関ヶ原史跡巡り



関ヶ原町は伊吹、鈴鹿両山脈が南北から迫り、昔は中仙道や北国街道、伊勢街道などの交通の要衝として栄えました。また、天下分け目の決戦場として広く知れ渡っています。
今も東海道線はじめ、新幹線、名神ハイウエイが走り、交通の重要な分岐点としては昔も今も変わりはありません。

東海自然歩道は八キロ弱の快適な史跡探訪の、楽しい1日コース。
足を延ばせば観光施設も多い。


関ヶ原の戦い

慶長三年(1598)豊臣秀吉が死んだ。五大老の筆頭、徳川家康が会津の上杉景勝を討つため兵を動かしたすきに石田三成が挙兵、両軍とも八万以上という兵力で、天下分け目の大合戦となった。

慶長五年(1600)九月十五日朝八時に東軍家康側の井伊直政、松平忠吉が西軍石田三成側の南天満山と南麓に布陣した宇喜田秀家を攻撃、戦端は開かれた。

家康は桃配山にいたが、戦況がつかめず、陣場野(いまの陣場野公園)に移った。
小早川秀明は西軍の横腹をつく位置の松尾山にいた。

その時石田三成は、下の写真の様に笹尾山に陣取り戦況を眺めていたのである。

上の写真は笹尾山から向うに見えるは桃配山。
その時の様子を戦陣配置図を見ながら、後ろ
から無料の音声が流れ、詩吟も織り交ぜながら
その時の様子を語ってくれます。
何やら自分が三成になったような気分で、歴史を
充分楽しませてくれるのが、とても嬉しい。





さてさて、小早川秀明は正午過ぎまで静観していたが、ついに東軍に寝返って大谷吉継陣を襲い壊滅させる。

ここで戦いは一転、東軍の勝ち戦となり、小早川の背徳は後世まで批判を浴びる事になる。

かくして天下分け目の合戦は、七時間でけりがついたのである。




左の山は南宮山、手前は桃配山、右は養老山


東海自然歩道は下記の写真のように、これらの古戦場を見ながら次なる揖斐高へと続くのである。


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