─賢者の秘密番外ショートストーリー─

『黙示録』と100のキス

「賢者の秘密と黄金の腕輪〜乙女は天使に囚われる〜」
書き下ろし番外短編です。文庫本最後のページの
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賢者の秘密番外編──『黙示録(アポカリプス)100のキス

                                吉田 縁

 ルビー・アンジェロは厨房から階段を上がってミケーレの書斎に入った。
 彼がいつも仮眠をとる長櫃の上には毛布とクッションがあるだけだ。
「ああ、間に合わなかったの……!」
 がっくりとうちしおれてルビーは肘付椅子に座り込む。
 書斎机の上にはきちんと重ねられた羊皮紙の束。
 彼は不眠不休で研究にうちこみ、一つ調べ物が終わると上の寝室で二日、三日眠り続ける。
「仕事の邪魔にならないように、って思って遠慮してたのに」
 計算が終わったとたんに眠ってしまうなんて。
 ミケーレさんに会えると思っておめかしに時間をかけ過ぎたのがいけなかった。
 でもおしゃれせずに会うのは嫌だったし。
 机の上のホロロジアがコチコチと音をたてている。
 教会からは『悪魔の持ち物』だと言われているらしいけれど、黄金の円盤や歯車が動く美しい道具で、時を測るものなのだ。
「ホロロジア、もう少し時を遡ってちょうだい」
 ミケーレさんが眠ってしまう少し前に。
 ルビーは黄金のホロロジアの規則正しく動く針を見ながらうっとりと言った。
 そして自分がまどろみに落ちてしまった。

