埼玉県内各地にお住まいの熊井様方からいただいた情報

○荒川区にお住まいの熊井様
 お返事大変遅れまして失礼致しました。
 同姓の由、親しく楽しく拝見致しました。
 私どもの祖父次郎右衛門が当地に居を構えましたのは大正五年と聞いておりますが、
 昭和九年生の私にも遠い昔のこととなり
 お尋ねの事につきましては、確かなお応えができませんのが残念です。
 私が知る限りの事のみ、お応え申し上げます。
(1)神田の古書店にて熊井姓を立ち読み致しました処に依りますと、
 源八幡太郎義家の裔となっておりました。
(2)私どもの祖父次郎右衛門は桂蔵の長男として明治六年十一月二十三日生、昭和二十四年二月三日没。
(3)祖父の出身地埼玉県鳩ヶ谷市三ツ和の熊井家は、祖父の次弟常吉が後継者となり現在に至っております。
(4)鳩ヶ谷在の熊井家の菩提寺源永寺の墓碑銘を見ますと、初代が寛文年間に没し、次郎右衛門となっていたと思います。
(5)常吉の長男伝三氏が在世中過去帳を拝見したことがありますが、(次郎)(治郎)(治良)の違いはありますが、ジローウエモンの名は六名おりました。
 更に遡りますと二十名と聞いております。
(6)伝三氏より聞き及びし事に依りますと、代々名主であったとの事です。
(7)私ども熊井家更なる本家は北区王子(注を参照)の地に在住と聞いております。
(8)家紋は違い鷹の羽です。
 以上お応え申し上げます。

(注…HP管理者による)
「王子権現・稲荷の両社は、すべて紀州熊野山の地勢を写し、前に音無川の流れをうけて風色真妙なり……」。王子権現1322(元享2)年、紀伊国の熊野権現をこの地に勧請したもので、王子の名(熊野古道九十九王子社:主神天照大神 配神は諏訪社と同じ事代主命・建御名方命)はここから出ている。
深川熊井町の開拓者熊井理左衛門も紀州の出身、この王子の地も紀州との関係が深い。偶然でしょうか、何やら因縁を感じてまいります。


○鳩ヶ谷市にお住いの熊井様
 この度我が家からは本家筋の又本家筋から、(管理者注:鳩ヶ谷市の熊井家の歴史に関する、)貴重な資料を編集したものを頂戴いたしました。
 建久三年(1192)のとき熊井太郎忠元は後鳥羽天皇の御代源九郎判官義経の家臣十勇士の一人とあり、(中略)このとき十八歳(中略)と想像され、誕生は平安時代の承安年間(1171〜1174)。
 当家の歴史もその頃からと思われます。
 貴兄の研究の少しでも参考になればとお送りしました。

熊井太郎忠元
 義経奥州落の時お供致し来ども武蔵国に上がりて此所にに居住す。此我熊井家初代なり。
(以下不明)
第二七代  熊井平左衛門
 百拾参代東山天皇御代元禄年間(1688〜1703)此所に熊井家中興の祖弐拾七代平左衛門現る。此の時我が熊井家全盛の時代なり。地面五拾余町を有し実に立派な家屋敷をかまえ祝儀不祝儀の折りには行先まで琉球の畳を敷き通したと言えるなり。
第三十代〜第三二代 全財産消費
第三九代  熊井源右衛門
第四十代  熊井四郎右衛門
第四一代  熊井大助
 陸軍。昭和十九年六月戦死。享年二十九歳。

熊井九左衛門(『鳩ヶ谷現代史』(平野清著)近代鳩ヶ谷人名録の一部転記)
 鳩ヶ谷市史によると、安政六年(1859)生まれ、小渕村の出身、大正四年〜八年(1915〜1919)にかけて北足立郡議員。大正十四年(1925)に申請した武州鉄道鳩ヶ谷から赤羽まで延伸許可陳情者一覧および鳩ヶ谷町報第一号による町議名(昭和四年四月一日現在)にもその名あり。
 熊井九左衛門は、当家の人物でしたのでしょうか、定かではありません。

