第13回定期演奏会 曲目紹介 

(第13回定期演奏会プログラムより転載)

Opening...  開幕曲

Treue Liebe まことの愛
 シューベルトやウェーバーの台本作家として活躍したヘルミーナ・シェーンが、ドイツ テューリンゲン地方の古謡を1824年に改詩した曲です。日本語で"まことの愛"と訳されていますが、原題は表記の"Treue Liebe"の他に、歌いだしの歌詩をそのまま"Ach, wie ist's moeglich dann,"とされていることもあるようです。愛する人への秘めた想いを美しいメロディにのせて歌います。

1st stage...  日本のうた・秋のうた

北原白秋(1885年〜1942年)と山田耕筰(1886年〜1965年)
 北原白秋は1904年(明治37年)19歳の時に故郷の柳川から東京に出て、詩人、童謡作家、歌人として活躍しました。1918年(大正7年)に小田原に移り住み、落ち着いた家庭の中で多くの詩、童謡を残しています。山田耕筰は作曲家として早くから頭角を現し、1910年(明治43年)24歳でベルリンへ留学、1912年(明治45年)には日本で初めての交響曲を作曲するなど、作曲家及び指揮者として活躍しました。二人の関係は特別なものであったと云われていますが、気心の知れた二人が大正中期から昭和初期にかけて鈴木三重吉が主宰した童謡雑誌「赤い鳥」を中心に活躍し、日本の童謡の世界の一時代を築いたと云われています。

1.からたちの花 (1924年7月「赤い鳥」に発表)
 この詩は白秋の郷里「柳川」の思い出をうたったものと云われています。それだけではなく白秋は耕筰の少年時代の苦労話を知っていて作ったものだと思われます。耕筰自身がこの詩を受け取ったときに"これは私の幼年時代を素材にしたものだ"と驚き、歓喜し、"その詩の再読はもう言葉としてではなかった。おだやかな旋律となって私の口を突いて出ていたのである"と述べています。

2.待ちぼうけ (1923年に作詩、1924年 童謡集「子供の村」に収録)
 白秋の自註には「満州の伝説」とありますが、実際には中国の故事 韓非子にある「守株待兎」を元にしたものと云われています。白秋は故事にある教訓臭を排してコミカルな内容にまとめています。耕筰は白秋の意図を汲んで軽快な曲に仕上げています。冒頭のエキゾチックなメロディは耕筰が大連(中国)で聞いた辻馬車のチャルメラの音をヒントにしていると云われています。

3.砂山 (1922年9月「小学女生」に発表)
 白秋が1922年6月に「新潟市児童音楽研究会」に招かれて「歓迎童謡音楽会」に出席した際、会場を埋め尽くした子供たちから"新潟の童謡を作って欲しい"という依頼を受けて作った詩です。白秋は日が暮れかけた寄居浜を訪れ、荒海の向こうにみえる佐渡、砂山の下に広がる砂浜を見てこの詩を作ったようです。この詩には山田耕筰の他に、中山晋平、成田為三、宮本禎二が作曲しています。

4.あわて床屋 (1919年4月「赤い鳥」に発表)
 この詩に最初に作曲したのは石川養拙で、1919年7月号の「赤い鳥」に発表されています。白秋はこの曲に満足していなかったようです。現在よく歌われているのは1923年に山田耕筰によって作曲されたものです。春うらら、蟹の床屋に兎のお客、「チョッキン チョッキン チョッキンナ」の軽快なリズムにのせたユーモアたっぷりな作品です。

5.かやの木山の (1922年10月「童話」に発表)
 白秋が居住していた小田原の伝肇寺境内にあった「かやの木」から着想を得たと云われています。白秋の著書「緑の触角」で、"かやの木が毎年実をつけるのはなんとも神秘的ではないか。かやの実を通し大自然の不易の生命、愛、あわれというものを感じなければいけない"と書いています。

6.この道 (1926年8月「赤い鳥」に発表)
 あまりにも有名な曲です。この詩は白秋が北海道へ旅行した折の風景を織り込んだものと云われています。耕筰は作曲に当たって"あたたかい母の手に引かれてそぞろ歩きした道を偲び、在りし日のあわい追憶に耽らずにはおられなかった"と述べています。

