熊井太郎忠基

埼玉県伝説集成』(韮塚一三郎編著 北辰図書)の「中・歴史編」の268頁に「鎧塚(その二)」と題された比企郡鳩山村熊井に残る伝説が記載されており、附書には『武蔵国郡村誌』から引用とあります。ご参考までに、全文を書き写します。
「熊井に熊井太郎忠基の館跡がある。忠基は元暦文治の頃源義経に仕えて名を青史に残した。この館跡に鎧塚とよぶ名の塚がある。伝えるところによると、忠基は義経が吉野落ちの後一時この地に身を潜めていたが、義経が藤原秀衡のところに身を寄せたと聞き、彼の地に赴くにあたって塚を築き、冑鎧を埋めた。よって土人はこの塚を鎧塚とよぶようになった。
 その後、塚の上に愛宕社を祭るにいたったので、鎧塚の名が失われた。社の傍らに忠基手植松という周囲九尺の老松がある。忠基の子孫は建治のころまで修験になり心入坊と呼んで存在したが、故あって絶えた」。
編著者の解説もありますので書き加えておきます。
「鳩山村の鎧塚の説で忠基が主君義経が奥州の秀衡のところに身を寄せていると聞き、自分の冑鎧を埋めて、義経のもとへ赴いたというのも、わからぬ話である。主君の大事にはせつける身であってみれば甲冑はいよいよ必要な物の具である。やはりこれは伝説であろう。…中略…鎧はもともと霊魂を扱う呪具なので、災危をふせぎとりのぞくためのモノグサだった。したがって、冑鎧を埋めてこれを祭ったということは、神の庇護を願ったことになろう云々」。
『埼玉県伝説集成』の「上・自然編」の291頁から302頁にかけて、鎌倉街道沿いの町々に残る「巨人伝説」の記述があります。比企郡鳩山村今宿(熊井の近く)にも「ダイロボッチの足跡」と題されて「今宿の石橋供養塔の付近に清水がわき出している窪地がある。これは大昔ダイロボッチが岩殿山に向かったときの足跡だという」と書かれています。長野県塩尻市熊井高ボッチ高原の西側山麓を西流する小河川の扇状地の上にあります。高ボッチ高原のボッチの由来は「法師」。この法師は巨人で、高ボッチ山に法師が腰掛け、諏訪湖はその法師の足跡の名残だそうです。不思議な符合ですが、鳩山町の嵐山町を挟んで隣の比企郡小川町には、巨人の頭と手の跡が残る岩に、諏訪神社が祀られています。…『埼玉県伝説集成』の「下・信仰編」には、熊井太郎忠基とは関係がなさそうですが、比企郡鳩山村熊井に残る伝説が222頁に「小豆洗い」そして282頁に「尻焙り」が掲載されています。ご関心があればお知らせ下さい。複写を送ります。

本朝武功正傳
「鎌倉時代の武人、源家譜代の臣。志内六郎の甥。剛直にして勇力あり、源義経の家人となり、一ノ谷戦に武功を顕し、のち義経に従って奥羽に至るという」。……当熊井家大岡村川口総本家に残る家系図によると、初代はやはり熊井太郎源忠基となっていて、「仁平二年生 此の忠基、義経公の十九臣の一人にて元暦文治軍功多し」との添え書きが残っています。没年は書かれていません。「後に文治五年義経公とともに蝦夷へ渡るというも判然せず」との付記は、『御伽草子』のなかの物語「御曹司島渡」の内容と酷似していますから、明らかに後世になって書き加えられたものと思われます。
 義経とともに奥州に行った忠基の没年については、『清悦物語』http://www.st.rim.or.jp/~success/seietsu.html (宮城県栗原郡栗駒町「栗駒史談会)に文治五年との記載があります。
 さいたま市南区にお住まいの熊井さんから、「私は宮城県石巻市の出身で熊井姓は全部一族です。古い家系のようですが、特別な来歴は伝わっておちません」とのお便りを頂ました。この方の家系を解きほぐすための補助線として『清悦物語』があるいは使えるかもしれませんね。

熊井忠基は、人形芝居(でくまわし)の演題にもなっていますよ。
「熊井太郎孝行の巻」 http://www2.nsknet.or.jp/~kita-y/
石川県石川郡鶴来町深瀬新町のでくまわしは、石川県無形文化財・国指定重要無形民族文化財にも指定されています。
私の妻の実家も鶴来ですので、機会があったら見てこようと思っています。しかし、公演がある北陸の二月は異常に厳しい寒さなものですから、ちょっと億劫な気がしないでもありません。

「熊井太郎」・「熊井太郎孝行の巻」の二つを、東京大学図書館電子版貴重書 電子版霞亭文庫(明治・大正期の小説家、渡辺霞亭が収集した江戸期の小説類、演劇書のコレクション)の中で見つけました。「熊井太郎」には数葉の挿絵もあります。  http://kateibunko.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/katei/katei5/syomei/ku_0.html

(参考資料)

源忠基

『尊卑分脈』に源忠基が一人だけ載っていました。
従五位下武蔵権守に任じられ、
頼朝とは、その父義朝と同時代の人でした。
号は善積又次郎いいます。
正五位下駿河守忠隆が
近江国善積郷に住んでいました。
善積はそこからきています。
熊井とは関係がないと思いますが、
参考までに、載せておきます。

経基王
満仲 満政
頼信 忠隆
頼義 斎頼
義家 惟家
為義 基斎
義朝 忠基
頼朝

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