(注…HP管理者による)
(1)
 塩尻熊井の地を嚆矢とする熊井一族が、頼朝の目代として信濃守護をかねる比企能員の指揮下に入り、鎌倉街道上道に沿う比企郡熊井村と都筑郡川和村に所領を与えられ、河越氏をはじめとする比企郡の豪族たちと関わりができた。…… 埼玉県比企郡鳩山町熊井の「真言宗智山派熊井山妙光寺」には、熊井忠基は「河越重頼の配下の武将」との伝説が残り、檀家には「熊井忠基」に従った郎党の家系が今日もいて、また「熊井忠基」縁の「地蔵菩薩」が現存しています。
 弘安8年(1285)に豊後国香々地荘の地頭となって河越経重(重頼曾孫)が赴任しています。
熊井忠基の裔も新天地を求めて河越経重(重頼曾孫)とともに移住したものと思われますが、そのまま武蔵の地に土着した裔もいたことでしょう。従って、鳩ヶ谷の熊井氏もやはり熊井忠基の血を引く一族のひとつと考えてもおかしくはありません。
 鳩ヶ谷市熊井家では、建久三年(1192)に義経の家臣だったことから当時の年齢を18歳と考え、承安元年(1171)の生まれではなかったか、と逆算されています。長野市の熊井貞勇家に伝わる家系図では仁平二年(1152)となっています。ただし全国各地の熊井家に残る熊井太郎忠基に関しては、「義経奥州落の時お供致し来ども武蔵国に上がりて此所にに居住す」といった情報のように、後世に書かれた説話物の記述をそのまま拠り所としておられることが多いようです。
 江戸時代の初期に浅野幸長の娘高原院(春姫)が十三歳で尾張初代藩主義直正室に輿入れしたとき、熊井重次は高原院付きとして尾張藩士になったように、熊井忠基も頼朝の斡旋で河越重頼の娘郷姫が義経に輿入れしたときに武官として付き添い、そのまま義経軍に組み入れられたといったところが本当のところではないでしょうか。そして河越氏と同じように熊井忠基もまた、義経の縁に繋がるものとして頼朝の手で誅されてしまった。河越重頼は領地を没収されています。鳩山町熊井妙光寺の伝えでは、、「熊井氏一族も修験者となって建治の頃(1275-1278年)まで存在」したとありますので、熊井一族もそのときに領地を失ったのでしょう。後に河越領は比企尼の娘:河越重頼の妻に返され、河越氏が再興されますが、豊後国香々地に移住した熊井氏は河越氏再興の折りに再び仕官したものと思われます。
(2)
 長野市熊井貞勇氏は31代ですから、1代を平均すると28年。鳩ヶ谷市熊井家は大助氏が41代ですから平均19年。ちなみに、後鳥羽天皇(82代)から昭和天皇(124代)まで43代で、その期間は809年ですから、奇しくも同じ19年。(以下不明)の間を、どうも激動の天皇家の代に合わせて計算しておられるようです。普通1代は25〜30年ですから、1代19年は少々短すぎるように思います。


○東松山市の熊井様
 
この度は「熊井の苗字のこと」をお送り頂き有り難うございました。
 所沢市の熊井○○は私の兄ですが、兄も資料を送っていただき興味を持ったようで、私のところに問い合わせがありました。
 私も熊井の先祖に関してはとても興味がありまして、父の出身地を尋ね関係者にあって、熊井の系図を聞き取りしております。私の父は福岡県大川市の出身で、職業軍人として、所沢航空学校の教官をしており、昭和17年飛行機を台湾に移送中戦死しました。そのため親戚は福岡県と佐賀県におりまして、ルーツをたどることが難しい状態でした。
 しかしながら、何とか調査した結果4代前までたどることができました。父「辰雄」、祖父「辰造」、曾祖父「辰蔵」、高祖父「辰左衛門」は明治11年に亡くなっています。多分福岡県か佐賀県に住んでいたと思われますが、「辰」の字の付く遠い先祖をお持ちの方をぜひとも知りたく、又、何かお解りになりましたなら連絡頂けると幸いです。
 私の家の家紋は「丸に三つ松」です。
 ホームページの中に「全国の熊井姓の方々」というタイトルがあり、名前が記入されておりますが、この中の2人が私の兄(熊井 久雄)と、その久雄兄の子供(熊井 玲児)でした。
 これからも我が家のルーツについて調査していこうと思いますので、ご協力のほどお願いします。