    *   * 

 鐘の音がして、ルビーは目覚めた。ミケーレの書斎じゃなく、戸外に立っていた。
──ここはどこかしら?
 空の色はソヴィリアナより鈍く、太陽の光が薄い。
 小さな教会の前に立っているが、周辺には田園風景が広がり、遠くにぽつりぽつりと杉の木が立っているひなびた村だ。やがて、物売りや大道芸人の声などが耳に飛び込んできて、大市が行われているらしい、とわかった。
 ホロロジアの魔法かしら。知らない村に迷い込んでしまったみたい。
 もっとも『魔法』なんて言葉を使ったらミケーレさんに叱られてしまうわね。
「おっとあぶねえっ!」
 突然男の叫び声がしたと思うとルビーの肩に誰かが勢いよくぶつかり、陶器か何かの割れた音がした。
「きゃっ」
「ばかやろう、割れちまったじゃねえか!」
 大柄な男がルビーの前に立ちはだかり、怒鳴りつけた。
 ルビーの足もとには赤褐色の陶器の破片が散らばっている。
「あっ、……ごめんなさい」
 大変なことをしてしまった、とルビーは涙目になる。
500フィオリーノ弁償してもらおうか」
「えっ」
 そんな法外な値段!
 見たところ、素焼きの水差しに過ぎないのに。
「あ、あの、でもこれ──っ」
「払えないんならおまえを売り飛ばすぞ!」
 男は乱暴にルビーの肩を掴む。
「やっ、やめて下さい!」
 周りで歓声が上がった。
 大道芸人がたくさんのナイフを放り投げてくるくると操り始めた。
 買い物客も通行人もそれに気を取られていて、ルビーを見向きもしない。
──助けて、ミケーレさんっ!!
 心の中で叫んだ時。
「言いがかりはやめなしゃい」
 高く澄んだ声が下の方から聞こえてきた。
 見下ろすと、ルビーの目の前に4,5歳の少年が立っていた。
 プラチナブロンドのおかっぱ頭に、青い大きな瞳。
 生成のフード付き長衣を着ているが丈が長すぎてぶかぶかだ。
 その両腕に革張り表紙の大きな写本を抱えていて、まるで教会壁画から出てきた天使のよう。
「あんだ、このガキぁ!」
 男はまた怒鳴った。
 少年は微塵もひるまずに言った。
「わざとぶつかったのは男のほうでしゅ。大金を払うことはないでしゅ」
「何ぃ、生意気な!」
 凄みながらも若干男の勢いが削がれていた。
「あの黄色いテントの店に同じようなものがありましゅよ。1フィオリーノもしましぇんけど」
「ばっ、……でたらめを言うな、このガキが」
「ためしにあそこの店主にきいてみましゅか。おーい」
 と、少年が声高に呼び始めると、男は舌打ちをした。
「ちくしょー、今回だけは許してやらあ」
 捨て台詞を残して男は走り去った。
 ルビーの心臓がドキドキしている。足もまだ震えている。
「どうせ盗品にちがいないでしゅ。ぐみんの上にぐれつでどうしようもない輩でしゅね」
「あ、……ありがとう、坊や」
「坊や、でしゅと? ぶれいものでしゅね」
 少年は不本意そうに顔をしかめた。利発そうな顔で、おとなびた態度をしているのに歯が抜けているために物言いだけは幼い。
「まあいいでしゅ、ゆるしましゅ。みかけないかおでしゅから」
 そう言うと少年はくるりと背を向けて教会に向かって歩き始めた。
 ルビーは慌てて彼の後を追いかける。
「本当に何と言ってお礼をしたらいいのか……。待って、あのう、わたし、道に迷ってしまったみたいなの。ここはどこかしら?」
 少年はぴたりと立ち止まると呆れたような顔で振り向いた。
「目をあけているのにねぼけているのでしゅか。ここはカザーリアでしゅよ」
「カザーリア……?」
 聞いたことのある地名だ。
 ルビーは記憶をたぐり寄せる。そう遠くない昔に聞いたはず。
──あ、ミケーレさんが昔住んでいた村の名前だわ!
 少年は面倒くさそうにおかっぱの前髪をかきあげた。
 それから、ルビーの裾のあたりに視線をやると、不機嫌に言った。
「どうでもいいでしゅが、けいさんしきを踏むのはやめなしゃい」
 少年が怒って指を指した先を見ると、ルビーの足下に数字やアルファベットが石畳の上にチョークで書かれていた。
 意味不明な文字の羅列だが、無数の数字や記号の間、ところどころ『すなわち』『ゆえに』などとラテン語が見みとれる。
「そこ、踏んでましゅってば」
「あ、ごめんなさい」
 ルビーは慌てて後じさる。
 プラチナブロンドのおかっぱ頭を揺らして少年が満足げにうなずいた。
「これ……坊やが書いたの?」
「坊やではありましぇん」
