◎中村天風先生            多田 宏
中村天風先生
昭和三十四年八月
東京護国寺月光殿天風会夏期修練会にて
竹切り 多田宏
私が植芝道場に入門した当時、熱心に稽古をする先輩の中に横山啓三、有作の兄弟が居られた。兄弟は、海軍計理学校、兵学校在学中に終戦となり、共に一ツ橋大学に入られていた。私はこの兄弟の導きにより、二つの優れた会に入らせて頂く事が出来た。
 それは天風会(てんぷうかい)と一九会(いちくうかい)である。

オラピンダ・中村天風(なかむら てんぷう)先生
 天風会は、当時、東京の音羽護国寺にある国宝の月光殿で毎月講習会を行なっていた。合気会と同じで宣伝は全く行なわず、会員の紹介した人だけが集まる会であった。
 「皆さん、ようこそおいでになりました。私が中村天風であります。」
 不思議な程よく通る声で、腹の底の底まで響く話術、全て体験に基づく緩急自在の講演の迫力は、たぐい稀なものであった。
 先生は耳が大きい。福耳の理想のようなその顔は端正で、背筋をぴんと張られ、隅々にまで気のくばられた和服姿は、青年時代を、日露の役に軍事探偵として死生一如と過ごし、死の病を得て、かのインドの大哲学者との邂逅で、一命をとりとめ、ヨーガ哲学の目を開かれた大哲人の面目躍如、颯爽たる姿であった。
 講義は、一般では容易に得る事の出来ない、人生の急所急所の要点をおさえた、特色ある教えと実技であった。
 凛とした底知れぬ深みと、慈愛のある先生の声で始まる数々の講義は、心身の奥底までしみ渡り、日々年々生気を新たに、私の内に甦るのである。
 天風先生のお教えは、先生ご自身の著になる一連の書に、簡潔に表されている。だが一般に言われる先生から発せられる雰囲気がどういうものであったかと、問われても弟子でありながら、それを正確に答えられぬ不思議な種類のものであった。これは事実でどうにも致し方ない。
中村天風先生
 先生に最後にお目にかかったのは、私が外国に出るので、ご挨拶に伺った時(昭和39年10月23日)である。先生は唯、
 「お前なら何処でも立派にやれる。頑張ってこい」
と玄関までわざわざご自身で見送って下さった。先生は若輩三十六歳のこの私に、このように寛大なお言葉を言われたのである。当時の自分よりも、今の自分が考えても恐れ多いお言葉である。先生のお教えの、積極心−それを鼓舞する何にも勝る暗黙のお言葉と、今にして感じ入るのである。

