岩石城(熊井敏美氏からいただいた情報

 岩石城址 
 保元二年平清盛がその臣大庭平三景親に命じて築いたもので、爾来城主は幾代か移り変わり天正元年から秋月種実の臣熊井越中守、芥田大兵衛が守護していたが、天正十二年豊臣秀吉の征討よって落城し、その後徳川氏に移り、小笠原忠真に与えられたのである。
 現在城門の礎石や古瓦が残っていて二百数十年の盛衰を寂しく物語っている。
 海抜四百四十米の頂上に立てば筑豊を眼下に眺めて遠く周防灘を望むことができ、四季を通じてハイキングコースとして最適の地である。


2 岩石城(かんじゃくじょう)
 岩石山
 岩石山は添田の中心部の東側にそびえる標高446mの山で花崗岩からなる。この山は、岩石城築城以前は、白山比当スを祀る白山神社奥の宮があることや、ある  いは英彦山修験道の秋峰入りの宿場となっていたことから信仰の山であったと思われる。

 築城
 平安時代後期の保元2年(1157)太宰大弐となった平清盛が築き、大庭平三景親を城主としておいたと伝えられる。

 岩石城の攻防
 応永の戦い
 応永5年(1398)家督を失った大友氏鑑が豊後・豊前に勢力を伸ばそうと試み、豊前の刈田松山城、添田の岩石城を攻め落とした。しかし、豊前守護大内義弘の反感 をかう結果となった。義弘は弟の盛見をたて大友氏の追討にのりだした。大友氏の陣取っていた岩石城に戦場を移し、盛見は4万もの兵を率いて、豆塚の戦い、柳原  の戦いと展開し、大友勢を討った。再び岩石城は盛見により修復された。
 天正の戦い
 天正15年(1587)豊臣秀吉は、島津、九州平定の軍を上陸させた。島津と結んでいた秋月の支城であった岩石城が標的となり、4月1日午前4時に開始された攻防  は、蒲生氏郷らの率いる秀吉軍により午後4時には落城された。この後、岩石城は再建されることなく、廃絶された。

 山頂の遺跡
 山頂には岩石城の名残を示す石垣や井戸などの遺構が残されている。
 山頂より北東に伸びる尾根上に国見岩、梵字岩、大砲岩、八畳岩がある。
 岩石群のある尾根の石垣部分から下方の谷間に、花崗岩の石組の井戸がある。岩石山には良水の山で多くの水源がある。
 山頂付近に瓦や礎石材が散在している本丸跡と思われる曲輪がある。
 登山道の途中に柱穴穿たれている。これは柵の一部と思われる
 山頂よりやや下ったところに多くの石切群があり、仲に楔痕のある大岩がある。
 山頂から西側に向かうところに、「針の耳」と呼ばれる、人がやっと通れるほどしかない岩の隙間がある。
 山頂の平坦部を囲むように尾根に沿って防衛、連絡用の空堀がつくられている。


3 岩石城の戦い(豊臣秀吉VS秋月種実 天正15年(1587)4月29日・福岡県田川郡添田町)
 
 秀吉の先鋒蒲生・前田勢の五千は九州一の名城を簡単に攻略!!
 
