、研究の対象が段々具体的になってきて、勉強すべき事が見えてきた時期だった。少し無理をしたのかもしれなかった。通常でも脊髄損傷者特有の失禁と排尿困難という両極端の障害に悩まされているが、排尿困難に対しては腹部のマッサージかパッティング(拳で腹部を叩くこと)によって排尿を促進するので、この時もパッティングによって自分で排尿を試みたが、排尿困難は解消せず、冷汗が止まらなくなり、血圧が上がり頭痛がひどくなった。

 当時の住み込み介助者に、「尿が出ず冷汗が止まらない、日本では腹を押して尿を出せば治っていたので腹を押してくれ。尿を完全に出さないと大変なことになる。腹を押すことで何が起こってもそれは全部僕の責任だから心配するな」と言ってその介助を頼んだが、彼は、「腹を押すと体を壊すのでできない、リラックスすれば治る。ここは日本ではなくアメリカだ」と主張し、何度頼んでも拒絶のくりかえしだった。

 そのうち足の痙攣が止まり、尿が全く出なくなった。911に(ベイエリアの救急車、消防署、警察の緊急時用電話番号)に電話を掛け、救急車を呼んだ。その間に英文の診断書も準備した。その救急車でアルタ・ベイツ病院の急患室へ行った。この病院はバークレーで最大の私立病院だった。

 採血などの検査後、医者が、「膀胱が膨張している」と言って導尿した。大量の尿が出た後、この日二度目の悪寒が来た。医者は、「多分大丈夫だろうが、腎臓感染コントロールのため一晩病院に居ろ」と言った。

 点滴を始めながら6階の病室へ行った。病室は黒人との二人部屋だった。ゆったりとした空間と部屋に付いている風呂トイレ、行き届いた空調と窓からの見晴らしの良い眺め。リモコンやモーターがたくさん付いている電動リクライニング式の超高級医療用ベッド、明るい照明、ナース・コール、ベッドサイドの電話、サイド・テーブル、応接用の椅子、清潔な敷布・掛け布、よさそうなテレビ。看護婦の数も多い。寝返り、食事、検温、血圧、血液検査、ひっきりなしの点滴、そして三種類のジュースのサービス。これは高そうだ、との厭な予感がした。病院内の看護や介助としては、検温、血圧・血液検査、点滴、水とジュース、食事介助、電話介助、清拭、体位交換、寝る前の腰の両横クッション設置などのサービスを受けた。

 値段のことさえ気にしなければ、物凄く清潔で快適で気持ちが良かった。環境が良いせいか、うとうと眠っていたら、若い泌尿科の担当医が来た。僕が、「いつ退院できますか」と聞くと、医師は、「感染は尿閉の結果だ。手術はやったことがあるか。米国には後どれくらい滞在するのか。明日検査して、原因と手術の必要性を検査しよう。多分必要ないが。点滴は病院に居る間続ける。カテーテルはまだ外さない」と言った。

 入院後三日目、やっと医師は、「帰って良い。ただし、カテーテルは付けたままで。来週の月曜日に医師事務所に来るように。その時カテーテルを抜いてコンドーム型を着けよう。今週医師事務所に電話して予約を取るように。薬を飲むように。カテーテルは膀胱が膨張していたので、元に戻すためには最低1週間必要だと思う」と言って、退院を許可してくれた。(米国の病院はほとんどすべて、いわゆるオープン・システムである。病院は、日本の病院のように大規模な外来部門を持たず、地域で開業している特定の医師と契約を結び、その開業医師が、自分の診療所で診ている患者を入院の要ありと判断すれば、その病院へ送り込み、毎日、自分でその病院へ出向いて診察する。岡本祐三・アメリカの医療と看護・保健同人社)

 結局、二晩その病院に入院したが、その僅か2日間で1、400ドル(当時の1ドル200円のレートで28万円)の入院費を請求された。会計から、「旅行保険は事故用で病気には使えない」と言われ、退院する時は、アメリカン・エキスプレスで支払った。

 一週間後、リフト付バン・タクシーで医師事務所へ行った。尿検査の後カテーテルを抜いた。医者に保険金請求書に書き込んでもらった。アパートに帰って後、冷汗が出て尿が出なくなった。医師事務所に電話すると、「アルタ・ベイツ病院へ行け」と言われ、タクシーで病院の急患室へ行った。再びカテーテルを挿入された。1、300t溜っていた。

 帰宅後、総合せき損センターの岩坪泌尿器科部長に国際電話で相談した結果、長期間のカテーテル挿入は感染の危険があると忠告され、自己導尿セットと消毒液を同センターから送ってもらえることになった。また排尿介助に関し腹部のマッサージやパッティングが国際的にも認められている方法で、危険でない旨、岩坪部長から介助者に説明があり、その点に関しては彼も納得したようだった。

 その翌日、医師事務所へ電話した。医師は、「時間毎か出にくい時だけ導尿を使用しよう。訪問看護婦に(僕の)アパートに行かせる。訪問看護婦が新しい管理方法を介助者教える」と言った。

 バークレー訪問看護婦協会から、「明日の午前中に来る。処方箋で道具を用意しておくように」という電話があり、翌日、訪問看護婦が来た。彼女は背の高い年輩の快活で品の良い婦人だった。訪問看護婦の存在は、職業技術なのだろうがいろいろ元気づけてくれるし、介助者との関係に公正・公平・中立の第三者が入ることが嬉しかった。

 彼女は、「20分間、マッサージやパッティングで排尿を試みるように、膀胱が内部圧力によって膨張してしまったら、カテーテルを使うように」と、マッサージの方法を実演し、介助者を指導してくれた。訪問看護婦はカテーテルを抜いて帰っていった。

 その後、電動車椅子でリクライニングしながら尿の一番出やすい角度を探しパッティングするが、尿か出てこない。訪問看護婦が再び来て、様子をみながら、介助者に導尿の方法を教え、「医師の指示があり、危険はないから心配しないで導尿するように」と、イラスト入りの手引書を書いて介助者に渡して行った。

 その夜、尿が出ずに膀胱が膨張状態になった。訪問看護婦協会に電話して出ないので、担当医に電話した。医師の電話の導尿指示に対し介助者が、「我々は全ての道具を持っている。しかし私はやったことが全くない。私は絶対しないだろう」と断わった。

 僕が医師に、「何をすべきか」と聞くと、「病院に行き、そして週末はカテーテルを着けろ」と言われた。

 タクシーで病院へ行き、導尿した。尿が約870t溜っていた。

 帰宅後、介助者は「導尿のことなど、介助契約所に書いてなかった。別の介助者を見つけろ。私は辞める」と言って、外へ出かけた。

 この時期が僕の米国留学生活での最も困難な時期だったと思う。本当にアメリカで七転八倒の日々だった。こんなに苦労するとは自分でも思っていなかった。家族をはじめ周囲の人達にも心配、迷惑をかけたと思う。派遣者や受け入れ先なども大変だっただろう。

 健康保険のきかないアメリカで、医療費がどれくらいかかるか予想もできず、また、一人きりの介助者に頼んだ介助を断わられるという状況に直面して、これから先、残尿を減らして行く排尿訓練もできないのではないかと、非常に不安だった。米国では、外国人である僕にとって、医療はまさに商品だった。金があれば世界最高の医療を買うことができるが、なければ最低線の医療さへ受けられない。日本に帰れば、健康保険と医療援助で、せき損センターなどの世界最高水準の医療を社会保障として受けることができる。さらに、ただ治療を受けるだけで、何も勉強できないのであればアメリカにいる理由はない。アメリカへは介助者サービス事業の調査研究に来たのであって、医療を受けに来たのではない。

 意地が僕を支えていたのかもしれない。受傷以後、これ以上の負け犬にだけはなりたくないという意識が常にあった。それにはやせ我慢でもいいから頑張ることしかなかった。人間にはやはり誇りは必要だろう。

 危険に挑戦することとにこそ人間の尊厳があり、成長もあるだろう。しかし、その危険は分散・最小化されなければならない。これらの点に関しては、滞在中知人となった在宅被介助者の忠告や役割モデルとピア・カウンセリングが非常に参考になった。ベイエリアでは本当に超重度の障害者が頑張って生活している。これは可能性に対する認識、自信、お手本(模倣すると楽にできる)となった。孤立している人間は弱い。

 頚損者でCIL職員のドレーパーは、障害者と介助者との関係についてミーティングした時、「感覚のない腹部を押すことは決して悪いことではない。パンチあるいは激しく押すことは悪い。咳をするとき押してもらうのと同じ考えだ。どれくらい強く、どれくらい長く押すか、ストップと言えば良い。この場合、@古い介助者を解雇して新しい介助者を雇用する、A緊急時介助者、別の介助者、友人を準備する、B現在の介助者を訓練あるいは教える、という三つの選択肢がある。賃金を支払うことで障害者は権利を持つ。障害者は強くなければならない。しかし、それを実現するためには、何人かの支援介助者、電話による介助者、友人、親戚、あるいは家族が、緊急時に対して必要である」という助言をしてくれた。

 翌朝、訪問看護婦に、昨日の晩カテーテルを着けたことを話すと、彼女はは医師に電話をかけた。担当医は眠っていた。他の医師の電話を待つ間に、僕は彼女に、「相談したいことが二つある。第一に、現在の介助者とでは排尿トレーニングができない。昨夜、マッサージも導尿も断わられた。第二に、彼は辞めると言っている」と言った。

 訪問看護婦が介助者に、「導尿はしなかったのか」と聞いたり、「医師の指示で簡単で危険もない」とか言っていたが、介助者は、「ノー、ノー、ノー」と言っていた。

 僕が訪問看護婦に、「この状況を僕の直接の監督者であるCILの所長に説明していただけませんか」と頼むと、彼女は少し考えて、「訪問看護婦の責任などについて所長に電話しよう。来週、別の介助者が見つかったら電話するように。その介助者に導尿の仕方を教えるから。そしてそれだけが訪問看護婦の仕事だから」と言って、訪問看護婦は帰っていった。

 翌週、CIL所長に相談し、導尿のできそうな介助者を紹介してもった。その介助求職者とCILで面接し、採用した。

 数日後、連絡を受けた訪問看護婦協会から別の訪問看護婦がアパートに来て、挿入してあったカテーテルを抜いて、新しい介助者に導尿のやり方を指導した。

 病院の医師は最初電話で1日2回の導尿を指示した。その後、岩坪部長の1日3回の導尿が望ましいと助言があり、米国の医師も同意見で、導尿を一日3回行った時期もあった。

 訪問看護婦が導尿で請求する費用は1回60ドルであったが、CILの所長と相談の結果、介助者による導尿は、1回7ドル、1日2回で14ドル支払うことになった。

 また、CILの介助者情報サービス部門部長とミーティングをして、導尿のできそうな介助者のリストをもらいそれにチェックしてもらった。介助者情報サービス部門は、障害者(要介助者)と介助求職者の双方に情報サービスを提供場であった。僕も、そのサービス部門に登録し、介助者を募集した。 ポリオで電動車椅子使用者の女性部長のパムは、「障害者の指示で介助者が身辺介助(医療近接サービスを含む)を行うべきであり、介助者に通常の過失がなければその責任(損失・危険)は障害者が負担すべきである、というドレーパーや僕の言うことは正しい。しかし、たいていのアメリカ人はいつも損害の賠償金によって金を儲けることを考えいる。コンタクト・レンズを落としてその責任を追求された介助者がいる。アメリカの介助者はとても神経質になっていることをあなたは理解しなければならない。文化の違いもある。もしあなたが死んだらあなたの家族はどうするだろう。医者に言ってもらうだけよりも手紙に書いてもらった方が良い。電話で連絡する緊急時介助者いうのがある。日本ではボランティアを使っていたのか。日本人は介助者に気を使い過ぎて介助者にはっきり言わない。あなたは強くならなければならない(You must be strong. )」と助言してくれた。

 同時に、知人の紹介や口コミも利用して、新しい介助者を募集した。介助求職者達とCILバークレーや自宅のアパートで面接し、採用して行った。こうして、尿閉による入院を契機に、僕の留学当初の一人きりの介助者による住み込み介助体制は、現実の必要性から複数のパートタイム介助者体制へと移行した。10カ月間の米国滞在中、僕が有料で雇った介助者は計13人だった。この複数パートタイム介助者体制は僕の帰国時期まで続いた。

 新しい介助者達の処置も良かったせいか、残尿状態も次第に改善した。パートタイム介助者による導尿を初めて約1ヶ月後、自分だけで軽くパッティングして、残尿50t弱と、ついにバランス膀胱に戻った。こんな嬉しいことはなかった。その三日後、朝の導尿を止めた。さらに5日後、晩の導尿を止め、導尿を完全に止めた。結局、約2カ月で尿閉発生前の排尿管理状態に復帰可能になった。

 最終的には、海外旅行障害保険で、僕が立て替えていた救急車代(165ドル、タクシーで3ドルの道)、病院の救急室代、入院費用、医師の治療費、訪問看護婦の費用全額と、使い捨て導尿セット代金の一部費用がカバーされた。しかし介助者による導尿費用に関しては保険による支払いから除外されていた。

 この時のことは「頚髄損傷者の米国留学生活」(松井和子編集・在宅頚髄損傷者・第3部・東京都神経科学総合研究所出版、全脊連事務局で送料共1000円)と「アメリカの人々ともう一つの選択肢」(・自立へのはばたき−−障害者リーダー米国留学研修派遣報告1985・日本障害者リハビリテーション協会)に少し書いてあるので、興味のある方はそれも読んでみて下さい。









 次回は緊急事態(尿閉による入院)と複数のパートタイム介助者体制への移行(後編)を中心に報告する予定です。









写真説明





@アルタ・ベイツ病院の6階の病室で





Aアルタ・ベイツ病院の6階の病室からの眺め





Bアービー・メディカルという医療リハビリテーション用品店の前で





C退院後、アルタ・ベイツ病院の玄関の前で





Dヒサコ、イサオ、サンフランシスコ・ヒルトンホテルの最上階レストランで





Eパートタイム介助者と地下鉄バークレー駅のエレベーター地上口の前で





Fパートタイム介助者とアパートのリビングで





GCILバークレー介助者情報サービス部門部長とCILで













アメリカの1年 No.8
One Year of the Life in America
『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』
1985年11月〜1986年9月、アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー
ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
財団法人 広げよう愛の輪運動基金、
財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
written by Kazuo Seike 清家 一雄:重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
初出:「アメリカの一年」[8]、『脊損ニュース』1988年03月号、 pp.13-17、全国脊髄損傷者連合会、1988.03
--------------------------------------------------------------------------------
「アメリカの一年」 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] 、
『脊損ニュース』1986年4月号〜1987年7月号、全国脊髄損傷者連合会、1986-1987、
--------------------------------------------------------------------------------
"WORKING QUADS" HomePage
--------------------------------------------------------------------------------



アメリカの1年





『アメリカにおける自律生活の実験と介助者サービス事業に関する調査報告』





福岡県脊髄損傷者連合会 頚損部長



清家一雄





第八回報告



 今回はベイエリア(サンフランシスコ湾周辺地域)での僕自身の生活のうち生活処理資源の中物的資源を中心に報告します。御意見・御感想をお待ちしています。





 ★頚髄損傷者が自律生活を行うための利用可能な資源



 第七回報告で述べたように、尿閉による入院の時期が僕の米国留学生活での最も困難な時期だったが、これは頚髄損傷者の日常生活・社会生活にともなう困難そのものだったと思う。障害のない一般の人にとっても初めての外国留学生活は言葉、文化、情報、国籍にともなう社会保障、新しい人間関係などで様々な困難があるだろう。異人種、異言語、異国籍であるということはその社会においてその人にとっての社会的不利になる可能性がある。留学の成果をあげるために過度の負荷を自らに課すこともあるだろう。当時僕の尿閉が起こったのは、アメリカへ介助者サービス事業の調査に来て、ちょうど、研究の対象が段々具体的になってきて、勉強すべき事が見えてきた時期だった。少し無理をしたのかもしれなかった。また、胸腰髄損傷者の人達が行ったとしても、健康、住居、移動などの面で障害に基づく困難に出会うだろう。しかし、僕(C-5頚髄損傷者)の直面した最大の困惑・問題点は、一人きりの介助者に頼んだ介助を断わられるという状況そのもので、これは日常生活動作の自立度が極めて低い頚髄損傷四肢麻痺者特有の非常な困難性(他にポリオ、筋ジストロフィー、脳性麻痺などの四肢麻痺者にも共通の問題だろう)そのものだろう。頚髄損傷者のこの困難さの具体的対象は、衣服の着脱、ベッドと車椅子間の移動、身ずくろい、食事などの各種の日常生活動作を必要とする生活管理に及ぶが、中でも、排泄管理、褥瘡予防などの健康管理、とくに排尿管理は生命に直結するものであるだけに極めて深刻な問題となる。アメリカという健康保険の効かないところで尿閉になって健康の大切さをつくづく思い知らされた。滞米留学期間の短縮も真剣に考えた。本当に七転八倒の日々だった。それなのに病気になってさえ手も足もきかない人間が自由、自由と唱えていた。滑稽なことだったかも知れない。しかし僕の自由への渇きは強烈だった。めざすものは自由。その内容は自己決定権の保障と自由な活動の実現だった。

