を抱く聖女

<角川ビーンズ文庫>


COPYRIGHT:秋月亮/角川書店

暁を抱く聖女
(あかつきをいだくラ・ピュセル)

吉田 縁:著
秋月 亮:画



ジャンヌ、初陣、17才。
─苦くて苦くて、死にたいくらいだった。


アングル(イギリス兵)に村が焼き討ちされた!
追いかけられ、捕らえられ、絶体絶命の時。
ジャンヌを救った白馬の騎士は、
悪魔に体を蝕まれていた。
騎士を救おうと故郷のレミ村を出るジャンヌを
数奇で過酷な運命が待ち受けていた。

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 プロローグ


――――黒い黒い塔の天辺に、悪魔は棲んでいた。
 代々ラヴァール家の家長にとりつき、その魂を貪って生き続ける反逆天使、リュシフェル。
 それは神に最も近い姿をした天使が傲慢のために堕ちたのだという──。
 
 女のすすり泣く声が聞こえる。そして忍び歩く靴音。
 回廊に今は活気はなく、狩りの戦利品の鹿の頭が壁から突きだしているだけだ。
 さらに進んで主の寝室へと向かうと血の匂いが立ちこめている。
 マシュクールの城主ギィは幼い息子を残して臨終を迎えていた。
「息子を……呼べ……」
 かすれてほとんど聞き取れない声。
 狩猟好きの城主が猪の牙に倒れたという、突然の報せが城内を駆けめぐったのはつい先刻。
 のどから胸にかけてざっくりと裂かれた傷は痛ましく、今も声を発するたびに鮮血が噴き出して
白いシーツを染めている。
 既に手の尽くしようがないのを悟っていたのか、治療しようという家臣を拒んで今に至る。
「ここにいます、父上……、父上!」
 美しい顔立ちの少年がベッドの前に身を寄せた。
 そして金色の髪を揺らして体を屈め、父の耳元に顔を寄せた。
「父上、ぼくです。ここにいます」
 十になるかならぬかの心許ない少年だ。
 革のブーツでつま先立ち、懸命に父に呼びかける。
 だがその息子の姿ももう捉えられないのだろう。震える手が宙をさまよう。
 少年がその手を握って父を慰める。
「ぼくがそばにいます。父上、しっかり!」
「そこに……、いるのか」
 ギィののどからまた血があふれる。
「悪魔が……おまえを狙って……い」
 激しく咽せてギィの顔が青黒くなる。
「父上! これ以上話してはだめです」
 だが息子の制止も聞き入れない。刻々と迫る死を前に、力をふりしぼって言った。
「この傷は……悪魔……に、やられ……た」
 枕元にすがっていたギィの妻が悲鳴を上げた。
 ギィはさらに続ける。
「息子よ、……私はおまえを渡さないと……悪魔に……言い、続けて来た。
……だから悪魔は私に爪をかけた!」
 あえぐ胸。消えかかった命のともしび。
 城内の重臣は全て集まっているが、声も立てない。
 時折痛ましい顔をして、胸元で十字を切る者と、鼻をすする者と――。
 少年はただ、父を食い入るように見つめる。
「父亡き後は……自らを……守れ。魂を――売り、渡す……な――」
 そして彼は懸命に自分の懐を探った。
 少年が手を貸してその衣を開いた。
 金襴の飾帯は今は外されて、長剣とともに枕元に置かれている。
 絹地のシャツをめくると血にまみれた十字架が見えた。
「これ……、これですか?」
 ギィの手に十字架を握らせると彼はうなずいた。
「おまえに……やろう」
 十字架を身につけて悪魔から己を守れ。
 想像されたその言葉はとうとう言い果されなかった。
 ギィの瞳から光が消えた。
「あなた――!」
 静寂を裂くような女の叫び。
 医者がかけより、脈をとった。そして司祭を呼んだ。
 香が焚かれ、祈りの言葉が流れる。
 ギィは死んだ。
 息子を見つめているのか、青い虹彩を少年に向けて見開いたまま――。
 死闘と苦悶から解放されたためか、やや表情は安らいで見える。
 ギィの妻が泣き崩れて遺体を揺すぶった。
 少年はあとずさり、そして寝室を飛び出した。
 母の泣き声に追い立てられるように走った。
 中庭を駆け抜け、門番を振りきる。
 瓦礫に何度もつまづきながら走り、そびえる尖塔の前に立つ。
 何かに操られるように黒い塔の螺旋階段を駆け上った。
 牢獄のような塔の一室。
 銃眼を刻んだテラスに身を乗り出し、高い高い黒塔の天守から領土を見下ろす。
 いつもとかわらない荒涼たる原野がどこまでも広がる。
 重い色をした空もどこまでも続く。
――父上が、死んだ。
 涙は出なかった。
――悪魔から己を守れと言いのこして――!
 握りしめた十字架。
 両手でしっかりと包み込んでも尚重い気がする。
 手のひらも指先も血に染まっていた。
――父上……!
 そう叫んだ声が、さかまく風にのみこまれた。
――来るな、やめろ! 助けて、父上!
 救いを求めるように少年は叫んだが、慟哭は野獣の遠吠えに変わる。
 悲嘆にくれた叫び声が地鳴りのような笑い声に変わった。
――来た……!
『ヨウヤク手に入レタ、ワガ子孫が息ヅク美シイ揺リカゴ──』
 いくら握りしめても、十字架など恐れぬように、悪魔がやって来た。
 どくんと体に衝撃がきた。
 何かが入ってくるのがわかった。
──痛い……! 胸が、心臓が、体中が痛い。
『抗ウデナイ、スグニ慣レヨウ。──余ノ末裔ハオマエノ体内ニ宿ッタ。マモナク殻ヲ破リ、
オマエノ隣人ノ血ヲ吸イ、オマエノ慟哭ヲ子守歌ニ育ツノダ』
 悪魔がこの身のうちに巣くった?
 まだ目覚めぬ悪魔の子供がやがて産声を上げる?
 少年にはわかった。逃れられないのだと。
 父を殺し、自分を滅ぼそうとするものと、戦わなくてはならないのだと。
 青ざめた頬に涙が流れた。
 苦痛にうち震えながら、彼は必死に抵抗していた。
 テラスにつかまり、青い虹彩ではるか彼方を見やる。
 ヒースの林。
 錆色の荒野。
 たったひとりで対峙していくのだ。
 形よい唇を震わせ、呻くように少年は言った。

