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大理市は、雲南省の西部に位置する大理ペー族自治州の州都。大理古城と下関という二つの中心がある。 大理古城は昔の県城があったところである。 総面積は約1457平方キロメートルで、そのうち耳海の面積が17%を占める。一帯は山岳地帯で、平地は15% に過ぎず、市中心の標高も1976mに達する。人口は約42万人で、ペー族が65%。ほかには漢族、回族、イ族、 リス族、チベット族、ミャオ族などの民族が暮らしている。大理は年間平均気温が14℃、最も寒い1月の平 均気温が8℃、最も暑い7月と8月の平均気温でも20℃と穏やかな気候のため、年問を通して観光に訪れるこ とができる。 大理では4000年前にはすでに人間が暮らしていたが、戦国時代(紀元前5〜紀元前3世紀)に黄河流域の中原 から大量の移民が流入して人口は増大した。そして、前漢時代の紀元前109年には武帝がこの地に葉楡県を 設置した。 7世紀には蒙舎詔(詔は部落の酋長という意味)、蒙喬詔、施浪詔など6つの部族(六詔)が互いに勢力を競っ ていたが、その中で蒙舎詔の勢力が強まり、やがて六詔の中で南に位置した(現在の魏山周辺)ため南詔と称 するようになった。唐王朝に支持された南詔国は、残りの5つの詔と小さな部族を糾合し、738年に本拠地を 大理に移して太和城を築き、皮還閣王が唐の玄宗皇帝によって雲南王に封ぜられた。このときから大理が雲 南エリアの中心地となった。937年には段思平が東から大理に攻め込んで城を占拠し、南詔国を滅ぼし大理 国を建国した。 しかし、1253年にはフビライ率いる10万のモンゴル軍が雲南の地に入り、大理を攻め滅ぼした。ここに大 理国は23王318年で滅亡した。そして、元王朝は行政の中心地を大理から昆明に移したため、雲南の中心と しての大理の栄華は500年余りで終わることとなった。大理はぺ一族が多く住んでいるエリアで、彼らの伝 統文化が色濃く残っている。ペー族はシナ・チベット語系のぺ一語を話す民族で、白色を最も貴い色として いるため衣装も白色をベースにしている。大理ではぺ一族の祭りが多く、旧暦の1月から9月の間に30以上も の祭りがある。 また、大理は風光明媚な所としても有名で、4000m級の峰が連なる蒼山と澄んだ水をたたえる耳海を中心 とした風景は、山水如画と称される。 |