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日本26聖人殉教地(西坂町)


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  新しくなった長崎駅の駐車場に車を止めて26聖人へと向かう。
  駅前の左手にあるNHK長椅放送会館のよこの急な坂道を登りつめたところが西坂の丘、日本26聖人殉教地です。

 九州征伐で全国統一の見通しがついた豊臣秀吉は、1587(天正15)年バテレン追放令を発布するとともに、耶蘇会領の長崎・茂木・浦上を没収。しかし南蛮貿場はいままでどおリ認めたため、潜入する宣教師はあとをたたず、禁教は不徹底に終わりました。
 16世紀末ごろには耶蘇会のほか、フラソシスコ会・ドミニコ会・アウグスチノ会など旧教各派の宣教師が相次いで来日しましたが、一方でキリシタンにとっては、26聖人の殉教という大変不幸な事件がおきました。
  そのきっかけがサン・フェリペ号事件です。1569(慶長元)年にイスパニアの商船サン・フェリペ号が土佐に漂着したとき、乗組員が世界地図をひろげその領土の広大さをほこり、それは宣教師の教化活動のあとに軍隊をおくりこんで征服した結果だと語ったといわれています。かねてから旧教国の領土的野心を心配していた秀吉は、これをきっかけに再度禁教にふみきったのでした。

切支丹弾圧の始まり
  イスパニア人でフランシスコ会の宣教帥ペトロ・バプチスタ(48歳)をはじめ外国人6名、耶蘇会の修道土三木パウロ(35歳)をはじめ日本人20名が京都、大坂などでとらえられ、厳冬の旅路のすえ西坂の丘におくられてきました。慶長元年12月19日(太陽暦では1597年2月5日)、全員が十字架にかげられたのです。最年少の茨木ルドビコは、信仰をすてれば自由にしてやるといわれましたが、『たすけられて私は生きようとはおもいません、なぜなら終わりなきいのちを、つかのまのいのちにかえる理由はないからです』といって拒みました。京都からはるばる長崎まで死の行進をさせ、キリシタンのまち長崎で公開の殺人ショーをすれば禁教が徹底するとでも役人たちはおもったのでしょうか。
  西坂の丘の記念碑は、昭和36年の列聖100年祭のとき建立された。殉教者は1862年聖者の列にくわえられています。

  26聖人のブロンズ像は“昇天のいのり”ともよばれ、十字架がうきぼりされています。
  記念聖堂にある紬錘形の二本の塔は、マリア賛美の声がいっぽうの塔から天にのぼり、恩寵がもう一本の塔から地上にくだることをねがったものといいます。聖母マリアを象徴する純白を基調としたモザイク塔の陶器は26聖人が護送された京都から長崎までの各地でつくられる陶器の破片をあつめたものです。
  記念館には、木彫りの聖母子像やブラケットのピェタなどキリシタン遺物(県文化)が展示されています。この西坂公園一帯は禁教時代の処刑場で、島原の乱後も多くのキリシタンが処刑されたところ。いまは国際的巡礼地、殉教の丘として、内外の巡礼者があとをたちません。