信 心/ 信 仰 感/信知 廻心 (更新分のみ文字色も茶色にしてあります。)
生死の中にあるのが自分であるが、信心は生死を超えておる。信心が主人公であるから、信心が仏法を生活する。信心が浄土の生活者。穢土にあって浄土の生活。
安田理深 「下総たより(4) ある老人の問と答」 (文明堂)
信心がはっきりすれば、信心を獲ることが御利益。
有り難いやは信心の結果だけを求める。有り難くなりたい人は道理を求めん。有り難いという感情を求める。感情は当てにならん。消えていく。信心は消えん。
安田理深 「下総たより(4) ある老人の問と答」 (文明堂)
信心は智慧であるが自覚。
有り難い感情を求めるのは人間の心が求める。信心は仏が方が人間に求めておる。
安田理深 「下総たより(4) ある老人の問と答」 (文明堂)
分別の心が覆うているけれども底にあるのが信心。のかん心に驚かんから信心。
分別が出てきても其の分別の心が転ぜられゆく。そして信心にかえってゆく。信心にかえれば、何も臨終などにたよらん。
安田理深 「下総たより(4) ある老人の問いと答え」 (文明堂)
雲があってもそれに障えられんのは光。雲があってもそれに障えられんのは信心。
雲と夜になったのと違う。信心の夜が明けたけれども雲がある。信心が消えたのでないかと心配する。雲があっても昼である。そうすれば雲を恐れん。それで信心は妨げられん。分別だと知れば心を覆うているのは雲。信心をいただいても人間は息を引き取るまで煩悩がある。
信ずるだけは強制することは出来ん、真宗以外は強制である、絶対自由、それをあらわすのは宿業、絶対受動を通して、つまり取捨選択、選択本願の絶対自由を自己自身の中にあらわしてくるのが信心、至心のほうは疑いようのないというのが至心、現実です。行には疑いがない、現行しているのだから、疑いようのない真実、そこに絶対自由というものを自覚してくる。
信仰はインスピレーションでない。自然の法則による。
教えられることによって開かれる。そこに秘密はない。
たたかなければ開かない。教えられるとは叩くこと。
打つことを縁として開く。打たずに起こる奇跡ではない。
安田理深 「信仰的実存」 (文明堂) p.78-6〜
本当の意味の信心というものは、如来が人間を信じるという信心で、それを賜るということです。
本願を信じるというも、本願の廻向の信心である。本願を本願が自己を承認する用きを信心という。
廻心というのは一般の俗語である。仏教語では依止(えじ)を転回する。転回とは主体が確立されることである。
安田理深 「自己に背くもの」 (文明堂) p.66
現代親鸞の精神、即ち真宗の信仰の不透明になった一番の原因は信仰の決断を喪失していることである。今日の真宗は天下り的な直接的信仰に転落している。他力中毒にかかっている。決断がない。信仰が死んでいる。
それは実に懺悔を通さないからである。決断は懺悔の精神にある
安田理深 「自己に背くもの」 (文明堂) p.68
名号の他に信心はない。名号が信心である。名号に信心をプラスするのではない。
名号のなかにわれわれが生まれる新たな事実に目をさますのである。そこに信仰の絶対客観性が明らかにされる。人間の根元に対する絶対批判というものがなければならない。唯除が置かれていることはそこに帰着する。不可能だということに達する信心である。
安田理深 「自己に背くもの」 (文明堂) p.82
信心ということも、信仰を得るということと信仰の論理を理解することとは違う。知識人はその論理的構造を把握したのが信仰だと思っている。
信仰を得ることは客観的絶対的できごとを得ることである。信仰は直接触れることはできない。
他力の信心ということは決して自分というものが消えるということでなく、自分を失うというのでなく、かえって真の自己を成就して下さる。
自力を必要としない自己を成就してくださる。
安田理深 「他力の信心」 (文明堂)
信心の問題は自分をまな板の上にのせなければ解決できない問題である。
