マスカレードの長い夜
イラスト:桑原祐子

 COPYRIGHT 集英社

マスカレードの長い夜
吉田 縁:著/桑原祐子:画


学都リプサリアで、
至高の神を描く聖像画家を目指し、
十年の沈黙の行を続ける少女ノーマ。
弟子入りを許されるまであと二ヶ月足らずと
なったある日、ノーマは、神に似た容姿を持った学生、
フォルカ・アスカリナと出逢う。
その日以来、神に声を捧げた少女の心は
少しずつ揺らぎ始めた。一方フォルカも、
ノーマの祈る姿に心魅かれていき…。
ノーマとフォルカの聖なる愛を描く、中世ロマン!
登場人物

ノーマ

「リプサリアの聖の花嫁」の異名を持つ少女。至高の神を描く聖像画家になるため、十年の沈黙の行を続けている.

セルフィオン

フォルカの学友。フォルカに比べると遊び慣れていて、娼館にも通っている

ルキダ・エル

王弟の次男。25歳にして、学内でもっとも権勢を誇る「学頭職」の地位にある。

フォルカ

リプサリアに学ぶ神学生。貴族アスカリナ家の嫡男。至高の神エーヴァ神と同じ,漆黒の髪と瞳を持つ.純粋な心の持ち主。

カシュメリアナ

高級娼婦。リプサリアの俗の花嫁。知識や教養で自分を上回った学生としか関係を持たない。

ウリキナ

ルキダ・エル専属の写字生。その手先の器用さから、「写本の魔術師」と呼ばれている。

冒頭部分だけ読めます↓
(プロローグ)


 雪の上。
 少女はひとり立ち尽くしていた。
 路地裏の小さな空間にぽつりと残された少女が、あたりを見回しても誰も見つけら
れない。
 褐色の煉瓦を積み重ねて作った壁。そこに放り出されていた素焼きの瓶にも、敷石
の隙間の立ち枯れた草にも雪は積もっていた。細い路地の陰から、今にも母親が戻っ
てくるだろうと目をこらしても、その姿を見つけられない。
 薄暗くなってきた頃、少女の背後の扉が開いて、女の声がした。
「どこの子だい? うちには何もないんだよ。さっさとお行き!」
 その剣幕に驚いて、少女はようやく歩き出した。
 少女の髪の先まで凍てついていた。
 長いこと路地裏をさまよい、ひもじくて、心細くて、彼女は石柱と壁の間に座りこ
んだ。
 新年に向けて祝いの支度をしているのだろう。
 あちらこちらの家から香ばしい匂いが流れてきた。
 月も見えない夜の路地で、少女は母親がしていた祈りの仕草をまねて手を組んだ。
淡い褐色の髪に容赦なく雪が舞い降りた。生まれてから五回目の冬は、彼女にとって
最も苛酷な冬となった。かじかんで真っ赤になった小さな手を合わせ、ふるえる指を
組んで祈った。
「エーヴァさま……たすけてください」
 粗織りの衣で包まれた小さな背中にも、細い首筋ののぞく髪にも、雪は降り続けた。
 冷たくて痛くて辛かった手足がしびれてきて、やがて眠くなった。
 彼女は煉瓦の壁によりかかって目を閉じた。
不安と恐ろしさが次第に薄れてきた。少女は心地よい眠りの底に沈もうとしていた。
その時、雪を踏む靴音がした。
 少女の前でその気配は止まったけれど、彼女はすぐには目を開けられなかった。
 頬を軽くたたかれて、彼女はようやく重いまぶたをゆっくりと上げた。暖かくて大
きな手が彼女の顔を仰向かせた。
 暗い夜なのに、少女の目の前だけはぼんやりと光っていた。
「起きなさい、死んでしまう──さあ」
 低く穏やかな声が少女に語りかけた。
 新月のように黒い瞳をした青年が彼女を見下ろしていた。幼い彼女をおびやかさな
いためか、口もとをかすかに緩めていた。黒い髪はまっすぐに伸びて胸元に垂れてい
た。
 少女は導かれるように立ち上がった。
「おいで」
 青年が静かに話しかけた。つないだ手だけが暖かく、生きた人間のようなのに、見
上げると、彫像のようなその姿は不思議な光にふちどられて輝いていた。
 絹糸のような髪は雪を浴びても濡れもせず、五月の風に吹かれてでもいるように後
ろに少しだけなびいていた。
 少女はことばもなく、雪の上を歩いていた。大きな手の温もりから、少しずつ力が
満たされてくるような気がした。
「祈っていたんだね」
 少女はうなずいた。
 祈りを聞いてやってきたのだろうか、と幼い心で少女は考えた。
「エーヴァさま……?」
至高の神のその名を口にした刹那、一陣の風が吹いた。少女は身をすくめて目を閉じ
た。再び目を開いた時、青年の姿はなかった。そして彼女は捨て子養育院の門の前に
立っていた。
 