――ぼくは負けない! 悪魔なんかに! 

 *   *   *

「ん?」
 少女が振り返る。
「どうしたんだ、ジャンヌや?」と老婆が羊毛を撚る手を止めた。
 白漆喰の壁の見える庭に柔らかな陽射しが降り注ぐ。
 老婆と少女が切り株に座って糸を紡いでいた昼下がりのことだ。
「お婆、今何か言ったか?」と少女はぞんざいに言った。
「いいや、何も」
「そか。おかしいなあ……」
「空耳かい」
「父上──って……。助けてって、泣いてる声がした」
 再びかせ糸巻きに羊毛をくるくる巻きつける。
「よその子供だろうよ。──ジャンヌ、それじゃあ太すぎる。もっと丁寧にやりな」
「ああもう……! 私の手が言うことを聞いてくれないんだ」
「不器用じゃの」
「──あ」
 少女は息をのみ、羊毛を巻きつけた細い棒をぽとりと手から落とした。
「今度は何だい、落ち着きのない娘じゃ」
「──空だ! 空に何かいる……!」
 ジャンヌは立ち上がり、空に向けてゆびを指す。老婆がまぶしそうに見上げる。
「いるよ、あんな高いところに……!」
「何が見えるというんじゃ? わしには何も見えんわ」
「お婆は目が悪いからだろ? あんな高いところで男の子が泣いてるんだよ」
「バカを言うんじゃないよ、おまえの不細工な撚り糸まで見えるというに」
「だって──だって、あそこに、ほら」
 少女が必死に訴えるが、老婆の視線は宙をさまようばかり。
 泣いていると少女が言う声も聞こえない。
 風がさわさわと木の葉を揺らすさざめきだけが聞こえる。
 やがて老婆は見極めることを諦めた。

