大分県豊後高田市(旧 西国東郡香々地町)の熊井様からいただいた情報

大分県豊後高田市(旧 西国東郡香々地町)出身の熊井と申します。
熊井姓について読ませて頂きました。私の知っている地元の熊井についてと
言い伝えを紹介いたします。

まず書かれていた通り香々地の夷の奥地に狩場という地域があります。
山を挟んで西狩場と東狩場に別れます。西狩場には熊井姓、東狩場には
隈井姓が多いです。私の父親は西狩場の出身です。

また、東狩場より手前(下流側)の東夷 に六所神社という神社があります。
言い伝えでは戦で敗れた足利尊氏が逃れて来た際、必勝祈願をして6本の杉を
植えたといわれています。
30年くらい前までは大きな杉がありましたが、枯れてしまう前に順次
伐採されてしまいました。

その六所神社から川を挟んだ向かい側に大きな岩が窪んだ洞穴みたいなのが
あり、゛平家の隠れみの゛と呼ばれています。檀ノ浦で敗れて落ちてきた
人達が隠れていたと伝えられています。
これまでこれらの伝説はあまり信用していなかったのですが、
今回読ませて頂いた内容から関係性があれば面白そうな気がしましたので
情報として活用して頂ければと思います。

(注…HP管理者)
大分県豊後高田市(旧 西国東郡香々地町)の熊井家の情報をありがとうございます。
香々地の熊井家の由来については、下記の@A以外の資料は現在のところ見つかっておりませんでした。
本当に嬉しく思いました。

@「熊井姓の由来」の「河越氏と熊井党」にも書いておきましたが、「義経の正妻・郷姫は(武蔵の国)川越上戸に館(現常楽寺)を構える豪族河越重頼の娘でした。
この河越氏は、やはり鎌倉街道が通る入間郡葛貫(坂戸市)を開拓して馬牧を経営し、河越別当葛貫別当と称していました。
この河越氏は鎌倉時代に地頭として豊後国香々地(大分県香々地町)に移住(『武蔵武士(下)』成迫政則 まつやま書房 河越氏参照)しています。
同じ頃、河越氏の馬牧があった坂戸市の北隣鳩山町熊井の地から、熊井党が忽然と姿を消しています。
河越氏が地頭として移住した大分県香々地町が、熊井姓集中地区のひとつなのです」。

……河越氏は頼朝の命で息女郷姫を義経の室としました。頼朝と義経が不和となったため、所領をすべて没収されました。
頼朝の長男頼家の乳母が「比企尼(頼朝の乳母)の娘(河越重頼の妻)」であったため、その所領は、重頼の妻に返却されました。

A「郷姫(義経の正妻・郷姫は川越上戸に館(現常楽寺)を構える豪族河越重頼の娘)が義経に輿入れする際に、
河越氏配下の武将であった熊井忠基も郷姫付き武将として義経の陣に加わった。
(埼玉県比企郡鳩山町熊井の「真言宗智山派熊井山妙光寺」には、「熊井忠基」は「河越重頼の配下の武将」との伝説が残り、
檀家には「熊井忠基」に従った郎党の家系がいて、また「熊井忠基」縁の「地蔵菩薩」が現存しています)」