 
「あたしを弟子にしてください」
 エーヴァ神を描き続ける老いた画家の前に、少女はひざまずいた。
 石造りの北向きの工房では数人の弟子が忙しく働いていた。南から射す光は一日の
変化が激しすぎて、絵画を照らすのにふさわしくないのだ。
「簡単なことではない」
 白髪の老画家は諭すように言った。
「聖者と同じほどの厳しい修行が必要じゃ。幼いおまえさんには無理じゃろう」
 娘は緑色の大きな瞳を見開いて、とても美しい声で老師に訴えた。
「なんでもします」
 そして彼女のかたわらにいた尼僧は、灰色の僧衣と頭巾に身を包んで静かな声で言っ
た。
「この娘は、──捨てられてまだひと月ばかりしかたっておりませんが、刺繍が大変
上手でございます。素描を描かせてみましたら、このように器用に聖像画を模写いた
しました」
 そして彼女は端の丸まった羊皮紙を手で広げて見せた。老画家は一瞬それに目を留
めた。しかしその素描は彼の心を動かさなかったのあろうか。
「絵を描くだけならよいが、神の姿をカンバスに写そうなどとは思わぬほうが良い。
おおかた、刺繍や水汲みがいやになって抜けだしたい一心なのであろう」
「ちがいます。あたし、ここでもみずくみをやるわ。どんなことでもする!」
 養育院の暮らしは、確かに辛い日々だった。水汲みが遅いとたたかれて、彼女はよ
く小さな頬を赤く腫らしていたし、刺繍や洗濯で、その細い指もひび割れていた。養
育院の尼僧は、正直なところ、子どもの才能を育ててやろうという立派な意図があっ
て老画家のもとに彼女を連れてきたわけではなかった。やりくりの大変な養育院では、
ひとりでもくいぶちを減らさなくてはならなかったのだ。
「あたし、エーヴァさまを描きたい。どうしても忘れないうちに描きたいの」
 少女は老画家をくいいるように見つめた。
 老画家は少し表情を動かした。
「忘れないうちに、じゃと? まるでエーヴァ神を見たような口振りじゃ」
「あたし、見たわ! ほんとうに見たもの。だからどうしても描きたいの」
 尼僧は眉間を曇らせて少女を見た。妄想癖のあるような娘など、いくら同情をひい
てみたところであずかってはもらえないだろうと、既にあきらめかけていた。
「あたし、エーヴァさまを描くためなら、なんでもします。なにもいらない。なんで
もささげられるわ」
「なんでも、と言うが、おまえさんが何を持っているのじゃ?」
 老師が冷酷な声音でそう言うのは、うしろだてのない娘を相手にしたくないからな
のか、別の理由があるのか、それは誰にもわからなかった。
「よく考えるのじゃな」
 あたりには顔料を溶く亜麻仁油や、仕上げのクルミ油の匂いが立ちこめていた。
 工房では、弟子たちが顔料を瓶の中ですり潰したり、掃除をしたりしていた。
