日本最古のゴチック式木造建築物の国宝・大浦天主堂は、元治元年(1864)に建造されたもの。石段を登りつめ、天主堂にはいるとステンドグラスの美しさに目を奪われてしまいます。
正面の右側にある聖母マリア像は、密かにキリシタンを崇敬していた信徒、隠れキリシタンとフランス人神父・プチジャンとの「信者復活」の歴史的対面となった像です。
長い禁教時代に耐えて信仰を守り続けてきた信徒が密かに名乗り出たという「信徒発見」の劇的な場所となったのがここ大浦天主堂です。西坂で殉教した二十六聖人を顕彰してたてられ、正面は西坂の丘に向っています。
天主堂という名は、カトリックの聖堂を中国風に呼んだものである。俗にフランス寺と呼ばれ、連日見物人でにぎわった。その見物人の中に、浦上の農民たちが混じっていた。
天主堂の右側小祭壇に聖母子像が安置されていた。サンタ・マリアは浦上のキリシタンたちが300年の昔から、ひそかに崇敬しつづけてきたものである。
「フランス寺にはサンタ・マリアがいらっしゃる」というささやきが、その日のうちに口から耳に、キリシタンたちの間に広がったのである。
イザベリナゆり、という婦人を中心に数人の男女が、浦上からそれを確かめにやって来たのは1865年3月17日(元治2年2月20日)のことである。プチジャン神父は祭壇前の床にひぎまずいて祈っていた。
ゆりは、そっとプチジャン神父に近づき、耳

に口をよせてささやいた。「ワタシノムネ、アナタノムネトオナジ」「サンタマリアノゴゾウハドコ?」 この言葉が歴史をつくった。7世代250年潜伏していたキリシタンが宣教師の指導下に入ったのである。それはキリシタンの復活と呼ばれている。神父は立って、彼女たちを聖母子像の前に案内した。「サンタ・マリアさまだ。御子ゼズスさまを抱いていらっしゃる」と、浦上のキリシタンたちは口々にささやいた。
かくして浦上のキリシタンが発見された。ひきつづいて、長崎県内だけでも数万人も潜伏していることが明らかになった。1614年1月(慶応18年12月)の大禁教令から
251年にわたる、きびしい迫害と殉教の期間を潜伏しつづけたキリシタン教会は復活した。これは他国にその例を見ない出来事として、世界宗教史の上で注目されている。「神の家族400年」より
遠藤周作氏の小説『女の一生(一部キクの場合)』では、仏教徒のキクが、思いを寄せる清吉がなぜキリシタンを信じていくのか、様々と苦悩しながら、この大浦天主堂に通います。そして聖母マリア像へ「あんたが憎い」と呟くのでした。しかし、最後、キクは、ここの礼拝堂で息を引きとっていきます。