 しかし、得たものもまた大きかったように思う。最も貴重な収穫であったのは、高位頚髄損傷者である僕が、これらの緊急事態があっても、家族や友人のいないところで、介助者サービスを利用しながら、何とか事態を処理し、その後のある程度の長期間を、何とかやりくりしながら生きてきたという事かもしれない。生活(緊急事態)を処理するためにはいろいろな資源を利用しなければならない。身体機能の障害が重度である頚髄損傷者にとってはこの必要性はより一層大きい。危険に対する国民社会的な規模での対応・資源が社会保障だろう。しかしこの資源は米国籍のない僕にはほとんど利用できない。個人レベルで利用可能な資源としては、自己の能力(精神的な強さ、コミュニケーション能力、判断力、決断力、体力など)、情報・知識、資金、物(住居、設備、補助具、電動車椅子)、人(介助者、専門家、友人、家族)などが考えられる。十分に理解し、学んだとは言えないが、当時を振り返って、僕がアメリカで、頚髄損傷者の生活(緊急事態)への対処について、利用した資源、利用すべだと感じた資源、あるいは利用できたらなあと感じた資源を思いつくままに書いてみる。





1.物的資源



 一人で行動する自由を少しでも拡大するために色々工夫した。日本からもかなりのものを持っていったが、それと併せてアメリカでは米国製障害者用品を買ったりレンタルして使った。頚髄損傷四肢麻痺者のADL(日常生活動作)能力は損傷髄節高位によって、ほぼ決定され、自立可能な動作は限定されてくるが、物的手段の利用によりADLの向上、生活環境をコントロールできる。また、介助が不可避の現状では介助を容易にするための工夫も考えられなければならない。人的介助最低必要量は便利な生活機器や補装具・自助具とも関連する。これらは障害をもつ個人のADL能力を高め、介助量・時間を減らすが、購入費や賃借料が高価であれば人的介助に頼らざるを得ない場合も出てくる。





@住宅−居住空間



 アパートは木造2階建ての1階で、かなり古い建物だった。1階の出入口に車椅子用のスロープが付いていたので電動車椅子でのアパートの出入りには支障はなかった。寝室が二つと台所、食堂、居間、バスルーム(風呂、トイレ、洗面台)があった。アパート内には段差はなかったが、バスルームは狭すぎて僕の電動車椅子では入って行くことができなかった。クーラーはなかったがガスのセントラルヒーティングがあった。冷蔵庫とオーブンがついていた。

 僕は玄関の側の方の寝室を使った。レンタルの手動式ギャジベッド、渡米翌日に買った本棚とドレッサー、借りたテレビを置いて使った。本棚には、本の他、文書、コピー、手紙、紙タオル、ティシュペーパー、紙コップ、ストロー、コップ、やかんなども入れて置いた。アメリカにいる間、夜、寝ている時も腕時計はつけっぱなしにしていた。

 バスルームは狭すぎて入れなかったし、実用的でなかった。ベッド用の使い捨ての収尿器として大きなジュースボトルの空瓶などを使った。排便はベッド上で行った。風呂も使えなかったので、寝室でスポンジバス(清拭)をした。洗髪は、浮袋のような形をしたシャンプー・リンス・トレイ(約15ドル)を買い、それを使ってベッドの上で頭から計量カップでお湯を掛けながら行った。洗濯はコインランドリーで行い、乾燥機を使った。アパートでは洗濯物は干さなった。タオルやガーゼなど頻繁に使うものだけ寝室内にロープを張ってそれに干した。

 居間に本棚、机を置いて僕専用の書斎として使った。机は電動車椅子で入りやすいように鉄製の本棚とテーブルの上に紙箱をおいたものを足として、その上に広い木の板を置いた。これらの材料はアッシュビーのフリーマーケットで買ってきた。

 尿量を調節するためにも、一人でいるときに、自由にお茶、水を飲めるように、普通のストロー3本をセロテープでつないで長いストローを作り、大きなコップにさしていた。また、パンやクッキーのような手でつかみ易いものをテーブルの上に綺麗な紙を置いてその上に乗せて、好きなときに食べれるようにした。





Aドア・オープナー



 僕は鍵を扱えない。米国は治安が悪いのでアパートの鍵を開けっ放しにしておくのは危険だ。しかし、一人で電動車椅子で帰ってきた時、鍵を使えないと、アパートの中に入れない。中に入れないと寒いし、アパート内の電話なども使えない。また、朝、介助者が来た時、ドアの鍵を開けなければならない。それで、ドア・オープナーを、家主の承諾を得て、米人大工に注文し、玄関の鍵に取り付けた(約300ドル、自費)。これはワイヤレス・リモコン式の鍵の開閉装置で、発信機のスイッチを入れるとブザーが鳴って鍵が開く。発信機は二つで、一つは僕の電動車椅子、もう一つはベッドに取り付けていた。ドアの開閉は、外から帰ってくるときは電動車椅子で体当りでドアを開け、出かけるときはドアの取っ手に紐を付けていてその中に手を入れて引っ張る。





Bベッド



 寝室のベッドは手動式ギャッジベッドだった。手動式は介助者が手でハンドルを回さなければリクライニングが起きないので使わなかった。入院中の病院の電動ギャジベッドは、スイッチも自分で扱うことができ、快適で便利だった。坐位をとるのが自力で可能となり、介助が不要となる。

 最初は1本支柱のモンキーバーが付いていたが、入院後、足もぶら下げたかったので、2本支柱のオーバーヘッドバーを自費でレンタルしてそれに付け替えた。オーバーヘッドバーには三角の鉄製のスリングがぶら下がっていて、それに手を通して、車椅子との移乗、ベッド上で横を向いている時肘をつくためなどに使った。

 褥瘡予防として、凸凹の深いスポンジのエッグマット、通気性の良いシープスキンをベッドに敷いて使った。渡米直後に電気毛布を買ったが、ベイエリアでは一度もスイッチオンでは使わなかった。

 ベッド、電動車椅子、便器、浴槽間の移動など(介助者が身体的に負担)の介助機器としての介助用リフター(ホイスト)は、ホイストのレンタル料と介助者への賃金の比較衡量で借りないことにした。リフティング(抱え上げ)できる介助者を探して雇った。移動式手動油圧リフターには、操作に介助者とある程度のスペースを要し、時間的な節約という点では利点はなく、単に介助者の力を補うだけで、軽量者にはそれほど有効ではない。しかし、天井走行式電動リフターに関しては、東京都神経科学総合研究所制作のビデオ・ドキュメンタリー・自律・の中で、今西さん(飛び込みの事故でC-5・6 頚髄損傷者)が、見た人は多いと思うが、本来移動についての介助者の補助具である天井走行式電動リフターを、介助者(お母さん)の介助量を削減する目的で、自助具として活用していられるし、また、重度四肢麻痺者である高位頚髄損傷者が電動車椅子に移乗するのに介助用リフターを用いれば、電動車椅子を使い、その行動半径は飛躍的に拡大できる。アメリカ人在宅四肢麻痺者の介助用リフターの家庭での使用はよく見かけた。僕も、現在、移動式手動油圧リフターを、中古で買って、自宅で使っている。





C電動リクライニング車椅子、



 受傷後、僕の車椅子は、手動車椅子、電動車椅子、電動リクライニング車椅子と、変わってきた。それぞれ必要に迫られて使い始めたものだった。「僕もとうとう電動車椅子か」と思ったこともあるが、使用する車椅子の性能が良くなる毎(動力化、多機能化)に、僕の自由な時間は延長し、行動半径は著しく拡大してきたと思う。電動リクライニング車椅子を使えば単独で僕もかなり自由に行動することができる。

 僕がアメリカで使った車椅子は、手動車椅子、スズキの電動リクライニング車椅子、レンタルで1カ月間借りた米国製電動車椅子だった。褥瘡対策車椅子用クッションとしてローホークッションを買って使った。

 一人で長時間自由に行動するためには、収尿器の容量は大きければ大きいほど、いっぱいになって空にしなければならないことを心配しないですむ。アパート内では使い捨ての収尿器として大きなミルクボトルを車椅子の下につけて使った。あるいは、一人で収尿器を空にすることができれば良い。そのための方法として電動車椅子のバッテリーを利用するリモコン式集尿袋排出弁開閉装置(Automatic Legbag Emptier)を使っていたアメリカ人の頚髄損傷者もいた。僕も帰国前、収尿器用のリモコン式弁開閉器(165ドル)を電動車椅子につけた。現在、日本では3.8リッターの水筒を電動車椅子の下にぶら下げて収尿器として使っている。

 電動リクライニング車椅子を使えば僕も自分一人で行きたいところへ行ける。階段や大きな段差がなければ、少々の坂道、悪路なども一人で自由に移動できる。前輪にクライマーをつけているので8cmまでの段差は越えることができる。アメリカに来て、留学目的からも、じっとベッドに寝ているわけにはいかなかったので、行動の自由、とにかく外に出て行くことは重要だった。荷物を運ぶために自転車用の買物かごとリュックをつけてていた。雨の日にはゴミ袋用のビニール袋で作ったかっぱを頭からかぶったが、視界が悪く運転しにくかった。

 一人で自由に移動できるので、ある程度のスペースとパソコン、本、ノート、電話、お茶などをその上に載せた車椅子で利用できる複数のテーブルなどを用意しておくと、誰も居なくても、自分で必要なものの所に行き、何とか自分の複数のニーズ、用事を処理することができる。字を書いたり楽にパソコン(ワープロ)を操作したりでき、一人ででも、仕事も色々できる。介助者による人的介助の必要性が節約できる。

 電動リクライニング車椅子はフルリクライニングするとストレッチャーになる。ベッド間の移動が平面移動で済む。介助負担の軽減につながる。またリフターとの併用のに場合も操作し易い。リクライニングであるので、急な坂道を降りるときや低いドアの出入口(リフト付き1ボックスカーなど)を通るときも、シートを後ろに倒しておけば大丈夫だ。安定の良い姿勢を自分で微調整できる。車椅子上でズボンがはきかえられる。低いところや高いところに手が届く。

 僕は褥瘡予防のためのプッシュアップをできないが、リクライニングはプッシュアップの代用となり、臀部への減圧を実現でき、褥瘡の予防が容易になる。頚髄損傷者特有の低血圧、貧血の対策としても有効だ。介助者にいちいち車椅子ごと頭を後ろに下げてもらわなくてもよい。姿勢のコントロールができるので、内臓の働きにも良く、排尿時に最も排尿が楽な姿勢を自由に取ることができる。また、僕は自分一人で車椅子に乗ったり降りたりができないが、車椅子に乗りっぱなしでも、疲れたとき、フルリクライニングはベッド上での昼寝の代わりとなり休憩を自由に取ることができる。

 これらの利点により、健康・快適な車椅子使用時間の延長が可能になった。車椅子をなるべく頻繁にあるいは長時間使用できることは自由な活動時間を実現することである。頚髄完全損傷・完全麻痺者にとって車椅子使用なしということは寝たきりの生活、あるいは少なくとも家庭などでの閉じ込もりきりの生活を意味するだろうし、ある程度の長時間使用ができないと、とくに外出を伴う、仕事や活動ができない。長時間の車椅子上での生活が可能ということは、夜、介助者が現れなくとも、最悪の場合でも、暖房を強くして、電動リクライニング車椅子の上で頑張れるということで、一人暮らしの場合、精神的に余裕、ゆとり、安心感を持つことができる。

 電動リクライニング車椅子の今後の課題としては、大きさ、重さ、音、バッテリー、連続使用時間、屋外での速度、安全性、乗用車へ、飛行機へ、利用者の適応、維持管理、作業・仕事ができること、机とのコンビネーション、収尿器がうまく行くこと、痙攣対策がうまく行くことなどを感じた。





D電気製品



 スピーカーホン、ライト、充電式電気髭剃り器、電動車椅子充電器、テレビ、ワープロなど、電気製品を数多く使うので、延長コード、コンセント分配器を買ってきて使った。電気製品については電源スイッチや操作ボタンについて工夫した。ワープロなどの精密機械には変圧器(100V-120V)が必要だった。

 寝室の照明は、100Wの裸電球2個を寝室の天井灯とベッドでの読書用ライトとして天井とオーバーヘッドバーに取り付けて、どちらも紐で引っ張れば、オン/オフの切り替えスイッチになるようにし、自分で操作可能にしたた。

 電気ヒーターのスイッチは扱い易い形だった。夏の熱い日、扇風機を買い、ベッドの側に置き、スイッチを叩いてつけたり消したりしていた。

 テレビの操作は、ベッドサイドにテレビを置いて、ベッド上から手が届くようにし、電源スイッチに細い紐でばんそうこうの殻をぶら下げ、オンにするときはそれに指を入れて引っ張り、オフにするときは叩いて消した。チャンネルを鉛筆2本でテープを使い挟み込んで固定し、回せるようにした。





Dプッシュダイヤル式スピーカーホン



 電話は僕の安全確保のためにも絶対必要だった。いつでも警察、消防署、救急車、緊急時介助者などへの連絡できる体制にしておかなければならなかった。また、時間的、体力的にも、あるいは介助者の面からも、僕が直接現場に出向いて行って担当者と話をすることには限界があり、他人との交渉、連絡を電話で行い、用事を電話で片付けることは、僕が社会的自律生活をするためにも必要だった。

 僕は受話器を握れず、ダイヤルを回せないので、一人で電話を使うためにATTのプッシュダイヤル式のスピーカーホンを買って、5メーターのコードを付け、寝室、居間とどこにでも持っていって使った。夜寝るときは、電動車椅子をベッドサイドに置き、そのシートの上にスピーカーホンを置いて使った。スピーカーホンは音質の面で少し聞き取りにくい。また、ドアホンが付いていればと思った。

 夜、ベッドに上を向いて寝ている時はダイヤルしにくい。電話番号のメモリー機能がついていたので使った。また、ベイエリアでは、スピーカーホンをオンにし0を押すと、「こちらオペレーター、何か御用ですか(May I help you?) 」と応答してくる。「私は障害者でダイヤルできません。この電話番号につないでもらえませんか」と言うと、「OK」と言ってつないでくれる。相手の電話番号を覚える、あるいは介助者の電話番号は紙に大きく書いてベッド張って寝たまま見えるようにしていた。

 ホテルなどの旅行先では普通の電話機に受話器グリップをつけて使った。

 現在、日本では書見台の上にスピーカーホンを立てて置いて、横目でみながらダイヤルしている。





Eワープロ

 ポータブルタイプの日本語ワープロ(英文機能付き)を持っていって、研修報告などを書いて仕事をするために、あるいは手紙を書くために使った。僕の書く字はあまり実用的ではないのでワープロは大いに役に立った。

 僕はどうしてもベッド上で過ごす時間が長いが、ベッドの上では書字道具が使えず字を書いてメモができない。横を向いて寝ている時はワープロを使った。総合せき損センターの井手さんに機能キーに簡単なロックをつけてもらっていたので横を向いても片手で操作できた。紙の入れ替えも何とかできたので、一人ででもベッド上で文書を作る仕事はかなりできた。しかし毎日何時間も、しばしば一日中、ワープロをやっていて本当に消耗した。専用のワープロ用紙と熱転写用のリボンの補給も大変だった。日本から航空便で送ってもらった。

 現在はパソコンを使っている。フロッピーディスク交換の手間を省くためにも20メガのハードディスクを導入した。補助登録機能付きのワープロは速記のようなもので僕のような頚髄損傷者には便利だと思う。

 ペンホルダー式の書字道具も、面接でメモを取ったり、文書にアンダーラインを引いたり、チェックしたり、小切手、クレジットカードにサインしたりするために必要たった。電話のダイヤルを回すのに便利だ。小切手、クレジットカードのサインは、ベッドに寝ていたときなど、口で書いたこともある。





 (参考文献、赤津隆、「重度頚髄損傷四肢麻痺者に対する自立生活援助機器に関する研究」等。岩坪暎二他「泌尿器科の立場からみた四肢麻痺」総合リハビリテーション、第13巻 第7号 。松井和子編・在宅頚髄損傷者−−その生活と意識−−・東京都神経科学総合研究所・社会学研究室。その他)