 長い修行の年月を経てようやく素描を許された弟子が、ひたすら布のスケッチをし
ている姿も見えた。
「あたしがもしもお金をたくさんもっていたなら、それを上げるのに」
 尼僧が慌てて彼女を叱った。
「これ、何という失礼を言うのです!」
「残念じゃな。おまえさんはそれを持っておらん」
 そして老画家は背を向けた。
「でもあたしはなりたいの。エーヴァさまを描くおじいさんみたいな人になりたいん
だもの」
「おやめなさい!」
「あたしがなにかをもっていたなら……」
 少女は五月の新芽のようなみずみずしい瞳を伏せてうつむいた。自分が何も持って
いないことを知っていた。つきそっていた尼僧は、捨て子養育院で子どもたちの世話
をしていた。そこが少女の新しい家だった。
 しばらくの静寂の後、彼女は何か決意したように顔を上げた。そして突然立ち上が
り、老画家の後ろ姿を追った。
「お金があってもエーヴァさまはよろこばないとおもうわ」
 画家は振り向いた。
「あたしは、この声をエーヴァさまに上げる」
 少女の言葉は、工房でそれを聞いていた誰をも驚かせた。
「何じゃと……?」
「エーヴァさまには心でいのるわ。これからあたしは、だれのためにも、なにがあっ
てもしゃべらない。この声をエーヴァさまに上げるの」
 老人は呆然と少女を見た。
 透き通った愛らしい声で、少女はそれを捧げると言う。
「なにも持っていないと言うが、おまえさんは若さという宝物を持っているではない
か。エーヴァ神の花嫁になろうなどと考えるのはやめなさい」
 しかし、既に自分の思いつきを実行にうつしていた少女は、固く口をつぐんだまま、
返事もしなかった。
「これ、くだらないことはおやめなさい」
 尼僧はうろたえ、しかし声音をたかぶらせないようにと苦心しながら言った。少女
は瞳だけを動かして尼僧を見たけれど、黙ったままだ。
「聞きなさい。年頃の娘はよくそのように、至高の神をまるで浮気な美神かなにかの
ように恋い慕って、つまらぬ錯覚を起こすものじゃ。おまえさんはちと早いが……、
そうではないかね?」
 静けさの中に、気まずい空気が流れた。彼女はがんとして老師に答えようとはしな
かった。
「とにかく、雀のように騒々しい娘たちからおしゃべりを取るなんぞ、三日と続くま
いて」
 少女はそれでも口をきかなかった。老画家は苦々しい顔をして言った。
「なんという強情な娘だ! よろしい。ならば十年じゃ。その無言の行が十年続いた
ら、おまえさんの言葉を信用しよう。それまでわしが生きておったら弟子にしてやろ
う」
 尼僧は失望して首を振った。
 しかし少女は目を輝かせて目礼した。
 老師も尼僧も、彼女がすっかりあきらめたものと思った。五才かそこらの娘が、と
りとめのないおしゃべりをやめて、暮らしていけるはずもないと。
 
