熊井城

熊井城は、東西に舌状に長く延びた台地上にあり、深い堀が台地を横断、六つの郭を擁する大規模で典型的な平山城。
本城といわれる主郭は東側と南側が土塁で囲まれている。城の西側に館・侍屋敷を配したと思われる町割りがある。約二キ
ロ西方に出城と思われる南熊井城があり、約四キロ離れた東北にも後詰めの城と思われる山城がある」           
『長野県地名大辞典』(角川書店)『日本歴史地名大系』(平凡社)他参照。

熊井城址(右手の森:塩尻市片丘北熊井)
熊井城址内(1)
熊井城址内(2)

「熊井の歴史を語る会」会長赤羽夏樹氏をはじめとする皆さんが
「大勢の人に北熊井城を知ってほしい」と案内標識を立てられました。
字は小野宗昭氏の手によるものです。








「熊井氏の多くに中世からの伝承、口碑伝わり、中世の古城址、館跡あるいはその近傍に住しているのは不思議である」

と長野市にお住まいの郷土史家熊井恒次氏が『熊井城と熊井姓』(長野郷土史研究会機関誌長野)に書いておられます。

その疑問を解くカギが、たまたま目を通していた「中世の城郭」: 『川越の城下町』(川越歴史新書1 岡村一郎著)
「上杉氏時代の城下町2〜3頁」にありました。

曰く、「鎌倉中期以降土豪たちのあいだに土地拡張のための争いがおこり、(中略)これらの土豪たちは付近の山稜に城郭を構えるようになった。
城郭はおおむね山腹に築かれ、空壕を堀り、中略、建武の動乱以降これらの城郭はますます堅固なものとなり、
応仁、文明以来戦国の色彩はとみに増加し、この種の城郭建設の最盛期を現出するにいたる。


これはひとつにはこの頃諸大名の勢力が急激に増大し、群小の地頭は次第にその家臣団に編入されてきたからである。

一国の領主の居城を本城と称し、本城の補助線的城郭が出城、枝城、外城、取手(管理者注 砦?)などと呼ばれるもので、
それぞれに主要な家臣が配置された。
(中略)

(管理者附書き 例えば)上杉謙信の本城春日山城下に属するものは百二十城といわれる……」

つまり、熊井家一族も、長野県下に勢力を増大しはじめた諸大名の家臣団に編入されていき、
それぞれが、諸大名の支城・出城の城代となって配置されていった。


塩尻市熊井城址近い南内田の熊井氏
豊科吉野館跡に住まわれる熊井氏、  
長野市浅川押田城址の熊井氏
、     
大岡村北小松尾城址直下の川口熊井家


等々、熊井恒次氏が語るところの
「熊井氏の多くに中世からの伝承、口碑伝わり、中世の古城址、館跡あるいはその近傍に住している」というのは
そのあたりの時代・歴史背景から説明することができるのではないでしょうか。

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