 次回は生活処理資源の中と介助者(複数のパートタイム介助者体制)を中心に報告する予定です。









写真説明





@アパートのスロープ、レンタルした米国製電動車椅子を使っている。





A居間の机の前での仕事場。リクライニングをかなり倒し、お尻に楽な姿勢で作業している。





Bベッド上でのシャンプー・リンス・トレイによる洗髪





Cボストンのコインランドリー





D渡米直後のベッド。1本支柱のモンキーバーで、まだエッグマット、シープスキンが無い。





Eベッドサイドの電動車椅子の上に置いているスピーカーホン、扇風機。上の紐はベッド用ライトのスイッチ。





Fボストンの友人の家で電動リクライニング車椅子の上でくつろいでいる。





Gホワイトハウスの横でレーガン大統領夫妻の看板













アメリカの1年 No.9
One Year of the Life in America
『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』
1985年11月〜1986年9月、アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー
ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
財団法人 広げよう愛の輪運動基金、
財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
written by Kazuo Seike 清家 一雄:重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
初出:「アメリカの一年」[9]、『脊損ニュース』1988年04月号、 pp.14-19、全国脊髄損傷者連合会、1988.04
--------------------------------------------------------------------------------
「アメリカの一年」 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] 、
『脊損ニュース』1986年4月号〜1987年7月号、全国脊髄損傷者連合会、1986-1987、
--------------------------------------------------------------------------------
"WORKING QUADS" HomePage
--------------------------------------------------------------------------------



アメリカの1年





『アメリカにおける自律生活の実験と介助者サービス事業に関する調査報告』





福岡県脊髄損傷者連合会 頚損部長

清家一雄





第九回報告



 今回はベイエリア(サンフランシスコ湾周辺地域)での僕自身の生活のうち生活処理資源の中物的資源の中の改造自動車、資金、情報、人的資源・介助者(複数のパートタイム介助者体制)を中心に報告します。

 今回でこの報告も第9回目になりました。アメリカでの自律生活の実験と介助者サービス事業の実態と僕の考えなどについて、勝手なことを書いていますし、記述に不正確な点も多いだろうと考えています。しかし若年で受傷した高位頚髄損傷者の1人としての率直な声です。御感想、御批判、御助言を頂ければ幸いです。



 〒814 福岡市早良区昭代1-21-10 清家一雄





 F改造自動車、



 自動車は地下鉄やバスとならんで僕のアメリカでの外出手段の一つだった。僕は一人では電動車椅子から他の座席への移動ができないので、電動車椅子のまま乗れるリフト付バン以外の自動車の移乗には介助者が必要だった。ボストンでは僕と同じ損傷レベルでC-5頚髄損傷者だが自分で改造自動車を運転していたジムと会った。

 1986年6月、ボストンの友人のアパートに滞在していた時、トランジーショナル・ハウスに出掛けた。ボストンCILは、障害をもつ個人を病院、施設、ナーシング・ホーム等から地域社会に出すための通過点としてトランジーショナル・ハウスという居住型のプログラムを持っている。

 アパートから行くのに、電動車椅子のままボストン市内を走っていたバスを使ってみた。ボストンのリフト付バスには2種類あったが、リフトがバスの中央のドアに付いている設備の良い新しい型のバスに乗った。目的地を乗り間違えていたが、親切な黒人のおばさんのドライバーが、彼女のボスの許可を得て、僕達のためだけにバスを動かしてくれた。バスは快適だった。

 トランジーショナル・ハウスでは最初に、チンコントロールの電動車椅子を使っていたC-4頚髄損傷者ともう一人の電動車椅子を使っていたトランジーショナル・ハウスの入所者・利用者・住人に会った。彼らの部屋に入れて貰った。良く設備の整った冬暖かそうな部屋だった。僕自身が電動車椅子を使っているからだろうが、勿論事前の連絡も入れているが、障害者関係の場所では大体いつも僕はフリーパスだった。

 短期間プログラム・ディレクターのジムと会った。彼はC-4・5の頚損者だった。15年前、2人の男に飛びかかられたたかれて受傷し頚髄損傷者になった。ジム自身、古い方のトランジーショナル・ハウスの卒業生だった。

 1万ドル(1ドル200円のレートで200万円)のフォードのバンに1万6千ドル(320万円)の改造費を掛けて、ジム自身が運転できるようにしていた。

 「バン自体は自費だが、改造費は職業リハビリテーションの方から出た。最初に運転免許の申請に行った時は、痙攣が強いと言う事で却下されたが、その後、服薬で痙攣を押さえて再度申請したら認可された。ブレーキとアクセルを操作する右手は弱いが、短い棒を着けてハンドルに差し込み、それを回す左手はまあまあ強い」とジムが言った。

 ジムは特殊な磁気の着いた棒で車の鍵をあけ、リフトを使って電動車椅子のままバンの中に入り、運転席で電動車椅子を最も良い位置でで固定して運転していた。

 彼の電動車椅子の最高速度は時速13マイルで安全ベルトを使っていた。

 僕が、「そんなに速い電動車椅子があるなら自動車なんか要らないじゃないか」と言うと、「寒い日や雨の日に要るんだ」と言っていた。

 ジムは、「アパートに一人で住み、パート・タイムの介助者が来る。介助者は週に37時間だ」と言った。(マサチューセッツ州では介助者費用の援助はメディケイドというから出る。ボストンCILは介助者情報サービスを行ってないが、ボストンには大学や看護婦養成学校などがたくさんあり、また1時間6ドル10セント介助者を雇うためにメディケイドからでているので介助者を探して雇う事はそれほど難しくはない。ボストンでの面接調査から)(メディケイドは貧困者、障害者対策の医療制度で、社会福祉制度によって医療費を賄う制度、老人はメディケア。岡本祐三・アメリカの医療と看護−−その光と影・保健同人社19頁。社会保障法19章。メディケイドの下で供給されるアテンダント・ケアは医療モデルに結び付けられているがその紐はメディケア下よりもかなり緩やかである。メディケイド規則の下、アテンダント・ケアは治療についての医師の書かれた計画の部分として処方されなければならない。それはホーム・ヘルス機関によってホーム・ヘルス・サービスとして供給されるか、または「サービス提供の資格があり、登録看護婦によって監督され、かつ受給者の家族の構成員でない個人」によってパーソナル・ケア・サービスとして供給されることができる。42CFR 440.70と440.170(F)、ヅカス、・"SUMMARY OF FEDERAL FUNDING SOURECES FOR ATTENDANT CARE", World Institute on Disability, p.2。)

 同じ日に会ったトランジーショナル・ハウスの長期間プログラムのデレクタ−の話では、「通過プログラムのトランジーショナル・ハウスには、9カ月以内の短期間プログラムと3年以内の長期間プログラムがある。しかし例外で5年居る人(女性)もいる。私達は追い出すことができない。最大の問題は住居を見つけることだ。ボストン市内は、利用可能で、楽しい所や便利な所がたくさんあり、他所からトランジーショナル・ハウスに来た障害者もボストンに住む事を希望するが、住居を見付ける事は難しい。ボストン(米国)にはセクション8ハウジングと言う法律があって、その建物が建てられた時、政府の援助を受けたものであれば、障害者はその収入の30%を家賃として払えば良い事になっているが、実際にはそのようなアパートに入る事は難しい。アテンダントは住居程重要な問題ではない。あと、このプログラムのディレクターとして、トランジーショナル・ハウス内でのアルコールやドラッグの問題などがある」ということだった。

 後でジムに、「ボストン市内で利用しやすいシーフードのレストランを教えてくれ」と頼んだら、「俺はシーフードは食べない。肉しか食べないんだ」と言いながら、他の職員に聞いて教えてくれた。

 ジムと話してみて、また彼を見ていると、バークレーとは少し違うタイプだが、メディケイドを基礎にして、マサチューセッツ州ボストンにも障害者のおとぎ話の国があるんだなあ、と言う気がした。最後にまたC-4頚髄損傷者の人の部屋に寄って、トランジーショナル・ハウスを後にした。

 ジムはC-5高位頚損者でも改造自動車の使用で運転免許を取得でき、介助者なしで外出が可能となり、仕事や障害者運動の参加も可能となるということを体現していた高位頚損者の生活例だった。日本、アメリカ、国籍を問わず世界の障害者は、日常生活の自由を拡げてくれるディバイス、グッズなどを必要としている。歩くズボン、握る手袋みたいなのができれば、もう最高なんだけれど。





2.資金



 家族や親戚や友達がいないアメリカでは金だけが全てのような面がある。食費、家賃、生活必需品、医療、介助、等は無料ではない。僕がアメリカで留学生活を送ることができたのは広げよう愛の輪運動基金からの留学費用の送金があったからだ。

 僕が入院していた時、「家族や親戚がいないのか。それは悪すぎる」と言った看護婦の刺々しかった態度が、僕が会計に「アメリカン・エキスプレスで入院費を支払う」と言った後、少し和らいだような気がした。

 また、お金にゆとりがあればある程度は健康と時間を買うこともできる。僕も、当時の非常事態に際して、後どれだけアメリカにいられるか分からないが、買えるだけの健康を買おう、と思った。アパートのベッドの回りを清潔にして、2本支柱のオーバーヘッドバーを新たにレンタルし、岩坪先生への国際電話、野菜、十分な睡眠、1日7時間以上の介助者サービス、ノートを買ってワープロを控えること、リフト付タクシーを使うことなどに自費で支出することにした。





3.情報



 情報は重要な資源であり力だ。適切な判断のためには必要不可欠だ。特に、脊髄損傷者にとって危機管理に対する情報が必要になるだろう。問題把握の後の、問題解決のためのプロセス、人適・物的資源、そのコスト、接近方法、権利義務関係、結果に対する予測などの情報・知識、具体的には医師、病院、救急車、タクシー、家族、友達、福祉関係者などの利用可能な資源に関する情報・知識が必要となる。将来に対する不安が、自律生活を妨げる。非常事態に対する解決案を考え、用意することと、解決案に対する情報(緊急時介助者、緊急時サービス事業、尿閉に対する使い捨て導尿セット、持っているだけで使わなくても使えるという安心感)が大事だと思う。

 情報が必要な人の間で共有されることの重要性はいうまでもないが、最初からあらゆる情報を持っている人はいない。逆に、重要な情報が非常にしばしば少数の者達に保有されている現実がある。利用可能な資源に関する情報に接近するための方法・手段に関する前プロセス的な知識・情報もまた重要となる。障害をもつ個人に必要な情報源としてロールモデルとピア・カウンセリングがある。頚髄損傷者にとって情報接近のためのコミュニケーション手段としては電話が有用だと思う。





4.人的資源−介助者



 僕がアメリカで勉強を続けて行くためには何が必要か、ということを考えた時、1.住むところ、2.介助者、3.安全、だと思った。アパートはあるのだから、とにかく、朝、夕、晩の介助者を確保しなければならないと思った。頚髄損傷者の問題はやはり介助者の問題にたどり着く。

 脊髄損傷者の内、胸腰髄損傷者と指までコントロールできるC-8頚髄損傷者は、脊髄損傷による下肢麻痺を中心とする日常生活動作に関する障害を物的資源(収尿器、車椅子、改造自動車、改造家屋など)で何とか解決できる。たしかに便失禁や下痢の後始末に介助を必要とすることは頻繁にある(松井和子「第一部 在宅頚髄損傷者の生活と意識」・在宅頚髄損傷者・93頁)だろうが。指先までコントロールできない頚髄損傷者は、物的資源(電動車椅子、天井走行式電動リフター、環境制御機器など)、補償行為(コップの拝み持ちなど)、動物(介助猿、介助犬など)、を活用したとしても、万能介助ロボットでも現われない限り、四肢麻痺に起因する日常生活動作困難を単独では解決できない。それゆえ、頚髄損傷者にとって人的介助の必要性と介助方法、などの問題が不可避となる。





 @複数のパート・タイム介助体制への移行



 渡米当初の介助者は一人きりの住み込み介助者だった。その住み込み介助体制は、事故や夜間の盗難など予防対策のためにも、米国滞在中の管理責任者であるCIL所長が提案した条件だった。しかしその介助体制で2カ月経過後、第七回で書いた1986年1月末の尿閉による入院を契機に、複数のパートタイム介助に切り替えた。

 複数のパート・タイム介助体制は、僕自身の苦い体験に加えて、現地の被介助者から「一人切りの介助者に頼りきるな。複数の介助者で交代制を組み、さらに緊急時用の予備介助者を確保し、そのリストを作り、常にそれを新しくしておくように」という忠告に従った介助体制だっった。家族と離れた米国の一人暮しで、被介助生活に責任を負うのは、その当事者である被介助者自身であること、また危険に挑戦することを学び、その危険を分散し、最小にすることを学んだ結果の介助体制だった。

 米国でも、介助者が現れない場合の不安から、在宅を希望せず、施設やナーシングホームで生活する障害者が多いと聞いていた。僕のように生命維持レベルから介助を必要とする在宅生活者は、介助者不在の緊急時体制、すなわちエマージェンシー・サービス・プログラムを不可欠とするが、バークレーでは、僕の滞在中に、時給7ドルで緊急時介助者を紹介する24時間体制の制度が実現し、その事業が開始されていた。滞在中、僕の緊急時介助者リスト(緊急時に都合がつけば、アパートに来るという了解のあった介助者)に掲載されたのは9人だったが、そのうち実際の緊急時に来てくれたのは4人だった。

 10カ月間の米国滞在中、僕が有料で雇った介助者は計13人、うち男性9人、女性4人、白人7人、東洋系4人(日本人3人)、黒人2人だった。専業有料介助者6人、他の仕事と兼業3人、介助有経験者11人、うち米国頚髄損傷者の介助有経験者5人だった。さらに運転免許有り7人、他の被介助者の掛持ち介助が7人、学生介助者3人、住み込み介助者3人、パートタイムが10人だった。





 A必要介助と介助者の賃金



 僕の米国滞在中の介助費中、1日35ドルは原則として「愛の輪基金」から送金される留学費用に含まれ、それ以上必要とした場合の介助費は僕の自己負担とした。1日35ドルは、滞在地ベイエリアの相場の1時間5ドル、1日7時間が算定基準であり、自己負担は、留学目的を全う、安全、健康、快適かつ充実させるための支出だった。

 実際に介助者を雇用する立場になると、自分自身の介助必要量でさえ、的確に把握することは非常に困難だった。僕が生活上必要とする介助は、生存に必要な最小限度の介助(食事、排泄など)、健康維持に必要な介助(膝の屈伸運動など)、仕事をするための介助、(留学目的で必要な調査活動や自律生活運動家との交流など)、リクレーションも含めて快適な楽しい生活に必要な介助などである。

 それぞれの介助必要量の算定が客観的な妥当性を持ってているかどうか、平日と週末の生活形態の相違に伴った介助内容の変化、日常生活と特別な目的達成の生活(長距離移動に必要な介助など)で異なる介助の質と量の考慮などに対して、絶えず悩み続けた。

 さらに、実際に必要とする介助者の状況を的確に把握する問題がある。実際に採用可能な介助者数、その介助者が実施可能な介助内容、すなわち導尿や排泄処理介助が可能か否か、移動(かかえあげ)介助ができるか否か、家事のみか否か、また一日を3区分して、そのうちどの時間帯で介助を依頼できるか、平日と週末ではどうか、地理的条件(僕のアパートへの交通手段)の関係はどうかなどに関する配慮も必要である。

 以上の2点、つまり僕の介助必要量、必要な介助内容と質、およびその時点で採用可能な介助者の状況の相関関係で1週間の生活パターンを決定した。その場合、次のことを前提条件とした。危険に挑戦することとその危険を分散、最小にすること、具体的には介助者の意思や感情を考慮し、彼らが嫌がるような仕事は回避し、実際に承諾したことのみを彼らの仕事とした。必要不可欠な介助はそれを承諾してくれる人を探し、その人と契約する以外、方法はなかった。その点に関しては、滞在中知人となった在宅被介助者の忠告や役割モデルとピア・カウンセリングが非常に参考になった。

 さらに基本方針として次のことに留意した。介助者の仕事は2時間単位とした。それ以下では、交通費や往復の時間が負担となり、契約は困難だ。1日24時間のうち、就寝時間が8時間、残り16時間中、2時間介助者に来てもらい、3時間独りで行動すると、7〜9時、12〜14時、17〜19時、最後に21〜23時で、1日4回、合計8時間の介助時間となる。

 また導尿介助は1時間・1回(30分)7ドルであり、契約外でしばしば必要となる秘書的な仕事は1時間5ドル、週末、早朝、夜、は1時間6ドル以上という条件で、「愛の輪基金」の1日7時間、1時間5ドルの算定基準とは多少の差があったが、1日8時間の介助で何とかやって行けそうだという自信ができたので、差額は自己負担として、頑張ってみる決心がついた。

 介助内容の基本的な説明は、個々の介助者に対して僕が口頭で行い、特別なこと、例えば導尿などは、最初、訪問看護婦が介助者に指導し、後にその仕事に慣れた介助者が他の介助者に説明した場合もあり、中には経験をもつ介助者の場合もあった。





