高知県幡多郡佐賀町熊井(平凡社日本歴史地名大系『高知県の地名』562頁)

伊与喜村の東に伊与喜川を隔てて位置する。伊与木郷の一村。伝えによれば、紀州熊野の別当旦増が神霊を奉じて熊浦にたどりついたのち、その鎮座の場所をここに移したところから熊居(熊井)とよぶようになったという。
慶長2年(1597)の伊与木村地検帳に、伊与木村を構成する一村として名が見える。
地検面積は7町6反余、屋敷数16.元禄郷帳によると本田高76石余。
寛保郷帳では家数16,人数67、馬22,猟銃1。
西郡廻見日記によれば伊与木郷大庄屋のもとにあり、当村には老がいた。新田高12石余、家数13,人数63,馬12。
社寺は熊野権現・明神社・勝軍地蔵・若宮八幡・法泉寺(退転、本尊のみ残る)。

伊与木城址(佐賀町伊与喜)
小高い山丘にあり、現在は畑。城跡には三つの段を残すが、遺構らしきものはいまみることはできない。
一条氏入国後の文明11年(1479)に築城され、堀川大炊助藤原信隆が京都から招かれて初代城主となり、1200石を給されて以来伊与木氏を名のって七代122年間続いたと伝え、熊井の熊野神社の天文5年(1536)の棟札銘に伊与木対馬守宗実の名が見える。
元亀2年長宗我部元親が高岡郡仁井田・窪川に進出したさい、三代隆祐・四代隆康は一条氏の命をうけて出陣し、奮戦した。天正3年(1575)一条氏没落の折、幡多郡の諸将の多くは元親の配下に入り、隆康も旧領を安堵された。
天正5年元親の四国平定の軍に加わった隆康は、阿波三好合戦・伊予三滝城攻めに大功をたて、仁井田・有井川両村を加封され、その所領は1800石となった。五代弥平次忠実は強弓をもって鳴り、同14年豊後の戸次川合戦に初陣、文禄元年(1592)朝鮮役に出陣したが、痘瘡にかかり病死した。
伊予木氏断絶後は旧家臣熊井勘解由がその後を継いだとみられ、慶長2年(1597)伊予木村地検帳によれば、当地土居に勘解由が居住している。

http://www.saga-c.jp/archives/original/saga_map/mini.html

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