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南高来郡有家町
有家町のキリシタン公園とセミナリヨ跡

 天正7年(1579)年、有家にキリスト教団第2管轄区が置かれ、有馬・口の津とともに九州における布教の中心地として栄え、一時期ではあるが「セミナリヨ」をはじめコレジヨ・修道院などの学校が置かれ、立派な教会が有ったと伝えられている。
 16世紀の昔、この地にヨーロッパ風のキリシタン文化の存在を立証する墓碑群であるが、実はキリスト教以前にこの地は仏教文化が栄えていた。それを裏付ける多くの仏教遺跡が確認されているが、この地区を「寺山・寺屋敷」と称し、近くに「行者屋敷」と称する地名も残っている。
 奇しくも仏教遺跡と切支丹遺跡の混在する地区であるが宗教上の栄枯盛衰を秘めた歴史的・民族的に価値ある遺跡である。
 安置された墓碑のなかに「慶長12年、3月24日、類子」とかかれた墓碑があるが、類子(ルイス)は男性のクリスチャン名である。
 また合祀されている墓碑二体は、昭和60年5月この地区で発見されたもので、室町期の作と推定されている。
 この種の墓碑は九州では未だその類例もなく、切支丹前の仏教文化の研究に貴重な資料として注目されている。(有家町教育委員会・キリシタン公園案内板より)
有家町キリシタン史跡公園
 ここも、地図とは大きく違っていたため探すのに一苦労。旧村の道を北の方へ進むとすぐにみつかった。
 島原半島の至る所に見られるキリシタン墓碑。有家町には53基と半島内で最も多く残っており、そのうち17基の墓碑がキリシタン史跡公園に合祀されている。なかでも県下最大の箱形墓碑やクリスチャンネームの類子(ルイス)、花十字を刻んだものが興味を引いた。天正7年の記録では、有馬は口之津ととともに九州地方の布教の中心地であった。二つの大きな教会があり、住民は全て信者だったと伝えられている。
 こぢんまりとした公園も美しく整備されていた。ここでも感謝の気持ちを深くした。


 天正7年(1579)巡察師アレッサンドロ・ワリニャーノは、口之津において在日宣教師会議を開き、キリスト教布教の手段として、日本人子弟の教育機関の開設を提唱し、翌8年日野江城の城下町有馬にセミナリヨ(初等神学校)を設置した。
 学則並びに教科内容はワリニャーノ自らが制定し、キリスト教的ヒューマニズムに基づく理念の、もとに、日本人が未だかつて経験したことのない、いわゆる西洋式学校教育が日本人子弟を対象に実施されることになった。
 ほとんどが身分の高い武士の子弟が許可され、宗教学を中心に語学(ラテン語・ローマの古典)・天文学・西洋音楽・体育は必須で、情操教育にも意を注ぎ、注目すべきは美術工芸活動である。油絵・銅板画・水彩画などの洋画技法が教授され、いわゆる「イエズス会画派」の源になっている。
 しかしながらセミナリヨも国内の政情不安とキリシタン弾圧のため、難を逃れて各地へ移動を余儀なくされ、有馬・八良尾・加津佐・天草・再び八良尾・有馬と移動したが、有馬に移ったのは文禄4年(1595)であった。
 有馬滞在も長くは続かず、迫害のために慶長元年(1597)セミナリヨ閉鎖、生徒たちは長崎へ合流した。
 記録によれば、「有馬セミナリヨは規模も大きく設備もすぐれ、そのために府内(大分)のセミナリヨも有馬に合併」と記されている(聖教史)。
 また、大浦天主堂(長崎市)に保管されている銅板画2点「聖家族」と「セビリヤの聖母」は、いずれも有馬セミナリヨの作品で、「1596 in Semino Japo Ariye」と製作年号と有馬セミナリヨの署名が記されている。(有家町教育委員会・有馬セミナリヨ跡案内板より)
国道251号線沿いにありました。うっかり見落とすところでした