 B募集方法



 CILバークレーの介助者情報サービス部門は、障害者(要介助者)と介助求職者の双方に情報サービスを提供場だった。僕も、そのサービス部門に登録するとともに、知人の紹介や口コミも利用して介助者を募集した。前述の13人の介助者中、CILバークレー所長夫妻の紹介が2人、CILバークレー介助者情報サービスの紹介が6人、口コミによる介助者4人、日本での知合いが1人だった。

 人口約12万人のバークレーにあるCILバークレーの介助者情報サービス部門は毎月2回、介助求職者の登録リストが改訂され、そのデータベースには氏名、電話番号、労働時間、喫煙の有無、自動車免許などが含まれていた。1985年11月22日のリストによると、登録求職者数は、男性46人、女性43人、うち女性対象のみ希望が11人であり、僕の滞在中、多少の幅はあったが、改訂されていたリストでもほぼ類似の数字だった。

 介助賃金を現地の相場より1ドル高い、1時間6ドルで登録しておくと介助求職者から電話が頻繁にかってきた。ある盲人から、本を朗読する仕事に対して1時間3ドル50セントで募集したら全く反応がなく、1時間5ドルにすると応募の電話が頻繁にあったという話を聞いたこともある。

 僕は自分自身の介助求職者の面接をCILバークレーと自宅のアパートで行ったが介助者情報サービス部門のスタッフから、求職者の全部が良い人間ではないので、求職者をアパートで面接するのは危険だから、CIL、あるいはカフェテリアで面接した方が安全だという忠告を受けたこともある。

 さらに研修計画の一環として介助者情報サービス部門で、介助求職者の面接担当者として働いた経験によると、その応募者に学生も含まれていたが、大半は有料介助の経験者であり、バークレーでは在宅介助サービスが日常的な事業として実施されている印象を強く受けた。





 C採用時の契約条件



 ベイエリア、特にバークレーでは障害者と介助者の契約関係に関する蓄積が多く、バークレーの介助者契約に関する慣習やCILバークレー介助者情報サービス部門で使われている契約書のひな型に、それが現れていた("Attendant Management"ATTENDANT COMMITTEE REFERENCE MATERIALS。Attendant Referral Department Center for Independent Living in Berkeley。Sara Roberts, Nancy Sydow; "Consumer's Guid to Attendant Care", ACCESS TO INDEPENDENCE, INC. 。Alfred H. DeGaraff; "A Guidebook of Helpful Hints", TTENDEES AND ATTENDANTS)。また、介助者情報サービス部門は障害者と介助者間で生じたトラブルや紛争の苦情処理機関としても重要な役割を担っていた。

 紛争予防などの目的には書面による契約が望ましいと思うが、僕はすべての介助者との間で契約書を作成したわけではなかった。文書にも迅速性、融通性などで欠点があるので、必要性のある介助者と重要な事項について契約所を作り、他は口頭による契約で済ませていた。

 その内容は最初から必要な事項すべてについて話し合い、細部まで合意に達し、契約したわけではなかった。仕事の曜日・時間、主な仕事内容や時給に関する基本的契約事項に付いて話がまとまり次第、その条件で働いてもらっていた。細かい仕事内容や賃金の支払方法など付随的な契約事項に付いて、どちらかの申し出があれば、その場で話し合い、処理してきた。

 介助サービスは極めて現代的な契約類型であり、また当事者の個性が強く反映するので、介助者情報サービス部門の契約類型でも、当事者間の話合いで契約条件を決定が強調されていた。その契約関係は被介助者、介助者のどちらも自由に終了させることができたが、事前通知が必要とされ、パートタイムは最低2週間前、住み込み介助者に対しては1カ月前が望ましいとされていた。

 介助者と米国の介助者サービス事業に関しては「頚髄損傷者の米国留学生活」(松井和子編集・在宅頚髄損傷者・第3部・東京都神経科学総合研究所出版、全脊連事務局で送料共1000円)と「アメリカの人々ともう一つの選択肢」(・自立へのはばたき−−障害者リーダー米国留学研修派遣報告1985・日本障害者リハビリテーション協会、送料のみ)に書いていますので、興味のある方はそれも読んでみて下さい。





 次回はアメリカでの僕の実際の日常生活と米国内での長距離移動を中心に報告する予定です。









写真説明





@セントルイスCIL所長マックスのルノー。運転はできないが、車椅子のままでの乗降のためのリフトの操作は高位頚損者自身ができる。





AボストンCILトランジーショナル・ハウスの短期間プログラム・ディレクターのジム。トランジーショナル・ハウスで。彼の電動車椅子の最高速度は時速13マイル。安全ベルトを使っている。





Bジムが彼の改造自動車・フォードのバンへ乗り込んでいるところ。ジムは特殊な磁気の着いた棒で車の鍵をあけ、リフトを使って電動車椅子のままバンの中に入る。





C運転席で電動車椅子を最も良い位置でで固定して運転していた。





Dジム自身が運転できるようにしていた運転席。ブレーキとアクセルは右手で操作する。左手に短い棒を着けてハンドルに差し込み、それを回す。





Eボストン市内のバス。リフトが大きく乗り降りが非常に楽だった。





Fボストン市内のバスの中で。快適だった。





GヒューストンのNASAで。高校時代の友達と。













アメリカの1年 No.10
One Year of the Life in America
『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』
1985年11月〜1986年9月、アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー
ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
財団法人 広げよう愛の輪運動基金、
財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
written by Kazuo Seike 清家 一雄:重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
初出:「アメリカの一年」[10]、『脊損ニュース』1988年05月号、 pp.19-24、全国脊髄損傷者連合会、1988.05
--------------------------------------------------------------------------------
「アメリカの一年」 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] 、
『脊損ニュース』1986年4月号〜1987年7月号、全国脊髄損傷者連合会、1986-1987、
--------------------------------------------------------------------------------
"WORKING QUADS" HomePage
--------------------------------------------------------------------------------



アメリカの1年





『アメリカにおける自律生活の実験と介助者サービス事業に関する調査報告』

福岡県脊髄損傷者連合会 頚損部長

清家一雄





第10回報告



 今回はアメリカでの僕のパートタイム介助者との実際の日常生活に関して仕事を中心とした社会的自律生活を報告します。ご意見、ご感想を頂ければ幸いです。(連絡先:〒814 福岡市早良区昭代1-21-10)





★社会的自律生活−アメリカでの僕の実際の日常生活様式



 僕の米国での生活パターンとしては、褥瘡の状態で起きている日と寝ている日、CILに研修に行っていた週日と休みの週末、バークレーでのアパートを中心とした生活とベイエリア以外の研修地に長距離移動で出かけた時のホテルを中心とした生活があった。パートタイム介助者との頚髄損傷四肢麻痺者の生活様式の一例としてとして参考になるかもしれないと思いここに紹介する。





 (1) 起きている日・週日の一日の生活の流れ



 @朝の介助者(7:00-8:00am)



 午前7:00-9:00ぐらいの間、朝の介助者にアパートに来てもらっていた。

 まずベッドの上で横を向く。そしてとにかくお茶、コーヒーなどを飲み水分を摂る。ベッド上ではストローで飲む。起きている時はコップをくわえさせてもらい飲んだり(介助者がいる時)、ストローで飲む(一人の時)。朝食を食べる。

 朝の介助者が帰る時にワープロをセットしてもらい次の介助者が来るまで、一人でワープロで文書を作っていた。





 A午前中の介助者(10:00-12:00am)



 ワープロを片付けて、蓐瘡の予防(アルコールでパッティング)や手当て(ガーゼ交換)をし、衣服を着て、電動リクライニング車椅子に起きる。整髪、ひげそり、顔、手を拭くなどの整容動作の介助を受け、仕事に取り掛かる。仕事や銀行など日常生活のための用事などで電動車椅子で外出する。仕事が忙しいとき、しばしば必要となる秘書的な仕事を、契約時間外で延長して1時間5ドルで頼んだ。





 B夕方の介助者(5:00-7:00pm)



 通常、5時には僕もアパートに帰るようにしていたが、夜、バークレーなどで用事があるときは、介助者にCILなどに来てもらい、集尿袋を空にしてもらうなどの介助を受け、アパートには帰らないこともあった。

 アパートでは、ベッドに上がり、夕食を食べ、ワープロをセットしてもらい、その後一人でベッドで横を向いてワープロをする。





 C夜の介助者(9:00-11:00pm)



 ワープロで作った記録の整理、レシートの整理をする。スポンジバス、洗髪をする。爪も切る。蓐瘡の予防や手当て、寝る準備をする。歯磨きはは食事用の自助具に歯ブラシを差し込んで行なう。電動車椅子の充電器をセットする。

 介助者が帰った後は、一人で読書。僕はベッドで上を向いて、枕を高くして、小さな本を胸の上に乗せページをめくることはできる。電話をかけたりもした。のんびり誰かと話をすると落ち着いた。





 (2) 週末の生活



 週末は仕事が忙しいときは、起きた後リビングへ行きデスクワークを1日中していた。時間があるときは、誰かとあるいは一人で、レストラン、パーティ、映画館、サンフランシスコのダウンタウン(中心街)などへも、食事や買い物などに出かけた。





 (3) 褥瘡の状態が悪く1日中寝ていた日の生活



 ベッドで横を向いて、介助者が来るたびに右・左とひっくり返りながら、延々とワープロをしていた。









 (4) ベイエリア以外の研修地に長距離移動で出かけた時のホテルを中心とした生活



 ベイエリアも刺激に満ち溢れた街だったが、未知のアメリカの世界に飛び出してみてその広さ、多様性に驚かされた。そしてワシントンDCでの自立生活全国会議(NCIL)など、歴史・ビッグニュースをつくるイベントに参加し、世界の鼓動を感じた。





 ◆時間管理(とくに介助者との関係)



 時間管理、人事(介助者)管理が重要で大変だった。試行錯誤の連続の生活だった。計画を立てるときや行動するとき、選択肢は、まったくないように感じられたときもあり、またいくつもあるように思われたときもあり、これでいいのかと絶えず悩んだ。失敗したことも多かったが、その経験をできるだけ次の状況に役立てようとはしたつもりだった。自己決定権を十分に行使するためには判断能力などに関する、試行錯誤を伴ったトレーニングが必要であり、介助者をはじめとした他人との対等な人間関係の実現という前提条件の実現の必要性を感じた。人間を鍛えるのは人間だという気がした。

 被介助者も人間であり、介助者も人間である。夜や昼間の一定時間は一人でいるが、頚髄損傷者にも介助者がいないプライベートな時間は必要だと思う。時間外でも電話して都合がつけば来てくれる介助者が何人かいた。介助は保存の効かないサービスである。介助者の数が増えれば危険な人が出入りする可能性は増えるかもしれないが、総費用が同じであれば、介助者の数は多い方がよいと思う。介助者が用事、事故、怪我、病気で来られないことはよくある。介助者が1回ぐらい来られなくても何とかなるような融通性のある柔軟なプランを考えた。頚髄損傷者はその生涯、介助サービスを必要とする。特定少数の介助者では難しいと思う。限られた介助時間では、必要なことから片付けていかなければならない。





 ◆食事、



 朝食はアパートで、ベッドで横を向いて自助具(掌に付けるポケット付の革のバンド)でスプーン、フォークを使い行なう。パンなどは手で食べる。皿などはトレイの中など平面では動かせる。

 朝食のメニューとしては、アパートの近所のドーナツ店のドーナツとコーヒー(合わせて1ドルぐらい)、あるいはバナナ、オレンジが多かった。

 昼食は、介助者なしでCILにいることが多かったので、食事の自助具の脱着をしないですむクロワッサンなどの掴みやすいパンと飲みやすいコーヒーなどの飲物をCILの隣のパン屋で買って食べた。誰かと一緒に近所のカフェテリアにコーヒーを飲みに行ったりもしていた。

 晩、夕食は、夕方の介助者にハンバーガー、サラダ、ポテトなどを買ってきてもらい、アパートで食べた。

 介助が有料なので時間の節約に気をつけた。材料を買ってきて一人分の食事を作ることは時間のロスが大きい。焼くだけのステーキやソーセージ、暖めるだけの冷凍食品も食べたが、ファーストフードが多かった。アメリカのハンバーガー、果物(オレンジ、メロン等)そして野菜(アボカド等)は安くておいしかった。ミルク、V8という野菜ジュース、訪問看護婦がたくさん飲みなさいと言ったクランベリージュースを大量に飲んでいた。ビタミン剤もアメリカは安かったので買って飲んでいた。





 ◆排泄管理



 排便は朝あるいは午前中に行なった。脊髄損傷者にとって排便問題への関心の高さは日米共通で、米国の脊髄損傷者の排便方法に付き、米国のリハビリテーション・センターでの手順などに付いて書いてある・排便管理手順"Bowel Management Programs"・という実際的なマニュアルや・脊髄まひ家庭療護の手引き・((SPINAL CORD INJURY HOME CARE MANUAL)サンタクララバレー医療センター脊髄損傷リハビリテーション部門編著、斎藤篤編訳、「第5章排便訓練の手順と実際」、59頁以下)などいろいろな障害者向け出版物が出ている。排尿管理に関する出版も多い。

 排泄行為はきわめてプライベートな事柄であり、また失禁などの危険もあり、頚髄損傷者がその対応に困惑を感じるものである。排泄に関する医学的援助、製品、ディバイス、情報は重要であるが、意識態度もまた重要だと思う。僕も米国で排便の時ある介助者に「これは自然なことだ(This is natural.)」と言われた。失禁よりも出ないことの方がより困難なことである。

 僕自身の介助に関しても、またCILの介助者情報サービス部門で面接者として働いたときでも、介助求職者に対し、事前に、家事(housekeeping)のみの介助か排泄なども含めた身体接触を伴う身辺介助(personal care)ができるかを個別具体的に尋ねていた。





 ◆金銭管理



 米国滞在中の僕の生活費は、アパートの家賃(1カ月250ドル)、ベッドのリース料(1カ月96ドル)、食費(1日10ドル、1カ月30日として300ドル)、雑費(1日5ドル、同150ドル)、介助者費用(1日35ドル、同1050ドル)などで、滞在当初、1カ月約1、846ドルであった。介助者費用が56.8%を占め、僕(高位頚損者)にとっては介助料の比率が非常に大きく、介助料の問題は高位頚損者にとって非常に重要であると思う。また日本でもアパートの家賃は4万円ぐらい。食費その他が6万円ぐらい。介助料が1時間600円、1日6時間で3600円、1カ月108000円ぐらい。アメリカとと同じ様な金額だと思う。

 その費用の大半は、留学研修生の奨学金・研修費として愛の輪基金・リハ協からの送金で賄われた。2カ月毎に米国の銀行で開いた口座に送金された。

 頚髄損傷者が収入を得ることは難しいが、合目的的で合理的な支出の管理も非常に重要だと思う。また、実際の生活では上肢も思うようにコントロールできない頚髄損傷者にとって日常生活動作としての金銭管理は大変だ。アメリカでは多額の現金を持つこと(を人に知られること)は危険である。

 支払手段としての現金は、長所としては、どこでも使える、現金化の手間がかからない、秘密が守れること。短所としては、一番危険であること。僕は、財布から金を出入れすることができない。対策としては、少額をポケットや小銭入れ、財布、バッグなどに分散して持っておき、取ってもらう。

 キャッシングカードの長所は現金に比べて安全で、銀行がしまっていてもいつでも使え、機械がたいていどこにでもあること。短所は、一人では機械を操作できず使えず、引き出せる額が1日に100ドルまでだったこと。

 小切手の長所は、現金を持たずに済むので安全、介助者にも支払える、記録になるということ。家賃、ゴミ代($5.45)(家主)、電気・ガス料金、水道料金、電話料金は送って来る請求書の金額を小切手に書き、郵便で送っていた。短所は、使える店が少ないこと。サインが必要なので書字道具が必要なこと。口にペンを加えてサインすることもある。

 また、キャッシング・マシンを使わないで現金の作り方は銀行で自分宛の小切手を書くことだ(当座預金の場合)。これだと1日100ドルの制限もない。僕も一人で銀行に行き、この方法でよく200ドルぐらい現金を作っていた。

 クレジットカードの長所は、やはり安全ということ。日本の銀行からの引き落しは3か月後であり信用の道具、送金の道具でもある。またパスポートと並んで身分証明書にもなる。短所としては、使える店が限られ、サインが必要なことは小切手と同様。つい使いすぎてしまう。入会に年収などの制限があり、僕は父の家族会員として入会した。ベッドリース料金などもクレジットカードで支払っていた。





 ◆買い物とレンタル



 アメリカでは奨学金があったが、1ドル150円になると、アメリカの方が物価が安いのではないかという気がした。食費が1日10ドルだったが、普通のレストランで夕食が7-8ドル(1200円くらい)だった。アメリカでは支出記録として会計報告を書いてリハ協に出した。