 当時の大阪にとっては、九州はよほど遠隔の地であったようだ。豊後の大友宗麟の懇請を入れた大阪城の豊臣秀吉は、島津討伐を決意したものの、すぐには行動に移らなかった。まず前哨戦として、天正14年(1586)四月、中国の毛利氏に九州出陣を命じた。
 八月、毛利氏の先鋒が豊前小倉城を攻撃したが、攻め落とすことができずに門司へ退却した。
 そこで秀吉は、十月になると黒田孝高(如水)を軍監に、小早川隆景・吉川元春にふたたび高橋元種の守る小倉城を攻めさせ、陥落させた。
 十二月になると秀吉は、畿内・北陸・東海の諸大名に九州出兵を命じたが、おのれは容易に腰を上げようとしなかった。
 秀吉がようやく大阪を後にしたのは翌年4月で、二十八日に小倉城に入った秀吉はここで軍勢を二手に分けると、弟秀長に日向路を、おのれは筑前から肥後路を目ざした。
 いざ腰を上げると、秀吉の行動は早かった。二十九日に長野種信の居城馬ケ岳にはいった秀吉は、蒲生氏郷と前田利長に島津方の秋月種実が支配する岩石城を攻めさせた。
 岩石城は九州一の名城と評判をとっていた。熊井越中守久重を守将に、籠城勢は三千。それに対して寄せ手の兵は五千。城攻めには守兵の十倍は要するといわれていたので攻撃は少なすぎたが、自信に満ちていた。
 蒲生氏郷は城の正面から、前田利長は城の尾筋から攻めかかった。『陰徳太平記』(管理者注 最大の毛利元就の軍記)によるとかなりの激戦だったようだが、戦闘はわずか一日で決着がついていた。岩石城のあっけない落城は、九州各地の島津方の城にとって大きな衝撃となり、戦意を喪失させた。
 鉄砲の数に、格段な開きがあった。城方が弾ごめに手間どっている間に、寄せ手はほとんど切れ目なく連射を浴びせた。抜刀の突撃を得意とした熊井勢は、鉄砲の威力に戦意を失った。熊井勢の戦死のほとんどは、銃弾によるものだった。
 秀吉は翌日、安永峠から田原へ出ると、猪膝から筑前に入った。剃髪して宗ァと名を改めて恭順の意を示す秋月種実に、秀吉は大隅城で面接した。このとき種実は、秀吉がかって所望していた茶器「楢柴の茶入れ」を惜しげもなく差し出していた。
 ここで秋月氏の由緒について述べておこう。秋月氏の始祖は、漢の高祖の裔とも伝えられている。阿多倍王と名のる渡来人で、国乱を避けて日本にのがれてくると、播磨明石浦に上陸して、大蔵谷に住み、大蔵姓を名のった。その後、藤原純友の乱で征西将軍となり九州入りした大蔵春実は対馬守に任ぜられ、筑前国御笠郡原田に居を構え、原田姓を名のっていたが、春実から数えて九代目の種成が筑前秋月に居を移し、秋月氏となった。
 豊後の大友、肥後の龍造寺、薩摩の島津が九州を三分していた頃、秋月氏は九州でも知られた門閥だったが、当時の領主文種の勢力がおよぶ範囲は小さく、大友氏からも侮られていた。だが、文種は天然の要塞古処山城に拠って、押し寄せてくる大友の大軍とよく戦った。ところが勇将としてよく聞こえた文種の嫡男晴種が戦死すると、文種は自決して古処山城は落ちた。
 文種には戦死した晴種のほかに四子があった。種実・種冬・種信・元種で、文種は自決に際してこの上三人を家臣の大橋豊後守に託した。末子の元種は落城の際、侍女に守られ別のところに身を潜めていたため、成人して香春岳城主となった。
 大橋は三人を守って、毛利を頼った。二男の種実はその後土豪の内田壱岐に養われ、秋月十六代目の主となった。種実は隅江城主となっていた旧臣の深江美濃守の救けで、古処山城から大友勢を追い払うことが出来た。
 その後、種実は秋月氏四百年の歴史の中でも最も栄えた一時期をもたらすことになったが、秀吉の九州出兵で島津方となったばかりに一転して滅亡の窮地にたった。秋月領は三十六万石にもなっていた。
 しかし秀吉は名門秋月氏を滅ぼすのにしのびず、「楢柴の茶入れ」と引き替えに種実を許し、日向高鍋三万石に転封とした。
 秋月氏は以降、諸大名のなかでも屈指の名門として宮崎の地に栄え、明治維新を迎えることができた。(岩井 護)

 (管理者注)
@ 熊井越中守久重を、著者岩井護氏は、熊谷越中守久重と表記しています。熊井を「クマガイ」と読むこともあり熊谷とされたのかも知れませんが、ここでは史実に則って「熊井越中守久重と書き換えました。

A 「天正の戦いの項に 豊臣秀吉は4月1日に、攻防が開始されたの記述」そして「岩石城の戦い では、4月29日と 書かれています。なぜ日付が違うのか!?」とのご指摘を2012年3月20日にいただきました。

 「天正の戦い」は岩石城の碑文の複写、そして「岩石城の戦い」は、附書きにもございますように、「福岡県田川郡添田町」の資料(岩井譲著)によるものです。ご指摘のように日付は違ってますが、お送り下さった資料を、そのままホームページに掲載させていただきました。説明不足を心からお詫び申し上げます。

 

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