前略
 早速お返事をいただき、有り難うございました。本当に嬉しく拝読いたしました。「桝」の家紋は今回の調査で初めて拝見した次第です。感謝いたしております。
 御家の文化二年七月二十日に亡くなられた忠右衛門様、しして寛政元年酉年八月九日亡くなられた仁右衛門様お二方のお名前から判断して、江戸時代にには武家あるいは庄屋(名主)だったお宅のようですね。これまでの調べでは、熊井一族の多くは江戸時代になって帰農し、代々名主(庄屋)をつとめ、明治になってからも村の長の一員として活躍されていた家系が多いようです。
 当家の先祖(大岡村川口熊井家)でも名主を務め、あわせて手習い師匠もしていた第28代伊右衛門は「弘化丁未大地震諸家御届写」を著し、長野県立図書館資料中に残しているほどです。お送りした資料にある恒次氏のご先祖もまた同様で、「筆塚」に名を残されています。インターネットで熊井姓をひろいだしたところ、クロマグロ養殖に成功された近畿大学農学部教授熊井英水氏(塩尻市出身)をはじめとして、研究者や学者として活躍されている方々が結構おられます。
 あとは熊井に関する断片的な知識の羅列です。お読み捨てください。
 映画監督熊井啓氏ですが、松本にほど近い豊科町が出身で、氏の生家は二十六代続いていて、現在の当主は熊井清仁という方です。『豊科町誌』「第四節豊科町における城館址」に、氏とは同族である熊井好徳氏の屋敷についての記述があります。ご関心があればぜひご一読ください。
 尾張藩士にも熊井家があって、愛知県立図書館からいただいた資料によりますと、尾張藩士熊井家四代右馬介重次(家紋は梶の葉:梶紋は信州諏訪神社の神紋であるため、諏訪神社信仰から全国に広まりました。船の神棚に梶の葉が奉られるのは諏訪信仰の名残りです)は浅野幸長(和歌山三十七万石)家臣。初代六之丞(江州羽田村)と二代長左衛門(任蒲生飛騨守)は上田姓でしたが、三代藤兵衛(任浅野采女正)から熊井姓を名乗っています(この熊井藤兵衛ですが
名古屋城本丸御殿フォーラム」御殿復元の啓発運動として実施している、「春姫道中」では、本丸御殿の最初の住人であった、春姫・義直を主役に熊井藤兵衛の名があり旅家老の職とありました)。熊井家へ養子にでも入ったのでしょうか。(ご参考までに、幸長の父長政は、甲斐国二十二万石の城主でした。尾張藩士熊井家は出自を近江源氏あるいは藤原氏としているようですが、甲斐国と関係があるのは関心が尽きません)
 幸長の娘高原院(春姫)が十三歳で尾張初代藩主義直正室に輿入れしたとき、熊井重次は高原院付きとして尾張藩士になりました。禄高は三百石でしたが、六代重康(重次三男)のとき、赤穂事件が原因で、禄を半分の百五十石に減らされ、犬山城(尾張藩家老成瀬氏居城)に転籍となりました。ご子孫の熊井徹氏はいまもご健在です。
 既にご承知の、赤穂四十七士の一人、片岡源五右衛門高房は、重次妾腹の子(重次二男)でした。常陸笠間浅野長重に仕える叔父片岡六左衛門の養子になり、後に長重の嫡子浅野長矩に小姓として仕えました。禄高は三百五十石。
 そして赤穂浪士にもう一人、吉田忠左衛門の妻りんですが久留米藩熊井家の出で、忠左衛門は加東郡代・足軽頭を勤め200石役料50石でした。
 紀州を出身とする熊井家には、寛永六年頃、江戸は深川熊井町を開拓した熊井理左衛門がいます。永代一丁目の理左衛門宅跡は、現在、文化財となっています。時代は下って天保年間に、三重県立図書館地域資料コーナー文書目録の中に、熊井杢右衛門なる名前を見ることができます。
 山形では、新撰組の清河八郎妻女蓮が、羽州熊井村の医者の娘だったとか。もっとも、藤沢周平の八郎を主人公にした作品『回天の門』では、蓮の生家が「羽州田川郡櫛引通本郷組熊出村」となっているのですが。
 熊井家の家紋ですが、恒次氏の調査では、大岡村の熊井家は「竹に雀」が多く、恒次氏宅も「竹に雀」、他に目立つのが「抱き茗荷」、そして塩尻片岡南内田の熊井家(クロマグロの養殖に成功した英水氏本家)では「熊」の漢字を図案化して白黒に重ねたものを使用しているそうです。熊井基氏は「丸に橘」、同じ松代には「武田菱」もあって、三引両、三柏などもみられます。
 当家大岡村川口熊井総本家の家紋は「久世橘」ですが、七代前に独立した別家では「剣酢漿草」を、十二代前の別家(松代・現上田)では「ふくら雀」を使用しています。同じ一族でも別家になると家紋がまったく変わってしまう一例としてあげておきました。
 これとは別に、基氏が新潟大学の酸性雪の国際学会で出会った熊井勝敏氏は北九州の小倉が出身で、家紋は「木瓜」だそうです。久留米市にお住まいの熊井充子氏からは家紋は「桝」、熊井治義氏からは「輪違」とのお便りをいただいております。