 こんな昼日中に現れる幻は悪魔か天使だよ、と老婆はつぶやいた。


 第一章 ドン・レミ急襲

 
 荒々しくドアを蹴破る音がした。
「開イタゾ!」
「金目ノモノハ残ラズヒッサラエロ」
「女子ドモハ犯ッテイイ。男ハ殺セ!」
 恐ろしい怒声、狂喜した男たち。
 数人の男たちの足音がこちらをめがけて近づいてくる。
 少女は息を殺して暖炉の中に身をひそめていた。
 編んだお下げ髪は赤茶けた猫っ毛だ。
 乳白色のなめらかな肌は煤で汚れ、今は少し青ざめている。
 大きな黒い瞳が上方の、暗い穴に鈍く光る金属片をちらりと見た。
 煤だらけの排煙抗には屋根に続く鉄の手すりが等間隔に埋めこまれている。
 ひき結んだ愛らしい唇が動いた。
――ちくしょう――。
 華奢な美貌とギャップのある言葉。
 男勝りの彼女が怯えることなどめったにない。
 自分が震えていることにすら屈辱を感じるが今はそんなこと言ってられない。
――父さんは無事かな? でも、こっちも危ない!
 逃げ遅れた、というよりは運悪く居残りさせられてた。
 親は隣村のヌーフシャトーへ寄り合いに出かけてる。兄妹もついて行った。
 ひとりで留守番をしている間に村に異変が起きた。
 始め、大きな空砲の音がした。
 それから、隣の教会の鐘がけたたましく鳴り始めた。
 祈祷の刻限でもないのに鳴るのは天災や戦を知らせる警鐘だ。
 戦争が始まったのか?
 そのうちに女の悲鳴や男の怒鳴る声が聞こえて、少女は用心して扉に閂をかけた。
 親たちが逃げ帰ってきたらすぐ入れるように、最初は扉にはりついて様子を見ていた。
木戸の小さな覗き窓から息を殺して見つめていたら、見知らぬ男たちが民家から銀器や
衣をかっさらい荷車に放り込んでいた。
 物だけでなく人もさらって、通りに放り出した。
 別の民家の軒下では女に男が群がって責め苦を与えている。
 荷車のわっかに踏みつぶされた人もいる。
 あっ、あの衣ははす向かいの爺さんだ!
 突き飛ばされて、倒れたところを荷車に轢かれて、ぴくんと体が跳ね上がってから、
その後動かなくなった。
──ひどい! ひどいことする!
 物を取り尽くすと、やつらはその藁屋根に松明を放り投げ、火を放った。
 襲っているのは誰だ?
 細かく縮れた髪、髭、熊みたいに大きな体、そんなのが何人も、うろうろしている。
――いったい村はどうなってしまったんだろ? 
 父さん、母さん、早く帰って来てよ! いや、今帰ったら危ないのか。
 どうすればいいんだろう。落ち着け、落ち着け、自分!
 少女は懸命に心を鎮めて情況を見極める。
 だが、襲撃はそこまでやってきた。
 怒号は家の真ん前まで近づいている。
「次ハコノ家ダ!」
 言葉がわからない。アングルかもしれない。
 その時、頭の奥で声がした。
『逃げろ……! 襲って来る』
 少女はぴくんと扉から離れ、土間から奥へと目を懲らす。
――あそこしかない……!
 夏の今は使わない暖炉を行李でふさぎ、どうにかその隙間に体をねじこんだ。
 汗がじっとりと背中を流れる。
――ちくしょう、見つかってたまるか!
 板床をどかどか踏みならす音。
壁の棚から皿やナイフが掴み出される。
「誰モイナイ」
「イルハズダ、探セ」
――ああ……、さすがに震えがくる!
 心臓の音までが聞こえてしまう!
 泣き叫んで走り出したいのをぐっとこらえる。
――来るな、早く行って、行ってしまえ! 
 目をぎゅっと閉じて祈るしかなかった。
 がたん、と行李が動いた。全身が針で突かれた気がした。
 見つかった!
 行李が転がされ、光が漏れ入る。
 少女は瞬時に排煙抗の鉄の取っ手を掴んでぶら下がった。
 暖炉の奥から上へ、四角い空の見える排煙抗を上れば屋根に出る。