(注)川越街道上道が通る埼玉県東松山市はかって大岡村でした。熊井姓が集中する長野市大岡も合併前は更級郡大岡村なんと不思議な縁でしょう。


南埼玉郡菖蒲町の熊井様
 お手紙及び「熊井の苗字のこと」有り難く拝受しました。
 熊井姓は、長野県に多いような気がしたのは、映画監督の熊井啓という有名な監督の出身県であることと、私どもの家紋が「丸に沢潟」で松本城の門に掲げてあったので、もしかして何かのつながりがあるのかな、と勝手に思い込んでいたものです。
 今後も熊井姓に関わりのあるものについては、資料の写真などの場所を、訪ねてみたいという思いが増してまいりまして、いろいろな感慨がふくらんでまいりました。
 今回、貴重な資料をお送り頂きまして誠に有り難うございました。
 まずは取りあえず書面をもってお礼申し上げます。



さいたま市南区の熊井様
前略
「熊井の苗字のこと」、興味深く拝読させて頂きました。
 私は宮城県石巻市の出身で熊井姓は全部一族です。古い家系のようですが、特別な来歴は伝わってはおらず、又調査したようなことも聞いておりません。(調べても、分からなかったのかもしれません)
 従ってお問い合わせにありました、由来、伝承等についてはお答えするものがありませんので、悪しからず。                            敬具



さいたま市中央区の熊井様
前略
 貴重な奥深い資料を沢山いただきありがとうございました。
 主人は平成三年六十六歳で亡くなりました。学校の歴史の教科書に熊井太郎……のかいてあるところは名指しでよく先生から読まされたと聞いておりました。
 与野市役所に長く勤めておりました。最後は収入役として六年間勤めましたが体調が悪くなりまして早めに六十四歳で退職いたしました。
 熊井のルーツをたどることが出来、主人が生きていれば感動したことでしょう。
 本家は桶川の上日出谷にあります。先祖は桶川で幼稚園を経営しております。
 家紋は「むかい雀」です。
 同封「埼玉風景」に片岡源五右衛門なる方は熊井家出身とあります。お受け取りくださいませ。
 まずは取り急ぎ乱文にて                         かしこ



所沢市の熊井様 
 先日は大変貴重な資料有り難うございました。熊井姓については子供の頃から気になっていましたが、深く考えることもなく過ごしてきました。映画監督の熊井さんが長野出身とのことで長野に多いことは大分前から知っていましたが、この度の資料によりすっきりした晴れやかな気分になりました。改めてお礼申し上げます。
 私の実家は静岡県袋井市村松です。有名な遠州三山(可睡山・法多山・油山)油山寺近くの農家の生まれです。兄(82歳)が家を継ぎ健在です。熊井姓については兄とも時々話し合いますがよく分かりません。袋井市には一軒も有りませんし、隣の掛川市に熊井薬局(掛川中学の2年先輩)があるだけで、このほかは承知していません。また、所沢市には、10軒ほど熊井姓が有りますが私とは関係がありません。
 私は所沢に昭和39年から住んで40年(75歳)になります。52歳で運転免許を取りドライブを楽しみに出歩いていたときに、鳩山町に熊井という地名を見つけ早速出かけ、妙光寺にも立ち寄りました。その後も翌出かけ「ここが熊井の先祖の地か」と勝手に決め、穏やかな農村風景を楽しんでいました。このことと、子供の頃に見た源義経の武者絵(何の本か記憶にありません)に義経の馬の轡をとっている武士に熊井太郎とありました。熊井太郎は武蔵の武士だ、この人が俺の先祖だと勝手に決め一人で喜んでいた思い出と重なって、源氏と武蔵の豪族との関係から見ても信用できる話だと納得していました。
 比企・日高地方は高麗(高句麗)渡来人を無視するわけにはいきません。高麗神社に初詣をするようになってますますその思いは強くなってきました。1977年にNHK取材団の技術責任者として北朝鮮に2週間ほど滞在し、金日成主席のインタビューを行い、開城・板門店・金剛山・元山など各地を取材しました。このときみた北朝鮮の農村は、なだらかな丘を背にして前に小川が流れほどほどに農地が広がる穏やかな風景でした。鳩山町の熊井地区の風景を最初に見たときに、真っ先に北朝鮮の風景がよみがえりました。高句麗渡来人が都を追われ関東に移住したとき、この地を選んで定着したことに納得しました。秩父の和銅の採掘・精錬など農工全般にわたって渡来人の影響は大きく群馬県(多胡碑)にまで及んでいると勝手に想像しています。
 このようなことから、熊井は駒井(高麗)かなと想像をふくらませて楽しんでいます。 早速兄に連絡し、お寺の過去帳をたどってみたいと思います。何か分かりましたらご連絡します。
 今後もよろしくお願いします。

