長崎という地名

 長い坂の先
 かつて長崎は、今の諏訪神社付近から市役所を通って県
庁あたりまで高台がつづく長い坂となっていました。この高台の崎の県庁付近は深い木立におおわれ「森崎」という地名で呼ばれていました。当時の風景絵図をみると、県庁付近も海岸線がかなり入り込み、深い入江となっていたことを知ることが出来ます。長崎という地名は、この高台がつづく長い坂の崎というのが、地名のゆえんとされています。

 大村純忠と長崎甚左衛門
 この時代、長崎を支配していたのは大村からこの一帯に勢力を張っていた大村純忠でした。そして代々、城の跡(しろのこし)を居城としていた長崎一族の第14代領主長崎甚左衛門純景に長崎の統治を任せました。甚左衛門は大村家の重臣として従い、彼の妻は純忠の娘でした。
 大村純忠は日本で最初のキリシタン大名で、甚左衛門は1563年(永禄6)年、純忠とともに大村氏の開港場である横瀬浦(西彼杵郡西海町)で洗礼をうけ、熱心なキリシタンとなりました。4年後の1567年(永禄10)年ルイス・デ・アルメイダが長崎で布教をはじめると、甚左衛門はガスパル・ヴィレラに廃寺を寄進しています。これが1569年に城の古跡の中腹に建てられた、長崎最初の教会堂トードス・オス・サントス会堂で、現在の春徳寺の地にありました。

 横瀬浦・福田・口之津
 大村純忠はポルトガルとの貿易港として横瀬浦を開きましたが、永禄六年、佐賀・武雄の後藤貴明(純忠の義弟)による純忠へのクーデターで横瀬浦が焼かれたあと、貿易港を福田へ移しています。しかし、福田は直接外海に面して貿易港としては大きな欠陥であったので福田に変わる候補としてあげたのが、純忠の実父有馬晴純が支配していた口之津でした。そして1567年(永禄10年)、ポルトガル船三隻が入港、口之津が開港されたのですが、口之津のポルトガル貿易も長くは続きませんでした。それは、ポルトガル人たちが大村領内での貿易を切望していたためでした。

 長崎開港
 イエズス会の宣教師、ベルキヨール・デ・フィゲレイドは、さらに良好の港を求めて海岸調査で深い入江の長崎を探し当て、そこを貿易港の好適地として純忠の許可を求めました。純忠は即時に了解し、長崎甚左右衛門のもとに家臣の友永対馬を派遺するとともに一緒に町割りを行なわせ、各地からあつめた人夫をつかい森崎の地の開発をすすめました。こうしてできあがったのが島原町(現在の万才町) 大村町 分知町(現在、外浦町に編入) 外浦町(現在、県庁のあるところ) 平戸町 横瀬浦町(のちに平戸町に合併)の六町でした。それまで長崎一族の所領としていた片淵、中川、夫婦川、桜馬場の集落とは別に、1570年(元亀元年)長い岬の丘に港町長崎が誕生したのでした。

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