2nd stage... ロシアの大地

1.オレーグ公の歌
 9世紀後半、現在のウクライナ北部の小国の王となったオレーグは、周囲の国々を次々に支配下に置き、今のウクライナの首都、キエフを都として統一国家「ルーシ」を建国しました。これが現在のロシアやウクライナの起源と言われています。オレーグは、その卓越した軍略の才と先見性から、後に「予言の力を持つオレーグ」と呼ばれました。若き日のオレーグ公の姿を、勇ましい行進曲風のリズムに乗せて歌います。

2.広きドニエプルの嵐
 ドニエプル河は、ロシア、ベラルーシを経て、ウクライナの中央を南に流れ黒海にそそぐ、ヨーロッパではヴォルガ河、ドナウ河に次ぐ第三の大河です。この曲は、19世紀に活躍したウクライナの国民的な詩人であり、作家、画家としても名高いタラス・シェフチェンコの詩が、民謡のメロディにのせて歌われたものです。大河を襲う嵐の激しさから、一転して静まり返った情景が見事に表現されています。

3.12人の盗賊
 16世紀に実在した大盗賊クデヤールが修道士に転身したという伝説が元になっています。19世紀に活躍した詩人ネクラーソフの詩に曲が付けられて民謡として広まりました。日本でもドン・コサック合唱団の演奏などによって比較的古くから知られています。この歌でクデヤールがやって来たとされるソロヴェツキー修道院は、ソ連時代は政治犯の収容所となり、その後世界遺産に登録されました。今回はドラマ仕立ての演奏をお楽しみください。

4.カリンカ
 19世紀後半にアマチュア演劇の挿入歌として作られ、その後スラヴャンスキー率いるアマチュアの民謡歌唱団のレパートリーとしてアレンジされ、次第に民謡として広く歌われるようになりました。カリンカとはカリーナの愛称でスイカズラ科ガマズミ属の木の総称であり、マリンカはエゾイチゴです。どちらも赤く可憐な実をつけることから、若い娘の暗喩とされます。結婚式では、コサックダンスとともに、仲間が新郎新婦を囲んで囃し立て踊りながら歌われます。

5.ポーリュシカ・ポーレ
 1934年に作曲されたレフ・クニッペルの交響曲第4番「コムソモール戦士の詩」のメロディに詩が付けられて、革命軍の司令官、ヴォロシーロフの活躍を讃える軍歌として歌われるようになったものです。ポーリュシカ・ポーレとは、「草原よ、草原」という意味で、広大な平原を疾駆する赤軍騎兵の勇姿、それを見送る農村の娘達が描かれています。単純なメロディの繰り返しの中に、遥か彼方から次第に近付き、また走り去って行く騎馬隊の様子を表現しています。

6.アムール河の波
 アムール河はモンゴルに源を発し、ロシアのシベリア地方と中国との国境を流れてオホーツク海に注ぐ北東アジア第一の大河で、中国では「黒竜江」と呼ばれています。1903年にピアノ曲として作曲され、1944年に歌詞が付けられ、合唱曲に生まれ変わって広く歌われるようになりました。今回は、オリジナルの混声合唱版を男声合唱にアレンジし直しました。「母なるヴォルガ河」に対して「父なるアムール河」として親しまれてきた大河の風景に、故郷の平和を願う気持ちを込めて歌います。

7.ともしび
 「カチューシャ」をはじめ多くの歌を生んだ詩人イサコフスキーが第二次大戦中の1942年に発表したこの作品には、何人もの著名な作曲家が競って曲を付けましたが、無名の作曲家によるこの曲がまたたく間に広がり、民衆の中で歌い継がれるようになりました。戦地に旅立つ若者とその恋人との別れ、故郷と前線との距離を隔てた絆が歌われています。親しい人を戦場へ送り出す心情の中に、平和への願いを歌い込んでいきます。