 今回埼玉県下二百三十軒、福岡県下百四十軒の熊井家に同じ資料をお送りしました。
 先にお送りした拙文の中で、当家総本家熊井惣一郎氏を三十六代と書きました。しかし、A市にお住まいの熊井貞勇氏が、大岡村川口熊井家の家系図と兵法書をお持ちです。家系図の記載に即して三十一代当主を貞勇氏とご訂正ください。
 太田亮著の『姓氏家系大辞典(第二巻)』の「熊井」の項には、(1)武蔵の熊井(2)信濃の熊井(3)豊前の熊井があげられています。熊井姓が一番多い県は長野県で253戸、二番目が埼玉県の249戸で、三番目に福岡県の145戸ですから、ほぼ姓氏家系大辞典の記載されていることと符合しています。なるほど、とこれで納得してしまえば、三県の熊井姓がそれぞれ別個の場所で呱々の声をあげたことになってしまいます。
 埼玉県比企郡鳩山町に熊井の地があります。武士団の名は各地に地名として残り、鳩山町熊井にも熊井党の館跡が存在しています。この地は古代から信濃との関係が深く、鎌倉から武蔵丘陵の東端を通って上州を抜け信濃へと至る「鎌倉街道上道」の要所となってきました。
 鳩山町北隣の嵐山町大蔵には、ご存じ木曽義仲の父源義賢の館がありましたし、鳩山町熊井と同じく源頼朝幕下の熊井太郎忠基の館跡との言い伝えが残る横浜市緑区川和町妙蓮寺も、鎌倉街道瀬谷にほど近い位置にあります。時代はだいぶ下がりますが、秀吉によって家康が江戸に移封されたときにも、信濃への押さえとして諏訪因幡守頼水が小川町奈良梨に配されています。
 長野県塩尻市片丘には熊井という地名があります。『吾妻鏡』に記載のある平安末期の荘園、筑摩郡熊井郷がその地です。「鎌倉府を支えた東国御家人の本拠地は、十一世紀から十二世紀ごろその一族が開発したとされる地であり、名字の地として、その地名を名のっている」そうですから、熊井姓は筑摩郡熊井郷の荘官が名のった、といえそうです。
 これはあくまでも仮説で、確証を与える必要がありますが、埼玉県比企郡鳩山町や和歌山県有田郡吉備町そして高知県幡多郡佐賀町などに残る地名熊井は、熊井姓の分布図から考えて、おそらく塩尻熊井氏の庶子・分家が土着した名残なのではないでしょうか。
 『信濃史誌』によると塩尻市片丘の熊井城跡は、守護大名小笠原深志家の全面の固めでしたが天文十四年(1545)六月十四日に武田軍によって落とされ、その後信玄が再建したものです。
 長野各地の熊井姓の家々には、熊井城落城とともに逃れでて帰農したのだ、という伝承が残っています。
 九州の熊井姓が信濃から出たのではという推論は、諏訪市に本社がある諏訪神社の末社が、その地に多いことからも伺い知ることができます。長野県から遠く離れた福岡県に、何故諏訪神社が多いのでしょうか。
 その理由として
(1) 壇ノ浦の合戦で滅びた平家の没官領に地頭として送り込まれた関東武士が土着して、勧請した。
(2) 元寇のとき異国警備番役として九州に下向した東国御家人が土着して勧請した。(3) 南北朝争乱とそれに引き続く戦国時代に移り住んだ武人達が勧請した。当家の長野総本家に残る家系図にも、第十九代の添え書きに、「大阪一乱に後藤又兵衛に属して入城。薩州に行く」とありますからこの時期の移動もないわけではありません。
(4) 江戸時代になって九州移封となった小笠原家の臣たちが勧請した。
 諏訪社の存在は、氏家系大辞典にのる宇都宮氏配下の将熊井大和権守(六郎左衛門尉)信直も秋月種長の岩石城城代熊井越中守久重も、(1)(2)(3)のいずれかの時代に、東国から九州の地に移り住んだ地頭あるいは関東武士たちの末裔であることを暗示しているのではないでしょうか。 
 長くなりました。きりがありませんので、これくらいで筆を置きます。ご迷惑でなければ、結果がまとまりましたら、またご報告させていただきます。
 若葉の候となりましたが、天候不順な毎日が続きます。くれぐれもお体にはご自愛なされて、お元気でご活躍ください。
 まずはお礼まで。                       敬具
平成16年5月8日
熊井○○様
                       
追伸
 かって大川市に住んでおられたということで、お尋ねします。現在埼玉県東松山市にお住まいの熊井辰幸様のご出身地が大川市だそうです。父君「辰雄」、祖父様「辰造」、曾祖父様「辰蔵」、高祖父様「辰左衛門」は明治11年に亡くなっておられます。 「辰」の字の付く遠い先祖をお持ちの方をお探しです。もしお解りのことがございましたらなら連絡頂けると幸いです。辰幸様の家紋は「丸に三つ松」だそうです

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