浄土真宗本願寺派研修部編集「人生の問い」p.8

  

問5 仏教は現実を否定して逃避をすすめているように思いますが、どうでしょうか。

  

 
 仏教は現実を否定するのではありません。私の行いや言葉、そしてさまざまに変化する心をもって生きているという私の現実を教え、私そのものの、ほんとうのすがたを知らせるのが仏教です。

 もともと私たちは、自分の思うようにならない世界に生きながら、自分の思いどおりにしたいと考えて生きています。ですから苦悩が生じるのは当然です。そのとき、私たちは、その責任を、他人や他のものに押しつけようとします。それではいつまでも迷いのなかで輪廻しなければなりません。そうした迷いの現実をあきらかにし、まことのあり方を教え、ゆらぐごとのない、積極的な生き方をあたえるものが仏教です。 したがって現実逃避ではなく、むしろ人間に生まれたよろこびをあたえ、現実を足場として、人生を力強く生きぬく道を説くのが仏教です。 

 


浄土真宗本願寺派研修部編集「人生の問い」p.53

  

問49 互いに我慢して円満にいけといわれますが、いいあわなければ進歩がないのではありませんか。

  

 

 たしかに我慢するだけで円満にいくことは困難です。いいたいことをいわないで、しんぼうするということはよくありません。 仏教ではただ単に我慢せよとは説か れていません。

我慢しようとしても、我慢できない自分を知らされるのです。むしろ相手に我慢を強いていることに目ざめるのです。非難が先にたつようないいあいではなく、相手の気持ちをくんだ、建設的な話しあいこそ、ほんとうの進歩につながるものと思います。


浄土真宗本願寺派研修部編集「人生の問い」p.9

  

問6 自力がいけなくて他力がよいといわれるが、現代の自主性と矛盾しないでしょうか。

  

 

 おっしゃるとおり自分の意志をもたず、他人の意志によつて生きることは正しい生き方とはいわれません。他力とはそのようなことをいうのではなく、自己本位の欲望にひきずられて生きるあさましい私の生活を悲しみ、私のいのちとなりきって仏のさとりをひらかせる、阿弥陀仏の本願力をいうのです。
  
 正しい自主性とは、自己中心的な生き方を否定して真実の道理にしたがう、信心の 生活からでてきます。煩悩の自我をよりどころとせず、如来さまのお心をよりどころにし、因果の道理をわきまえて生きる念仏生活にこそ、まことの自主性があるので す。
 

浄土真宗本願寺派研修部編集「人生の問い」p.52

  

問48 ただ念仏すれば、行いを正しくしなしないでもよいのでしょうか。

  

 

 人間はだれでも行いを正しくしなければなりません。しかし、人間の本性である煩悩が、たとい念仏をとなえさせていただく身になっても、ただちになくなるというものではありません。

 むしろ、お念仏をいただく身になれば、み仏の智慧の光明によ って、煩悩のなくならない私を知らされるとともに、全く申し訳のない恥ずかしいこ とだという懺悔の心が生じ、そこから自然に、たしなみの心と、行いを正そぅとする 反省が恵まれてくるのです。


浄土真宗本願寺派出版部刊  山本仏骨先生著 「あなたの問いに答える」p.101〜

     

【他力ということ】

問28 他力本願ということは、自分は少しも努力しないで、他人の援助を待っているような、怠け主義にはなりませんか。

  
答 
 
 世間一般の人は自力他力という問題を、きわめて常識的に考えて、すべて自分のすることを自力といい、他人にしてもらうことを他力というふうに解釈しているようです。 だから宗教的にめざめることも、聞法に心がける決意も、すべて自力であるというように考えるのです。
 
 もし自力他力という問題をそのように決定するときは、他力とはなにも考えない、なにもしないということになって、結局なんらの意欲もおこさない、腑抜けの殻になるというほかはありません。そこから他力本願はつまらない、自力更生でなければならないという批判もうまれるのです。しかしそのようなことは他力というよりは他律的思想いう方が適当でしょう。 世間一般の人は存外その区別を明確にしていないようです。
  
 親鸞聖人が自力他力といわれたのには教義的歴史があるのであって、すでに「定散自力」と いい、「定散の自心」という言葉がありますように、われわれが悟りを開く困果について、定散二善をはたらかすことを自力といい、定散二善を脱却することを他力というのです。だから他力信心をあらわすときには「定に非ず、散にあらずといわれています。 
  
 その定散二善とは中国の善導大師が自力諸善を、この二つに分類し統括されたのであって、 定善とはみずから心を静めて智慧をみがき、仏の世界を観察して、仏を捉えようとすることであり、散善とは仏を捉えきるほどの力はないが、せめてりっぱな心になって仏に近づこうとすることです。それはいずれも、りっぱなものに違いありませんが、しかしわれわれは口に念仏を称えながら、心に地獄の業をつくり、姿に仏をおがみながら、心は地獄餓鬼の世界をかけずりめぐつています。だからみずから悟りを開くことができないもののために、仏の方から救いの因果をあたえたので、これを他力回向の法というのです。
  
 しかも他力に回向という言葉をつ けて熟語とされているところに、親鸞聖人独特の他力思想があるのであって、ただ漫然と外から加えられるはたらきを待つというのでなく、仏の命がかよい、仏の力を身にうけて、それをわが主体としていくのです。
 
だから真の根底をもたない自力よりは、いっそう大きな主導力をもってはたらくことができるといわなければなりません。
 
 このように悟りを開く因果について、定散を主体とするか、仏力を主体とするかということで、自力他力を分けたのであって、たんに求道の決意や、聞法の意欲における行動で自力他力 をいったのではありません。そのことは親鸞聖人みずから書かれたものによって、よくその意味を領会すべきでしょう。
  
  

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