第二篇 本 文 第二章 正宗分 一 阿弥陀仏の世界を説く(二) 極楽の荘厳を詳しく説く

『舎利弗、なんぢが意においていかん、かの仏をなんのゆゑぞ阿弥陀と号する』

 「無問自説の経」と呼ばれているこのお経は、「舎利弗よ」とか「又舎利弗よ」とか呼びかけられて説法が進んでいきますが、こゝでは「舎利弗、なんじが意においていかん」と呼びかけられています。漢文で云えば「舎利弗、於汝意云何」というところですが、これは「舎利弗よ、お前はどのように思うか」というほどの意味であります。舎利弗にこのように呼びかけられるところは、三十六回中二回だけであります。これは、このお経の大切な処であることを示すためのお言葉なのです。

 その大切な処に、阿弥陀さまの名義を説き明されるのです。名義とは、名号の「いわれ」のことです。その「いわれ」をこゝに「光」 と「寿」で説き明されるのです。そして更に、そのような「光」と「寿」の極まりない阿弥陀さまに、何時なられたのかということを示されるのであります。

 

             A 無量の光明

『舎利弗、かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障礙するところなし。このゆゑに号して阿弥陀とす』

 阿弥陀さまが光明無量であることは、

と誓われてある第十二願の光明無量の願を成就せられたお方であるから当然のことであります。この第十二願を実現された阿弥陀さまですから、宇宙法界すべての空間に満ち満ちて到らないところがありません。

 その用きの素晴らしさを、第十二願の成就を説かれるところに次のように説かれています。

 こゝに十二の光明が挙げられていますが、異訳の『大経』には十五や十三の光明が説かれています。このように光明の数に相違があることからみても、正依の『大経』の十二光も、無量の光明の用きを十二に摂めて顕されていると伺えます。また、この十二の光明を一つに摂めると、三番目に挙げられる無碍光ということになります。

 このことに就ては親鸞聖人はそのご消息(手紙)に次のように述べておられます。

 尚、十二光の最初に無量光仏とあります。この無量光は、次の無辺光が空間的無量を云うのに対して、時間的永遠を示す光明です。そこで『小経』のこゝの光明無量とある光明と同じとすることは適 当ではないでしょう。『大経』に説かれる十二光を統摂したものを『小経』のこの文では光明無量と云われたものであります。

 さて、この無量の光明の用きを具体的に十二の光で顕はされたのが、『大経』の第十二願の成就文でありますが、こゝに、光明のもう一つの側面からその用を顕はす言葉があります。それは、調熟、破闇、摂取という三つの言葉であります。『ご和讃』に「智慧の光明はかりなし」とありますように、光明は智慧の相であります。智慧の光明とは、無明の黒闇に対する世界で、三つの言葉の中心の破闇の光明であり、衆生の一切の煩悩の闇を破る用であります。この破闇の光明を中心として、破闇の前の用を調熟の光明と云い、未信の人を信心の世界に誘引する用を示しています。又、破闇の後の光明を摂取の光明と云って、信心の人を摂取して捨てることのない用を示しているのです。

 今、「十方の国を照らす」とあるのが、この調熟の光明であり、「障碍するとこなし」とあるのが摂取の光明に配当することができ ます。このことを『ご和讃』に「十方微塵世界の、念仏の衆生をみそなはし、摂取してすてざれば、阿弥陀となづけたてまつる」と讃嘆されているのです。  

 又、「障碍するところなし」とある障碍に二つあります。一つには外障で、山谷雲霧烟霞等がそれであります。二つには内障で、煩 悩悪業の障りで、諸仏の光明は、外障には碍へられることはありませんが、この内障には碍へられて、煩悩悪業の劣機を救うことが出来ません。この、悪業煩悩に碍へられることなく劣機を摂取して捨てないと用いて下さるのは独り阿弥陀さまだけなのであります。

 今一度、親鸞聖人のお手紙にあった無碍光の用を味わいましょう。

  最後に『探玄記』という有名な『華厳経』の注釈書があります。これは唐の時代の法蔵という高僧の著で、そこに光明の種類に就て次のように述べてあります。

「光明に二種有り、一に智光、二に身光。智光に亦二あり、一には照法で、謂く真俗双鑑なり。二に照機で、謂く群品に応ず。身光に二種あり。常光、謂く円明無碍なり。無碍とは金山鉄壁も障碍すること無し、時に照らさゞること無し。二に放光、謂 く光を以て驚悟す。時に有って而して照現し収めるに随宜、又、現起光と云う」