 ドラッグストア(雑貨屋)がアパートの直ぐ側にあり、薬品、食料品、石鹸やトイレットペーパー、電気製品などいろいろなものが売っていて便利だった。スーパーマーケットはやはり安く品揃えが豊富だった。色々おいしそうな、料理が簡単な冷凍食品があった。さすがにアメリカは豊かで食べ物も豊富な国だと実感した。小切手が使えた。果物などをCILの帰り道に一人でよく買っていた。本はCILの近所の本屋で障害者関係の本を注文したり買ったりしていた。大学の生協(文房具屋兼本屋兼衣料品店)でも本やバックパック、Tシャツなどを買ったりしていた。ハードウェア店(皿や鍋等を売っている)、家具店、文房具店、電気製品店、衣料品店(シーツ、タオル等)、デパート、フリーマーケット(ガラクタ市)などへも行っていた。

 米国滞在の期間は限られていたのでベッド、米国製電動車椅子などの大型の耐久財は障害者用品店や車椅子店からレンタル(賃借)した。自動車もしばしばレンタルした。テレビは知人に無料で貸してもらった。









 ◆仕事−調査活動



 米国滞在中の僕の仕事は自立生活センターバークレーを媒介として米国の介助者サービス事業を中心とした調査活動であった。関係者に会って聞き取り調査をしたり、収集した関係の文献を読んだりしていたが、米国の生活の全てが僕にとって勉強のように感じる面があった。仕事は、米国介助サービス事業に関する調査の他、CILバークレーを通じて、自律生活の実験、利用者である障害者を対象とした聞き取り調査、職員とのミーティング、および介助者情報サービス部門の面接者としての役割が主であった。毎月、研修報告と会計報告をリハ協に提出することが研修費送金の条件となっていたので、僕の生活記録を毎日日記形式でワープロや写真で記録に取ることも仕事の一つだった。

 聞き取りにおいて会話は仕事の重要な手段である。頚髄損傷者にはまだ言葉が残されている。手書きのメモ、写真撮影は相手の承諾を確かめてから行った。聞き取りで苦心した点は、英会話、背景の理解、プライバシーの尊重、社会、文化、社会保障制度の地域差だった。予習も行なった。

 記録の方法は手書きのノート、分からないことはその場で聞き直した。面接中のメモノート作りは、膝の上に服や枕を置いてその上にノートや本などを置いて行なった。書字は2色ボールペンを付けたペンを手に固定するペンホルダーで行なった。研修報告、会計報告を書くためにワープロを使っていたが日本製だったのでリボンと用紙を日本から送ってもらっていた。

 記録用写真もよく撮ったが、写真の整理、ネガの整理が大変だった。写真屋へ行き、写真の現像を頼み、フィルム、電池、アルバムなどを買った。支払は現金、クレジットカードで行なった。

 手紙は、電話と並んで、頚髄損傷者にとっての仕事をするための有力なコミュニケーション手段だ。研修会計報告は毎月航空便で出していた。また手紙は心をとても慰めてくれる。

 郵便は郵便局かCILの受付で出した。郵便局に一人で行っても誰かが手伝ってくれた。

 文献資料は、CIL、WID、カリフォルニア州立大学バークレー分校の総合図書館、法学部、社会福祉学部などで収集した。

 社会福祉学部の図書館へ行った時には、ここに一人で電動車椅子でたどり着くのは坂道が険しすぎて危険を感じた。建物の中でも、”障害者のための手助け(Assistance for handicapped people)”と書いてあるブザーを押しても誰も現われない。そこらへんの通りすがりの人に助けてもらいながら図書館へ行った。「助けが必要ですか(Do you need help?)」と声を掛けてくれた学生みたいなのもいた。

 自立生活センターの近所のクリシュナというコピー屋に借りた本などのコピーを頼んでいた。文献を預けておけば、1ページ7セントで店員がコピーをしてくれた。ページ数が多ければ2・3日かかった。

 ワープロでの記録の下書きや研修報告作成、会計報告作成、電話連絡、読書、その他のデスクワークはアパートのリビングで行なった。

 働くことは大事なことだと思う。自分が何を一番やりたいのか、到達可能な人生の目的を設定してそれらに優先順位をつけることは非常に難しいが、やはり目的を持つことは大事なことだと思う。個人と職種のミスマッチは疎外感につながるが、仕事はその個人に充実感、達成感、成長感、豊かな人間関係の機会を提供するだろう。人間には自己の機能を最高の状態にしておきたいという欲求があるのではないかと思う。パソコン、自動車などの道具、機械に対する興味、好奇心、そしてそれを使った仕事への関心もあると思う。(アメリカの自立生活運動の基本的な思想の一つは、日常生活動作において介助を必要とする重度の障害者でも、その知的能力によって、有益な職業的、社会的役割を果たすことができれば、それは社会的自立であるとする。上田敏・リハビリテーションを考える・26頁。「人の助けを借りて15分かかって衣服を着、仕事に出かけられる人間は、自分で服を着るのに2時間かかるため家に居るほかない人間よりも自立しているといえる」。G. Dejong, 「自立生活:社会運動にはじまり分析規範となるまで」Independent Living: From Social Movement to Analytic Paradigm・障害者の自立生活・176頁)。

 「障害者に対する見下すような目」ということをよく聞くことがある。自由な社会ということは競争社会でもある。自由競争が基本だとすると、自由社会は努力、勤勉、能力、生産的、実績に価値を置くのではないか。エリートになる必要はない。人間は人間である限り尊厳な存在であって、他人を害さない限りその人権は絶対的に保障される。が、偉くもなく、かといって卑屈にもならない、対等の人間であることは必要だと思う。僕は、頚髄損傷を持つ個人の尊厳の実現をめざしたい。しかし、@ハンディキャップを考慮して何とか対等の条件で競争させるか(一つの基準)、あるいは、A全く別の(補充的な)価値体系で処理するか(二重の価値基準)という方向がよいのか、僕には今のところわからない。

 米国滞在中の僕の生活費の費用の大半は、留学研修生の奨学金・研修費として愛の輪基金・リハ協からの送金で賄われた。

 現在でも、頚髄損傷者など重度の障害をもつ人は、労働に見合った収入を得る仕事に就くことが非常に困難な状況にある。

 もちろん、収入に結びつく仕事だけが働くことではないだろうし、障害者の「生活の質(Quolity of Life)」という上位概念の中で考えられるべきでもあろう。また、とくに全介助の状態の場合、職業的自立よりも自己決定を中核とする人格的自立の方がより尊重されなけばならないであろう。趣味や教養や家庭生活や地域社会への参加などを通した「生活の真の豊かさ」こそが障害者(そしていうまでもなく人間一般)の人生の目的だという考え方があり、働いている働いていないにかかわらず高い「生活の質」を実現することが問題なのであり、障害者の労働は「生活の質」の重要な構成部分ではないかという指摘がある(上田、前掲、35頁)。

 しかしやはり、可能ならば、収入に結びつく仕事をする方がよいと思う。また現実・実際問題として、経費も出ないような仕事では続かない。人も集まらない。僕もパソコン購入費、そのランニングコストがなければ作業能率は格段に落ちるだろう。ディスプレイとキーボードでの仕事というのは、孤独な作業であり、眼も悪くなるが、鍬を持って畑に耕しに行くことはできないし、僕も、いけないなあとは思いながら、パソコンをやっている時間がついつい長くなってしまう。先日、パソコンを1日使えない日があったが、非常な無力感を味わった。伊藤会長、井沢事務局長の配慮でこの・アメリカの一年・には合計6万円の原稿作成費用を全脊連からいただいている。食える仕事につく、生産的な人間になるということは次のステップに続き、希望につながるだろう。

 米国での調査活動のような仕事、すなわち僕にとって切実な必要性があり、かつ興味と関心のある仕事、しかも、社会的にも必要とされる仕事を、収入を得ながら実施できたことは非常に幸運であった。僕は、生活費および介助費を、施しではなく、労働の対価として得ることができたと考える。生活の質という面で、僕に残された有限な時間をある程度の充実感、成長感、達成感をもって満たすことができたと考える。また仕事をすることで、他人との関係の中で生活するという機会を得ることもできた。

 頚髄損傷者には知的な障害はない。たしかに、頚髄損傷者には中途障害者の持つ弱さもあり、自分自身を振り返ってみてても、甘ったれのお坊ちゃんという面がある。さらに敢えて言えば、家等に閉じ篭りきりの頚髄損傷者は、もちろん例外はたくさんあるが、あまり話題もなく、気兼ねから諦めているのか眠っているような感じがするときもあり、この点、改造自動車などで活動的に外に出ている下位頚損者や胸腰髄損傷者達の方が生き生きとしていて、話をしていてこちらも刺激を受けることが多い。しかしこの頃の頚髄損傷者のワープロ等の手紙は頚髄損傷者が生産的な人間になる可能性を示してあまりあり、能力のある頚髄損傷者を家の中で眠らせておいたのではもったいないと思う。車椅子に乗っている頚髄損傷者は、外見の面でも不利であるが、有給雇傭に限らず、夢や理想をかかげて活動している姿には、時々拝見するが、自信があり、魅力的である場合もある。

 頚髄損傷が社会的適応力の面での障害の原因にならないように条件整備が進められるべきだと思う。時間は取り戻せない。企業等への就業が厳しい現状では、自分達で始めるしかない。頚髄損傷者の職種開発や職業訓練校で介助者サービスを始めることも検討されるべきだと思う。全国脊髄損傷者連合会の活動・サービスの一環としても取り上げて欲しい。頚髄損傷者でも、介助者サービス、住居、移動、教育などの条件が整備されれば働くことも含んだ社会的自律生活ができると思う。そしてそのことを頚髄損傷者達が自覚し、また社会に理解させることが、今、必要ではないかと思う。





 次回はベイエリア以外の調査・研修地に長距離移動で出かけた時のホテルを中心とした生活を中心に報告する予定です。









写真説明





@アパートの直ぐそばのドラッグストア。





Aサンフランシスコ空港で持込みを拒否された電動車椅子のウェットバッテリーを、アイスボックスに入れて、当日の夜の便で、翌朝ワシントンDCの空港に届くように送ってもらい急場をしのぎ、ホテルでほっとしている。





BワシントンDCの安全管理の厳重で豪華な上院議員のオフィスビルでの自立生活全国会議(NCIL)の歓迎会。CILバークレー所長とその夫人。





C自立生活全国会議(NCIL)の開会式で会場のホテルに来て演説しているブッシュ合衆国副大統領





Dホテルの部屋のベットの枕を膝の上に載せて机兼テ−ブルとして使った。この他にも、ゴミ箱を尿器として使ったり、工夫して、なるべく現地調達で通した。





Eホワイトハウスの前で。ホワイトハウスは、この日は、中にはいれる日ではなかったので外から眺めただけだった。車椅子用の通行門が有った。4ドル払ってレーガン大統領夫妻の看板と一緒に写真を取った。





FボストンCILで、ポール(頚髄損傷者)とクリフ(脳性麻痺者)





Gニューヨークの夜、ユニオン・スクェアのカフェで。ニューヨークはカーブカットも無い活気に溢れた強い者の街だった。













アメリカの1年 No.11
One Year of the Life in America
『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』 1985年11月〜1986年9月、アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業 財団法人 広げよう愛の輪運動基金、財団法人 日本障害者リハビリテーション協会 written by Kazuo Seike 清家 一雄:重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者 初出:「アメリカの一年」[11]、『脊損ニュース』1988年06月号、 pp.21-27、全国脊髄損傷者連合会、1988.06 -------------------------------------------------------------------------------- 「アメリカの一年」 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] 、 『脊損ニュース』1986年4月号〜1987年7月号、全国脊髄損傷者連合会、1986-1987、 -------------------------------------------------------------------------------- "WORKING QUADS" HomePage -------------------------------------------------------------------------------- アメリカの1年





『アメリカにおける自律生活の実験と介助者サービス事業に関する調査報告』



福岡県脊髄損傷者連合会 頚損部長

清家一雄





第11回報告



 今回は米国内長距離移動とアメリカの自立生活運動を中心に報告します。





 ★米国内での長距離移動



 米国での調査活動の一環として、ベイエリアでのCILバークレーを中心とした調査活動の他、ベイエリア以外での調査活動のため、僕は米国内長距離移動を二回行なった。第一回は、ワシントンDCでの自立生活全国会議(The '86 National Conference on Independent Living)参加(1986年6月18日〜7月1日)で、第二回はセントルイスでのパラクォッド(paraquad)訪問(8月2日〜11日)だった。そして、その際、次のような調査活動を実施した。





 @自立生活全国会議に参加し、米国の自立生活運動に関する調査



 AボストンCILとボストンのトランジーショナル・ハウスを訪問し、それぞれで頚髄損傷者の聞き取り調査(第九回報告)



 Bリハビリテーション&リサーチ研究所(TIRR)(ヒューストン)の見学と医師を対象とした聞き取り調査(第二回報告)



 CヒューストンCILの訪問調査



 Dパラクォッドの訪問調査とその所長宅で訪問調査



 Eセントルイスの頚髄損傷者の聞き取り調査





その他である。





 ワシントンDCへの出発の具体的なきっかけは、CILバークレー所長が「自立生活センター全国評議会(The National Council of Independent Living Centers)(NCIL)(代表者は高位頚損者のマックス、パラクォッド・セントルイス自立生活センター所長)が主催する自立生活全国会議に行く気があるか、介助者を自分で確保できたら、行き方を教えてやる」と示唆してくれたことだった。

 パートタイム介助者の一人と旅行期間中、1日35ドルの賃金と介助者の交通費、宿泊費を僕が負担するという契約条件がまとまった。並行して日本障害者リハビリテーション協会と交渉しトップの竹内実行委員長がサンフランシスコに来られた時に許可をもらった。郵便で会議参加の登録とホテルの予約申込をした。ボストンCILに見学希望の手紙を書き、ヒューストンの高校時代の友達に連絡した。飛行機、ホテル、レンタカーの予約を旅行代理店に頼んだ。米国の航空料金は30日以上前に予約したら驚くほど安く買える。旅行代理店はJTB(サンフランシスコの日本交通公社)にした 。「JTBは少し高いが、旅行に行けば必ずトラブルが起きると考えた方が良い。日本語の通じるスタッフがいるのは便利だ」とヒューストンの友達から助言を受けた。

 ワシントンDCでの会議参加の後、ボストン、ニューヨーク、ヒューストンをまわって7月1日、アパートに帰った。この2週間の睡眠時間の削り込みかたは、僕にとっては大変なものだった。全部の領収書を一応ザっと計算して、スクラップに整理した。少なく見積って2週間で5,000ドルぐらい使っていた。日本の両親に国際電話し、「カードでたくさんお金を使ったので、そのうち請求書が行くだろうから、障害基礎年金等を口座に入れておいて」と言った。

 セントルイス訪問は、パラクォッド所長夫妻と、渡米前から東京で会っていて、彼らの好意で公式に招待してもらった。





 ◆飛行機と電動車椅子



 僕は、ワシントンDC、ボストン、ニューヨーク、ヒューストン、セントルイスなどを訪問したが、その長距離間の移動はすべて飛行機を利用した。

 僕が利用した空港はどこでも車椅子で移動可能であり、機内の座席まではガーニーという細長い、シートベルト付のキャスターの付いた椅子で、航空会社のスタッフによる介助で移動した。短時間であるが、その椅子は背もたれが高く、乗り心地が良かった。飛行機にはだいたいいつも、日米を問わず、どこの空港でも、どこの航空会社でも、「一番先に乗れ」と言われていた。そして出るのは一番最後だ。

 電動車椅子使用者が飛行機を利用する場合、問題となるのは電動車椅子のバッテリーの取扱である。その扱いも航空会社、路線によって差があった。



 @載せないと言われたケース



 サンフランシスコ空港のUSAIR(米国航空会社)では、「バッテリーはウェットかドライか」と聞かれ、「ウェットで自動車用だ」と答えたら、電動車椅子のバッテリーの持込みを拒否された。「会社の規則だ。飛行機を傷つけるから」と言われた。とにかくワシントンDCに行かなければならないので、車椅子から外したバッテリーを、USAIRのカウンターに預けて機内に入った。ワシントン空港から、サンフランシスコのJTBに電話をかけて、バッテリーをアイスボックスに入れて、当日の夜の便で、翌朝ワシントンDCの空港に届くように送って貰い急場をしのいだ。





 Aバッテリー液を抜けと言われたケース



 ワシントン空港のイースタン航空会社では、「バッテリーの液を抜いて、(着陸地の)ボストンで水を入れるように」と言われた。最初、何のことか分からなかったが、バッテリー液を買う覚悟で、イースタンが用意した箱にバッテリー液を排出した。ボストン空港では、バッテリ−液なしでも電動車椅子が動いた。ただしバッテリーの性能がかなり劣化していたので、蒸留水をバッテリーに補充して充電した。