「あ、ごめんなさい。あなたが書いたの? その本を見て書き写したのかしら?」
 ルビーが尋ねると、少年の青い瞳が濃く冷たい色に変わった。
──あ、怒った……?
「ぐもんでしゅね。この本は『ヨハネの黙示録』でしゅよ、そんなものにけいさんしきは出てきましぇん。キリストの使徒ヨハネがにえたぎった油に足をいれたにもかかわらずむきずだったのはなぜかということをけいさんによってしょうめいしただけでしゅ」
「えっ、計算でそんなことが証明できるの?」
 思わずルビーは問い返した。
 ヨハネといえば、キリスト教が迫害されていた時代に拷問によって煮えた油釜に入れと命じられたが神の加護により無傷で出てきたという逸話が確かにあるが、あれは信仰による奇跡なのに。
 少年は蔑むように、ふ、と笑った。
「まさか奇跡とか魔法とかねぼけたことを言おうとしているのではないでしゅよね」
「え……、そ、そうね。でも教会ではそう言われているけどあなたの考えはどんなふうなの?」
「いい質問でしゅ。つまり、油がにえたぎっているからといってやけどするほど熱いとはかぎらないのでしゅ。べつの物質をくわえてふってんを下げればよいのでしゅ」
「ふってん?」
「ぐみんにもわかるように言えば、液体が煮えたぎる温度のことでしゅ」
「まあ……斬新な考え」
 ルビーが感心して言うと、少年は満足げににっこり笑った。
 天使のように愛らしい微笑み。
──どこかで見たことがある。
 どこで見たのだったかしら、この笑顔を。
 ルビーの思考は、別の声によって中断された。
「これ! またわけのわからぬ悪戯書きをして! おお、それにその写本! 勝手に持ち出したのだな」
剣呑な声音にルビーが驚いて振り向くと、白い僧衣を着た老人が少年を睨みつけていた。
 教会から出てきたようなので、聖職者だろうとルビーは察したが、こんな乱暴な物言いをするなんて。
「わが修道院の宝をおまえのような子どもが触ってはならぬ」
 ひったくるように老人は少年の手から写本を奪った。
 少年はとくに未練もないというように、あっさりと写本を引き渡すと言った。
「これが宝でしゅと? わらわせましゅ」
 蔑むように口の片端を上げて笑う少年には、さきほどの天使の面影はない。
「また神を冒涜するようなことを言うのだろう、この悪たれ小僧が! おお、神よ、お許し下さい」
 老人はそう言って十字を切った。
「これはヨハネという老人のただのゆめものがたりでしゅよ。ありがたくもなんともないでしゅ。ファンタジーとしてはよくできていましゅが」
「黙れ! それ以上言うなら懲罰房行きだぞ、この罰当たりが」
 老人の額に青い筋が浮き上がり、恐ろしい形相になったのを見ると、関与していないルビーまでが震えてしまう。
「その子をぶたないで下さい、お願いします。わたしの恩人なのです」
 とルビーが思わず叫んだ。老人がルビーに顔を向けた。
「誰がぶつのだね?」
「いっ、いえ……、……すみません」
 目で威圧する老人の前にルビーはうちしおれた。今にも殴りそうに見えたのだ、ルビーには。
「どこの誰か知らないが、ここは女人の来るところではない、帰りなさい」
 老人は不機嫌に言って、それから少年を憎々しげに一睨みしてから聖堂の扉の向こうに姿を消した。
 少年は冷めた眼差しで老人の消えた扉を見つめていた。
 やがてルビーに向き直って言った。
「かおが青ざめていましゅ」
 そしてルビーの手を小さな両手でそっと包む。
「おびえることはないでしゅ。いつものことでしゅから」
 小さな手が温かい。慰めてくれているのかしら。
「やさしい子ね」
「子とはしつれいな」
「あっ、ごめんなさい」
「わかればいいでしゅ。しかしあのいんちょうよりはみどころがありましゅね。けいさんしきをざんしんと言いましたから」
「まあ、それは光栄だわ」
「いんちょうはぐみんでしゅが、たしかにここは修道院でしゅから女は中にはいれましぇん。かえりみちはわかりましゅか」
「ええ……たぶん……。南はどっちかしら?」
「あっちでしゅ。変な男に言いがかりをつけられないよう気をつけなしゃい」
「わかったわ。ありがとう。……あなたのお名前は?」
 立ち去り際に少年は振り向いて言った。
「ミケーレ・ドリヴェール」
──えっ……?
「ま、待って」
 ルビーが叫んだけれど、少年はさっき老人が消えた扉の向こうに行ってしまった。
 そして、ルビーを取り巻く景色がくるくると回り始め、やがて闇に包まれた。