再伸
 昨春、小川村・美麻の桜見物と大岡村をたずねて来ました。その前には塩尻の城跡などなど、資料を見ながら楽しんできました。



羽生市の熊井様
「熊井の苗字のこと」の資料を見ました。しかし、私にはあまり関心がありません。でもわかる範囲で答えます。
 由来・伝承は分かりません。父母も亡くなって、又生前も聞いていません。
 家紋は「丸に梅鉢」です。家系については、町屋地区に本家はありますが、昔のことはわかりません。
 前から熊井という苗字はかわっているなあと思っていましたが、全国には、けっこうあるんだなあ、と資料を見て思いました。
 あまり参考になるとは思いませんが、私の分かることを書きました。



所沢市の熊井
 先日は貴重な資料を頂きまして有り難うございました。生来の筆無精でついついご返事が遅れまして失礼致しました。
 熊井姓を探求する詳細な資料と労作にはただただ敬服あるのみです。お陰様で熊井の先祖を数百年さかのぼることができまして、全国で約1500家と少ない名族の誇りを確認することが出来ました。
 私ども熊井家は祖父以前は埼玉県羽生市の近辺に住み、菩提寺は同市西福寺です。残念ながら古い過去帳は処分されておりましたが、墓地には熊井姓の墓石が10基ほどあります。北埼玉周辺には熊井姓の人々が多く住んでいると思われます。板東武者「熊井太郎」はこの辺の人ではないかと思っておりました。
 当家の家紋は「丸に梅鉢」です。
 子供の頃父親から熊井の先祖は「熊井大和守」という武士であったと再三聞かされたことがあります。
 頂いた資料の中にある各地の「熊井城」跡等には直ぐにでも行ってみたいと思いますが、何分にも84歳の独居老人では思うにまかせません。
 遠地に居る長男に引き継ぐこととします。
 折角のお申し越しですが、何もお役に立てないことと思います。ご寛容ください。
 今後ともよろしくお付き合いのほどお願いします。
 先ずはお礼かたがたご返事まで。



埼玉県比企郡川島町の熊井様
 拝啓お手紙拝見しました。私こと無学の者なので何も存じませんが、若い頃元禄太平記なる小説を読んだとき、尾張藩から紀州藩へ輿入れがあった時に、お付きの者として熊井(名を忘れた)がいました。今になって思えば残念です。
 私の家は寛文年間から続いていまして、代々名主をしていたとの言い伝えがありましたが、その後落ちぶれて現在に至っています。
 家紋は「横もっこ」です。



北本市の熊井様
 ご丁重なお便りと興味深い資料を頂戴し、誠に有り難うございます。
我が家の家系は、記録に残しておくほどの価値のあるものではないらしく、系図その他の文書も全く存在しません。
 少なくとも信州の熊井家とは関係は全くなく、先祖もようやく四代前まで遡れる程度です。祖父の代までは福井県大野郡富田村上野(現在大野市)に住んでいて、明治の末年に祖父母が北海道に移住し、亀田郡亀田村本町(現在函館市亀田本町)で瓦作りを始めたようです。祖父の代以前に何の仕事をしていたかは、全く不明です。瓦職人ではなかったかとも考えられますが、「大野郡史(明治45年)、大野郡教育会編集」によれば、富田村近辺で瓦を生産していたという記述はありません。それならば、祖父がかなりな熟練を有する瓦を作っていたという技術を、どこで習得したかも不明です。
 こんなことから、私の家は武家ではなく、農民か職人だったのではないかと想像されます。また、名字が地名に由来するようにも思われません。
 従って、私の家が熊井姓を名乗るようになったのは、明治維新以降のことかもしれません。そうであれば、私の家と他の熊井家の関係はほとんどないに等しいと考えられます。事実、現在大野市には少なくとも熊井姓が二戸ありますが、それらと私の家との関係は不明です。
 北海道は、積雪のためか瓦葺きの家はほとんどなく、瓦の需要も少ないので、祖父は瓦から煉瓦、土管製造に転換し、一応は成功を収めて村の名士といわれるようになったようです。しかし、祖父は私が小学校に上がる前に五十二歳で亡くなり、工場は祖母と祖母の弟が経営するようになり、なんとか生産を続けていましたが、第二次大戦で零細企業は立ちゆかなくなり、経営を他人に譲渡することになりました。
 私の父は祖父母の養子で、小学校の教師をしていて、三十八歳で函館市の大きな小学校の校長になるという、かなりな切れ者のようでした。
 私は、米沢高等工業、東北帝大理学部、同大学院と進学し、その後山形大学文理学部講師、同助教授、東北大教養部助教授を経て、山形大学工学部教授となり、昭和58年に退官しました。
 その後、仙台市で暮らしていましたが、年を取るとともに私も愚息もいずれは親子近いところに住まなければ困ったことになると考えていました。たまたま今のマンションの手頃な部屋が二戸同時に空いたために、生活環境など考えることなく、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、思い切って転居したという次第で、埼玉県に住むようになったのは、深い理由があるわけではありません。
 埼玉県に熊井という地名があることは前から承知していましたが、引っ越してきて近くに熊井姓が多いことに驚きました。もちろん、私の家とはなんお繋がりもありません。先刻ご承知のことと存じますが、当県以外に大字クラスの熊井という地名は、和歌山県、高知県にそれぞれ1カ所ずつあります。それらも、私の家とは何の関係もありません。元北大の熊井基氏は、学会の名簿でお名前は存じ上げていましたが、お会いしたことはありません。
 以上のようにして、ご期待に反しますが、私の家系は「どこの馬の骨か分からない」ような存在なのが実情のようで、伝来の家系図のようなものもありません。大野市の郷土史研究家にお願いしてしらべてもいただきましたが、新事実は出てきませんでした。なお、家紋は「」です。
 前記のように、私が早い時期から家を離れてしまいましたので、祖母から詳しい事情を聞く機会がなかったのが、いまになって惜しまれます。家系は異なっても、同じ姓を名乗る間柄ゆえ、今後ともよろしくおつきあいのほどをお願い申し上げます。

