歴史の小窓 浦上4番崩れ
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  時代は、徳川封建から明治維新へとすすみました。キリシタンは禁教から復活へと進んだものの、維新間もない明治政府は、宗教の自由に盲目でした。
 明治3年(1870)250年の潜伏ののち復活した浦上の信徒3414人に待ち受けていたのは、萩、津和野、福山、尾張などへの遠流でした。名高い「浦上四番崩れ」です。
 浦上の人たちは、「四番崩れ」による遠流を「旅」と称して長年住み慣れてきた浦上の地から旅立っていくのでした。
 流された地では、激しい拷問が待ち受けていたのはいうまでもありません。具体的には、別のページでまとめていきたいと思います。
 明治6年(1873)ながい「旅」から帰ってきた浦上の人々は、フランス人宣教師フレノー神父の設計で起工した旧浦上天主堂の建設に全力を注ぎました。そして大正3年(1914)年、ベルギー人ラゲ神父のとき設計を変更し完成しました。
 信徒たちは寄付金と労働奉仕につとめたが、浦上は一村総配流後で生活たてなおしも容易でなく、フレノ神父は過労で倒れ、完成まで20年を要しています。それから11年後に双塔ができ、アンゼラスの鐘がつるされました。敷地は旧浦上村山里の庄屋屋敷・高谷家の跡地です。

 完成から20年経過した1945年、一発の原子爆弾がこの浦上の上空500メートルで炸裂。長崎は「ただあっといった瞬間」死の街と化しました。7万人をこえる人たちが亡くなりました。浦上信徒1万2000人のうち8500人が原爆で死亡しました。
 旧浦上天主堂はこの原爆で倒壊焼失し、双塔の鐘の一個は破壊されました。浦上に5番目の崩れがあったとしたら、このことなのかと思わざるをえないのは私だけでしょうか。
 二重、三重の悲しみ、苦難と受難の地が浦上なのです。

 70年間は草木も生えないといわれたこの浦上の地を復興させたのは、人々の熱い祈りでした。原爆で倒壊した浦上天主堂は、昭和34年に再建され、破壊を免れたもう一つの鐘が新天主堂の塔から、平和を願う、アンゼラスの祈りの時を伝えています。「長崎の鐘」はこの鐘のことです。
 原爆で焼けただれた天使の石像が、この悲しい祈りの街の受難の歴史と二度と悲しい戦争を起こさせてはならないことを、語りかけるように残されています。
境内には『旅の記念碑』『信仰の礎』。の碑があり、周辺にはカトリックセンター・南山学園・聖フランシスコ病院・純心女子学園などがあり、復活した長崎カトリックの中心地となっています。

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浦上天主堂
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