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サンタクララ教会跡 立山奉行所跡

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  聖福寺通りを東に歩くと突き当たりが県立美術館で、入口階段の右側に『長崎奉行所跡』の碑があります。ここにはかつてサンタ・マリア教会が建立され(1600年)、白亜が美しい教会として入港する南蛮船の目印となっていましたが、1614年の大禁教で壊され、その跡に立山役所がつくられました。
長崎奉行は当初、外浦町(いまの江戸町、県庁のところ)にありましたが、東西両奉行所が隣接すると火災のさい延焼の危険もあり、政務が渋滞するということで、その分離がはかられ、1673(延宝元)年に立山の地がえらばれました。以後世間では外浦町を西役所、ここを立山役所とよぶようになりました。西役所は奉行の政庁であり、立山役所はその官邸ということです。
  しかしいろいろな行事や訪問、記録、什器の保管などが立山役所で行なわれたため、長崎人はここを長崎奉行の本邸と考えていたようです。立山役所の上手に岩原目付役所があり、長崎奉行の相談役で、監察官でもある目付がおかれていました。のちにこの屋敷の一部に英語伝習所ができました。19世紀に入って対外関係が急追してくると、これまでの蘭学だけでは対応できなくにり、ロシア語・フランス語などの習得がはかられました。
 1858(安政5)年英語伝習所が設立され、通や役人の子弟たちの英語教育が行なわれましたたが、のちには英学所・洋学所・語学所と改称され、さらに済美館、広運館とあらためられて近代教育機関に発展し、立山界隈を中心に、当時の政治・文教の中心地として大きな役割をはたしました。

■長崎会所跡
  県立美術館のまえに裁判所長や県警本部長の公舎がならんでいますが、その一角に『長崎会所跡』の碑がたっています。長崎では1571(元亀2)年の開港いらいポルトガル船が入港し、のち中国船や朱印船なども出入りして貿易がはじまりましたが、キリスト教の禁止と貿易の統制をはかる幕府は、・出島を構築してポルトガル人をここに隔離し(1636年)、さらにポルトガル人を追放したあと、平戸のオランダ商館を出島に移しました。いっぽう中国人にたいしても市内の散宿を禁止し、唐人屋敷に収容しました。
 これからオランダ・中国を相手に長崎貿易が展開されましたたが、貿易の方法については前後数回も改訂が行こなわれています。
県立美術館界隈