管理者(注) 「やまさんのきまぐれ議員日記 2002年7月23日」(福井県あわら市熊坂にお住まいの前市会議員山下忠孝氏)…「熊の郷には、古墳時代から人が住みついていたという。平安時代の頃には、 この熊坂盆地の各所、別所・熊井等の七つの村が散在していた。」



さいたま市北区の熊井様
 拝復、早速に変じをと思いましたが、遅れましたことをお許しください。
 大変貴重な熊井の苗字の経歴をお送りくだされ有り難うございます。
 私の本家住所は長野市浅川押田にあり、亡父は三人兄弟の三男です。その伝承によると押田の熊井一族は川中島の合戦のときに武田に加勢し戦功あり、家紋は「武田菱」で現在に至る。本家の屋敷内には粗霊を祀る熊井一族の小さな寺があります。宗教は京都西本願寺です。
「熊井の苗字のこと」の8頁に押田の熊井氏は武田に仕えて戦功有りと、まったく同感です。
 先ずは失礼ながらお返事まで。



三芳町の熊井様
 初めまして、私は熊井○○の長男◎◎です。熊井家の資料はとても興味深く拝見させて頂きました。私も、叔父と共に熊井家のルーツについて話していた矢先にお便りをいただきました。
 自分は家紋にとても興味があります。私たちの熊井家の家紋は『丸に梅鉢』です。
 熊井本家、また禎臣さんの家紋など教えて頂ければ幸いです。
 うちの熊井はおそらく熊井太郎の子孫ではないかもしれませんが、いろいろと知りたいです。
 うちの叔父には資料を送って頂いてるかはわかりませんがきっと喜ぶと思います。叔父の名前は『□□』といいます(送って頂いてるかもしれませんが)。
 これからもちょくちょくHPに遊びにいきます!!!!それでは頑張ってください。