 Bそのまま運んだケース



 他方、ボストン空港のイースタンのエア・シャトルでは、何ら問題なく、電動車椅子で飛行機のドアまで行き、そののまバッテリーを機内に持ち込むことができた。あんまり簡単に行ったので、却ってバッテリーがひっくり返って飛行機に穴があいて落ちるんじゃないかと不気味になった。約30分のフライトだったが、コーヒーのサービス等何もなく、ただスチュワーデスがチケットを集めたり、乗客がクレジットカードや現金で航空運賃を払ったりしているだけで、ほとんどバスみたいな感じだった。





 Cドライセル(ジェル)・バッテリー



 東海岸の旅行後、バッテリーの性能が極度に劣下していたし、米国の航空会社のウェット・バッテリーに対する対応が分かったので、ベイエリアでジェル(乾式)・バッテリーを買った。以後は、電動車椅子を持って飛行機で移動しても、バッテリーに関しては、「ノープロブレム」とか「スーパー!」と言われ、問題がなくなった。









 ◆宿泊施設、ホテル



 宿泊はホテルを利用したが、ボストンだけは友人のアパートに泊めてもらった。旅行代理店を通じて予約はいれていたが、ホテルはどこも電動車椅子で利用できた。旅行先では、ホテルの部屋のベットの枕を膝の上に載せて机兼テ−ブルとして使った。この他にも、ゴミ箱を尿器として使ったり、工夫して、なるべく現地調達で通した。

 電動車椅子動作として僕のできないもの苦手なものには、移乗動作、ステップから落ちた足を戻すこと、クラッチレバーのかけはずしなどなどたくさんあるが、非常に重要で実用的な動作であるけれど僕が最も苦手な動作とするものの一つとして、ドアの開閉を行ないながら電動車椅子でそのドアを通り抜けるという動作がある。

 ワシントンDCで本屋に行った時、自動ドアでなく、出入りがしにくかったが他の客や店員に頼んでドアをあけてもらった。このドアのあけ閉めということが、馬鹿馬鹿しい事だが、僕に取っては、物凄い物理的・心理的バリアーとなる。

 ニューヨークのシェラトン・ホテルのフロントドアのガラスを電動車椅子で割った。自動ドアだろうかと思い、電動車椅子でドアを押して開くかどうかを試してみようとしたらパリンといった。アメックスが有るので、どうにかなるだろう、と思いながらホテルに入ると、ホテルのフロントの方から、「こちらへいらして下さい。心配ありません。私は見ていました。あれは事故です。しかし私は報告しなければなりません。部屋の番号は何番ですか」と言われた。僕が、「1507」と答えてそれで終わりになった。翌朝、電動車椅子に乗ってフロントへ行き、カードでチェックアウトしたが、昨日のガラスの修理代は含まれていないみたいだった。フロントドアの割れたガラスのところには板が打ち付けてあった。

 CILバークレーの玄関のドアは、入る時、自動ドアで扉が外側に開く。出る時、中から電動車椅子のまま体当りで押すと扉が数秒間外側に開いたままの状態になりそのまま外に出る、というふうに、電動車椅子利用者にとって安く実用的に出来ている。









 ◆長距離移動と介助者



 ニューヨークで介助者にレンタカーを運転してもらっていた時、マンハッタンに入るのに道に迷った。僕が、「この道にニューヨーク・シティの標識がある」と言ったが、介助者が「あの橋を渡らなければならないはずだから」と言う。こんな場合、たいした事ではないので、だいたい僕は相手に任せる。そうすると変な方向に出てしまう。橋を二回渡り、入ってまた出てしまった。一回ではない。「まるで僕達は橋の明りにフラフラと吸い寄せられる蛾のようだね」、と冗談を言ったが、やはり一人きりの介助者との関係は難しい。障害者側にとっても、頼んで断わられたらそれまでし、介助者側にとっても、特に高位頚損者のような重度障害者の介助の場合、容易に燃え尽きさせられてしまう危険がある。いくら旅行中だけという事であっても、また旅行中と言う非日常的な状況であっても、この困難さや危険性は変わらない。

 限られた時間や金を有効に充実させて使おうとすれば、ベーシックで必要な事をやって貰う慣れた介助者に付いて来てもらい、(新しい介助者をトレーニングする手間、時間、金が省けるし、実感として依然としてアメリカでも長距離でしかも電動車椅子から別の座席に乗り移らなければならない移動では介助者が必要とされているのを感じた。飛行機に乗る時、「どうやって手伝えばいいんだ」と聞きながらある程度の手助けはしてくれるが、常に、「一人か?、誰かと一緒か?」と聞かれ、僕が「介助者と一緒だ」と言うと、「それは良い(That's good!)」と言われていた。しかしこれは僕が根性無しだからこう思うのかも知れない。)、現地でパートの介助者に複数介助体制にに入ってもらうのも一つの手段かもしれない。お互いに、危険の分散と自由で私的な時間が可能となるかもしれない。しかし、重度身体障害者の自律生活には金が掛かる!!









 ★ワシントンDCの自立生活全国会議とアメリカの自立生活運動



 ◆街のプロフィール



 ワシントンDCは移動に関しては非常にアクセシブルな街で、介助者なしでも自由に電動車椅子を使い移動できる。歩道にはカーブカットがあった。電動車椅子の前輪がパンクしたが、ホテルからメディカルサプライに電話して、チューブを買い、それと交換して修理した。リフト付バン・タクシーも利用した。メトロという地下鉄は、すべての駅にエレベーターがついていて非常に利用しやすく便利だった。

 ワシントンDCでメトロに乗ってホワイトハウスを見に行った。ホワイトハウスは、この日は、中にはいれる日ではなかったので外から眺めただけだった。車椅子用の通行門が有った。4ドル払ってレーガン大統領夫妻の看板と一緒に写真を取った。豊かなアメリカで、路上には、お金を求めて手を差し出して眠っている人、ホワイトハウスの直ぐ側で初めゴミ箱かと思った家に住んでいる傷痍軍人、無料の食糧の配給に集まっているたくさんの人が、首都ワシントンDCにいた。





 ◆自立生活全国会議



 自立生活全国会議の開会式の前日、自立生活センター全国評議会(NCIL)による招待の歓迎会が上院議員のオフィスビル9階で開催された。僕もメトロで行ったが、安全管理の厳重で豪華なビルだった。

 開会式で会場のホテルにブッシュアメリカ合衆国副大統領が来て演説を行なった。シークレットサービスがいっぱいいた。

 NCILの代表者と話した時、彼は、「この会議の参加者は385人だ」と言い、「我々のことをクレージーだと思うか」と言っていた。

 NCILについて彼はセントルイスの自宅で次のように話した。「我々は、ワシントンDCに影響力を及ぼすための唱道組織とCIL間のネットワークを必要とした。NCILの代表者のCILがNCILのオフィスとされている。我々は今のところボランティアとして活動している。NCILは80程のCILで組織されている。NCILにとっての課題は、資金を得ることと意識・態度を変えることだ」。

 NCILの新しい代表者にはシカゴの女性の対麻痺者、マーカが選出された。彼女と話した時に、「シカゴの私のところへ訪ねて来い」と言われた。

 この会議には障害別を超えて非常にたくさんの人が参加していて、僕もいろいろな人達と話ができ、刺激を受け情報の交換ができた。





 ◆自立生活運動(Independent Living Movement)



 障害をもつ個人達はいろいろな問題を抱えていて、それを処理・解決しようともしている。(障害者問題は、障害の種類・程度、考え方・見方によって、人それぞれに違うだろうし、人生の諸段階、居住地域によっても異なるだろう。アメリカの障害者雑誌の読者投票によると、差別を感じるのは、意識・態度、雇用、住宅、アクセシビリティ、輸送での分野の順になっている。'Was 1987 A Good Year For Disabled People?',"ACCENT ON LIVING・SPRING,1988",P.38。ただ、僕は、頚髄損傷者にとっての最大の問題は介助者ないし介助問題だと思う。)アメリカでは障害をもつ個人の自立生活の実現、維持、発展のために、自立生活サービスの組織化と障害をもつ個人達による自立生活運動が、障害をもつ個人達とリハビリテーション専門家などの支援者達の努力によって、障害の種類別を越えて展開されている。運動の中核となっているのは地域の中での諸ライフスタイルの選択肢を提供するために唱道と援助サービスのシステムを供給する障害者によって方向づけられる自立生活センターである。





 ◆自立生活運動の源流



 既に日本でもよく紹介されているが、自立生活運動の源流として、



 @市民権運動(The civil rights movement)(社会の中で不利益を被っている他の集団が自らの権利と、それらの権利がどれだけ否定されてきたかを自覚するようになった。投票権、選挙事務所をもつ権利などの公民権と所得保障、医療扶助、教育手当、その他の受給権などの利益権が取り上げられた。)





 A消費者運動(Consumerism)(障害者は自らの利益についてもっともよく判断できる立場にあるからこそ、障害者に対するサービス市場の中でどのようなサービスを提供するのか決定にあたって、より大きな発言権をもつべきだ。)





 B自助運動(The self-help movement)(自立のための多くのプログラムはこの自助運動の表明である)





 C脱医療(demedicalization)、セルフケア運動(医療ケアに関する人の日常生活におけるより大きな自律は、多くの個人を病人の役割の拘束から脱出させ彼らの生活へのセルフコントロールのフィーリングを発達させる。)





 D脱施設(deinstitutionalization )、ノーマライゼーション、本流化の運動(個人が家族、友人、そして同僚と一緒の正常日常生活活を取り戻すことを可能にすることを目標にするコミュニティ−ベースのサービスの重要性を強調する。)





が指摘されている(Dejong、「自立生活:社会運動にはじまり分析規範となるまで」、・障害者の自立生活・障害者自立生活セミナー実行委員会編、p.165以下)。





 ◆自立生活センター(CIL)の発生と展開



 1962年と63年に四肢麻痺者の学生のロバーツ(第五・六回報告)とヘスラーがカリフォルニアのアテンダント・ケア立法を利用してバークレー大学に入学した。卒業後、二人はチームを組んで四肢麻痺者にサービスを提供するために身体障害学生のプログラム(PDSP)を作った。全体のプログラムは障害学生達と以前の学生達によって、非障害者のボランティア達のアシスタンスと一緒に、直接運営された。PDSPは問い合わせに答え、大学で受け入れられた障害を持つ学生達を、介助者と住宅供給に関する情報提供などで助け、アイディアの交換のためのミーティングの場やセンターとして働いた。





 学生プログラムの成功で、身体障害をもつ人々が地域社会における障害を持つ人々のための同様なプログラムに関して仕事を始めた。1972年の自立生活センターバークレーの設立ははその結果だった。CILは、障害を持つ個人達によるリーダーシップのパターン、ピア・カウンセリングとロール・モデルのパターン、唱道のパターン、地域に基礎を置く諸サービスの統合されたシステムのパターン、非居住型の設備のパターン、そしてすべての障害と年齢に働くことのパターンをセットした。CILはカリフォルニア中で展開し、国の至るところで発展した(Laurie、"SUMMARY OF INDEPENDENT LIVING" for P.A.C. Meeting on April 18-19, 1985)。









 ◆自立生活運動の法制度的背景



 1973年リハビリテーション法



 この法律で規定されるサービスの第一優先順位が最も障害の重い人達にあることが規定され、504条により連邦政府の財政援助を受ける全てのプログラム及び活動において障害を理由として差別を行なうことが禁止された(DeJong、前掲、163頁)。





 1978年修正法



 国民的自立生活プログラムは、1978年に、パブリック・ロー(P.L.)95-602条の一部分として、第七章−自立生活のための包括的サービスの下に、法になった。州のエージェンシー達は、第七章基金と、サービスのためのグラントとコントラクトの様式における基金の主要な源のための導水管とされた。障害を持つ個人達は、「実質においてポリシー・ディレクションとCILのマネージメントに関与させられそのようなセンターによって雇用される」ことが可能になった。全てのタイプのセンターとプログラムの1985年現在の国家的総数は279で、自立生活のための職業的リハビリテーションの予算は27、000、000ドルである(Laurie、前掲)。





 ◆自立生活サービス



 僕が研修を受けていたCILバークレーでは、アテンダント・レフェラル(介助者情報サービス部門)、ハウジング、ディベロップメント、ジョブ・プレイスメント、ベネフィット・カウンセリングなどが行なわれていた。スタッフはほとんど何等かの障害をもつ個人で、非障害者は少数だった。障害をもつ個人達へのサービスは無料だった。

 シュトダルト(Stoddard、1980)のカリフォルニアの10の自立生活センターがそのプログラムが現実に供給していたサービスのタイプを測定するための調査によると、すべてのCILがアテンダント・レフェラル、一般的唱道、ピア・カウンセリングを行なっており、過半数のCILで住宅供給アシスタンス、アクセシブルハウジングの確認、利益カウンセリングが、そして少数のCILで移動、雇用準備、財政カウンセリング、そして介助者トレーニングが行なわれていた(Rubin, Roessler;"FOUNDATION OF THE VOCATIONAL REHABILITATION PROCESS" Second Edition、p.210以下)。

 1978年修正法の第七章パートBによると、多くの自立生活リハビリテーションサービスは自立生活リハビリテーションプログラムを通じて供給される。障害をもつ個人達がこれらのプログラムのポリシー・ディレクションとサービス供給において実質的な役割を果たさなければならないが、自立生活プログラムのサービス配達モデルとしては、





 @情報とレフェラル(Information and referral)による、それがサービスするハンディキャップのある消費者によってコントロールされる非居住型、コミュニティ・ベースの、非営利のプログラム





 A居住型(Residential)の住み込みプログラム、





 B通過的(Transitional)な、比較的依存的生活の状況から比較的自立生活の状況への重度障害をもつ人々の移行を容易にするために企画されたプログラム





 C以上の三つの組合せ





が考えられる。CILバークレーは情報レフェラルによる非居住型の典型で、ボストンCILは過渡的プログラムをももつ組合せ型である(Rubin, Roessler、前掲、p.210以下)。









 ◆運動と個人



 アメリカという社会は変化が激しく、いい時と悪い時の差も大きい。また、自立生活運動のような新しい運動は、どうしても試行錯誤を伴わざるを得ないだろう。CILバークレー所長は、「俺は五代目のCILバークレー所長だ。予算が300万ドルでスタッフが200人いたときもあったが、86-87年会計年度の歳入合計は713,915ドルで、今のスタッフは約40人だ」と言った。初期の数年間、CILは未経験とマネージメントのスキルの欠如による諸問題を持っていたし、社会的機関はパートナーシップを基礎にした彼らの以前の依頼者達と一緒に働くことのための先例を持っていなかった(Laurie、前掲)。アメリカの自立生活運動は英国・北欧の社会福祉先進国に比べて制度化の面で弱いとも言えるだろう(上田敏、・リハビリテーションを考える・、28頁)。

 また、個人主義、自由主義はある面では厳しいが、障害をもつ個人などの少数者をも含めた個人の尊厳と自由の保障を実現することを最重要の課題とするならば、やはり僕は、個人を出発点として考えるべきだと思う。各個人は一つのロール・モデルであり、一人のピア・カウンセラーであり、一つのワン・パースン自立生活センターであるとも言える(Laurie、前掲)。

 しかし、こういった点を考慮しながらも、日本でも頚髄損傷という障害をもつ個人達のネットワーク、頚髄損傷者の情報センターとして最低限機能する常設の活動体ないしは運動体の必要性を感じる。孤立している人間は弱い。また、自分の人生に対するより一層のコントロールということと並んで、家族、友人、隣人、同僚などとの人間関係への有意味な参加ということも重要だろう。誰もいないところで自己の自由意思による自己決定で生きていると言ってみてもあまり意味がないような気もするし、その人に関する事項の意思決定プロセスへの有意味な参加の機会が保障されなければ自己決定自体が無意味なものとなるかも知れない。

「高位頚損者の部を組織したら」という声を最近よく聞く。ただ、「いろいろな種類の障害をもつ人を、分離ではなく、統合して自立生活運動を行ったことがが運動を成功させた」(パラクォッド所長夫人)面もあり、障害種別・程度別を越えた統合という面を強調する普遍的な運動と頚髄損傷者特有のニーズ・問題の解決のための個別具体的な運動(同じ脊髄損傷ではあっても胸腰仙髄損傷者とは違い、やはり頚髄損傷者には四肢麻痺者特有のニーズがあり、それも高位頚損者になればなるほどその抱えている問題は飛躍的に深刻になると思う。たしかに人間はある面では皆平等だろうとは思うが。自由や個人の尊厳などを保障しようとすれば、必要な援助が最も重度の人に十分に提供されるべきではないかとも思う。)という二つの面から考えていかなければならないかもしれない。