オラピンダ中村天風先生略伝
○明治九年(1876)七月三十日、大蔵省紙幣寮初代抄紙部長王子工場長、中村祐興と母テウの三男として生まれ、本名を三郎という。父の祐興は旧柳川藩主の立花家に生まれ中村家に養子となったものである。
 三郎少年は性格が強烈で、小学校を卒業すると、父の郷里福岡県へ預けられ、修猷館中学(現修猷館高校)に入学する。
○明治二十五年(1892)修猷館中学を中退して、玄洋社に入り頭山満翁の薫陶を受ける。同年陸軍中佐で軍事探偵の河野金吉の鞄持ちとして、満州、遼東半島の偵察、調査に従い大陸を見聞する。
 六歳の時より家伝の抜刀術隋変流を修業し達人となる。隋変流は立花宗茂を流祖とし、戦国時代そのままの形を伝えるといわれ、先生の号である天風は最も得意な形、天風(あまつかぜ)からとられたものである。
○明治二十七年(1894)学習院に入学、直ぐに退学。
○明治三十五年(1902)大本営陸軍情報部員(軍事探偵)となり、特殊訓練を受けたのち満蒙の奥地に潜入する。
○明治三十七年(1904)日露戦争勃発。軍事探偵として目覚ましい活躍をする。この間コサック騎兵に捕えられ銃殺となる寸前、同僚の投じた手榴弾の爆発により吹き飛ばされ九死に一生を得る等、日夜死生一如の境地で過ごした。
○明治三十八年(1905)戦争が終わり本郷の自宅に帰宅する。選抜された軍事探偵百十三名のうち帰還した者は、僅か九名に過ぎなかった。
○明治三十九年(1906)或る日突然大喀血し軍医より奔馬性肺結核と宣告される。奔馬性肺結核とは、文字どうり駈ける馬のように早く、病状が進む肺結核で、当時としては、全く助かる見込みの無い病であった。この時、軍事探偵として数々の死戦を超えて、国家の為死ぬ事を誇りに思う程強いはずの自分の心が、突然死の恐怖に襲われる。
 当時結核に関する最高権威といわれた北里博士の治療を受ける。病は好転せず、死の恐怖がますま強くなり、先生は再び元の強い心を取り戻したい一心から、心の探求に没頭し、医学、宗教、哲学、心理学の書を読みあさる。
○明治四十二年(1909)スエッドマーデンの著書[如何にして希望を達すべきか(How to get what you want)]に惹かれて病をおし、身分を偽ってアメリカに渡り、同氏に会うが得るものがなかった。
 コロンビヤ大学で医学を修め、更に哲学者、有名識者を尋ねてヨーロッパへ渡り生きる道を探求する。
 ロンドンに渡り、H.アデントン・ブリュース博士の講座[精神活動と神経系統]に参加する。
 フランスに渡り、オペら女優のサラ・ベルナール女史の紹介で、リヨン大学のリンドラー博士に会う。
 再びサラ女史の紹介でドイツに行き、哲学者ハンス・ドリュース博士に会う。求める答えは得られず、死期の迫るを感じ死ぬならば故国でと思い、五月、マルセイユで乗船して帰国の途につく。
 スエズ運河が、イタリア砲艦座礁の為通行不能となり、一時上陸したエジプトのカイロで、インド・ヨーガ哲学の聖者カリアッパ師とめぐり合う。師に導かれてヒマラヤ第三の高峰カンチンジャンガの山麓ゴークの里に入り、ヨーガ哲学の行の指導を受ける。
 二年数ヵ月の修行で難病は治り、悟りを得て、カリアッパ師より帰国の許しを得る。
 オラピンダはこの時師より与えられたヨギ(ヨーガ行者)名である。
 帰国の途次、上海で竹馬の友で当時の支那公使であった山座円次郎氏と会い、旧友孫文の決起を知り辛亥革命に参加、中華民国最高政務顧問となり北京の紫禁城に入るも革命は挫折し帰国する。
 実業界に入り数年にして、東京実業貯蔵銀行頭取を始め、幾つかの会社の役員となる。
○大正八年(1919)六月八日、突如感じるところあって、その一切の社会的地位を放棄し、救世済民の悲願を立て、単身、統一協会(後に統一哲医学会)を創設し、毎日芝公園、上野公園の路傍に立ち、大衆に呼び掛けては、心身統一法の弘布を始める。
やがて先生の熱意と教義の真価は、広く各界に認められ、次第に門弟の数を増し、各地に支部もつくられる。
 会員の中には、東郷平八郎(海軍元帥)、杉浦重剛(教育家)、石川素童(鶴見総持寺禅師)、原敬(元首相)、尾崎行雄(政治家)、山本英輔(海軍大将)、山本五十六(海軍元帥)、三島徳七(文化勲章受賞、東大名誉教授)、 双葉山定次(横綱)等、有名な人も多く、皇族、芸術家、科学者、実業家から学生まで、あらゆる階層の人にわたっている。

○昭和四十三年(1968)十二月一日、天風先生は九十三歳の天寿を全うされた。天風先生のお墓は東京音羽護国寺にある。

心身統一法と天風会
 天風先生の稀有にして貴重な体験と該博な研究に基づく統一道は、インド・ヨーガの哲学を基礎として、それに科学的解明を加えて教義とし、合理的、組織的に体系化された訓練法(心身統一法)により、心身に系統的な訓練を施し、総合的に完全な生命を造り上げる事を教示し、人類社会の福祉向上に貢献する事を目的としている。

〇我らの誓い
 今日一日
 怒らず 怖れず 悲しまず
 正直 親切 愉快に
 力と勇気と信念とをもって
 自己の人生に対する責務を果たし
 恒に平和と愛とを失わざる
 立派な人間として活きることを
 厳かに誓います

○天風先生の著書(天風会出版)
 天風先生は人生探求の真意は、人格と人格の直接の触れあいによると考えられ、長い間著書は著されなかった。

 「真人生の探究」「研心抄」「錬身抄」が基本三部作であるが、「真人生の探究」が初めて出版されたのは、昭和二十三年である。

 「真人生の探究」心身統一法についての基本的解説書。
 「研心抄」精神面の哲学的、科学的解説をされた指導書。
 「錬身抄」肉体面についての指導書。

 「哲人哲語」1948年−1955の間の機関誌「志るべ」巻頭エッセイ二十九篇
 「安定打坐考抄」安定打坐、無我一念法について詳述された書。
 「天風瞑想録」夏の修練会における真理瞑想行の講義録。
 「叡智のひびき」天風箴言(先生のお教えの短い句)の注釈
 「真理のひびき」新箴言注釈

○安武定雄著「健康と幸福への道」。真人生の探究をやさしく解説された書。
〇宇野千代著「天風先生座談」天風先生のお姿と講演を活き活きと描写されている。
以上の著書は天風会に申し込めば購入することができます。

