第10回定期演奏会 曲目紹介 

(第10回定期演奏会プログラムより転載)

1st stage...  これまでの演奏会から

今回は第10回の演奏会を記念して、これまでの演奏会のオープニングで演奏した曲の中から3曲と、過去3回の海外音楽の旅でそれぞれの国で演奏した訪問国の歌を3曲取り上げました。

1.若人の歌
 第7回演奏会開幕曲 …ヨーロッパ中世の起源といわれる古い学生歌で、ブラームスの「大学祝典序曲」にも取り入れられています。原曲はラテン語です。本日演奏する日本語の歌詞は翻訳ではなく岡本敏明の作詞です。日本ではドイツ民謡「学生歌」として音楽教科書にも取り上げれています。

2.フィンランディア
 第6回演奏会開幕曲 …「フィンランディア讃歌」とも云われるこの曲は、シベリウスの交響詩「フィンランディア」の中間部の有名な旋律の部分にコスケンニエミが歌詞をつけたものです。フィンランド独立運動の中で生まれ、ロシアの支配からの独立を勝ち取る戦いの歌で、当時は何度も演奏中止になった曲です。独立は1917年12月。歌詞の中にある「スオミ(Suomi)」はフィン語の国名で、「フィンランド」というのは実はスウェーデン語の国名です。

3.ウ・ボイ
 第3回演奏会開幕曲 …男声合唱曲の名曲のひとつで日本中の男声合唱団の愛唱曲となっています。「ウ・ボイ」というのはクロアチア語で「同胞」という意味です。オペラ「ニコラ・スビク・ズリンスキー」のフィナーレに歌われた曲で、原詩は生々しく厳しい戦いの歌です。日本語訳は同じ戦いの歌ではありますが、「平和な美しい風景」を歌うことにより、戦いと対比させていると考えられます。

4.Schoner Rosengarten(美しき薔薇の園)
 オーストリアの古い歌で、美しい薔薇の園を彼女に例えて歌った美しい恋の歌です。1997年、初めての海外音楽の旅でウィーンの南にあるブライテンブルンという町で歌い、大変に喜ばれた曲です。

5.Ma Come Bali Bela Bimba(上手に踊るきれいな娘)
 イタリアの北部のヴェネト地方の民謡です。2000年5月のクルゾーネの演奏会では、俗っぽい曲ということで、教会では歌わせてもらえませんでした。しかし、演奏会後のパーティーでは、はじけるような勢いで何度も歌い踊り狂いました。

6.Donky Riding(ドンキー・ライディング)
 ドンキーは本来「ロバ」のことですが、ここでは「ドンキーエンジン」といわれる蒸気エンジンのことをさしています。カナダのフォークソングで,船乗り達が材木をデッキに積むときに歌った歌といわれています。今年5月、トロントの演奏会でアンコールとして曲目を紹介したところ、会場から「オー」という声が聞こえ、歌い出したら手拍子で迎えられました。

Guest corner... MAAM2002(女声合唱)

 2002年2月2日にハマ音の合唱仲間8名で誕生した女声合唱団です。ソプラノ歌手飯田千夏さんの指導で月2回練習をしています。「美しい曲、楽しい曲に出会う度に歌える幸せを感じている今日此の頃です。」との団長のコメントをいただいております。「MAAM」とはフランス語で「貴婦人」という意味なのだそうです。前回に引き続き2回目の出演となりますが、本日は、皆様良くご存知の童謡「鞠と殿さま」と女声合唱のための唱歌メドレー「ふるさとの四季」を演奏していただきます。

2nd stage... 青春のメロディ

1.青い山脈 1949年(昭和24年)
 日本人の好きな曲のベスト10に近年まで必ずトップにあげられていた曲です。石坂洋次郎の原作は朝日新聞に1947年6月から10月まで掲載され人気を呼び、翌48年に東宝で今井正によって映画化されました。服部良一は梅田から京都までの満員電車の中で作曲し、ハーモニカの数字譜でメモったそうです。藤山一郎、奈良光枝のコンビの歌で大ヒットしました。おかげで映画も大ヒット。1957、63、75年と3回もリメイクされ、主題歌も同じこの曲が使われました。