 NCILの初代代表者はセントルイスの彼の自宅(エレベーター付の4階建)で次のように話してくれた(1986年8月当時)。

「1937年、セントルイスで生まれた。49歳だ。59年、22歳の時、交通事故でC-3・4・5の頚髄損傷者になった。メディカル・リハビリテーション・センターから退院して母親と一緒に家で暮らしたが、両親が離婚し、経済的、身体的理由からナーシングホームに行った。

 1970年、パラクォッドを設立した。73年に、リハビリテーション法が成立した。73年に結婚した。75年、ナーシング・ホームから出た。78年にカーター大統領が職業リハビリテーション法改正案に署名した。79年、連邦政府の資金援助を得た。全米で170の自立生活センターがあるが、各CILは、平均、13万ドル得ている。パラクォッドは30万ドル得ている。

 たとえどんなにある人の障害が重度であろうと、彼らはコミュニティのサポート・システムで自立して生活することを学ぶことができると私は信じる。 諦めることは精神的な死である。1970年にパラクォッドを作った。11年前までナーシングホームに居た。我々は、現在自立生活運動を行っている者は、皆、施設からやって来た」。





 次回の最終回で、何故普通の頚髄損傷者が日本で一人暮しができないのか、どの様な条件整備が行なわれれば可能になるのか、日本での展望、頚髄損傷者などからの感想特集などにつなぐつもりですが、皆様のメッセージ(具体的提案)をいただければ幸いです。ご意見、ご感想をお待ちしています。(連絡先:〒814 福岡市早良区昭代1-21-10、092-821-2452, FAX092-822-7626)









写真説明





@ヒューストン空港、アメリカン・エアラインのチケット・カウンターの搭乗手続で。「バッテリーの液を抜け」と言われた。





ATIRRのボランティア部長、ニタ(ポリオ)。彼女のオフィスは非常に使いやすいように配慮されていた。TIRRはとにかく大きくて凄い。そしてたくさんの超重度身体障害者をスタッフとして雇っている。





BヒューストンCILで、所長のアランとビッキー。複数の障害者による介助者と家賃の分担(Share)という考え方が印象に残った。





Cセントルイスの植物園でのランチ、コリーン、リンダ、ボブ。





Dリハビリテーション・ガゼット編集長、ジニー・ローリーと。セントルイスの彼女の自宅で。「建物ではなく、援助のシステムとしてのサービスから始めるべきだ」と言った。





E障害者が数多く住んでいるパラクォッドのアパートのスロープ。正面玄関は厳重で、そこからさらに、僕にはその理由が理解できない何回もターンするランプが続く。





Fパラクォッドのアパートで、マイク(C-5・6頚損者。飛び込み事故。パラクォッド理事)とグーゲン。アパートの部屋には、緊急時コードが寝室とバスルームに安全設備として設備されている。





Gセントルイス訪問時の宿舎フォーリスト・パーク・ホテルの前で、ルーシー(登山でC-5頚損者。ピア・コンサルタント)。「家族と一緒に生活しているのは経済的な理由から。父と一緒に生活しているので介助者費用の公的な援助はない。いつまでお金が続くか、これは闘いだ。私にとっての自立生活とは家族や介助者との関係」と言った。













アメリカの1年 No.12
One Year of the Life in America
『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』
1985年11月〜1986年9月、アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー
ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
財団法人 広げよう愛の輪運動基金、
財団法人 日本障害者リハビリテーション協会 清家 一雄 Kazuo Seike: 重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
初出:「アメリカの一年」[12]、『脊損ニュース』1987年7月号、 pp.23-27、全国脊髄損傷者連合会、1987
--------------------------------------------------------------------------------
「アメリカの一年」 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] 、
『脊損ニュース』1987年4月号〜1988年7月号、全国脊髄損傷者連合会、1986-1987、
--------------------------------------------------------------------------------
"WORKING QUADS" homepage
--------------------------------------------------------------------------------



アメリカの1年





『アメリカにおける自律生活の実験と介助者サービス事業に関する調査報告』



福岡県脊髄損傷者連合会 頚損部長

清家一雄





第12回報告





旅の終わり





 今回の最終回で、何故普通の頚髄損傷者が日本で一人暮しができないのか、どの様な条件整備が行なわれれば可能になるのか、日本での展望、を考えてみたいと思います。そして頚髄損傷者などからの声も紹介します。ご意見、ご感想をお待ちしています。(連絡先:〒814 福岡市早良区昭代1-21-10、092-821-2452, FAX092-822-7626)





頚髄損傷者の自由の達成、日本での展望と課題





★頚髄損傷者の不自由と強さ



 先日、ハードディスクを増設した。ハードディスクはパソコン用ののデータ記憶装置だ。それまで使っていた20メガバイトのハードディスクの空き空間が2メガバイトを切ったので、必要に迫られてやむを得ず頼んだ。増設ユニットは僕にとっては高価なものだったので悩んだ末の決断だった。

 僕にとって、パソコン、プリンター、ハードディスクは物を書くための必需品だ。僕は、MS-DOS(基本OS)、ワープロソフト、辞書、MS-DOSファイル管理ソフトをハードディスクに移して全体として作動するようにしてパソコンを使っている。ハードディスクのワープロシステムは非常に高速で、しかも、ハードディスク内に大きな作業ファイルを作っておくと、大きな文書が作れる。同じワープロソフトがフロッピーベースで使う場合とはまったく別のもののようだ。

 増設ユニットを持ってきた小売店の人が、「これはあまり出ないので、インターフェースボードの接続の仕方が分からない」と言って、商品をそのまま置いて帰った。午前中の介助者に接続を頼んだがつながらなかった。堅くて押し込めず、ボードがスロットに入らなかった。時間がきたので、介助者が帰った。

 その後、僕は何もできなかった。増設の途中のため、今まで使っていた、ハードディスクまで使えない。ハードディスクが使えないということは、ワープロとしてのパソコン自体が使えないということになる。「もう一台、パソコンがあるので、いざとなったらそれをフロッピーベースで使うしかない」とは思っていたものの、それでは作業能率が格段に落ちるし、ハードディスクに保存している、文書ファイルのデータが利用できない。

 メーカーの福岡営業所、せき損センターの医用工学の井手さんに電話して、「どうしたらいいだろうか?、キーボード操作ならできるが、それ以外はお手上げだ。走らないパソコンを目の前にして、まるで莫迦みたいだ」と言った。井手さんは、「差し込むのが非常に堅くて、接続にはものすごく力の要るものもある」と言った。

 夕方、弟が帰ってきたので弟に頼んで、インターフェースボードを接続した。パソコン本体が前に出るのを押さえつけながら、押し込むとなんとかつながった。

 説明書を読み、増設部分を初期化し、ハードディスクを使える状態にした。16ビットCPU80286のパーソナル・コンピューターを・を20メガプラス20メガのハードディスク2ドライブと、フロッピーディスク2ドライブ、合計A,B,C,Dの4ドライブのMS-DOSマシンとして走らせた。現在も使っている。これで原稿を書いている。いままた新たな力を手にいれた。





 僕は、頚髄損傷という障害をもって15年近くになる。現在、毎日パソコンで原稿を書く仕事をしている。こういう生活がよく可能になっていると思う。





 頚髄損傷者は中途障害者が多い。一瞬の事故などで障害をもちその後どのようにして自由で積極的な活動を達成することが可能になるのか。脊髄の治癒が困難な現状では、障害の受容ということも問題になる。





 障害の「受容」とは実は「克服」であり「あきらめ」とはむしろ対極にあるものであり(上田、・リハビリテーションを考える・206頁)、「価値の転換」であり、「障害が不便であり制約的なものであることは依然として認識しており、、それを改善するための努力も続けているが、今や障害が自分の人間としての価値を低めるものではないものと認識でき、そういうものとして障害を受け入れる(承認する)こと」といわれている。そして、価値の転換に関しては、@価値の範囲の拡大、A障害の与える影響の制限、B身体の外観を従属的なものにすること、C比較価値から資産価値への転換が重要であると指摘されている(Wright: Physical Disability - A Psychological Approach. 1960, pp. 106-137. [上田、前掲から引用、209頁〜])。





 しかしいきなり強くなれるものでない。頚髄損傷の受容は難しい。胸腰髄損傷者も含めて九州労災病院で一緒に入院していた人で自殺した人も多い。





 英国国立脊損センター初代院長で4,000人の脊髄損傷患者の治療を行ったグートマンは、車椅子スポーツをリハの有力な手段として活用し、最終目標を有給就職においた新しい脊損リハを確立した。彼は、脊損の治療は脊損者の全人間的完成をめざすものであることを教え、「両下肢が駄目なら上半身両上肢を使って歩くのだ」、「失ったものを数えるな、残されたものを生かそう」と教えた。しかし、「失ったものがあまりにも大きく、残されたものが極めて少ない高位頚髄損傷四肢麻痺者のリハに、これからどう対応して行けばよいのであろうか」と言われている。(赤津隆、「脊髄損傷リハビリテーションの20年」、リハビリテーション医学、20,4,1983)





 頚髄損傷者の自由の達成のためには、頚髄損傷者にも対等になるための武器が必要だと思う。もし僕が受傷せず、頚髄損傷者にならず、一納税者の立場(競争社会の一員)であったら、他人の頚髄損傷者に優遇措置を与えることに同意するだろうか?。僕は、怪我してない自分と対等に闘える力を身につけたい。勇気があって、考えて、行動する人に憧れる。





 頚髄損傷者の自由実現のためには、日本の環境、サービス、人的資源、物的資源、移動、就労(教育)・所得保障、頚髄損傷者の内面、社会性、センス、人間関係、将来の展望、などさまざまの条件が整備されなければならない。現状を変える要因は、実態認識、理論、運動、人々の意識などいろいろある。





 これから述べることは、いろいろある可能性・選択肢のうちのひとつのサンプルにすぎない。しかも非常にあらいスケッチである。





 ◆頚髄損傷者の自由達成の具体的な現れとしての仕事



 この「アメリカの一年」では、地域社会の中での在宅生活を中心とする頚髄損傷者の自由達成の可能性を、アメリカの介助サービスを必要とする重度身体障害者達の中に根付いていた米国の介助者サービス事業を一つの素材として、僕自身の実験を通じて、真剣に考えていた。

 収入にはあまり結びついていないが、かなりの金額の善意のお金でアメリカで勉強させてもらったので、僕の得た情報と刺激が他の頚髄損傷者の役に立てばという気持ちでやっている。それと、やはり介助者サービス事業は僕にとって必要だという気持ちからやっている。

 が、実はこういうことをやっている方が楽しい。「アメリカの一年」は僕の時間の使い方としては最高の対象だったと思う。パソコンという面白いおもちゃを使って。趣味に走った文章を書いて、実際は遊んでいるのかもしれないが。

 退院した頃だっただろうか、とくに褥瘡の状態が悪く一日中ベッドに寝ていなければならない日に、朝起きると、「さあ、今日は一日何をして時間をつぶそうか」と考えることが最大の苦痛だった。そしてそういう日は多かった。

 ワープロではなくパソコンを使うことに、最初抵抗があった。ただ単に流行を追っているようで。しかし、この原稿を書くために必要に迫られて使い始めた。

 現在、プリンターは、16ドット日本語シリアルプリンターを、 トラクターフィーダーを取り付けて、2,000枚の15インチ連続用紙を入れて使っている。そのうち、ページプリンターを導入して、デスク・トップ・パブリッシングもやってみたいと考えている。

 ハードディスクも40メガプラス40メガが必要になるかもしれない。僕は取り立てて、データベースなどのソフトは使っていないが、4ドライブあって、ディレクトリをつくり、その中に文書ファイルを入れていき、必要に応じて使っているので、全体でひとつのデータベースのような気がする。データが蓄積されてくると、記憶容量は大きいものが必要になってくる。

 日常生活用具として、福岡市では電動タイプライターが支給品目に入っている(・市政だより・63.6.1)が、パソコンかワープロを支給品目にするべきだろう。

 頚髄損傷者の自由を達成するために、また仕事をする上で、頚髄損傷者もなんらかの能力を身につける必要があるだろう。何かの分野で専門家になることは悪いことではない。その場合、自分の過去の能力との比較、何もしない明日の自分の能力との比較も重要だろう。社会性、センス、精神面の強さ、コミュニケーション能力、判断力、決断力、行動力も有用だ。

 自律生活・社会生活を営む上では判断力が重要だ。しかし、自律生活の要として、「判断」に対して責任を負うためには、介助者がきちんと言うことを聞いてくれないとどうしようもない、という気がする。ただ、やりたくない人に早く見切りをつけて、別の人を探し、頼むことも一つの判断だろうが。









★健康



 学生の時、臀部にはいつも褥瘡があった。右手の肩の力で字をかくので、左の坐骨部分の褥瘡が特に悪かった。試験になると「この褥瘡の傷口が深く開くまで勉強をやらないと駄目なんじゃないか」と、勝手に思いこんだりしていた。

 10cm以上ある厚めのスポンジの座布団を、左坐骨部のところをくり抜いて、三枚重ねて使っていた。学校からかえって、ベッドに上がり、傷口に紫外線を当てていた。そしていつも傷を作っては、大事な用事以外は、「尻休め」と言って、ベッドの上で横ばかり向いて寝ていた。そして文庫本ばかり読んでいた。今考えるとあまり合理的だったとは思われないが、そういう時代だった。電動リクライニング車椅子もローホーもない時代だった。

 頚髄損傷者が自由を達成するためには、仕事をするためには、まず、健康でなくてはならない。健康は僕達にとっては本当に限られたものだ。僕も自分の体力のなさには全く情けなくなる。頚髄損傷者の場合、身体面では、腎機能が順調で、膀胱合併症、褥瘡がないことが大事だと思う。アメリカでも元気になること、体力の回復は当時の僕の生活の立て直しにとって決定的に重要だった。









★介助者サービス



 パソコンを使い、作業、仕事をするためには、車椅子に起き、机の前に行かなければならない。現在、日本で、毎日、朝4時間、晩2時間の2回づつ、週14回、パートタイムの介助者の人達に来てもらう体制ができて、生活が非常に楽になっている。というか、これでやっと作業や仕事も何とかできるようになっている。世の中には良い人がたくさんいると思う。



 第一回報告で書いた、「他人の介助を受けなければ生きて行くことができない、他人の介助というものは非常に高価なものである、介助を確実に手にいれることは非常に困難である、介助を自分の意思でコントロールする事はさらに困難である、という頚髄損傷者の抱えている」介助に関する問題は、やはり現在でも、日本の頚髄損傷者にとって一番重要なもの、一番不足している援助、整備されるべき条件だと思う。

 日常生活動作ができない重度障害者の介助について、誰が負担を引き受けるのか、という問題について、直接の介助者としては、@家族、A施設、B病院、Cボランティア、Dホームヘルパー、E有料介助者などが考えられるが、僕は、@からDまでの介助者と並んで、Eの有料介助者も必要だと思う。

 福岡市の社協の家庭奉仕員が週二回、月曜日と金曜日の午前中来てくれる。緊急一時保護もあり、僕も登録している。福岡市の付添婦派出会は1時間880円で、最低3時間以上で、交通費(バス代)が必要になる。東京に行く時などはヒューマンケア(八王子)などの有料介助者サービスを利用している。

 日本各地の街の中で、安全、健康、快適、適正、合理的な料金で、受けることのできる、有料介助者サービスは、頚髄損傷者が通常の環境で自由に生活し、仕事をするため絶対に必要条件だと思う。またこれがあれば、日常生活動作に大きな困難の伴う頚髄損傷者が、対等な機会、条件の平等を得ることが可能になるだろう。他の介助者は、人的、場所的、時間的、目的別に、それぞれ限界がある。有料介助者サービスには確かに費用はかかるが、自由な時間の方が貴重だと思う。

 有料介助者サービスに問題がないわけではない。晩の介助者から、「今夜は来られない」という電話がかかる。別の介助者に電話をかけ、「今晩少しだけでも来てもらえませんか」と頼んでみる。「ベッドに上げるだけなら行きましょう」との返事。綱渡りの生活だ。アメリカでの生活の延長のような生活だ。アメリカでの生活が役に立っている。アメリカで開き直った面があるのかもしれない。

 三十も過ぎたおじさんが電動車椅子に乗って突っ張っていると思うと、自分でも自分に苦笑いせずにはいられない。「こいつ変な奴だなあ。莫迦じゃないんだろうか」とつい自問自答してしまうが、「もうここまで来ると、いい悪いの問題じゃない、好き嫌いの問題だ。こういうライフスタイルを選んでしまったのだから。後はもう意地でやっているようなものだ。乗りかかった船だ。自分で選んだ船の船長が、沈没しかけた船から逃げ出すわけにはいかない」と今のところ思っている。