Special stage... 多田武彦 作曲 委嘱初演

 練習後、いつもの居酒屋「一ノ蔵」で団員のひとりが切り出した。「多田先生に我々の団歌(エール)を作っていただけないだろうか。」酒の勢いで一同盛り上がったが、まだ途方もない夢の始まりだった。2006年のことだ。2年後、正式に運営委員会で取り上げ、さっそく1編の応募があったが団内の空気はまだ盛り上がりに欠けた。ほんとうに多田先生にお願いできるのか? 団歌は必要なのか? こうした声もあり、「団歌」よりは多田先生にお願いすることが第一義として、古今の名詩が候補として多数あげられた時期もあった。しかし、初心に帰り、「団歌」候補として新たに2編の詩を得るとともに(2009年4月)、団内の機運を高めるべく団内アンケートを行なった。過半数の団員が具体的な団歌コンセプト、好ましい語句などを答え、団歌委嘱が団員自身の問題として機運が盛り上がった。団内アンケートをもとに、さらに3編の応募があり、創作者の意見などを聞いたうえで、「人と 人と 人と 人と」「乾杯の歌」を多田先生にお伺いすることを決定。2009年11月5日夕刻、依頼状を投函、さっそく11月8日午前、多田先生から「団員の作詩はいずれも格調が高く、良い詩を書く方がいらっしゃいますね」とのお褒めの言葉とともに「2曲とも曲をつけたらどうか」とのお返事をいただいた。どちらか1曲でもと考えていたので想定外の朗報に異存なくお願いすることに決定。その後約1週間で、あれだけ悩んだ案件があれよという間にまとまった。このような短時間で望外の夢を叶えていただいたが、団歌制作への紆余曲折は大切な熟成時間であったように思う。2009年11月22日、団長への楽譜引渡しが行なわれた。図らずもこの日は多田先生にとっても特別な記念すべき日でもあったという。

1.一ノ蔵男声合唱団エール「人と 人と 人と 人と」
 私たちの合唱団は名のとおり、銘酒一ノ蔵と同じく無鑑査辛口のハーモニーを目指してきた。その一ノ蔵は、宮城の4つの名門造り酒屋が存亡をかけて統合を図り、オンリーワンの新しい蔵を立ち上げたのが始まりだ。この4つの酒蔵を表したロゴが日本伝統文様の「枡」。枡の切込みにより「人」という文字が巴になっていることから「人枡」と呼ばれる。男声合唱においても4声のハーモニーが枡と一致する。この「人枡」即ち4つの「人」をメインテーマとし、一ノ蔵男声合唱団のモットー 〜 男声合唱の魅力、日本酒の魅力、人の和の魅力を求めて!〜 を三連の五七五七七で織り込んだ歌詩は、複数の団員から提案されたものを再構築し更に団内で推敲を重ねたものだ。合唱では7割の神経を聴き合うことに注ぎ、メロディの横糸、リズムの縦糸で紡いだ白布にハーモニーの染色という多田先生の教えも歌い込まれている。人生の後半を迎えた団員も多い中、なお「熱き思いを今うたう」気持ちを多田先生に存分に表現していただいた。途中の転調はベートーヴェンの第九にも現れる展開で、この「今までにない」エールを合唱団の誇りとして歌いたい。

2.男声四部合唱「乾杯の歌」
 合唱団のモットーでもある「酒の魅力」、「仲間と飲む酒」など「酒」を詠み込むとともに、ホームグランド横浜の地、海外演奏の夢、社会貢献活動への取り組みを起承転結の中に表現した。また、「いざ起て」など愛唱歌のフレーズをさりげなく散りばめ「乾杯!」の掛け声で明るく景気良く盛り上がる雰囲気にしたいと考えた。団歌として構成したためエールと重なる語句もあるが、多田先生の助言を得て棲み分けができた。男声合唱のハーモニーを生かした曲作りと高らかな「乾杯!」の三唱は、酒席はもとより長く歌い継ぎたい。

3rd stage... 男声合唱組曲「尾崎喜八の詩から」

 詩人・文筆家 尾崎喜八は明治25年(1892)に隅田川の河口・新川の回漕問屋の一人息子として生まれました。生後まもなく里子に出され、大井町辺りの漁村で里親家族の愛情と自然に囲まれて育ちました。5歳で実家に引き戻された後は多忙な商家の生活になじめず、やがて家業を継がずに文学で身を立てていきますが、これは、この里子時代の体験の影響が大きいと思われます。高村光太郎らと親交を深め、24歳の時にロマン・ロラン著「近代音楽家評伝」の翻訳で文壇にデビュー。草花や動物、山野などの身近な自然や、人々の純朴な生活を愛し、多くの詩や散文(代表作「山の絵本」など)を発表しました。西洋音楽にも造詣が深く、晩年は鎌倉にて「音楽への愛と感謝」を執筆。昭和49年(1974)、82歳の生涯を閉じました。

