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 サラ村の森に小さな祠(ほこら)がある。
 昔はテオス神の教えが行き届かず、大地には大地の神、森には森の、雨には雨の……と
 いうように数え切れないほど多くの神々がこの世界を支配している、と信じられていた。
 
 祠はその頃の人々の信仰の名残であろう。テオス神は唯一神教なのでそのような考えは
 原始的であるから改めるように、人々に教え諭すのが司祭の務めだが、アドリアンはそこま
 で強く古い信仰を否定しなくても良いのでは、とこの頃では思い始めている。
 
 信仰が正しく人々に幸福をもたらすなら、強制しなくても人々は典礼を心地よく感じるだろ
 う。
 しかしこの祠に関して不思議なのは、他の村人たちの何人かは見た記憶はあるが、どこ
 にあるかは覚えがなかったり、うまく説明できなかったりして、アドリアンもその存在を疑う程
 だったのだ。
 
 ある偶然から──朝の典礼の後、森の方へ遊びに行ったまま昼を過ぎても帰らない子ども
 を捜してアドリアンが森に入ってほどなくして、くだんの祠は見つかった。迷子になった子
 ども、シェンとマナの二人を見つけてひと安心していたその時に、霧の中から姿を現すよう
 に祠(ほこら)が見えたのだ。
 「おうち!だれの?」と妹の方のマナが言った。
 「何か引っ掛かってる」と兄のシェンが指を指した。
 アドリアンがちょっと待っていなさいと言い置いて、祠を調べ始めた。
 おそらく隠修士が人里離れて孤独の中修道をしていた洞穴であろう。
 朽ちかけた格子戸はところどころ錆びた蹄鉄や壊れた脚衣や靴の底板などが打ち付け
 てあり、それが補強の効果も担っているようだ。
 
 ──これは旅人の呪(まじな)いだろうか?
 
 扉をそっと押してみた。蝶番(ちょうつがい)が錆び付いて重いものの、扉は開いた。
 「中を調べてみるから、シェンとマナはそこのいなさい」と念を押してから、アドリアンは中
 に入った。
 鉄細工師のモライシュの言葉を思い出した。
 手練の職人の重みのある言葉。
 ──洞穴を調べる時は、蝋燭(ろうそく)を灯して、火が細くなったり消えたりしたら、すぐに
 出口に引き返さなくてはなりません──。
 
 アドリアンは腰に下げた物入れ袋から火打ち石と火口布を出し、それと小さな芯受け皿が
 ついただけの携帯用燭台を取り出し、獣脂の細い蝋燭を立てて火を点けた。
 
 ──コレハ驚イタ──
 
 小さな火が照らし、その姿を浮かび上がらせたのと同時に声がした。
 シェンでもなく、マナでもない。老いた人の声だ。
 「これは……騒がせてしまって失礼しました」とアドリアンが言った。相手はこの世の人で
 はない。
 白い髪と白い髭を伸ばした老人が洞穴の奥に座っていた。祠の主というものは、おおむね
 このような隠修士の死霊であることが多いが、祟(たた)りがあったり怒りに触れるなどと異
 様に村人に怖れられている祠は注意が必要だ。
 
 「あなたはこの村の……?」とアドリアンが問うた。
 
 ──名モ忘レタ。ワシハ山デ迷ッタ者ニ道ヲ教エテイタ。何十年……、イヤ、百年以上ニ
 ナルダロウカ──。
 
 死者の声は穏やかだ。
 
 「それではぼくも迷ってここへ導かれた?」
 自覚なく迷ったのか、とアドリアンは自問するように言った。
 ──迷ッタノハ子ドモ達デアロウガ……。
 死者の髭がゆっくりと動いた。穏やかな微笑みだ。
 「しんぷさま!かくれんぼしよ!」とシェンが言った。
 「こらこら、静かにするんだ、シェン、マナ」
 とアドリアンが注意した。長い間、旅人たちを救って北崇高な魂を騒がせてはいけない。
 敬意を表して静かに立ち去ろうと思った時、格子の扉が音を立てて閉まった。
 「シェン! どうした?」
 アドリアンが開けようとしても扉は開かない。
 子どもたちの名を呼んでも答えがない。姿も見えない。閂(かんぬき)を見た記憶はなかっ
 たが……と、格子を通して様子を見るが、蹄鉄か何かが引っ掛かってしまったのだろう。格
 子の間から手を伸ばしても何ともならない。
 子どもたちに悪気はないのだが、困ったことになった、とアドリアンが閉口していると、死者
 が言った。
 
 ──子ドモ達ハ心配ハイラヌ。無事ニ家ニ戻ルガ……。
 
 「そうですか? 子どもさえ無事なら良かった。……後でシェンが誰かを呼んで来るでしょ
 う」
 
 ─ソレガデキナイノダ。今マデワシハ迷ッタ者達ニ道ヲ教エテ来タガ、同ジ者ガ二度ココ
 ヘ来ルコトハデキヌ。一ツヲ知リ、一ツヲ忘レル──ソウイウ呪(まじな)イナノダ。
 