──エーヴァさまには心でいのるわ。これからあたしは、だれのためにも、なにがあっ
てもしゃべらない。この声をエーヴァさまに上げるの──
 
 この言葉を最後に、少女は長い沈黙を守り続けるのだった。

──あの雪の日から十年がたったのだわ──

 十二月二十一日。雪の訪れも間近い、厳寒の夕暮れ時だった。
 薄暗い礼拝堂で、少女は幼い日の約束を思い出していた。半貴石の壁で遮られた静
かな礼拝室。目の前には美しいエーヴァ神の彫像が彼女を見下ろしていた。
 磨かれた祭壇の上に、見覚えのある神学の書物が置いてあった。彼女はその横に鈍
く光る銀の留め具をそっと置いた。この十日ばかりの間、その留め具は恋人から贈ら
れた宝石のように彼女の心を乱し、騒がせたのだった。
──私は、エーヴァさまに全てを捧げたのだわ──
 祭壇の蝋燭の明かりが、その悲しげな横顔を照らし出した。
──あと少しで、願いがかなうのだから──
 老師への弟子入りが許される二月一日まで、あとひと月と少しだった。少女はその
ことを思い出して自分を励ますように、銀の留め具から目を離した。
──もう、あの方のことは忘れよう……
 そして彼女はその礼拝室をそっと出ようとした。螺旋に組まれた六段の石の上をす
べるように降りた。もう二度と来ないつもりだった。
 人の気配にふと足を止めた。
「貴女がそのようなことをなさるとは」
 低くおし殺したような声が聞こえた。
「何のことかしら?」
 艶のある声音を落として女が問い返した。
「噂でもちきりです。貴女と学生の噂です。……貴女のような誇り高いお方が、なぜ
……?」
「おまえまでがそんな目でわたくしを見るのね。わたくしは陵辱されたのよ、あの…
…憎い学生に! こんな屈辱は初めてだわ」
 少女は不穏な場面に立ち会ってしまい、出るに出られなくなって息をひそめていた。
「なんですと……?」
 生命感の薄い抑揚のない男の声が、わずかに動揺の色を見せた。
「あの学生の頬をご覧。あの傷はわたくしが抵抗した証しなのよ。わたくしは……」
 低く呻くような、溜息ともつかない呼気が聞こえた。怒りにおののいているようだ。
「……おいたわしい……! 不躾なことを申しましたことをどうかお許しください。
この私が恨みをはらして差し上げます!」
 そして会話は途絶え、足音が二手に分かれて遠ざかった。
 少女は後ずさり、半貴石の弓なりの壁に寄りかかった。
──わたくしは、陵辱されたのよ、あの……憎い学生に!
──あの学生の頬をご覧。あの傷はわたくしが抵抗した証しなのよ。わたくしは……
 少女は壁際に座り込んで、身じろぎもせず衝撃に堪えていた。自分の心をこれほど
疑ったことはなかった。エーヴァ神に捧げたはずのこの魂が、下世話な噂話ひとつで
これほど揺れ動くとは、恐ろしいことだと思った。
 いくばくかの静寂の後、心許ない様子でようやく彼女は立ち上がった。
──今度こそ想いを断ち切ることができる──
 そして彼女は最後の石段を降りた。
 目の前を暗い陰が覆ったと思ったのは、気のせいではなかった。長身の学生が立っ
ていた。
 少女は逃げるようにしてその場を離れた。
「待ってくれ」
 学生は慌てて少女の腕をつかんだ。
「ああ、怯えないで」
 学生は静かに言った。
「もう何もしないから」
 少女はあらがうのをやめて、その漆黒の虹彩を見た。美しい彫像のような顔に嫉妬
した造物主がつけたかのような頬の傷。
「迷惑なら声もかけないから。また来てくれ……」
 その時、終課の鐘の音が聞こえた。
 修道僧たちが日暮れ前の祈りをする合図だ。
 学生はそっと手を離した。
 少女は悲しげにエーヴァ神に似た若者を見つめた。
 もう二度と、この人に心を乱されることはない、と彼女は誓った。
 しかしそれはできなかった。
 

