勝山町と桜町の間の電車道は環濠の跡?
開港直後の内戦
 開港した翌年の1571年(元亀二年)の夏、ポルトガル船と唐船の2隻が、中国や西欧の品物を満載して入港し、その後長崎は急速にポルトガル貿易港として発展していったのでした。
 そして切支丹も毎年、平均300人が洗礼をうけたことを宣教師ルイス・フロイスはイエズス会本部へ報告しています。
 長崎では開港直後、しばしば内戦に見まわれています。
 長崎一人が繁栄することに対して、平戸の松浦隆信をはじめ近隣の大名は反感を強めていました。諫早の西郷純尭(すみたか)とその弟で野母半島の深堀に居城を持つ深堀純賢(すみまさ)、らは大村家の縁者でありながらも天正元年、6年、8年の3回に渡って長崎の切支丹を攻めています。切支丹たちは長崎6町の外側に環濠をつくり柵を設置して苦戦さながら撃退しています。桜町から勝山町の電車道に環濠の跡が残っています。
 海外貿易で利益をえる長崎の港の略奪を虎視眈々と狙っていたのが佐賀の竜造寺隆信でした。そこで、純忠が考えついたのが内町の6ヶ町をイエスズ会に永久に寄進すること。そうすれば竜造寺氏らも攻撃をやめるだろうし、貿易港としての利益は大村家が取ることもできる。そして商人は利益を求めて集ってくる、という利点に着眼したのでした。



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