熊井恒次様
 県内の約230世帯の熊井姓の方々に、恒次さまからいただいた資料「熊井の苗字のこと」お送りしたところ、以上の方々からお返事をいただきました。受け取り拒否が二通を含めて12通、メール一通。わずか5%の成果で、少しばかり残念でなりません。特に鳩ヶ谷市には熊井家が40軒ほどあり、私としては一番楽しみにしていたのですが、返信は一通もありませんでした。
 都内へ出かけた折り、鳩ヶ谷市内を通ったさい、真言宗智山派源永寺というお寺を見かけたものですから、墓地に立ち寄って見ました。入ってすぐ熊井家の墓が見つかりました。「丸に違い鷹の羽」紋の立派な墓石が10基ほど並んだ向かい側に、石畳の小道を挟んで、「丸に木瓜」紋がやはり10基ほど立ち並んでいました。さらに奥に行くと、同じようにして「丸に桔梗」紋と「丸に剣酢漿草」紋が向かい合って並んでいました。単独の墓地としては「三蔦柏」紋がありました。
墓石で読み取れる年号でもっとも古いのが、見落としがなければ、「享保」でした。
 源永寺から五百メートルほど離れた東京よりの真言宗智山派実正寺には、熊井家の墓地は一つだけで「丸に違い鷹の羽」紋。興味深いことに、この寺には小笠原家の墓があって「武田菱」紋、そしてそのまたすぐ近くに「」紋の塩入家の墓がありました。
 鳩ヶ谷市には、市内で不動産業を営む熊井姓の市議会議員がおられます。ロータリークラブでの氏の先祖に関わりのある講演( http://www11.ocn.ne.jp/~k-e.rc/kakotakuwa/kumai/kumai.htm )をホームページで発見しました。同封します。
 氏とは二度ばかり手紙で連絡を試みたのですが、ご多忙のようで、これまで返事をいただいておりません。
(管理者注:平成19年2月2日に、鳩ヶ谷市市会議員の熊井様から、資料をお送りいただきました
 先ずはご報告まで。
                                                            熊井禎臣
HP管理者注
後日荒川区にお住まいの熊井様(鳩ヶ谷市のご出身)から、鳩ヶ谷市の熊井家についての詳細な情報をいただきました。もっとも知りたい情報のうちのひとつでしたから、本当に嬉しく思いました。荒川区の熊井さんには心からお礼申し上げます。


熊井恒次様からいただいた激励のお便り
 拝復 風薫る緑の季節になりました。
 今日お送りくださった熊井姓の埼玉県下における態様についての当面の御調査結果を拝見しました。精力的なご努力に対し心からの敬意を表します。
 当初の予想とは異なり、反響が少なかった由ですが、少し気長に事を進めることにいたしましょう。
 私どもの場合も、父の自分史発刊が地元新聞の記事に二度、三度取り上げられたことや、熊井姓の集中的に所在する地区の公民館を訪ねて、熊井姓の方で郷土史や古文書に興味のある方を紹介していただき、お話を聞く機会を持ったりしたこと等で資料集めをしたことを思い出します。
 そして集めた資料を、私の所属する郷土史研究会の機関誌「長野」に発表したのです。この機関誌は全国三千余の会員に頒布されることから、熊井姓と関わりのある方々の目にとまることも多く、反応があり広くなったと思います。
 お便りにあった「熊井家のホームページ」を少し気長に続けられれば、必ずよい結果が期待できるではないかと存じます。
 いただいた資料を複写して、一部を熊井基様にお送りいたしたくご了承くださいますようにお願いします。弟の熊井猛様を経て米国の基様にお届けすることにいたします。なお、私宛にはご兄弟から度々お便りをいただいておりますが、昨年の夏のお便りは父祖の地アイズ会津などの熊井姓など調査したことについて書かれていますので、私信ではありますがコピーしてお送りします。熊井基・猛ご兄弟あての手紙にもその旨を書きまして、ご了解をお願いいたしました。
 なおお送り頂いた群馬県甘楽郡の熊井土氏の資料や熊井土氏の電話帳コピーなど私の欲しかったものでありご厚意に対し感謝しております。
 引き続いてご調査の成果があがりますように祈念し、今後のご活躍をお祈りしてお礼のお便りといたします。 早々不一
 五月十二日


熊井恒次氏からのお便り
 拝復梅雨晴れが続いていましたが、今日は台風の来襲で激しい雨が先ほどから降っております。
 今日はご苦心の「熊井家のホームページ」の情報を早速お送りいただき有り難うございました。
 やはり時の経過とともに次々と情報が集まり始めましたね。気長に然も間をおかずに情報伝達を重ねていかれると、きっと素晴らしい結果が集積されることと存じます。
 欲を言わしていただくならば、情報提供者の住所・氏名や出典、出自をできるだけ明らかにして後日の調査に備えることが必要と思います。
 今回の情報中私が注目したのは、家紋に竹・笹がやや多いこと、三鷹市居住の方の家紋クマイ笹は九枚笹と思われ、長野県の塩尻市小野の熊井氏の家紋(女性用)と同一ではないかと思った次第です。
 寄せられた情報を重ね合わせていく中で、ご研究の筋が段々に見えてくるものと存じます。
 一層のご精進とご成功を祈念いたします。
 右取り急ぎご返事かたがたお礼を申し述べ度乱筆にて失礼いたしました。早々
 六月二十一日夕

戻る