 作曲家 多田武彦は昭和5年(1930)大阪生まれ。幼少の頃から歌舞伎、長唄、浄瑠璃などの芸能に親しみ、学生時代には合唱活動に力を注ぎました。就職後も日曜作家として作曲を続け、70を越える合唱組曲を作曲。男声合唱界で最も人気の高い作曲家です。この組曲は、関西学院グリークラブにより昭和50年(1975)尾崎喜八の1周忌の年に初演されました。詩人の生涯にわたる作品の中から6つの詩により構成され、季節の移り変わりとともに、自然、音楽、人間に対する詩人の敬愛と、その清廉な人柄が浮き彫りにされていきます。人生の年輪を重ねた詩人の思いが、やがて無限のものへと拡がっていく、スケールの大きな組曲となっています。

1.冬野 (詩集「花咲ける孤独」(昭30/1955)収録)
 昭和20年(1945)の晩秋、千葉県三里塚(今の成田空港あたり)での作。終戦直前の初夏に疎開していた武蔵野で体験した麦の収穫を思い出しながら、終戦直後の心身共に疲弊した中で、麦の種を播く詩人。翌年には必ず実るであろう麦の収穫を思い、毎年変わらずに繰り返す自然の営みを讃え感謝する心境を歌っています。

2.最後の雪に (読売新聞 大12/1923年3月1日付初出、詩集「高層雲の下」(大13/1924)収録)
 この詩に書かれている「水や船や労働を織込んだ生気の詩」とは、横浜磯子の河口で見た風景や労働者の姿を歌った詩「河口の船着」のこと。その詩を書いている時に自宅の外に降り始めた冬の終わりの雪が、河口の人達の労働やそれを描く自分の創作活動を讃えるかのように優雅に舞っている、という状況を歌っています。

3.春愁 (「尾崎喜八詩文集3」(昭34/1959)収録)
 副題の「ゆくりなく八木重吉の詩碑の立つ田舎を通って」とは、昭和34年(1959)3月に横浜線沿線 相原の七国峠から西へ散策し、詩人 八木重吉の生家の前を偶然通った時のこと。この時、尾崎喜八は67歳。わずか29歳で夭折した八木重吉の短い人生を思い、自分の人生が、多くの波乱はあったものの、満ち足りたものであった、という心境を歌っています。

4.天上沢 (詩集「旅と滞在(増補普及版)」(昭13/1938)収録)
 北アルプスの燕(つばくろ)岳から南西へ西岳を抜け槍ヶ岳へ続く2500m級の尾根は「表銀座」とよばれ、山の愛好家には人気の縦走ルートです。天上沢は槍ヶ岳の北側にある沢で、夏でも雪が残り、その眺めはとても美しいそうです。天上沢を見つめながら追憶に涙を浮かべる老人の姿に、尾崎喜八自身も自分の思い出を蘇らせていたと思われます。

5.牧場 (散文「たてしなの歌」(昭9/1934)に一部を引用。詩集「高原詩抄」(昭17/1942)収録)
 蓼科の北 御牧ヶ原での情景。「雲」は尾崎喜八が物心ついた頃から生涯を通して一番の好奇心の対象でした。山の牧場のすがすがしい空気の中で、あるいは、夏の終わりの少し寂しい気配を感じながら、牛と一緒に日がな一日、流れていく雲を飽きずに眺めている詩人の姿が目に浮かぶようです。

6.かけす (詩集「花咲ける孤独」(昭30/1955)収録)
 尾崎喜八は終戦後の傷心を癒すために、足かけ7年間、八ヶ岳の麓 富士見にて過ごしました。この詩は、昭和27年(1952)の秋、東京に戻る直前の富士見での作。かけす という鳥は、普段は低いところを飛んでいますが、秋が深まってくると高いところを飛ぶようになり、やがて山々を越えて南へ下っていくそうです。今まで一緒に親しく暮らしていた かけす が本能や運命のようなものに導かれて自分達の元を去っていく姿を眺めながら、深まる秋と、人や自然を超えるものを感じていたと思われます。

ブラウザの「戻る(Back)」ボタンなどで戻ってください


Last update : 12 August 2010

Copyright (c) Akihito YAHARA 2010 All rights reserved.