 煤だらけの中、日光に鈍く光る鉄の手すりを必死に掴んで体を吊り上げる。
 意味のわからないだみ声が足の下から追ってくる。
 むず、と足首を掴まれた。一気に引き下ろされる。
 鉄の手すりから手が離れた。暖炉の底に叩きつけられる。
 足を捕まれたままずるずると暖炉から引きずり出された。
 何かにつかまろうとあがく手に鉄の棒が触れた。火掻き棒だ。
 とっさに握りしめる。床に全身を押さえつけられた。
「離せ、ちくしょう! あっちへ行けったら!」
 他の盗賊もやって来た。太い指が少女の衣の裾をまさぐる。
「やめろぉっっ!」
 火掻き棒を振り回して抵抗する。
 何度か固い物に当たって折れ曲がり、棒が跳ね飛んだ。呻き声が聞こえる。
 神さま! 神さま! 神さま!
 足首を掴んだその手を思い切り蹴飛ばした。
 鈍い音がして、手応えがあった。男の怒号と舌打ちする音。
「走れ」
 また声が聞こえた。凶暴な男たちとは違う異質な声だ。
 少女は一瞬緩んだ縛めから必死で抜けだし、大きく開け放たれた戸口へと転がるように走った。
 助けて! 助けて! 助けて!
 後ろから罵声が飛び、追いかけてくる足音。
 心臓が破れそうだ。
 襟首を掴まれた。扉にしがみついて引き戻されまいとする。
 足下に固い感触。転がっていた丸椅子を拾った。後方に投げつける。
 そしてひたすら走る。
「来い!」
 馬上から誰かが叫んだ。透き通った少年の声。
 ひらめく白い馬衣には金糸の刺繍。
――誰だ、こいつは? 敵か、味方か?
 絹地の直垂、ペガサスの翼、黒い盾。
迷っている暇はない。
 正体もわからないまま少女は運命を預けた。
 少女は懸命に手を伸ばした。
 白銀の甲冑の奥で青い目が輝いた。伸ばされた腕。
 しっかりと握りしめた。強い力で引き寄せられる。
 だがその視界の端に小さな人影が映った。
 民家の軒下にうずくまる老婆だ。
――あ。
 あのお婆は、ろくに走ることもできねぇのに。
 あばら屋に火をつけられあぶり出されたんだな。
 藁屋根から落ちる火の粉がお婆の白髪に降り注ぎ、衣を焦がした。
「待って! ……悪い」
 少女は手を離した。
 半ば宙に浮いた体がその刹那落下する。固い石畳に着地し、足を踏みしめた。
 裸足で路地を横切る。野盗が追って来た。
「お婆! こっち来い」
 少女は叫んで老婆の脇を抱えて立たせる。
「ひいぃ、お助けを、お助けを!」
「怖がるな、私だってば」
「ジャンヌかえ?」
「早く!」
 左手で老婆を抱え、右手であばら屋の窓の算木を引っこ抜いた。
 算木はたいまつのように燃えてくすぶっている。
 振り向くと、激高した盗賊たちが黒い固まりとなって取り囲んでいた。
 一人は額から血を流している。少女の反撃にやられたのだ。
「クズ野郎、年寄りいたぶってんじゃないよ!」
 挑発ともとれる少女の言葉。通じているのかいないのか、男たちの好奇と性欲に満ちたぎらついた目つき。
 木刀代わりのたいまつを構える。息を整える。
「とんだお姫さまだね。おもしろい」
 賊たちの背後から響くうら若い少年の声音があたりの空気をふるわせた。
 清澄なフランス語だ。
 皆が振り返る。
 白銀の甲冑に白い羽飾り、黄金の剣、輝石のベルト。
 青いマント、青い眼差し。
「出て行け、アングルども!」
 彼は叫びながら長剣を抜いて盗賊どもに叫んだ。
 はらりと肩先に金の髪がこぼれる。エンブレムの縫い取りの剣帯が揺れる。剣を構えた。
 幼さの残るような若い騎士が躍動する。
 いっせいに飛びかかる賊たち。
 閃光が走る。剣が激しく鳴った。
 異国の言葉が荒々しく飛び交い、呻き声に変わる。
 敵も味方も一瞬見惚れる。美しく冷酷な生き物を見た。
 