 これを図示すれば次のようになる。

 この智光を心光とも云い、身光を色光とも云います。又、こゝの「十方の国を照らす」とある光明は、阿弥陀さまの光明ですから放光や現起光ではなく、常光であります。このことは存覚師の『六要鈔』に第十二願を釈するところに、「問。今此の佛光は是れ常光か、現起光か。答。是れ常光也。既に本願に酬て此の勝光を感ず、何ぞ現起光ならん、若し常光に非ずば何ぞ諸仏に超えん」とある通りです。

  

『また舎利弗、かの仏の寿命およびその人民〔の寿命〕も、無量無辺阿僧祇劫なり。ゆゑに阿弥陀と名づく』

 光明無量に続けて阿弥陀仏の名号に、寿命無量のいわれのあることを示されます。これは、第十三願の成就を示されています。第十三願には次のようにあります。

 又、その成就文には、次のように説かれています。

 こゝに、阿弥陀さまの寿命の永遠が讃嘆されています。光明が阿弥陀さまの相を顕はしているのに対して、寿命は阿弥陀さまの体であります。即ち生命なのです。永遠の生命がなければ、永遠に流転する有情の依りどころとはなりません。『ご和讃』に畢竟依という阿弥陀さまの異名が讃嘆されていますが、畢竟依、即ち阿弥陀さまこそ三界を流転する有情の究極的な依りどころなのです。このような異名があるのも、永遠の生命、無量寿のいわれがあるからです。

 ここに、注意して味わうべきことがあります。それは阿弥陀さまの名号のいわれを説かれるこの処に、「その人民も」と極楽の住人のことが出てくることです。又、このテキストは『註釈版』の『小経』の本文を使っていますが、こゝには括弧をして〔の寿命〕という言葉が補ってあります。鳩摩羅什の翻訳になる漢文の『小経』にはこの括弧の中の文字がありません。そこで昔の学僧の中には、これは「の寿命」という言葉がひっくり返っているので、「かの仏およびその人民の寿命も」と読むのが正しいという説を立てる方もおられるのです。しかし、勝山善譲師は「かの仏の寿命およびその人民も」と、漢文の原文のまゝ読むのが正しいとされます。その理由としては、阿弥陀さまの寿命が、極楽の住人の寿命を永遠ならしめるいわれがあることを示すためだと述べられています。そして、阿弥陀さまの寿命を説く処に、極楽の住人の寿命まで挙げられるのは、機法一体の南無阿弥陀仏の名号であることを顕はすためであるとあります。深く味わうべき説であります。

 さて、このように阿弥陀さまの寿命の永遠なることによって、一切の有情を救済し、その生命まで永遠ならしめられるのです。経済的に恵まれない人に金銭を与えることも、病める人に薬を与えることも一つの救済でありましょう。しかし、これらの救済は抹消的な救済であり、本質的な救済とはいえません。生老病死に代表される四苦八苦を解決して、永遠の生命を与え、真実に生きる力を与えることによってこそ完全な救済の成就と云わねばなりません。

 ところで、浄影寺の慧遠や天台の智フ等の他宗の学僧は、『大経』 の成就文の喩えに「たとひ十方世界の無量の衆生、みな人身を得て、 ことごとく声聞・縁覚を…」等の言葉を取って、声聞や縁覚が数えられないというのは、有量の無量だとするのです。だから阿弥陀さまも、本願に酬報された仏さまでなく、応身とするのです。

 これに対して、浄土真宗では『大経』は、凡夫の私たちに説き聞かせるために、凡夫の知ることの出来る声聞や縁覚をもって喩えられたもので、丁度、超日月光が、凡夫の知ることの出来る近い喩えで示されているのと同じであるとして、阿弥陀さまは本願に酬報された報身仏であるとするのです。

 

 阿弥陀さまの名義(名前のいわれ)を味わってきましたが、まとめていえば、光明無量で十方の世界を照らされるのに障碍となるものがなく、また寿命無量であって永遠なる生命の保持者であられる。その上、その国の住民の寿命も、また無量にならしめ給う、このような仏さまであるので、阿弥陀さまと名づけ奉るのであります。

 また、諸仏も光明無量・寿命無量であるのに、阿弥陀さまとは呼ばず、阿弥陀さまに限ってこう呼ぶのは、諸仏は自分自身が仏さまになられた方たちで、凡夫を光明無量・寿命無量にすることは出来ないのです。この諸仏と違って、阿弥陀さまは機法一体の仏さまなので、その悟りの全体を凡夫に与えて下さるのです。いや、凡夫に光明無量・寿命無量を与えてくだり、凡夫を救済してくださるからこそ、阿弥陀さまと名があるのです。寿命無量を説かれるところに、「およびその人民も」とあったお言葉を味わいましょう。