 自立生活センターの介助者情報サービス部門みたいなものが地域で機能していれば便利だと思う。データベースを常に更新し、プライバシーに留意して、サービスの質に関するマニュアル、サービスの評価基準を準備し、緊急時介助者サービス(盆・正月・連休、臨時=冠婚葬祭、旅行先)を行い、苦情・紛争処理機関としての役割を担い、行政(医療機関)、議会、裁判所との連絡を行なうようなものが必要だろう。

 費用もかなりかかる。僕は、だいたい、午前中4時間(1時間500円)、夜寝るとき2時間(1時間600円)、合計6時間(3200円)、1カ月、約、最低96000円かかっている。自動車で外出するときは運転介助費用などがプラスされる。障害基礎年金と特別障害者手当では少し足りない。アパートの家賃が払えない。

 最終的な費用負担者としては、@障害者本人、A家族、B保険、C贈与者、D納税者、などが考えられる。本人が自分の収入で払えれば一番良いだろう。しかし、自分の生活費と介助者のサラリーの二人分の収入を得ることができる頚髄損傷者は希であろう。

 僕は、・清家不動産サービス・という宅地建物取引業の看板をあげている。宅地建物取引主任者の資格も取り、営業保証金も300万円、国債の形で法務局に供託している。が、これから僕が実際に収入を得たことはない。この業務のために奔走したりしていないし、働かないのだから当然なのだが。

 国民年金障害基礎年金1級(783,100円。62年)、重度障害者特別手当、福岡市の障害者特別手当(年額二万円)、を受給している。有償雇用につけない場合の生活保障とくに各保険間の年金制度上の格差は大きな問題だと思う。無年金の問題もある。生活保護もあるが、ワープロ・パソコンを買えないなどの問題がある。しかも、僕は、これらの所得保障を全部介助者費用に使っている。

 日本の介助者サービス事業への公的援助、有料介助者サービス費用援助としては、生活保護障害者加算、重度加算(1・2級)、他人介護加算特別基準、(生活保護一一、一二条、厚生省告示別表第1第2章−4障害者加算)特別障害者手当、労災保険、自賠保険、などがある。

 日本の現行制度の中では、厚生省が行なっている特別障害者手当(目的:特別障害者に対して、社会保障の一環として重度の障害のため必要となる特別の負担の軽減の一助として手当を支給することにより特別障害者の福祉の向上を図る。支給対象者:精神又は身体に重度の障害を有するため日常生活において常時特別の介護を必要とする状態にある在宅の20歳以上の者。手当額(月額):20,900円。・厚生白書・62年度版、313頁)が、一番普遍的な費用援助なのかもしれないが、これだけでは絶対的に不足だ。





 [以下の憲法に関する記述は、読み飛ばしてもらってもけっこうです]





 介助者サービス費用という具体的で新しいな問題に対し、憲法(日本国憲法を貫く最も基礎的な原理は、人権尊重主義である。267頁。佐藤幸司・憲法・)のレベルにおいて、「人間に値する生存」を保障することを目的とする「生存権(的基本権)」(憲法二五条。ただし、具体的権利説をとるものは少数で、抽象的権利説、プログラム規定説をとるものが多い。戦後初期の判例は明瞭にプログラム規定説をとっていた。最高裁昭23.9.23刑大、食管法違反事件判決)、の理念(人間の尊厳の基本条件たる自由の、さらに基礎的な前提としての生存の権利が確立されなければならないだろう。現代の自由は、「橋の下に眠る自由」ではなく、何よりも「貧困からの自由」であり、生活の安定のうえに立った自由でなくてはならない、548頁。真の自由が生活の安定と向上の上にのみ成り立つ、という点に着目すれば、この生存権の実現は、自由権と対立するよりは、むしろ自由権の拡大の前提条件ともなるのである。558頁。小林直樹、・憲法講義・上・。が、自由は、そもそも他者の干渉をうけずに自己決定を行なう自由であるところに本質をもち、自由を実現するために他者(国家)に依存するということは一種のパラドックスなのであって、このパラドックスがないかのごとく説くことには無理があり、近代人権思想が描く自由の観念を全く変質せしめてしまうおそれがないかの疑問をぬぐいきれない。佐藤、前掲。273頁)、個人の尊厳に最高の価値をおく「幸福追求権」(一三条)、「公正(フェアーなこと)」概念を媒介とした「平等の原理」(一四条)などが、問い返されなければならないだろう。

 アメリカでは五つの連邦プログラムが介助者ケアの財源のために使われているがリハビリテーション法7章もその一つだ。多くの障害者が州の職業リハビリテーション機関によって雇用の潜在力を持っていると決定されるが介助者ケア・アシスタントなしではこの潜在力を発展させることができない。他の資源から利用できないときに110条基金は時々職業リハビリテーションの依頼人に介助者ケアを供給するために使われる(Zukas, "SUMMARY OF FEDERAL FUNDING SOURECES FOR ATTENDANT CARE", P.3-4)。労働などの機会の平等を実現するために、有料介助者に支払うべきサラリーの全部または一部を公的基金でまかなうことは日本でも考えられてよいのではないか。

 終末医療患者の介護を研究していた厚生省の研究班が、厚生省に提出した「家庭で死を迎えたいという希望に応える施策を」という報告書で、「家族がある程度の医療行為を行えるようにし、家族の介護を健康保険の給付対象とし、家族の負担を軽くするなどの条件整備が必要だ」と提言したのは昭和59年だった(毎日夕刊、1984/11/29)。終末医療に限らず、在宅介護に健康保険適用を、ということは考えられてもよいのではないだろうか。

 憲法は生存権の保障にあたって社会保障制度を前提とし、社会保障法は、すべての国民に対して、人間らしい生活を保障することを目的とする法体系であると考えられる。社会保障法のレベルで考えると、介助者サービスは、所得保障、医療保障と社会サービスの三系統のうちの、社会サービス(保健、医療、福祉などの社会保障サービス)の分野に含まれると思われる。が、厚生白書や各種の教科書などを見ても社会サービスという概念は、法的にはいまだ確立されているとは思えない。要保障事故、サービスの質、サービス供給方法、費用(財政)負担、権利性、など検討されるべきことは多い。









★住居と物的資源



 親の持家で家賃はかからない。というか、現在のところアパートの家賃、共益費などまで自分で出せないから、親の持ち家に同居している。改造などで問題はあるかもしれないが、車椅子で利用可能なエレベーターの付いている公団、市営住宅、民間アパートなどに引っ越したいという希望はある。同居の介助者や年収などの条件で入居が非常に困難だが。

 介助者も人間だ。疲れているときもある。また、自分自身も当てにならないが、他人は当てにできない。頚髄損傷者の日常生活動作能力の向上と並んで頚髄損傷者へのリハビリテーション工学援助なども必要となるだろう。

 僕も、日々の生活で、2リットル入るガラスの尿器かガラスの尿器とスカットクリーンが結合した収尿器、電動車椅子のオプションとして大容量の収尿タンクか国産のリモコン式収尿器が開発されれば頚髄損傷者の日常生活の自由がかなり拡大し、介助者の負担も軽減されるのではないかと思う。後、天井走行式電動リフター、電動ギャジベッド、リモコン式収尿器、ボイス・コントロール環境制御機器、褥瘡予防エアマット、自動消火装置、自動ドア、ワイヤレス・メモ機能付スピーカーホンがあれば便利だと思う。

 部屋のスペースがあれば水が飲める洗面台と食事が一人で可能になる大型の冷蔵庫、土地と費用があれば、トイレと風呂を増築したい。住居自体がひとつの物的資源のシステムだと思う。

 頚髄損傷者の生活は大変だが、問題はあっても工夫で解決できる部分も多い。その場合、ニーズの持ち主である頚髄損傷者は、アイディアは出せるが、それを実際に作る、設計技師、エンジニア、技術者、電気工、大工などの協力が必要だ。どういう利用可能な部品があるかの最新の情報を入力したデータベースによる支援体制も必要だろう。

 必要な商品を実際に購入する方法も自分でできるほうがよい。せき損センターの売店で売っている障害者用品を電話で注文すると、振込用紙の入った着払い宅急便で購入できる。これはすごく便利だ。





★通信と移動

 「アメリカの一年」の原稿は小田原の井沢事務局長にFAXで送っている。写真は速達で出しているが、FAXは速達よりも速い。ほぼ、リアルタイムのデータ・コミュニケーションが可能になる。パソコンにも一応モデムはつけている。通信に関し長距離電話料金が安くなればと思う。

 僕は自動車免許を持っていないので、長距離移動には新幹線と飛行機を使う。航空機は飛行機の座席に乗り移らなければならず、一人で利用するには、収尿器、褥瘡などの問題があり、一人で利用することには心理的抵抗が大きい。新幹線は電動車椅子のまま乗っていればいいので便利だが、飛行機に比べて遅い。東京まで片道6時間かかり、日帰りはほとんど不可能だ。

 移動に関する新幹線・航空機の料金が安くなれば良いと思う。また、両方とも介助者までも割り引きしているが、座席間移動を必要とする航空機では割引なしで介助付で一人で安全、快適に乗れないだろうかと希望している。

 障害をもつ個人のネットワークという視点から通信と移動は重要だと思う。アメリカの自立生活運動は白人の若い高学歴の身体障害者だけがやっていて、その恩恵を受けているとの疑問や批判があるが、人間の基本的なところ、最低限の尊厳ある生存などに関しては、特別な人だけが救われるのではなく、すべての人が対象となり主体的に行動すべきだと思う。この面では、内面的なものの重視よりは、社会的視点、障害と環境の動態的関係の視点、運動体としての視点などの方が重要になるかもしれない。人と人とのつながりの暖かさと強さということも無視できない。









★将来への展望





 将来への見通しは、到達可能な目標の設定(ひとつではないし、決して固定的なものではないと思う)、どういう方向で工夫、努力をすればいいのかということについて重要だと思う。僕が退院した頃は、ケースワーカー達などは、明確な将来の指針とその実現に有用な社会的資源などを退院頚髄損傷患者に示すことができなかった。というよりも、そういうものがほとんどなかった。

 到達可能な目標がないところでは頑張りにくい。やる気が湧いてくるためには、普通の努力をすれば普通の生活が出来る条件整備が必要だろう。もちろん、これは必要条件ではあっても十分条件ではない。

 僕の場合、幸運なことに、九州労災病院の北島医師が復学を進めてくれ、家族のサポートがあった。教育は、仕事につくだけではなく、より自由な人生を実現するためにも必要だと思う。









終わりに



 何もしないで節約・現状維持するのには限界がある。まして頚髄損傷者の自由達成という問題を解決するためには、頚髄損傷者自身が、活動して人生の行動半径を広げて行き、生産的な人間になるほうがよいだろう。

 そのためにはどうすれば良いだろうか。@障害をもつ個人の生き方とA援助のシステムのあり方が問題になるだろう。

 複数パートタイム介助者体制という援助システムに関してアメリカで実際に生活し実験し、その有効性を実証できたと思う。それとともに物的資源と精神的にしっかりすることの必要性についても明らかになった。

 現在、日本でアメリカの体験を生かしながら生活している。そして頚髄損傷者の自由達成という問題に対する、日本での解決策・限界を越えた実践的提言・展望として有料介助者サービスとサービス費用の援助を提言した。

 日本での住居入手などさらにまた限界が生じている。また個々の問題解決に取り組むことに戻らなければならないだろう。こういったことの繰り返しにより、頚髄損傷者の自由達成という課題は少しづつ解決され、頚髄損傷者の個人の尊厳、自由の実現、生活の質という目標・価値の実現に向かって少しずつ前進するのかもしれない。









 あまりにも自分自身の問題について書いてしまった。事実を客観的に把握して伝えているかどうか、主張が視野の狭いものになっていて独りよがりになっていないかどうか非常に不安だ。

 てれもあった。全部は書いていない。ただ、ストレートには書いていないが、「目を覚ませ頚損!」というメッセージを送り続けてきたつもりだった。









読者からの声



 12回の連載は、楽しかったが、やはり長かった。続けることができたのは読者からの反応があったからにほかならない。もし、この「アメリカの一年」が、頚髄損傷者にとって、少しでも役に立つ情報であり得たら、また、なんらかのメッセージを感じ取っていただけたら、それは、執筆中にいただいた読者からのお便り、感想、疑問、批判、励ましなどを初めとするバックアップのおかげだと思う。





「お疲れさまでした!!ひとつのことを決めて、つらぬき通すのは大変なこと。ほんとうにご苦労さまでした」









謝辞



 「アメリカの一年」連載にあたっては、東京都神経科学総合研究所松井和子先生と井沢隆事務局長にとくにお世話になった。伊藤全国脊髄損傷者連合会会長、白石前福脊連会長のご配慮もあった。また、介助サービスなしには生存さえ不可能な僕の執筆を実際に可能にしてくれたのは日本の介助者達だった。ここにあつく謝意を表する。

 この・アメリカにおける自律生活の実験と介助者サービス事業に関する調査報告・には、アメリカの介助者達を初めとする、数え切れない人達の協力と援助があった。受入れ先のCILバークレー所長夫妻、パラクォッド所長夫妻、アパートで火事に会った時の消防士達、体調を崩した時世話になった医師や訪問看護婦、その他多くの人々のサービスや援助を米国内で受けることができた。また、ピア・カウンセラーとして協力された米国の障害者の方々、ロールモデルとして協力された自立生活運動の活動家の人々や、その他の調査に協力された友人達に深く感謝の意を表する。

 その米国留学に協力援助された日本障害者リハビリテーション協会、広げよう愛の輪運動基金、総合せき損センター赤津隆院長、同センター岩坪暎二泌尿器科部長、松尾清美氏および医用工学研究室研究員、九州リハビリテーション大学アイリーン山口、山口ともね両先生、向坊弘道氏、溝口博外科整形外科病院院長、北島医師、および家族に深く感謝する。









写真説明





@メジャーリーグのボールゲームを見るために野球場に行った。パラクォッド所長夫人が、

「赤ちゃんを抱っこしなさい。写真を撮ってあげる」

と言った。赤ちゃんは可愛かったが、僕は、「もしおっことしたら大変だ。頼むからじっとしていろ」と必死だった。





Aグランドキャニオン遊覧飛行機。初めてプロペラ機に乗った。車椅子で機体の真下まで近づいて、操縦士達が抱え上げてくれた。機体が小さくて、9人乗りぐらいだった。乗ったり降りたりも大変だったが、座席も小さく中で座っているのも大変だった。風船みたいにフワリフワリ飛ぶ。ジュースのコップが搖れないジェット機とはまったく異なる乗り心地だ。しかし、低空を低速で飛ぶので機内からの眺めはよい。

 足もとに不毛の大地が延々と続く。凄い景色。とにかく雄大。人生観は変わらないまでも、強烈な印象だった。双発プロペラ機からラスベガスを見下ろすと、プ−ル付きの家ばかりだった。





Bディズニーランドで栗鼠と。ディズニーランドは天気だけは最高に良かった。僕にとってはディズニーランドはそれほど面白くはなかった。僕はやはり人間からより多くの刺激を受ける。大人が楽しむと言う子供向けの遊園地では退屈してしまった。電動車椅子でなかったせいもあるのかもしれない。





Cメキシコのチュワナ。陸続きの国境は初めてだった。国境を越えてメキシコに入るのは何も問題はない。

 チュワナは原色が目につく雑然とした町だ。アメリカに比べるとさすがにゴミゴミしている。しかし、人間は多く活気はありそうだ。

 アメリカに戻る国境はチェックが行われ、混でいて、どのゲートも長い列が出来ていた。国境の物売り。人形などを買った。子供が喧嘩していた。国境のゲートでパスポートを見せた。





Dロサンジェルスの夜。ダウンタウンの高層ビル群が見えてきた。LAの中心街も東の方は荒廃していて見るからに治安が悪そうだった。が、メインストリートのビルの高さ豪華さはさすがだった。ニューヨークほどではないがアメリカの富が集中していると言う感じだ。ただLAの方が遥かに広い。道路も発達していてい、スペースが十分にある。

 ガイドブックに載っていたレストランに行く。凄く高級そうなホテルの最上階にあった。丘の上にあるので高さも高い。ホテルの駐車場の料金が高い。レストランも覚悟して行ったがそれほどムチャクチャには高くなかった。

 景色は凄く良かった。LAの大平野が一望できた。しかもそれが美しい豪華な夜景に変わっていく。ヘリが飛んでいた。大都会だ。





Eハワイのホテルで。ワイキキビーチに面した応接間からバルコニーに出て見た。ダイアモンドヘッドが見えた。ベッドルームの窓は太平洋に面していた。窓を閉めるとエアコンが かかる。





F成田空港。日本に帰ってきた。愛の輪基金新事務局長とリハ協職員が迎えに来てくれていた。





G福岡空港。福脊連会員の人達、高校の友人、両親が出迎えにきてくれていた。とうとう家に帰ってきた。旅の終わり。すべてのものに感謝。