 少女もたいまつを振り回し、迫り来る男たちを追い散らした。
 不思議とお婆は足手まといにならなかった。
 背後でぶるぶる震えているだけだとは思うが、顧みる余裕はない。
 一度だけ、悪漢が振り下ろし、少女の避けたこん棒が背後の地面を直撃してヒヤッとしたが、
老婆は運良く難を逃れていた。
 少年は戦っている。金の髪を激しく揺らし、長剣を操っていた。
 村人と野盗が入り乱れて混乱した路地を少女は必死でかきわける。
 お婆を連れてあそこまで行かなきゃ。
 倒れた荷馬車から銀器や衣がなだれる。それにすがる村人を蹴散らす野盗。
 鶏が飛び出して羽毛が散る。煙が蔓延してきた。息が苦しい。
「逃げろ、焼け死ぬぞ!」
 野太い声が叫んだ。人々は我に返る。
 隣村の方角へと殺到した。
「お婆、お婆!」
 人の波にもまれながら必死で少女は進んだ。
「うりゃぁ!」
 ひときわ大きなだみ声が地鳴りのように聞こえた。
 ガラガラと鈍い金属音がけたたましく鳴る。
 あれは牛の首にぶら下げるカウベルの音だ。
 見れば赤い外套の男が暴れている。
 少女はだみ声の男に立ち向かう。力任せにたいまつで殴った。たいまつが折れた。
「いてて、いて、こら、俺は敵ではねぇって、この小娘が!」
 え、と我に返ると、その熊のような大男が他の男を片手で投げ飛ばしながら、
少女のたいまつを肘でへし折っていた。口汚いがフランス語だ。
「殿様のご命令で助っ人に来たぞ」
 煙の中で目を凝らすと赤い外套にカウベルがいくつも縫いつけられていた。ふざけた装束だ。
「殿様のご命令?」 
 殿様といえばこのあたりも管理しているヴォークルールの領主に違いない。
「軍隊が来たの?」
「いや、ひとまず偵察にちょいとのぞいただけだったんだ、俺らはな。兵隊はまだ寄越しとらん。
ここまでやられたとは聞いとらんかった。村の者はみな逃げたか、では逃げるぞ」
「逃げんの!」
 でかい図体に似合わぬ退却の声に、少女は唖然とした。
「兵隊もいねぇんだ、分が悪過ぎる。とっとと隣村へ行くんだな、娘っこ」
 大男は有無を言わさず少女と老婆を片手で抱え上げた。
「なっ、何すんだよ」
 体がふわりと舞い上がり、馬のいななきが甲高く響いた。
「おっと、ご老体、いい体してんな、今度抱かせろ」と大男がお婆に言った。
「百年早いわい」と老婆がしわがれた声で返した。
 金属の音が聞こえた。鉄甲と鎧がきしむ。
「さっきのにーちゃんは!」と少女が叫んだ。
「黙れ、舌を噛んでも知らんぞ。にーちゃんとは俺のことか。俺はラ・イールだ、覚えとけ!」
「私を助けようとしたど派手なにーちゃんだよ、馬止めろってば、おっさん」
「アホか! 自殺行為だぞ」
「バカ、バカ! あいつを見殺しにすんのか」
「うるさいガキんちょめ、何のことかわからんぞ」
「贅沢な衣着てた……もしかして、王子、かな……どこかの」
「おれは知らん! 煙に巻かれてなきゃ先に行ってるだろう」
「助けてくれたヤツを殺すくらいなら自分が死んだほうがいい」
「そんならひとりで死にやがれ!」
 怒声と同時に頭に衝撃が来た。
 おっと、やっちまった、と男が言うのが遠くに聞こえた。
 柔らかな腕が少女の体を支えるのを感じた。
 あとは真っ暗になった。