 また、このように光明無量・寿命無量が説かていますが、いうまでもなく、二つのお徳が別々にあるのではなく、二つの徳を一つに含め摂しておられるのが阿弥陀なのであります。

 だから、『大経』も『観経』も「仏説無量寿経」「仏説観無量寿経」と寿命を以って経題とされていますが、光明無量がないわけではありません。また逆に、光明無量を挙げて阿弥陀さまを仰がれている場合もあるのです。たとえば、天親菩薩は「尽十方無碍光如来」 と阿弥陀さまを仰がれ、曇鸞大師はその著書である『讃阿弥陀仏偈』に、「不可思議光如来」と讃嘆され、親鸞聖人はこれを承けて『浄土和讃』の最初に阿弥陀さまの十二の光明を讃嘆されているのです。

  

『舎利弗、阿弥陀仏は、成仏よりこのかたいまに十劫なり』

 極楽のご主人たる阿弥陀さまに就て説かれる最後は、阿弥陀さまは仏になられて以来、どの位経たれたのかということです。

 寿命無量のところで触れましたが、阿弥陀さまは報身仏であります。一言で仏さまと私たちは呼んでいますが、仏さまには三つの立場があります。一つには法身仏で、色も形もない真如そのものである仏さまです。二つには、報身仏で、因位の願行に報いて成就された仏さまで、今、ご本願を建て永劫の修行をされ、ご本願に酬報して、光明無量、寿命無量の徳を成就された阿弥陀さまはその代表であります。三つには応身仏と云いますが、これは衆生の機根に応じて、仮に穢土(娑婆)に出現された仏さまで、この世ではお釈迦さまがそれであります。また、法身仏は無始無終であり、報身仏は有始無終で、応身仏は有始有終と云われます。

 始めも無ければ、終わりも無く、因も無ければ、果もない、永遠の真理から、法蔵菩薩(因)と顕れ、阿弥陀仏(果)と成就された仏さまですから、阿弥陀さまには報身仏として、成仏された始めがなければなりません。また光明無量寿命無量の阿弥陀さまになられたのですから、終わりはないのは当然のことであります。そのことを有始無終と云うのです。親鸞聖人は『一念多念文意』に、このことを次のように述べておられます。

 法蔵菩薩が、始めて阿弥陀仏になられた時を示されたのが、この『小経』の文であります。

 劫とは、梵語カルパの音写で、インドの時間の単位です。極めて長い時間で、その長さを磐石劫とか芥子劫と云って譬喩で表されます。『大智度論』には四十里四方の石を、百年に一度ずつ薄い衣で払って、その石が摩滅しても劫は尽きず(磐石劫)、また四十里四方の城に芥子を満たして、百年ごとに一粒ずつ取り出して、すべての芥子がなくなっても劫は尽きない(芥子劫)と述べられています。この譬喩の石や城の大きさ、それに年数の示し方には諸説があります。私たちには考えられないような長い時間でありますが、しかし、無限ではありません。大谷光瑞猊下が計算されたということですが、それによると一劫は四億三千二百万年になるそうです。経文には十劫とありますから、その十倍ということになります。

 そして「いまに十劫なり」とありますように、今より計算して十劫の昔にということになります。この「今」は、お釈迦さまがこの『小経』をお説きになっている「今」なのであります。先に「いま現にましまして法を説きたまふ」とあった「今」と同じ時であります。このことを讃嘆されている『ご和讃』を私たちは良く聞いております。

 これは、「讃阿弥陀仏偈和讃」の第一首目にあるご和讃であります。

 ところが、「大経讚」には「弥陀成仏のこのかたは、いまに十劫とときたれど、塵点久遠劫よりも、ひさしき仏とみえたまふ」とあり、「諸経讃」には「久遠実成阿弥陀仏、五濁の凡愚をあはれみて、釈迦牟尼仏としめしてぞ、迦耶城には応現する」とあるのです。

 阿弥陀さまが、阿弥陀さまと成られた時のことを、「讃偈讃」には「いまに十劫をへたまへり」とありますが、「大経讃」では「塵点久遠劫よりも、ひさしき仏とみえたまふ」とあり、更に「諸経讃」 には「久遠実成阿弥陀仏」と、断言されてあります。一体、阿弥陀さまは十劫成道の阿弥陀さまなのでしょうか、それとも久遠実成の「弥陀さまなのでしょうか。

 また、十劫という時を限れば、お釈迦さまより十劫以上昔の衆生は救われないことになります。十劫か久遠か、この問題について、真宗の各学派ではそれぞれの説を立てゝ解釈をしています。

