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今村刑場跡
島原市今村町

  この刑場を探すのにウロウロとしました。妻がドライバー、私がマップをみながらのナビなのですが見知らぬ土地をウロウロすること30分、やっと見つけることができました。

  今村刑場はベトロ.パウロ・ナウアロ神父が火刑に処せられた場所です。ナウアロ神父は1588年・天正16年に日本に来て以来、山口や伊予の不況に当たった後1619年、元和5年頃この島原半島の布教本部長に任ぜられていました。
  1621年、元和7年の冬、八良尾の教会でミサをあげて有馬の町に出たところで信者3人と逮捕され、島原に護送されjました。時に神父は62歳、当時、領主の松倉重政はまだ寛大な措置を執っていとっていたので、監禁された家でミサを捧げることができたといいます。
  だが松倉重正に下された江戸幕府の命令は過酷なもので、ナウアロ神父の火刑を命ずるものでした。1622年11月、神父は、ロザリオを首にかげ修道服を着用、共に捕えられた日本人修道士ディオニジ福島、ペトロ鬼塚三太夫、クレメント久右衛門三人と連祷を歌いながらこの処刑場に入ってきました。当時の今村刑場は長崎の西坂刑場と同じく海にかこまれた岬でした。
  四本の柱に縛りつけられると、ナウアロ神文は人々に向ってこの時、最後の説教をしたと言いいます。
  やがて、領主、松倉重政が到着すると薪に火がつけられました。重政は神父たちを苦しめずにすぐ死なせたいという配慮から、薪を近く火の勢も強くするように命じ、忽ちにして火煙は四人を包み、その煙のなかから、彼等が基督とマリアの御名を唱える声が聞えたと言われています。
  遺骸は三日、ここにさらされた後、灰にして海に棄てられました。
  この刑場ではナウアロ神父につづいて(1633)寛永10年、アントニオ・ジャノネ神父が殉敦しています。明暦年間に大村で発覚した切支丹信徒のうち56人がここで処刑されています。
  440年あまりを経過しようとしている今日、地域の皆様の手で保存されていることに深い感謝を込めながら、今村刑場を後にしました。