 *   *   *

 ヌーフシャトーの教会。鄙びた赤煉瓦の建物に住処を失った人々が押し掛けている。
 領主の施しや教会の蓄えが早速施されて人を集めている。
 老婆が人混みで突き飛ばされた。
「おっと、コケるなよ、婆」と声をかけたのは、先刻少女と老婆をかつぐようにして救い出した屈強な男ラ・イールだ。
「よけいなお世話だ、ジャンヌは気がついたかえ」と老婆が言い返す。
「どうだろなあ、そろそろかな。ああでもしねぇと暴れて邪魔だからな。ちとやりすぎたか」
「やりすぎだよ。アングルよりキツいわな」
「手加減はしたがな。それよか、本当に今度ヤらせろな、婆」
 どこまで本気でどこまで冗談か。下卑た笑いも人なつこい。
「失せな、罰当たりが」
 しわがれた声でののしり、老婆は教会の奥へと歩いた。

 *   *   *

 少女は馬の背の上。
 助かった。
 だが安堵感より恐怖感のほうが強くて、ガタガタ震えてしまう。
 熊みたいなおっさんに抱えられているのかな。
 カッコ悪い、震えるなんて。怯えてるのがバレるかな。
 景色がみるみる後方へ流れる。馬の背に乗せられ、共乗りで疾駆している。
 民家が藁屋根から煙を上げ、火を噴いている。
「誰がやったんだ、燃えてる、私の村が――!」
「アングルだよ」と言う少年の声が聞こえた。
 ラ・イールじゃない。驚いて顔を後ろに巡らせる。
 先刻アングルから救おうとしてくれた、自分とそう変わらない年頃の騎士だ。
「あれっ? あの熊男は? 私のこと思いっきり殴った……ような気がする」
「熊男? ……さあ、ぼくは知らない」
「殴り逃げか? あのおっさんめ〜」
 まだ頭がぼんやりしている。
「村の復興にはしばらく時間がかかりそうだね」と騎士が言った。
「アングルは、なぜあんなことするんだ、クソ野郎」
「なぜかな。多くは無意味な焼き討ち、無意味な死――きみ、その言葉使いどうにかならないの。女の子なんだろ?」
「んなこと言ったって、私は昔からこうだよ。――親父たち、大丈夫かな?」
「そこまではわからないよ。隣村へ送るから、そこで探してごらん」
「隣?」
「ヌーフシャトー」
「あんた、誰?」
「誰でもない」
「時々私に話しかけた?」
「さあ……どうかな。たとえば、『逃げろ』って?」
「やっぱり? だからさあんた、誰?」
「着いた。教会だよ。避難場所になってる」
景色がくるりと動いた。
 馬から抱き下ろされ、柔らかな地面に降り立つ。
 古びた教会の玄関前だ。
 着の身着のままの格好をした村人たちが列をなして入って行く。
 野盗の襲撃を逃れて来た者たちだろう。
 きな臭い臭いも立ちこめ、血を流して歩いている者もいる。
「では、僕はこれで」と騎士が言って手綱を掴み、鐙に足をかけた。
「待てったら!」
少女が改めて相手を見上げた。
 忘れまいと、見逃すまいとつま先から頭のてっぺんまで視線を何往復もさせる。
 甲冑は白銀。抱えた甲の先から白い羽根飾りが長くしだれている。
 肩には青地に白いペガサスの紋。
 マントは馬飾りと揃いで白地の絹に翼を象った金糸の刺繍。
輝石をあしらった豪奢なベルト。剣は黄金の鞘。
 目深に被った兜のために全ては見えないが、その落とす影から彫りの深い顔立ちだとわかる。
 肌はやや青ざめているが鼻梁から口元へのラインが端麗で美しい。
 その背には大きな翼があるのではないかとすら思える。
 大天使ミカエルの降臨とも思える神々しさだ。
――だが――
 まばゆい装束に影を落とす一点の赤に視線がふと止まる。
 甲冑の脇腹あたりに血糊がついていた。
 返り血じゃない。
 血は甲冑の下の鎖帷子を通過して胴着にもしみこみ、ズボンを伝って革のブーツにまで至っていた。
「けが、してんのか! さっきやられた?」と少女が叫んだ。
「ごめん、私のせいで!」
 少女は手が血に染まるのもかまわず傷口を探した。
 そして目を凝らしているうちに、少女はぎょっとする。
 裂けた胴着を開いた時、二つのほの暗い空洞が見えた。
 騎士の心臓の下のあたりだと思うが、それは人の眼孔のようだ。
赤く充血した白目に灰色の虹彩が収縮しているのが見える。
その下に鼻のような膨らみがあり、さらに視線を落とすとぱっくりと開いた口から血を流していた。
──これは、何?
 言葉もない。
 ただ呆然と見つめていた。
『爪ヲカケテヤロウカ、娘ノ血ト肉ハサゾウマカロウ』
「うわっ、喋った! 人の顔がこんな所に!」
「見えるの? 聞こえるの――きみには、これが……」と騎士が言った。
「見える……ってか、それ何!」
「悪魔とでも言うのかな? 僕が子供の時から僕に住み着いてる。狙ってるんだ、いつか僕を喰い殺そうとね」
「なっ、なんで放っておくんだよ、そんなもの!」
「どうにもならない。喰われなければいいだけのことだよ。僕はもう行くよ、こいつがきみを狙うといけない」
「狙うって?」
「僕のようになりたくはないだろう。このことは誰にも言うな」
 待てよ、と言う声ももう届かない。
 光の中に溶けいるように、彼は姿を消した。

                                         (本文より抜粋)