南高来郡口之津町
口之津

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 穏やかな入江をだくように長い岬がのびて、家々が並んでいます。450年の昔、長崎の横瀬浦と同じように岬の突端に十字架が立てられ、来航する南蛮船の目印としていたのだろうか……そんなこと思いながら訪れた口之津の街。長崎港よりも早く南蛮船が来航したのが口之津港。したがって日本初の南蛮船来航の地なのです。
  現在の港よりも奥深い陸地の唐人町のあたりに南蛮船寄港場所の碑がたっています。おそらくこのあたりまで海だったに違いありません。


  1562(永禄5)年、有馬義貞は実弟の大村領主・大村純忠を通じて平戸のイエズス会にキリスト教宣教師の派遣を要請します。そしてやってきたのが、アルメイダ修道士です。アルメイダは山口から来てこの地方に住んでいた邦人医バウロの助けを借りて着々とその成果をあげていきます。
もちろん、すべてが順調にいったわけではなく、一時はこの切支丹たちも基督教を忌んだ有馬晴純(義直の父)から迫害を受けそうになりますが、義直の努力で永禄6年頃には、ラテン語、祈祷、日本語を教える初等学校もできて子供たちの歌う教会の歌が町にながれたと言います。
  永禄8年(1565)から永禄10年は切支丹にとって口之津の春ともいうべき幸福な季節です。領主の義直自身もこの口之津で洗礼を受け、その影響で彼の妻子、家臣、土民たちも次々と改宗するに至ります。領内の仏寺は次々と切支丹の教会に変り、西九州布教の中心地となっていきます。
 口之津はこうして切支丹の繁栄の町に変ると共に永禄8年頃からポルトガルの貿易港ともなり、永禄10年、トリスタン・ヴァス・ダ・ヴィガを司令官とするポルトガル船がこの港に来た時は、もう既に2隻のポルトガル船が入港していたといいます。

 私たちが訪れたのは9月24日の初秋。天気は快晴、海の匂いがただよい、小さな漁船と天草・鬼池と口之津港を結ぶ連絡船が行き交う以外は、静かで眠ったような入り江です。
 450年前、ここに教会が建てられ、唐人や南蛮人が往来し、讃美歌.がながれていたことにそれほど関心がないかのように、町の人たちはただ日常の生活に明け暮れているようでした。
 深い入り江の突端に架かる「なんばん大橋」を渡ると、口之津町歴史民俗資料館・海の資料館があります。訪れたその日はあいにく休館日でした。
 民俗資料館は、明治32年に建てられた旧税関庁舎で町唯一の明治期の洋風建造物。また、いつの日か来訪をと決心し、巡察師ヴァリニャーノ師が「口之津会議」を開催したと言われる玉峰寺へと向かうことにしました。
南蛮船来航の碑
口之津町歴史民俗資料館
岬の突端にある灯台、かつてここに十字架を建てて南蛮船入港の目印にしていたのだろうか