 こゝでは、空華学派の鮮妙師の説を要略して、この問題を味わうことにします。鮮妙師は、十劫の十は満数で久遠に通ずるというような説を退けて、あくまでも十劫は限りある十劫とされます。では十劫以前の衆生はどうなるのかと云えば、十劫以前の衆生にも、その十劫前に報身仏となって下さった阿弥陀さまがあるというのです。ということは、衆生の一人一人に、五劫の思惟があり、四十八願を建て、永劫の修行をして阿弥陀となって下さることになります。だから一切の衆生を投網でからげ取るように救われるのではなく、一本釣りのように、私たち一人一人のために阿弥陀さまとなって救ってくださると云うのです。ですから、無量の衆生には、無量の阿弥陀さまがいらっしゃることになり、また、その無量の衆生は三世に無窮でありますから、発願成道も亦無窮でなければなりません。ここに私のための、私の阿弥陀さまがいらっしゃることになるのです。この説を数数成仏説と云います。

 

『また舎利弗、かの仏に無量無辺の声聞の弟子あり、みな阿羅漢なり。これ算数のよく知るところにあにず』

 上に、正報の荘厳として、極楽のご主人たる阿弥陀さまのお徳が説かれました。それに次いで、こゝからはご主人に対してお伴のお徳が説かれます。こゝでもう一度味わっておかねばならないことがあります。それは、極楽は平等の世界なのに、どうしてご主人やお伴というような差別があるのかということです。極楽は真空一如の真実の世界です。このように顕はすのを、平等門とか略門と呼びます。その平等の世界を私たちに具体的に説いてくださるのが差別門とか広門と呼ぶ顕はし方です。こゝで平等門(略門)や差別門(広門)と云いましたが、平等門の極楽と、差別門の極楽とが別々にあるのではありません。一真実の極楽を二門に分けて顕わされているのであります。ですから、阿弥陀さまのお悟りから云えば、ご主人もお伴もないのです。それを、極楽国土の無量無辺である一真実の世界を、宝樹や宝池や宝楼で示して下さったように、極楽の住人も主人とお伴に分けて説いて下さったのです。そして、そのお伴の最初に説かれるのが声聞衆であります。

 まづ、経文には「かの仏に無量無辺の声聞の弟子あり」とあります。ご本願の第十四願に声聞無量を誓ってありますから、四十八願が成就した世界に声聞が居られるのは当然であります。ところが、天親菩薩の『浄土論』に「大乗善根の界は、等しくして譏嫌の名無し。女人及び根欠、二乗の種生ぜず」と述べられてあるのです。ここに、「二乗(声聞・縁覚)の種生ぜず」とあります。たしかに極楽は大乗の究極の世界ですから、小乗の声聞や縁覚が生まれることはないでしょう。しかし、『大経』や、この『小経』の経文には声聞衆が無量に居られることが説かれてあります。

 この問題に就て『大経』に次のような答が説かれています。

 こゝに、「余方に因順するがゆえに」とあります。このお言葉は、他方に順ずるという意味です。他方とは、極楽に生まれる前の本国を指しています。人界から生まれたものは人と呼び、本国で声聞と呼ばれていたものを、前の国の呼び名になぞらえて呼んであるだけで、本来同じ一類の極楽の菩薩なのであります。

 このように、本国の名前で呼ばれているのは、その国の同類に懐かしさを与えて、引接するためだと先哲方は味わっておられます。

 阿羅漢とは、小乗仏教における最上の聖者を指す言葉です。もとは仏を指す名称でありましたが、部派仏教時代に至って、仏と阿羅 漢とは区別されて、仏弟子の到達する最高の階位とされました。すなわち声聞の修道の階位である、四向四果の最高位で、三界の一切の煩悩を断じ尽して、再び迷いの世界に流転することのない位をいいます。

 「算数のよく知るところにあらず」とは、数えることが出来ないほど多くの声聞がおられるということです。また、この声聞には、二乗のもう一類の縁覚も含まれていると味わいます。

 

『もろもろの菩薩衆、またまたかくのごとし、舎利弗、かの仏国土には、かくのごときの功徳荘厳を成就せり』

 声聞衆に次いで、菩薩衆を挙げられます。「またまたかくのごとし」とは、極楽には、声聞衆と同じく菩薩たちも数えることが出来ないほど居られるということを表すお言葉です。

 こゝに、「かの仏国土には、かくのごときの功徳荘厳を成就せり」 と依報に続いて説かれてきた正報を結ばれるのです。極楽国土のお荘厳が成就したとありますが、このことを味わうと、宝樹や宝池や宝楼だけが極楽国土の荘厳ではなく、正報の極楽の住人も、極楽のお荘厳になくてはならぬものであることが伺えます。本堂のお内陣 をいくらお荘厳しても、外陣に人が無ければ、本堂のお荘厳は成立 しないのです。

  

 

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