2.港町十三番地 1957年(昭和32年)
 1946年に初舞台を踏んだ美空ひばり20才の大ヒット曲。題名の「港町十三番地」は川崎区港町(京急大師線の港町駅)のことです。あの辺りは工場街で、この歌詞のような店は見あたりません。日本コロムビアの本社所在地に敬意を表して題名としたということです。

3.上を向いて歩こう 1961年(昭和36年)
 NHKテレビの「夢で逢いましょう」の今月の歌として、1961年10月と11月に坂本九が歌いました。この時は《歩く》がテーマで、この曲がつくられました。《すき焼きソング》と題された10種ものレコードがアメリカやヨーロッパで発売され、海外でも100万枚を超える世界的ミリオンセラーになりましたが、こんなことは日本にとって初めてのことでした。

4.なごり雪 1974年(昭和49年)
 1966年にマイク真木の「バラが咲いた」が発表され、和製フォーク第1号と言われました。70年代に入ると元来アングラであるがために人気を得ていたはずのフォークやロックの歌い手たちが大手メーカーの手で一斉に社会の表面に出され、これ迄にない超ヒット曲を生み出していきました。この曲は伊勢正三が「かぐや姫」在籍中に作詞・作曲し、イルカの歌で大ヒットしました。

5.北酒場 1982年(昭和57年)
 なかにし礼、中村泰士のコンビによる「心のこり」以来のミリオン・セラーです。レコード大賞をはじめ、数々の賞を受賞しました。歌手細川たかしは、当時の人気番組「欽ちゃんのドコまでやるの」に出演し、しゃべらない、笑わない、暗い過去、といった演歌歌手に対するイメージを打ち破り、ネアカ演歌歌手として一時代を築きました。

6.少年時代 1990年(平成2年)
 東宝映画「少年時代」は、篠田正浩監督による少年映画の傑作です。原作は藤子不二雄Aの漫画をもとにした柏原兵三の「長い道」です。富山の農村を舞台にした東京から疎開して来た少年と地元の少年達との葛藤と友情の物語で、井上陽水のテーマ曲は映画に溶け込んでいました。映画公開1年後にCMソングに起用され再ヒットしました。

3rd stage... 男声合唱組曲「中勘助の詩から」

 中勘助(1885-1965)は旧藩の家老の息子として神田に生まれ、幼少時代は伯母にかわいがられて育ちました。勘助の兄・金一は医者としてエリートコースを歩んでいましたが、勘助が学生の頃に脳溢血で倒れ、以後30年に亘り、妻・末子と勘助の看病を受ける身となりました。金一は不随ながらも家長としての振る舞いが厳しく、末子と勘助の生活は非常に辛く苦しいものだったようです。勘助は20代後半に、家庭、世の中の喧噪や自らの文才に対する懐疑などから逃れようと信州の湖の島に篭もったこともあります。この時期に、幼少の頃を著した代表作『銀の匙』が生まれました。苦労の多い中にあって、勘助は日々の暮らしや旅先において、自然と戯れ、ウィットに富んだ、暖かさ、懐かしさを感じさせる作品を生みました。1940年、長年看病生活を共にした義姉・末子が病に倒れ、何度か回復するものの、2年後、勘助58才の年に亡くなりました。その半年後、勘助は初めて結婚し、同じ日に兄・金一が死去。その後は、静岡での疎開生活など、第二の人生を妻と穏やかに過ごしたとのことです。
 男声合唱組曲『中勘助の詩から』は1958年に作曲され、関西学院グリークラブにより初演されました。身近な生き物や小物を題材にした詩が選ばれ、いずれの曲も日本人の心にしみるメロディとハーモニーを持ち、多田武彦の初期の作品の中でも歌いやすく親しみやすい、人気の高い組曲です。前述した中勘助の前半生の中で2つの大きな柱である、若き日の孤独への憧憬と、看病の苦労を共にした義姉・末子へのいたわりをこめた詩が、それぞれ第4曲、第7曲に配されています。特に、終曲として、病に倒れた末子が再び外へ出られるまでに回復した喜びの日を記した詩を選んだところに、中勘助の半生に対する多田武彦の深い親愛の情がよく表れていると思います。

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Last update : 9 October 2004

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