(第一章) エーヴァの末裔


 それは十一月のはじめ──底冷えのする朝だったが、教会前の聖ロマンド広場では
既に学生や、下宿屋の亭主たちの買い物を当て込んだ商人たちが店を開いていた。
「花あめはいかがかな」
「焼きたてのパン」
 商人たちの呼び声にのって香ばしいパンのにおいや、砂糖菓子の甘い香りが流れて
くる。
 神学の講義を受けるには、その広場を横切って教会に直行すればよいのだが、まだ
時間があったので、フォルカは脇へまわって路地裏の小さな壁がんに立ち寄ろうと思っ
た。
 陽もあまり射さない細い路地裏の壁を彫りぬいたくぼみの中に、エーヴァ神の聖像
画がまつられている。その聖像画は神々しさの中に暖かみがあって、心をなごませる
逸品だという噂だった。作者は老いた画家で、その腕を見込まれてあちらこちらの大
聖堂や大修道院から頼まれているのに断り続けるという偏屈ぶりだった。そして名も
ない辻の壁がんの聖像画をひたすら描いているというのだ。
 フォルカはここリプサリアに来てひと月だが、まだそれを見たことがなかった。
 漆黒の髪と瞳をもつフォルカは若草色のマントを着て、黒革の長靴で敷石を踏みし
めて歩いていた。彼が壁がんに向かおうと小路への入り口へ足を踏み出した時、突然
ひとりの子どもが走ってきた。
「おっと……」
 避ける間もなく子どもはフォルカにぶつかった。
 フォルカはぶつかった子どもが倒れないようにその腕をつかんだ。七つか八つくら
いだろう。あがくようにして少年はフォルカから逃れようとした。
「離して! 離せったら!」
 少年がなぜそんなに慌てているのかわからなくて、フォルカは困惑したが、その時
広場のほうから太った男が走ってきた。
「つかまえてくれ! そのガキを」
 子どもは泣きそうな顔をしてもがいた。
「こいつめ、パンを盗んだんでさ!」
 パン職人らしい太った男は、息をきらして仁王立ちになった。生成のエプロンから
はみ出した腹で、胴着もはちきれそうだ。少年は体を縮めて身構えた。ぶたれると思っ
たのだろう。彼は薄汚れた衣の懐に小さなパンをひとつ突っ込んで、それを隠すよう
に体を丸めていた。
 子どもが慌てふためいていた理由がようやくわかって、フォルカは手を離した。少
年は不審な顔つきでフォルカを見上げた。フォルカは
「行きな」と言ってその背中を押した。
 少年は転がるように走り去った。
「ああ……あ、なんてこった? せっかく捕まえたのに、逃がしちまうなんて」
 体つきに似合わない甲高い声でパン屋が叫んだ。フォルカは少年の姿が見えなくなっ
たのを確認してからパン屋に向きなおった。
「パン一個くらいやればいいだろ。明日は『喜捨集めの日』なんだから」
 フォルカの黒い双眸がパン屋を見下ろした。きょとんとしてその言葉を聞いていた
パン屋は、やがてその若い学生がパン泥棒に肩入れしたのだとわかって、目をむいて
言った。
「パン一個くらい、と言いなすったが、わしらには大事な商売もんでさ。一個くらい
良いわ良いわでばらまいた日にゃ、わしらが飢え死にしてしまう。明日は喜捨集めで
も、今日は今日。これでもわしらはまじめに神の教えも守っておりまさ。喜捨集めの
日にはちゃあんと施しをしてますぜ」
「どうだか」
 フォルカは吐き捨てるように言った。
 さすがは商売人だ、口は達者だけれど、どう見たって了見の狭いことの言い訳にし
か聞こえないと思った。
 若い学生のなめた態度にパン屋は顔を赤くして訴えた。
「お金持ちの学生さん方にゃ、わかるまい。あのガキが必死なら、こっちだって必死
なんでさ。たかがパン一個と言いなすったが。それならおまえさまが喜捨をなすった
らどうだね」
「いいだろう。その代わり、明日あんたが喜捨するところをたっぷりと見せてもらう
ぜ」
 パン屋の言いなりになるのもしゃくだったが、それ以上手間を取らされるのも面倒
になって、フォルカは腰の財布に手をやり、銀貨を多めに取り出した。
 パン屋はそれを見たとたんに破顔一笑し、もみ手を始めた。
「おや、そうですかい? そうこなくっちゃあ。さすが学生様だ。おおっと、そんな