 アドリアンはなるほど、と合点がいった。
 だから村の誰ひとり、山を歩き慣れているはずの人々までが、この祠に案内できないの
 だ。
 
 ──シカシ簡単ダ。ソノ蝋燭デ火ヲツケテ、扉ヲ燃ヤシテ出テ行クガ良イ。
 死者が提案した。だがアドリアンには受け入れられなかった。
 子ども達を守り導いてくれた恩人に、また村の長い歴史にわたって迷い人を救い続けてく
 れた崇高な死者の住処に火を点けるなんてできない。
 山火事を招く危険もある。
 「次の迷い人が来るまで待ちましょうか」とアドリアンは呑気なことを言う。次に来る迷い人と
 は、おそらくボルヘであろう。老体に鞭打たせて捜させるのも気の毒だが、シェンたちを探
 しに森へ行くとボルヘに言って出かけたので──シェンが戻ってアドリアンが戻らないこと
 を知れば、不審に思うはずだ。
 
 申し訳なく思いながら、アドリアンは蝋燭を吹き消し、その時を待つことにした。
 洞穴は表から見て推察したよりは奥行きがなく、危険な空気もないようだ。
 何より、暗くなった時に蝋燭が必要だから節約しなくてはならない。
 腰を落ち着けてアドリアンは待つことにした。
 
 死者の話によれば、道に迷った旅人がここにたどりついて一夜を過ごした後、また迷った
 時のために目印として古い蹄鉄や壊れた靴底などを打ちつけて行くのだそうだ。
 この隠修士の導きによって、旅人は自然に人里に向かって正しく、今度は迷うことなく進ん
 で行くという。
 
 後から目印に置いてきた物を惜しんだり、あるいは感謝の意を込めて祠にもう一度来ようと
 しても、それは不可能なのである。
 死者が静かに暮らしたいと、そうした呪(まじな)いを行い続けてきた結果、それは本人に
 も解くことのできない強い現象となったのだろう。
 格子の扉から見える森の木漏れ日が薄くなり、三時間ほど経った頃、次の迷い人がやっ
 て来た。
 薄暗がり、獣を寄せ付けないために松明を掲げて行く先もわからずに憔悴する人影。
 アドリアンが立ち上がり、火打ち石を打って蝋燭の明かりを灯した。
 誰が来たのかを見極めようとするその黄金の瞳に驚きの色が浮かぶ。隠修士の死者が微
 笑んだ。
 「──ビアンカ……!」
 老いた助祭ではなく、少女だ。
 道を見失い、途方に暮れていた少女が駆け寄って来た。
 「ビアンカ、ぼくだ」
 「神父様! ……本当に……?」
 なぜこんなところに、といぶかしむビアンカに
 「ちょっとしくじったんだ。ビアンカはどうしてここに来たの?」とアドリアンが言った。
 「シェンたちが戻って来て……でもどうしても神父様の居場所がわからなくて、ボルヘ様も
 一緒に捜していたの。そのうちに私が迷ってしまいました」
 格子越しに見るビアンカの顔は泣きそうだ。
 「蹄鉄か何かが噛んでしまっているようだ。そちらからなら外れそうだろうか?」
 自分が呑気に待っている間に、ビアンカに迷惑をかけてしまったとアドリアンは少しうろた
 えた。
 「あ……、はい。外れると思います」とビアンカの顔が一瞬輝いた。これをお願いします、と
 言ってアドリアンに松明を預ける。たくさんの旅人たちの目印が重なってからみつき、扉を
 動かなくしていたのだった。
 器用なビアンカの指で、根気よく留め具や蹄鉄が外され、ほどなく扉が開いた。
 「神父様……よかった……!」
 「ごめん。迷惑を──」と言いかけて、アドリアンは口をつぐんだ。
 ビアンカが少し怒った顔で、唇を噛みしめていた。
 涙をこらえているのだと知って、ようやくアドリアンはビアンカがどれほど心配して自分を捜
 していたのかということに気づいた。
 「ごめん」と言ってそっと抱きしめた。
 二度と戻れないこの場所で、今、この瞬間だけ──。
 柔らかく華奢な少女の体を抱きしめながら、切なさをこらえた。
 
 今では素行を改めたといえるピエモスとこの少女の仲を認め、いずれはその挙式に立ち
 会おうという自分なのに。彼らに祝福を与える司祭なのに──。
 
 時期が来て、ピエモスとビアンカが結ばれる?
 心は穏やかではないが、アドリアンはそれが正しいと信じている。
 感情や主観を除いて考えなくてはならないのだ、と自分に言い聞かせた時、結論はいつ
 もそこに戻るのだから。
 
 「でも、今だけ……このままで」
 
 アドリアンはその存在を確かめるように腕に力を込めた。
 やがて二人は隠修士の死者に礼を言って洞穴を出た。
 
 死者が教える正しい道をこれから行くのだ、と心に秘めた。
 
 
 (おわり)
 
 
 
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