財団法人天風会
〒112−0012
  東京都文京区大塚5丁目40−8
 電話 03−3943−1601(代表)
 Fax  03−3943−1604

ヨーガ哲学の行法について
 私が天風会に入会した昭和二十五年頃には、日本でヨーガ哲学と行法について知る人は極めて希であった。今日ではどの書店にもヨーガに関する本が並べてあるが、本書に関係ある部分について、多少述べておきたいと思う。
 ヨーガ哲学及びその行法の起源は、遠く紀元前二・三千年にさかのぼるといわれる。ヨーガ(yoga)という言葉は、サンスクリット語の(yug)から派生した語で、結合する、馬を馬車につける、馬車に乗って旅行する等の意味を持ち、英語の(yoke)と語源的に関係がある。心の動きを抑え統制する訓練は、御者が馬を御するのに似ている事から、行法をヨーガと呼ぶようになったのであろうと言われている。(我が国の武道の書、天狗芸術論にも「人を導くは馬を御するが如し」とある)
 ヨーガは心の作用を統制し、肉体をも操練錬磨して、人間の真の姿を発展的に開花させる行法であるといえるが、現存するインドのあらゆる宗教の中にヨーガの思想と行法が見出だされると共に、ヨーガは世界の全ての宗教の源であるともいわれている。
 ヨーガは、道の進め方により異なる名称があるが、有名なのは次のとおりである。
 バクティヨーガ・人格神への献身的帰依と愛による道。
 カルマヨーガ・社会の中で奉仕による行為で解脱を得ようとする道。
 ジニャーナヨーガ・哲学的思索による道
 マントラヨーガ・マントラ(真言)の誦唱を中心とする道。
 ハタヨーガ・肉体的生理的操作より進む道。
 ラージャヨーガ・心理作用を中心とする道。

 天風先生の統一道は、主としてカルマヨーガとラージャヨーガである。
パタンジャリ(紀元前二世紀頃のインドの大哲学者)の編著といわれる、ヨーガスートラ(ヨーガ根本教典)には、ヨーガ行法を八部門からなる体系として解説している。
パタンジャリの八支則
 ヤマ(yama)五っの禁戒
   @非暴力 A正直 B不盗 C禁欲 D不貧
 ニヤマ(niyama)五っの勧戒
   @清浄 A知足 B苦行 C読誦 D自在神への祈念
 アサナ(asana)坐法、体の保ち方。
 プラナヤーマ(pranayama)呼吸法による調気。
 プラティヤーハラ(pratyahara)制感、感覚の統御。

 ダーラナ(dharana)凝念、執持、集中。
 ディヤーナ(dhyana)静慮、禅那(禅の語源)、統一。
 サマディ(samadhi)証、三昧。

 ニヤマからプラティヤーハラまでの部門は一括して外部部門と呼ばれる。先ず心を浄めて定め、坐法、調気で心身の生命力を練り上げ、更に外界に心が引かれるのを統制して、内向の道に乗せることにより、最後の三部門に進む準備が出来上がる。
 ダーラナからサマディを内的部門といい一括して綜制(サンヤマ)といわれる。合気道の稽古法とこれ等の部門の関連については、別に記述する。
 ヨーガ行法の特徴は、合理的に理性を活用し、科学的(法則性を重視する)、技術的に徹底している様に思える。ヨーガスートラも合理的に計算された技術の、教育的指導要項があるだけである。長い年月にわたる人間の観察と、徹底した修練の結果を克明に調べ、完全な教育の為の設計書にし上げたという感じである
。  人間の真の姿を最も厳しく見つめたこの教育体系は、禅宗、密教等により我が国に伝えられ、日本武道の発展に大きな影響を与えた。日本の武術が精緻巧妙な発達を遂げたのは、長い間武家政治が続き、武術が武士の表芸として重要視されたのに加え、神儒佛老荘の教えと行法がそれぞれの時代に応じて、武術と一体となり精神集中の法、ひいては技術を高くあらしめたからである。
 一見我が国独特のものとして、しばしば国粋主義的視野から論じられる武道も、実は朝鮮、中国を経て、遠くインドに迄及ぶ国々の文化の恩恵を深く受けているもなのである。
 今後、日本武道史の研究、又これからの武道の気心体のありかたの探求には、ヨーガ哲学と行法の研究、実践を欠かす事は出来ないと私は思う。
 国際的に見ても、この百五十年の間に多くの優れたインド人ヨギが欧米に渡り、ヨーガ哲学と行法を普及した事は、欧米の文化と科学の世界に大きな影響を与えた。特に知識階級では、世界第一の人生哲学と受け止められ、欧米でヨーガを行じる人口は千万人を超えるといわれる。
 またヨーガを取り入れた訓練法は、宇宙飛行士から芸術家、学生に迄及び、日本にもリラックス法、学習法、精神集中法として新しい名称を付けられ、再輸入されつつある。旧共産圏でも、インドの首相がネールの頃、モスクワの生理学研究所にヨーガ行者が招かれて、研究の結果、旧ソ連の体育、心理、生理学分野に大きな影響を与えたという。韓国のソウルで行なわれたオリンピックで多くの金メダルを取った旧東ドイツの選手の訓練法が、ヨガナスティクと呼ばれていた事は知られている。

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