「日之江城?ほとんどの人が知らないのでは………」と妻と語らいながら北有馬方面に車を進めまた。「有馬晴信という殿様が居たことは知っていても、キリシタンの歴史に興味がないと日之江には感心はわかないでしょう」と会話は続きました。
  戦国時代、この有馬村にあって、有馬晴信、直純の居城が日之江城。その城跡が現在の北有馬町にあります。


  実際、一度の合戦も行われず、他の山城のように悲劇的な運命をもたなかったこの城を訪れる人はほとんどなく、このあたりを旅する人は、島原の乱の原城は訪ねても、ここに眼をむけることもしないでしょう。
  有家町の紹介でも書きましたが、当時の資料を調べると、「日本巡教師・ヴァリニャーノは有馬晴信の許可を得て、日本最初のセミナリヨを城下・有家に建て、15歳前後の少年たちが日本の文法古典やラテン語、キリシタン教理などをここで学んだ。永禄年問(1558〜70)有馬義直の頃、ロノ津の貿易港として外国相手に盛んに貿易をやり、また義直の子、晴信も大村・大友らとともに九州キリシタン大名の一人として活躍したので日之江城下には教会堂やコレジヨも建ち在らび、外人宣教師や貿易商人が来往した」ことが記されています。
 1563年、大村からアルメイダ修道士がこの地方に布教に来ると、ロノ津を中心に切支丹に改宗する日本人は次々とふえ、教会もでき、またここにポルトガルの船も寄港するようになっています。
  また、領主有馬義直がアルメイダを日之江城に招いて基督教の教理を学び1576年に洗礼を受けてから、信徒の数は急速に増加し、その数は2万人にも達したと言われる。アルメイダはまた外科医でもあったので、ここに病院をたて、山口から来た日本人の医者パウロと共に領民の治療にあたっています。
  彼はここにもセミナリヨを作り信者の子供たちの教育を行なっています。晴信はロ之津に上陸した巡察師・ヴァリニャーノに敬服してキリシタンを信仰してから信者は増加、教会は45、領民7万5千のほとんどが信徒となったと言われています。
  ロノ津と日之江とは九州のみならず、日本における西洋文化摂取の重要な基点となった。印刷術や医学だげではなく、日本の若い青年たちはここでラテン語を学び、西洋演劇をやり、西洋美術を学んだ、その拠点のひとつが日之江城を中心とした北有馬なのです。

  いま、440年の昔の面影をとどめるものはなく、当時を知る資料として「城の案内の立て看板」がありました。しかし、私はそれすらない方が良いと思っています。訪れたときは、城跡を公園にしていく整備作業中で、頂上までいけなかった。周辺を歩き、国道から望みながらその面影をしのんでいました。


南高来郡北有馬町
日之江城跡
back
top
Copyright 2000-2001 Masaki &tanuki-kikaku all rights reserved

国道251線から城跡方向を望む、こんもりとした森が日之江城跡