にはいただけません。わしらは真面目な商売が取り柄なんでさ」
 手の裏を反かえすような態度の豹変と見え透いた言葉に、背筋に寒いものを感じな
がら、フォルカはパン屋を一瞥して銀貨を渡した。
「余った金は、あの子どもの分の先払いだ。殴ったりするなよ」
「そんなことしやしませんとも。わしらはいつだって、あの子らのことは可哀想に思っ
ているんでさ」
 うんざりしながらフォルカは壁がんに向かった。噂のエーヴァ神の聖像画を見るま
でにとんだ道草をくってしまった。
 壁がんの下には貧しい身なりの少女が祈っていた。粗織りの衣をつけただけで、十
一月の冷気に身をさらし、静寂の中にたたずんでいる。誰も踏み入ることのできない
清澄な空間を見たように、フォルカは立ちすくんだ。噂の聖像画を目前にしているの
に、フォルカはその少女から目が離せなかった。
──長いまつげ伏せて何を祈っているのだろう?
 その周りには幼い子どもたちが何人か、彼女の祈り終えるのを待っていた。
「姉ちゃん、パンをもらったよ。もう行こうよ、寒いよ」
 さっきの少年が、祈っている少女に話しかけたが、フォルカに気がついて慌てて少
女の陰に隠れた。
 フォルカは心配はいらない、というように少年に笑いかけた。
 少女は顔を上げ、緑色の瞳を巡らしてフォルカを見た。しんと透き通ったその色に、
フォルカは言葉もなく彼女を見つめた。
 目礼だけを交わしたが、そのうちに事情を察したのだろうか。彼女は自分の脇に隠
れている少年を軽く睨んだ。しかしその眼差しには優しさがあふれていた。
「だって……おなかがすいてたんだもの、ノーマ姉ちゃん」
 むずかるように、男の子は少女に言い訳をした。少女は──彼女はノーマというら
しい──眉根をほんの少し寄せて、男の子を見つめ、たしなめるように首を振った。
 フォルカはその光景を微笑ましく見ていたが、いつまでも立っているのも妙だと気
がついて立ち去ろうとした。
「……わかったよう。……ごめんよ」
 半べそをかいた子どもが、口ごもるようにそう言って衣の衿口に手を突っ込んでパ
ンを取り出した。ノーマという少女はそれを受け取って、男の子の頭をそっとなでた。
 少女が立ち上がり、フォルカに歩み寄った。そして無言でパンを差し出した。五月
の新芽のように明るく輝く眼差しがフォルカの漆黒の瞳をとらえた。彼女はたおやか
で、痛々しいほど細い腕で、フォルカにパンを返そうとしていた。
 少年はノーマの衣の端をつかんだまま、上目遣いにフォルカを見上げていた。他の
子どもたちも、悲しそうにパンを見ていた。
 フォルカはパンを受け取らなかった。子どもがひもじそうにしているのがわかった
からだ。そして少女に言った。
「いいんだ。パン屋には支払いは済ませたから、安心して食べろよ」
 しかし、その言葉を聞いて少女の双眸から微笑みが消えたのを、フォルカはどう理
解していいのかわからなかった。ノーマは毅然とした顔つきで首を横に振り、フォル
カの手にパンを押しつけて、かたわらの子どもを引っ張るようにして壁がんの下に連
れて行った。フォルカはまっすぐな眉をひそめてその後ろ姿を見た。
「待てよ」
 彼は思わず呼び止める。
「どうして返すんだ? ちびたちがおなかを空かせてるじゃないか」
 フォルカは苛立つより先に戸惑いを感じていた。弟や妹が飢えているのに、少女が
なぜそれを拒むのかわからなかった。
 少女は振り向いてフォルカを見たけれど、何も答えなかった。
「お姉ちゃん、寒い」
 とかたわらの童女が言った。ノーマは小さな子どもたちをそっと手で抱え込むよう
にして壁がんを背にした。
「教会で祈りなよ。そんなところじゃ、凍えてしまうぜ。アスカリナ家の礼拝室なら、
いつでも開けておくから」
 アスカリナ家の礼拝室──それは彼の生家が教会にもたらした多大な寄進の証しだ。
 三時課の鐘が鳴り始めた。
「まずい、講義に遅れる」
 フォルカはひとりごちて足を速めた。
 そして聖ロマンド広場を抜けて、けたたましい鐘を鳴らす教会へと向かった。
                            (「マスカレードの長い夜」より抜粋)