原城跡にのぼると、前方は有明海をへだてて天草が眺められ、後方には雲仙岳がそびえ、そのゆるやかなすそ野はゆったりとしています。ここがあの戦乱の地だということを忘れさせるほどです。

  城跡には、いくつかの石碑が島原の乱の戦地から移され、周辺は農地化されています。
 当時、天草四郎時貞を中心にキリシタン宗徒3万7000人が、4カ月ものあいだ、板倉重昌を中心とした幕府郡軍に抵抗し、何回かの総攻撃にもよくもちこたえ、ついに老中松平信綱をもひきだすにいたったことは、原城の大きさをしるものには信じられないほどの激闘だったことを想像させられてしまいます。戦は結局、一揆側の食料・弾薬の尽きるのを待つほかなかったのでした。
 それほどの要塞の城とはおもえませんが、当時の戦術・武器からすれば、天然の要塞のだったのでしょう。海岸にそそりたつ雄姿が昔日の面影をしのばせてくれています。
 時代は、徳川の時代となり、有馬はこの地から追いやられ奈良の五条からやってきた松倉氏が領主となっています。

  島原の乱の直接のきっかけは、北有馬の代官殺しにはじまり、深江町に攻め入り、ついには藩主松倉氏の居城島原城を攻撃して引き上げたことから大間題となっていきます。
  島原の乱は海をへだてて談合島(湯島)で計画がねられたともいわれますが、史実をひもといていけばそうでもないようでもあります。いずれにしても一揆は天草にも広がり、富岡城代の三宅藤兵衛を敗死させるに至ります。
  この乱の背景には、切支丹の弾圧に加えて、数年に及ぶ不順な気候がもたらした凶作による飢饉と飢餓、さらに年貢の引き上げによる重税が重く農民達におししかったという側面があります。
その見知からみていくと「島原の乱」は、苦しめられ、抑圧された農民達の自由と民主的権利を求めた尊い戦いではなかったかと、私にはおもわれてなりません。
  幼き子から老人、婦女子にいたる3万7000人の命が消えていったことはあまりにも悲しい出来事です。心からのお祈りをして原城跡を後に口之津へと向かいました。

 

南高来郡南有馬町
原城跡
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