 *    *   *

「起きろ、風邪を引くぞ」
 乱暴な物言いにルビーは驚いて飛び起きた。
「あっ、何? ここはどこ?」
 ルビーは辺りを見回した。
 黄金のアストロラーベ。無数の写本。書きかけの羊皮紙。
 ミケーレの書斎だ。
 目の前には計算を終えたらしき書類があり、日付は1495年、222日となっている。
  うたた寝する前と同じ状態だ。
 そして24歳のミケーレが美しい青い眼差しで見下ろしている。
 銀糸の刺繍を施した青いブロケードの衣が今日も似合っている。
 プラチナブロンドの長い髪を後ろで緩く束ねたいつも通りの彼だ。
「ああ……夢を見ていたの」
 ルビーが目をこすりながら言うと、ミケーレが鼻で笑った。
「また寝ぼけたのか、赤子でもあるまいに」
「ミケーレさんが長い眠りに入ってしまったと思って、ホロロジアに時間を戻してとお願いしていたの。そうしたら戻りすぎてしまって──」
「は?」
 ルビーは思い出してくすりと笑った。
「随分昔のカザーリアの修道院まで戻ってしまったわ」
「目をあいていても寝ぼけたことを言う。見ろ、うたた寝なんぞするから体が冷えてしまっただろう」
 ミケーレはそう言ってルビーの手を自分の手で包んだ。
 温かい。夢の中であの小さなミケーレが両手に包んでくれた時と同じだ。
 この温かさは、ミケーレの心だと思う。
 ずっと昔から変わっていないのだろう。
 幼少期でも、大人になった今でも、ルビーを助けてくれるのはこの人なのだ。
 それでもあの後、幼いミケーレが遭ったであろう苦難の日々を思うと切ない。
 ミケーレの才能を悪魔の所業とみなしていた院長は折檻までしていたと聞く。
 カザーリアの修道院は彼にとって居心地のよい場所ではなかったはずだ。
 ルビーはミケーレの椅子から立ち上がり、彼を見上げて言った。
「子どもの頃のミケーレさんに会ったわ。大市で悪い人から助け──」
 その言葉は続かなかった。
 黙れ、とささやくように言ったその口で、そのままルビーの唇をふさいだからだ。
 イリスの香りがふわりと漂う。
 ルビーの頬を包んでいたミケーレの手がゆっくりと動いて、ストロベリーブロンドの髪をなで、そしてやさしく抱きしめる。
──今は、……幸せよね、ミケーレさん?
 甘い口づけの後、ルビーはそっとつぶやく。
「わたし、ヨハネの黙示録の夢を見ていたの」
「まだそんなことを。いい加減目を覚ませ」
 ルビーを抱いた腕は緩めず、ミケーレは一瞬動きを止めた。
「……ああ、おまえ写本の整理をしていてあれを見たんじゃないのか?」
 彼はそう言って、ルビーの肩を抱いて書棚の前まで歩く。
 壁一面に並んだ写本の一冊を抜き出して、ミケーレがルビーに渡した。
「ヨハネの黙示録!」
 夢で見たのと同じ装丁ではなかったが、ルビーは注意深くページを開いてみた。
 青や赤、金色……鮮やかに彩色された挿絵の間にラテン語で書かれた文は、4,5歳の子どもには読めないだろうと思われるが、ミケーレの幼少期ならあり得る。
 はらりと一枚の羊皮紙がページの隙間から落ちた。
「何かしら」
 ルビーが拾い上げる。数字やアルファベットや、ギリシア文字のような記号が書き連ねてある。不可解だが、何かの計算式だろう。
「ああ、これは──」
 ミケーレが思い出すように言いかけた。ルビーはどきどきした。
 幼いミケーレが白チョークで石畳に書いたのと似ていたから。
「『黙示録』はヨハネがパトモス島に送られるいきさつを書いた部分と、その島でヨハネの見た白日夢を描いた部分とで成り立っている。第一のラッパが鳴り響き……という有名な行が後者だ。神も人も信じない俺には、これはただの老人の見た夢物語に過ぎないが」
「修道院でそんなことを言って院長様に叱られなかったの?」
 ルビーが口を挟むと、ミケーレの顔が一瞬曇った。
「嫌なことを思い出させるな」
「この計算式の意味をあてましょうか?」
「は? 愚民に当てられるはずない」
「そうかしら。じゃあ言うのをやめようかしら」
「言うだけ言ってみろ。嘲笑してやるから」
「でも当たったら?」
「あり得ないが、当たったらおまえに100回キスしてやろう」
 ミケーレの勝ち誇ったような顔をちらりと見てからルビーは言った。
「ヨハネが煮えたぎった油の釜に入れと命じられて、その通りにしたけれど無傷だったことを科学的に証明したの、でしょ? 別の物質を混ぜて沸点を下げるという──」
 ルビーがそう言った時のミケーレの顔は、ずっと忘れられないだろう。
 いったいなぜ、と何度も首をひねっていた。
「見所があるでしょう、わたし?」
 ミケーレは腑に落ちないという顔でプラチナブロンドの前髪をかき上げた。
「まあいい、100のキスどころか今夜は眠らせてもやらないから覚悟しておけ」
 ふわりとルビーは抱き上げられる。
 そして書斎の上の寝室まで運ばれる。
 ホロロジアの魔法だったのかな、とルビーは思う。
 いつの時代に会ってもミケーレ・ドリヴェールは自分を助けてくれるのだと思う。
 そしていつの時代に出会ったとしても、ルビーは彼の虜になるのだ、きっと。
 ちょっとズルをしてしまったことは内緒だ。
 ご褒美のキスを受けながら、ルビーは心の中でそっと謝った。
 



                              (おわり)