わかったかわからないかの問題ではない。そういっている自分の問題である。
信心の問題は実は行の問題である。
安田理深 「他力の信心」 (文明堂)
他力を信じるのではない。信じるのが他力であるという。それを本願成就という。本願成就の自覚である。
安田理深 「他力の信心」 (文明堂)
二十願の信心が意義深いというのは、これが罪福心といわれるものだからである。仏法を自分に翻訳している信心が二十願の信心である。仏法を求めて不幸を解決しようとしている。不安な心を仏法を借りて解決しようとしている。不純な信心である。
安田理深 「たのんで助かるとは」p.16 (文明堂)
安田理深 「たのんで助かるとは」p.17 (文明堂)
安田理深 「たのんで助かるとは」p.19 (文明堂)
安田理深 「たのんで助かるとは」p.20 (文明堂)
安田理深 「たのんで助かるとは」p.21 (文明堂)
信仰というものは歴史的なものであって、ただ個人的思いに歴史はない。
・・・中略・・・
我々の信心というものも、信心の自覚というものも本願の名乗りに対する感動共鳴である。
本願に共鳴すれば共鳴した心が本願。
安田理深 「感の教学」 (文明堂) p.16
信心は南無阿弥陀のいわれを聞いて信ずるのであるから、やはり一つの分別。 さとりとい うのは信心の分別が無分別のさとりを開く。 南無阿弥陀仏のいわれ、道理にかな うような心がこれが信心であり、さとりである。
安田理深 「下総たより(4) 分別について」 (文明堂)
信心はたまわった心、南無阿弥陀 仏にたまわった信心。 南無阿弥陀仏を放れれば造るよりない。造った信心は自 力。
安田理深 「下総たより(4) 分別について」 (文明堂)
凡夫でさとることはないが、凡夫 では信ずることが出来る。 我々としては信をたまわることが一番大事。信がやが てさとりとなる。 信は南無阿弥陀仏のいわれを聞くのであるから、聞く限り分別 といわんならんけれども、 其分別はやがて無分別となる分別、無分別のさとりを 開く信心。 つまり南無阿弥陀仏のいわれを聞くのは分別であるが、聞いてうなづ くのはさとり。 信心もさとりも南無阿弥陀仏から生れる心。 南無阿弥陀仏を知ら ん心に死んで、そして南無阿弥陀仏から新しい心が生れてくる。
安田理深 「下総たより(4) 分別について」 (文明堂)
信心といっても天下りにやってくるのでない。 よき人の仰せを通して本願の教え を掃くといぅ縁がなければならん。 聞くのは分別で聞くのであるが、信心は成程 とうなづく、うなづくという一つの自覚。 その信そのものにさとりの因をもつて いる。 信心は根であるが、さとりは花。花が開くのは未来成仏する時。 今は信を たまわり、さとりの因を頂くということが今である。
安田理深 「信仰についての問いと答え−第四集−」 (文明堂) p.31
安田理深 「信仰についての問いと答え−第四集−」 (文明堂) p.55
安田理深 「信仰についての問いと答え−第四集−」 (文明堂) p.56
「信仰についての問いと答え−第四集−」 (文明堂) p.57
「信仰についての問いと答え−第四集−」 (文明堂) p.109
「信仰についての問いと答え−第四集−」 (文明堂) p.85
「信仰についての問いと答え−第三集−」 (文明堂) p.33
「信仰についての問いと答え−第三集−」 (文明堂) p.34
安田理深 「信仰についての問いと答え−第二集−」 (文明堂)
安田理深 「信仰についての問いと答え−第二集−」 (文明堂)
安田理深 「信仰についての問いと答え−第二集−」 (文明堂)
懺悔ができないということが信仰です。懺悔が出来んという懺悔です。それが如来より賜った心です。信仰の内容です。懺悔といえば、懺悔できない懺悔そのものが信仰です。それを〈廻心〉という。方向を転換しておる。
はじめから懺悔できないからと、懺悔しないのではない。しようと思っても出来ない。
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