三法印 法印は、一切皆苦を加えて四法印とする場合もある

 法印とは「仏法の旗印」というような意味で、仏教(内道))か仏教ではない教え(外道)かを判断する目安となる仏教の根本原理をいう。

【諸行無常】 (しょぎょうむじょう)

この世に生起するあらゆる現象は、常に変化し、流転してやむことなく、刹那の単位で移り変わっていくということ。(行とは因と縁によってつくられたもの、現象している一切のもの)

【諸法無我】(しょほうむが)

いかなる存在も、永遠不変の実体などはないのだという意味。(諸法とはここでは存在、我とは恒常で変化しない実体の意)

たとえは、「わたし」と思い込んでいるこのわたしも、「わたし」としてとらえられるような実体は存在しない。この「わたし」を含め、世の中のすべてのものは、ただ一つで存在するものはなく、縁に依って仮に和合した姿であり(縁起)、実体を伴ってあるように見えるが、実際には一刹那ごとに生まれたり滅したりを繰り返していて(刹那無常)、我がとか我がものというけれど、そんなものは何一つないと教えるのが「諸法無我」。

【涅槃寂静】 (ねはんじゃくじょう)寂滅為楽(じゃくめついらく)

涅槃とは煩悩の炎が吹き消された状態、安らぎ、悟りの境地をいう。「諸行無常」、「諸法無我」の教えによって、人間の心から 貪りと怒りと愚痴がとり除かれた時、そこに初めて涅槃寂静の状態が生まれるとし、仏教は涅槃寂静に到達することを目標とする。

    

 

だいぶ前になりますが、ある青年が、「私の恋人は諸行無常という悲しい人生観に支配されているが、彼女の悲しい人生観は間違っているのではないか、仏教の諸行無常はそんな悲しい教えなのか」との質問メールをいただいたことがありました。

「彼女は、世の中には変わらないものはない、絶対はない、人の心も愛も 変わっていく、だから虚しくて悲しいという人生観に支配されて、私との関係もこの幸せはいつか終わることへの恐怖の始まりだとも言います。」

彼は正直な人らしく、「あなたの心もいつか変わっていくと思うと怖いし悲しい」と訴える彼女に、「先のことはわからないけど」と答えたんだそうです(笑)、「だけど、今の気持ちに嘘はないし、だからこそ今を精一杯生きようと言ってあげるのですが、 頭ではそう分かっていても、苦しみも悲しみは消えないと言います。カウンセリングにも通い、いろいろな宗教書も読んだが悲しみと恐怖をどうしても消すことが出来ないと言います。彼女を苦しませる諸行無常の悲しい人生観についてどのように話してあげたらいいか教えて下さい」とのことでした。


彼女を苦しませる諸行無常」と彼はいいますが、はたして、諸行無常が彼女を悲しませているのでしょうか。

縁起の故に諸行は無常であり、無我であり、故に一切皆苦であるというのが仏教の道理です。「愛別離苦」も然りです。愛するひとと必ず別れなければならないのが人生の厳粛なことわりであって、彼女のいうことはいちいちごもっともなわけです。

だから「はかない」と、だから、「悲しい」と、だから「恐い」「不安だ」というけれど、諸行無常だからこそ、彼女の病気は治ったのだし、彼女と彼は出会えた。。諸行無 常だからこそ、彼女は苦難の人生を乗り越えてこれたのだる。諸行無常だからこそ私たちは生かされていきていけるのです。

思い通りになっていることには目もくれず、思い通りにならないことを思い通りにしたいと、無い物ねだりをしているのがわたしたちなのではないのでしょうか。

そんなわたしが、思い通りにならない諸行無常を気に入らない。気に入らないわたしの心が、わたしを悲しませているのではないのでしょうか。

決して諸行無常が彼女を悲しませているのではありません。

諸行無常をわかったつもりになって、仏教の道理すら身勝手に受け取って無常感にし、はかないだの、悲しいから嫌いだのと我が儘を言い張っているのは彼女だけでなくこのわたしも同じです。


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